31 / 33
番外編SS
二人でいる時が
しおりを挟む 夜半過ぎ、ウルドが眠っているのを確かめ、寝間着の上からジャヒーヤを被ってこっそり部屋を抜け出した。そして昔エイレケのマスダルに襲われた時、万が一のためにと教えてもらった隠し通路を通って神殿の端にある塔の階段を上る。
そこは初めて僕がサイードさんとアジャール山を見たところで、その後カハル皇帝と一足先にアル・ハダールへ帰国するダルガートとの別れの時に三人で景色を眺めた場所だった。
白くて丈の長い寝間着の裾が汚れないように手で持ち、階段を上って塔の外へ出たとたん冷たい風が吹きつけて思わず身を竦ませる。しまった、もっと厚い毛布を持ってくるべきだった。こんな時、昔アジャール山でヤハルが手渡してくれた駱駝の毛布があったらな、と思う。
前の世界のような極端な渇水はなくてもここが砂漠地帯であることには変わりない。昼夜の寒暖の差を肌で感じながら僕は薄掛けをきつく巻き付け、胸壁に乗せた腕に顎を乗せた。
この世界に来てから毎日町で奉仕活動をしてはいたが、こんな風に上から外の景色を見るのは初めてだ。
以前と同じく見渡す限りの砂漠に囲まれているが、ところどころにオアシスが見えるし、神殿の回りには豊かに茂る木々や畑まである。
「本当に新しい別の世界になったんだなぁ……」
そう呟いてぼんやりと景色を眺めた。空には満点の星、そして冴えわたる満月がある。そういえば夜の砂漠で初めてお互いちゃんと告白しあった時も空には綺麗に満月があった。
「サイードさんも元気にしてるかな」
アル・ハダールからの一行にはサイードさんはいなかった。神殿長によれば本国に残っているわけでもないらしい。
やっぱりダウレシュにいるんだ。家族と一緒に。
良かった、と思う気持ちは本当だ。だって家族を守れなかったことをあんなに悔やんでいたのだから、今では牧草も水も豊かになった生まれ故郷で大好きな家族や馬たちに囲まれて生きられることはサイードさんにとって一番の幸せだろう。
僕もなんとか住む場所は確保できているし仕事もちゃんとある。それにウルドだっている。
ダルガートも相変わらず人を寄せ付けない雰囲気バリバリでちょっと遠巻きにはされているみたいだけれど、この間鍛錬から戻った神武官たちがどうしてもダルガートに勝てないと話していたり、通いの下働きの少年が町でごろつきに絡まれた時に彼に助けてもらったと興奮しながら言っていたから、それなりに馴染んでうまくやっているのだろう。
この世界の歴史を改変してしまうというかなり荒っぽい手を使ってしまったけれど、僕が知る限りでは八方丸く収まっているようだ。良かった。うん良かった。
そう思いながら無意識に耳のピアスを触っていたのに気づいて慌てて手をどけた。
最近、いつも気が付くとピアスを弄っていることが多くて困る。こんな高価なものを下級神官の僕がつけているのがバレたら絶対不審に思われるし、下手をすればどこかで盗んだと思われかねない。それにあまり頻繁に触っていたら留め具が外れて落としてしまう可能性だってある。
それでもついピアスに触れたくなる手をぎゅっと掴んで胸壁に顔を伏せた。
「…………会いたいなぁ……」
サイードさんに会いたい。ダルガートのそばにいたい。会えなくて悲しい。話せなくて寂しい。
今みたいに綺麗な夜空と満月の下を三人一緒に神殿に向かって歩いたあの時はあんなに幸せだったのに。
寂しい。でもサイードさんが故郷で幸せに暮らしているならそれでいい。だけどあの時と同じ夜空を一人で見ていると涙が出てきてしょうがない。
駄目だ。泣いたらまた嵐が――――ああ、もう神子の力なんてないんだっけ? ならどれだけ泣いても大丈夫かな。わからない。またしても初めの頃のようにルールがわからなくなってしまって不安でたまらない。
砂漠の塔で、僕も元の日本に帰してもらうべきだったのかもしれない。でもできなかった。
「だって、会いたかったんだ。もう一度、サイードさんとダルガートに」
目の奥がたまらなく熱くて溢れる涙が止まらない。
一人は寂しい。一緒にいたい。ずっと、ずっと三人一緒に。
その時、突然肩を掴まれ胸壁から引きはがされた。肩に食い込む指の力がとてつもなく強い。
「い、痛……っ」
思わず声を上げたがその手は少しも緩まなかった。
「ここで何をしている」
冷たい風の隙間から聞こえてきた声に呼吸が止まる。
「ダ、ダルガー……」
ト、と顔を跳ね上げ名前を呼びそうになって慌てて唇を噛んだ。だってこの世界ではお互いの名前さえ知らないのに、親し気に呼び捨てになんてしたら絶対に不快に思われる。
それでもつい食い入るように彼の顔を見つめてしまうのだけは止められなかった。
懐かしい、大好きな人の顔がすぐ目の前にある。
黒々とした眉やがっしりとした顎、そして硬く引き結ばれた口元から漂う獰猛な気配と、それとは裏腹に感情の読めない冷ややかな目。
初めて会った頃はこの目が怖くて仕方がなかった。でもあの時でさえ今の彼と比べればたいそう僕に好意的な態度だったのだとわかる。それくらい今僕を見下ろしている彼は、まるで夜中にうろつくコソ泥でも見るような冷めきった目をしていて……
そこで、今自分が頭に何も被っていないことに気がついた。いけない、耳のピアス……!
