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1巻
1-3
しおりを挟む「で、どれに乗るの?」
セラは港に並んでいる船を眺めながらたずねる。
「あの船――暁の女神号」
エレミオが指さしたのは、港の端に停泊している船だった。名前の通り、船首には女神の像が飾られている。幅の広い船は荷物をたくさん積めそうで、いかにも商船といった趣だった。
ここからはエレミオが先に立って、セラを案内する。
「リカルドさん、おはよう」
彼が声をかけたのは、恰幅のいい中年の男性だった。頭には布を巻いて、船内で動きやすいように、短めのズボンを穿いている。足下のブーツは頑丈そうだ。
海の方を見渡せば、水平線から太陽が昇り始めている。海面の色が紺色から紫へと変わって、やがてオレンジ色の光が海を染め始めた。
「エレミオ、そちらのお嬢さんは?」
「セラ・ジェラーノ――遺跡探索人だよ」
エレミオの口から出た名に、リカルドは好奇の視線を向けた。
「あの遺跡探索人の?」
「『あの』遺跡探索人よ――どうぞ、よろしく?」
セラは首を傾げて、リカルドに右手を差し出した。
「よろしく、セラ」
リカルドの手は大きく、セラの手を優しく包み込む。
「変わった組み合わせだな」
「変わってるからいいんだろ? 一山当てるために、俺と違う考え方をしそうな遺跡探索人を探したんだ。まずはモルディア王国の遺跡を探るつもり。遺物の取引から始めようと思っているんだ」
リカルドと会ったエレミオは、自信に満ちているように見えた。噂話から判断する限りでは、怠惰で享楽的な人間なのだと思っていたけれど――聞いていたのとどこか違う。
「前に打ち合わせしておいた通りに頼むよ。家から誰か来るかもしれないし」
「大丈夫さぁ」
リカルドは何か企んでいるような、悪ふざけをしているような笑みを浮かべて二人を船の方へ押しやった。
「心配するな。親父さんの使いがきたら、うまく言って帰しておく。出港までは船倉に入って、荷物の間にでも隠れておけ」
「セラ、こっち」
船の中に入り、船倉へと向かう。そこにはたくさんの樽が積まれていた。
「これは何を運ぼうとしているの?」
「たぶん、香辛料じゃないかな。南から来た――今、東の方はとにかく物資が足りていないらしいからね。胡椒があるのとないのじゃ料理の味が変わるだろ」
「……そうね、胡椒は大事だわ」
「あ、ここがいいよ」
船倉の一角に樽と布――帆布がごちゃごちゃと置かれている場所があった。エレミオは積まれた樽をずらして、大人二人が隠れられるぐらいの空間を作る。それを見たセラは帆布を樽の上に置いて、頭上からかけられるように準備し、エレミオの作った空間に座る。
それからエレミオは手前にも適当に樽を積んで、ごちゃごちゃしている光景を再現すると、手前に積んだ樽を乗り越えてセラの隣に座り込んだ。
「ちょ……くっつかないでよ!」
セラは帆布を手に取りながら言った。
「くっつきたくてくっついてるわけじゃないってーの!」
実際、エレミオは極力端に寄ってるし、身を縮めているのだから、密着しているわけではない。あまり空間を広げてしまうと怪しまれると思い、あえて小さな空間を作ったのだ。手足が少し触れてしまうくらいは仕方がないだろう。
帆布を樽の上に掛け渡すために彼女が腕を上げると、その動作に従って胸が動く。それに目を奪われているのにセラが気づいていないのは、彼にとっては不幸中の幸いだろう。
彼女が気づいたなら、樽に囲まれた狭い空間に血の雨が降る――というのは大げさにしても、セラならエレミオの足を思いきり踏むくらいはしかねない。
それから二人は黙った。船倉の中は薄暗い。おまけに樽の上に帆布を掛け渡しているものだから、なお暗い。互いに相手が近くにいるのはわかっているが、距離感が掴めず、身動きするたびに肘や膝がぶつかった。
「……暑い」
船倉の蒸し暑い空気にセラが先に音をあげた。
「これじゃ汗かいてあせも――しっ!」
しゃべっていたのは彼女のはずなのに、声を出さないようにと告げて、セラは身を小さくした。エレミオは闇の中の気配でそれを知って、彼女にならってさらに身体を縮める。
「だから、言ってるだろ? こんなところにエレミオがいるはずないだろうが」
リカルドが誰かにそう言っているのが聞こえた。
「だいたい、あんたが何でエレミオを探しているんだ? あいつのことだ、飲み屋か娼館じゃないのか?」
「知るか! 俺はただ、親父にあいつを連れてくるように言われただけなんだ。昨日、あいつが行った家が焼かれたらしいしな。何かあるんだろう――」
焼かれた、という単語にセラの身体がぴくりと動く。金目の物はあらかた預けてある。けれど、家が焼かれるなんて想像もしていなかった。事情がわからなくていらつくセラをよそに、男二人の会話は続いていた。
「積み荷はなんなんだ?」
「香辛料ばかりだな。いったん東のラクイア方面に向かって、そこから北上する。北の方に持って行けば倍、いや三倍の値がつくだろうな」
「俺なら西に持って行くがな。ラクイア方面に向かえば私掠されかねない」
「そんな風に言って、コルテス商会の競争相手を減らそうってんだろ? いくらか握らせればお目こぼししてもらえるのは周知の事実だろうが」