僕が激しく動揺したのにすぐに気づいたダルガートの視線がわずかに逸れて僕の耳を見る。
「こ……これは駄目……っ!!」
思わず力任せにもがいて耳を押さえ、しゃがみ込もうとした。けれど暴れる僕の両腕をいとも容易く捕らえたダルガートの手はまるで鋼鉄の枷のようでびくともしない。
どうしよう。これを取り上げられたらと思うと怖くてますます涙が止まらなくなる。ああ、嫌だ。こんな風に泣くのが嫌で、強くなりたくて、二年半の間ずっと自分を鍛えてきたはずなのに。
その時、悔しさと情けなさに伏せた頭の上でダルガートの声がした。
「ここで何をしていた。大祭の間、塔の上は立ち入りを禁じられていることを知らぬはずはなかろう」
声は同じ。
でも話し方が違う。
また泣きたくなるのを必死にこらえる。
「……ただ、景色を見ていただけです」
「このような夜更けに?」
「日中は自由になる時間などないので」
半ばやけくそ気味にそう答える。すると僕の腕を握る手から少しだけ力が抜けた。
「確かにその通りだ」
一瞬、ダルガートがあの少し意地悪そうな、皮肉げな笑みを浮かべて言ったような気がして思わず顔を上げる。けれど夜でも目深に被ったままのシュマグの下の表情はよくわからなかった。
彼が神殿の警護につく時の黒い革の鎧に白い衣を纏った姿なのに気づく。そうか、今夜も彼は夜番なのか。それでこんな時間に塔の上にいる僕に気が付いて不審に思い、問いただしに来たのだろう。
するとダルガートが僕の寝間着を見下ろして言った。
「部屋に戻れ」
それだけ言い置いて踵を返す。え、それだけ? ピアスのことは? 驚いて思わず両耳に触れた拍子にまた冷たい風が吹きつけ、羽織っていたジャヒーヤが飛ばされてしまう。
「あっ」
するとこちらに背を向けていたにも関わらず、まるで後ろにも目があるようにダルガートがそれを捕まえた。そして僕に差し出す姿に、昔同じようなことがあったと思い出す。そう、カルブの儀式でアジャール山に登った時に。あの時もこうやって風に飛ばされたシュマグを捕まえてくれて、そして。
それが限界だった。
「……ッ、う゛、う゛~~~~~~っ!」
とうとう我慢できずにその場にしゃがみ込む。
好きだ。やっぱりダルガートが好きだ。例え僕のことを覚えていなくても、あんな冷たい目で見られても、まるで見知らぬ他人のように扱われてもどうしても好きでいることをやめられない。
泣いちゃ駄目だ。きっとおかしなやつだと思われる。情けない男だと嫌われる。だけど致命傷になるほど深い傷から流れる血が止められないのと同じように、涙が後から後から溢れてきてしまう。
彼と最後にゆっくり話をしたのはイスタリアの太陽の光溢れる石造りの回廊だった。彼はそこで、僕やサイードさんのように家族を思い誰かのために自分を犠牲にしようとする感情にはまるで縁がなかったと言っていた。
そのくせ、彼はこうも言ったのだ。「貴方もサイード殿も、私とはあまりにも違う人間だ。だからこそ貴方がた二人を大事に思う」と。それが愛でなくて一体なんだというのだろう。
今思えば、彼が心に思っていることを自分からあそこまでたくさん話してくれたのはあの時が初めてだった。あれが最初で最後になってしまうのだろうか。
自分に気を許すなと言っておきながら、レティシア王女とサイードさんの話を聞いてショックを受けた僕を支えてくれて、灼熱の砂漠を突っ切って僕たちを助けに来てくれた。
いつでも僕を少し離れたところから守ってくれて、強くなりたい僕のために剣を教えてくれて。大きくて重い身体に組み敷かれて、抱きしめられて奥の奥まで何度も愛された。
僕をからかう意地悪な言葉が聞きたい。あの腕でぎゅっと抱きしめられて、押しつぶされそうな身体の重みを感じたい。
すると空気が動く気配がして、ダルガートが僕の前に膝をついた。
「なぜ泣く」
こんな時でも冷静で冷淡なダルガートの声が憎らしくて愛おしい。
「……ダルガートが好きだから」
もうどうなってもいい。そんな投げやりな気持ちで答えた。
もう我慢ができなかった。気持ちが悪いと思われても、くだらぬことを言うなと殴られてもいいからはっきりと口に出して叫びたかった。
ダルガートが好きだ。好きで好きで、どうしても思いを断ち切れない。
突然大きな手に顎を掴まれて持ち上げられる。
ダルガートの冷ややかな目が僕を見ている。いや、正確には僕のピアスを。
「……右に鑽玉、左に橄欖玉」
ダルガートが小さく呟く。聞き覚えのないその名を僕はただ黙って聞いた。
「この耳環をどこで?」
「……貰ったんだ。世界で一番大切な人たちに」
何を考えているかまったくわからない黒い目がじっと僕の耳を見ている。息もできずに答えを待っていると、ふいに顎から手が離れてぐい、と立たされた。
「大祭の間は特に警備の目が厳しい。夜間不出の禁を違えるな」
「…………わかりました」
密かに、耳のピアスを見たら全部思い出してくれるのではないかと期待していた。あの砂漠の塔の男がこれは『めちゃくちゃボーナスポイント高いアイテムだし、特殊効果も追加しておいた』と言っていたから。
でもそんな都合よくはいかないようだ。
ジャヒーヤを僕に渡し立ち去るダルガートの背中を黙って見送る。そして一人で階段を降り部屋に戻った。
そこは初めて僕がサイードさんとアジャール山を見たところで、その後カハル皇帝と一足先にアル・ハダールへ帰国するダルガートとの別れの時に三人で景色を眺めた場所だった。
白くて丈の長い寝間着の裾が汚れないように手で持ち、階段を上って塔の外へ出たとたん冷たい風が吹きつけて思わず身を竦ませる。しまった、もっと厚い毛布を持ってくるべきだった。こんな時、昔アジャール山でヤハルが手渡してくれた駱駝の毛布があったらな、と思う。
前の世界のような極端な渇水はなくてもここが砂漠地帯であることには変わりない。昼夜の寒暖の差を肌で感じながら僕は薄掛けをきつく巻き付け、胸壁に乗せた腕に顎を乗せた。
この世界に来てから毎日町で奉仕活動をしてはいたが、こんな風に上から外の景色を見るのは初めてだ。
以前と同じく見渡す限りの砂漠に囲まれているが、ところどころにオアシスが見えるし、神殿の回りには豊かに茂る木々や畑まである。
「本当に新しい別の世界になったんだなぁ……」
そう呟いてぼんやりと景色を眺めた。空には満点の星、そして冴えわたる満月がある。そういえば夜の砂漠で初めてお互いちゃんと告白しあった時も空には綺麗に満月があった。
「サイードさんも元気にしてるかな」
アル・ハダールからの一行にはサイードさんはいなかった。神殿長によれば本国に残っているわけでもないらしい。
やっぱりダウレシュにいるんだ。家族と一緒に。
良かった、と思う気持ちは本当だ。だって家族を守れなかったことをあんなに悔やんでいたのだから、今では牧草も水も豊かになった生まれ故郷で大好きな家族や馬たちに囲まれて生きられることはサイードさんにとって一番の幸せだろう。
僕もなんとか住む場所は確保できているし仕事もちゃんとある。それにウルドだっている。
ダルガートも相変わらず人を寄せ付けない雰囲気バリバリでちょっと遠巻きにはされているみたいだけれど、この間鍛錬から戻った神武官たちがどうしてもダルガートに勝てないと話していたり、通いの下働きの少年が町でごろつきに絡まれた時に彼に助けてもらったと興奮しながら言っていたから、それなりに馴染んでうまくやっているのだろう。
この世界の歴史を改変してしまうというかなり荒っぽい手を使ってしまったけれど、僕が知る限りでは八方丸く収まっているようだ。良かった。うん良かった。
そう思いながら無意識に耳のピアスを触っていたのに気づいて慌てて手をどけた。
最近、いつも気が付くとピアスを弄っていることが多くて困る。こんな高価なものを下級神官の僕がつけているのがバレたら絶対不審に思われるし、下手をすればどこかで盗んだと思われかねない。それにあまり頻繁に触っていたら留め具が外れて落としてしまう可能性だってある。
それでもついピアスに触れたくなる手をぎゅっと掴んで胸壁に顔を伏せた。
「…………会いたいなぁ……」
サイードさんに会いたい。ダルガートのそばにいたい。会えなくて悲しい。話せなくて寂しい。
今みたいに綺麗な夜空と満月の下を三人一緒に神殿に向かって歩いたあの時はあんなに幸せだったのに。
寂しい。でもサイードさんが故郷で幸せに暮らしているならそれでいい。だけどあの時と同じ夜空を一人で見ていると涙が出てきてしょうがない。
駄目だ。泣いたらまた嵐が――――ああ、もう神子の力なんてないんだっけ? ならどれだけ泣いても大丈夫かな。わからない。またしても初めの頃のようにルールがわからなくなってしまって不安でたまらない。
砂漠の塔で、僕も元の日本に帰してもらうべきだったのかもしれない。でもできなかった。
「だって、会いたかったんだ。もう一度、サイードさんとダルガートに」
目の奥がたまらなく熱くて溢れる涙が止まらない。
一人は寂しい。一緒にいたい。ずっと、ずっと三人一緒に。
その時、突然肩を掴まれ胸壁から引きはがされた。肩に食い込む指の力がとてつもなく強い。
「い、痛……っ」
思わず声を上げたがその手は少しも緩まなかった。
「ここで何をしている」
冷たい風の隙間から聞こえてきた声に呼吸が止まる。
「ダ、ダルガー……」
ト、と顔を跳ね上げ名前を呼びそうになって慌てて唇を噛んだ。だってこの世界ではお互いの名前さえ知らないのに、親し気に呼び捨てになんてしたら絶対に不快に思われる。
それでもつい食い入るように彼の顔を見つめてしまうのだけは止められなかった。
懐かしい、大好きな人の顔がすぐ目の前にある。
黒々とした眉やがっしりとした顎、そして硬く引き結ばれた口元から漂う獰猛な気配と、それとは裏腹に感情の読めない冷ややかな目。
初めて会った頃はこの目が怖くて仕方がなかった。でもあの時でさえ今の彼と比べればたいそう僕に好意的な態度だったのだとわかる。それくらい今僕を見下ろしている彼は、まるで夜中にうろつくコソ泥でも見るような冷めきった目をしていて……
そこで、今自分が頭に何も被っていないことに気がついた。いけない、耳のピアス……!
僕が激しく動揺したのにすぐに気づいたダルガートの視線がわずかに逸れて僕の耳を見る。
「こ……これは駄目……っ!!」
思わず力任せにもがいて耳を押さえ、しゃがみ込もうとした。けれど暴れる僕の両腕をいとも容易く捕らえたダルガートの手はまるで鋼鉄の枷のようでびくともしない。
どうしよう。これを取り上げられたらと思うと怖くてますます涙が止まらなくなる。ああ、嫌だ。こんな風に泣くのが嫌で、強くなりたくて、二年半の間ずっと自分を鍛えてきたはずなのに。
その時、悔しさと情けなさに伏せた頭の上でダルガートの声がした。
「ここで何をしていた。大祭の間、塔の上は立ち入りを禁じられていることを知らぬはずはなかろう」
声は同じ。
でも話し方が違う。
また泣きたくなるのを必死にこらえる。
「……ただ、景色を見ていただけです」
「このような夜更けに?」
「日中は自由になる時間などないので」
半ばやけくそ気味にそう答える。すると僕の腕を握る手から少しだけ力が抜けた。
「確かにその通りだ」
一瞬、ダルガートがあの少し意地悪そうな、皮肉げな笑みを浮かべて言ったような気がして思わず顔を上げる。けれど夜でも目深に被ったままのシュマグの下の表情はよくわからなかった。
彼が神殿の警護につく時の黒い革の鎧に白い衣を纏った姿なのに気づく。そうか、今夜も彼は夜番なのか。それでこんな時間に塔の上にいる僕に気が付いて不審に思い、問いただしに来たのだろう。
するとダルガートが僕の寝間着を見下ろして言った。
「部屋に戻れ」
それだけ言い置いて踵を返す。え、それだけ? ピアスのことは? 驚いて思わず両耳に触れた拍子にまた冷たい風が吹きつけ、羽織っていたジャヒーヤが飛ばされてしまう。
「あっ」
するとこちらに背を向けていたにも関わらず、まるで後ろにも目があるようにダルガートがそれを捕まえた。そして僕に差し出す姿に、昔同じようなことがあったと思い出す。そう、カルブの儀式でアジャール山に登った時に。あの時もこうやって風に飛ばされたシュマグを捕まえてくれて、そして。
それが限界だった。
「……ッ、う゛、う゛~~~~~~っ!」
とうとう我慢できずにその場にしゃがみ込む。
好きだ。やっぱりダルガートが好きだ。例え僕のことを覚えていなくても、あんな冷たい目で見られても、まるで見知らぬ他人のように扱われてもどうしても好きでいることをやめられない。
泣いちゃ駄目だ。きっとおかしなやつだと思われる。情けない男だと嫌われる。だけど致命傷になるほど深い傷から流れる血が止められないのと同じように、涙が後から後から溢れてきてしまう。
彼と最後にゆっくり話をしたのはイスタリアの太陽の光溢れる石造りの回廊だった。彼はそこで、僕やサイードさんのように家族を思い誰かのために自分を犠牲にしようとする感情にはまるで縁がなかったと言っていた。
そのくせ、彼はこうも言ったのだ。「貴方もサイード殿も、私とはあまりにも違う人間だ。だからこそ貴方がた二人を大事に思う」と。それが愛でなくて一体なんだというのだろう。
今思えば、彼が心に思っていることを自分からあそこまでたくさん話してくれたのはあの時が初めてだった。あれが最初で最後になってしまうのだろうか。
自分に気を許すなと言っておきながら、レティシア王女とサイードさんの話を聞いてショックを受けた僕を支えてくれて、灼熱の砂漠を突っ切って僕たちを助けに来てくれた。
いつでも僕を少し離れたところから守ってくれて、強くなりたい僕のために剣を教えてくれて。大きくて重い身体に組み敷かれて、抱きしめられて奥の奥まで何度も愛された。
僕をからかう意地悪な言葉が聞きたい。あの腕でぎゅっと抱きしめられて、押しつぶされそうな身体の重みを感じたい。
すると空気が動く気配がして、ダルガートが僕の前に膝をついた。
「なぜ泣く」
こんな時でも冷静で冷淡なダルガートの声が憎らしくて愛おしい。
「……ダルガートが好きだから」
もうどうなってもいい。そんな投げやりな気持ちで答えた。
もう我慢ができなかった。気持ちが悪いと思われても、くだらぬことを言うなと殴られてもいいからはっきりと口に出して叫びたかった。
ダルガートが好きだ。好きで好きで、どうしても思いを断ち切れない。
突然大きな手に顎を掴まれて持ち上げられる。
ダルガートの冷ややかな目が僕を見ている。いや、正確には僕のピアスを。
「……右に鑽玉、左に橄欖玉」
ダルガートが小さく呟く。聞き覚えのないその名を僕はただ黙って聞いた。
「この耳環をどこで?」
「……貰ったんだ。世界で一番大切な人たちに」
何を考えているかまったくわからない黒い目がじっと僕の耳を見ている。息もできずに答えを待っていると、ふいに顎から手が離れてぐい、と立たされた。
「大祭の間は特に警備の目が厳しい。夜間不出の禁を違えるな」
「…………わかりました」
密かに、耳のピアスを見たら全部思い出してくれるのではないかと期待していた。あの砂漠の塔の男がこれは『めちゃくちゃボーナスポイント高いアイテムだし、特殊効果も追加しておいた』と言っていたから。
でもそんな都合よくはいかないようだ。
ジャヒーヤを僕に渡し立ち去るダルガートの背中を黙って見送る。そして一人で階段を降り部屋に戻った。
10
お気に入りに追加
435
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
あなたが選んだのは私ではありませんでした 裏切られた私、ひっそり姿を消します
矢野りと
恋愛
旧題:贖罪〜あなたが選んだのは私ではありませんでした〜
言葉にして結婚を約束していたわけではないけれど、そうなると思っていた。
お互いに気持ちは同じだと信じていたから。
それなのに恋人は別れの言葉を私に告げてくる。
『すまない、別れて欲しい。これからは俺がサーシャを守っていこうと思っているんだ…』
サーシャとは、彼の亡くなった同僚騎士の婚約者だった人。
愛している人から捨てられる形となった私は、誰にも告げずに彼らの前から姿を消すことを選んだ。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~
つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。
政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。
他サイトにも公開中。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。