「そんなつもりで言ってるわけじゃないんだが」
男たちの話し声はだんだん近づいてきて、セラとエレミオが身を隠している樽の正面にまでやってきた。
セラは口を手で覆って、息を殺していた。本当なら大声を上げて騒ぎ立てたい。家が焼かれたとはどういうことだと問いつめたいが、そうしては苦労が水の泡だ。
いつの間にかエレミオと身体が触れ合っていたが、それをとがめる余裕もなく、身体を固くして男たちが気づかないよう祈った。
「おいおい、エレミオを探しに来たんだったよな? ウチの商売の状況を探りに来たんじゃないんだろ?」
「悪い、つい――こんなところにいるはずないか」
リカルドがうまく相手の気をそらしてくれたらしく、男は船倉にエレミオはいないと結論づけたようだった。
「どういうつもり? 迎えに来たのは誰よ?」
二人分の足音が船倉を出て行ったのを確認して、セラは狭い空間の中でエレミオに詰め寄った。
「家が焼かれた――って、そんな危険――」
続けざまにエレミオに罵声を浴びせかけようとして、セラは残りの言葉を呑み込んだ。依頼を受けるまで危険があるなんて考えてもみなかった。金持ちのぼんぼんの家出に同行するだけのつもりだったのに――けれど、受けたのはセラだ。依頼人に非はない。
「ごめん。今の兄貴なんだけど――何があったのか、わかんない。ここに来るなんておかしいよ、いつもなら飲み屋街の方に行くはずなのに」
途中から妙に子どもじみた口調になって、エレミオは激しく首を振った。彼も混乱しているようだ。
「まあ、焼かれてしまったものは仕方ないわ。帰ったら、全額請求しますからね!」
セラは指を立ててエレミオを脅す。
なんせ依頼人はコルテス家の次男坊だ。セラからすれば目もくらむような大金を持っているのだから、受けた損害はきっちり返してもらっても良心が痛むことはない。
「……できる限りのことはする」
帰れればだけどね、と余計なことをエレミオは付け足す。セラはそんな彼の耳を思いきり引っ張ってやった。せめてもの腹いせとして。
そうやって身をひそめているうちに船が動き始めた。頭上から慌ただしく行き来している人の足音がして、さらに停泊していた時とは明らかに違う揺れを感じる。
「そろそろ出てもいいんじゃない?」
セラは帆布を取り去ると、樽をよじ登って向こう側へ移った。
「暑い……上に出て涼めるの? 船に乗ってからのことはあなたが決めてよね」
「とりあえず甲板に上がって涼もうか。船は初めて?」
「まさか。海の向こうの遺跡にだって行ったことあるわよ。まあ、たいていは南に行ってたんだけど。南の遺跡を研究してる依頼人が多かったから」
セラはハンカチを取り出すと、額の汗を丁寧に拭った。それからそのハンカチを胸元に押し込む。
「何でそこにハンカチをつっこむのさ?」
出会った時からの疑問を、ようやくエレミオは口にした。返ってきた答えはあまりにも単純――汗をかいて気持ち悪いから――だったので拍子抜けしてしまったのだが。
船倉を出て甲板に上がると、外は晴天だった。日射しは暑かったけれど、海の風は心地よくて船倉で蒸された身体の熱が少しずつひいていく。
「……日焼けしそう」
そうつぶやいたセラだったが、つばの広い帽子が日差しの大部分を遮っていた。不揃いな金髪は首の後ろで無造作に束ねて、その帽子の中に押し込んである。
相変わらずシャツの胸元を広く開け、男物のズボンを穿いていた。派手な色の帯に斜めに短剣を突き刺して、帯の上から腰に巻いた鎖には革の小袋を下げている。
「おまえ、いったい何をやらかしたんだ?」
甲板で二人を待っていたリカルドは、遠い沖合を眺めていた。
「別に何も……まさかあれじゃあないよな」
「あれ?」
リカルドに問われて、エレミオは空を仰ぐ仕草をした。
「最近やたらと女王陛下に呼ばれるんだよ。おかしいだろ?」
「女王様と会って何するの?」
好奇心を隠そうともせず、セラは身を乗り出す。
「なあんにも。どっかの国から茶葉を取り寄せただの、厨房のお菓子がよくできただの、理由をつけて呼び出されて部屋でお茶飲んでるだけ」
まさか――女王様はエレミオに気がある? 明るい日差しの下では、エレミオの整った顔立ちがさらにきわだって見える。
男性にしては長い睫、通った鼻筋。だが、あいにくセラの好みからはかけ離れている。どちらかと言えば、リカルドのような大人の男性の方がタイプだ。
「国に戻った後、大事にならなきゃいいなあ」
面白がっているようにしか見えない表情でリカルドが言った。
「女王陛下のお召しを断って逃げ出したんだったら、帰国した後、牢屋行きかもな?」
「やめてくれよ」
うんざりした表情でエレミオは顔を背ける。
「アリアドナは、そんな人じゃない――」
「おや、呼び捨て」
素早く割り込んだセラの言葉に、エレミオはいったん口を閉ざす。
「頼まれてるんだよ! 親戚だからそう呼んでくれって――」
「親戚、ねぇ……」
ひょっとすると、目の前の青年は女心というやつに非常に疎いのではないだろうか。確かに二人は親戚だ。とはいえそのつながりはごく薄く、エレミオは爵位すら持っていない。
そんな相手に名前で呼んでくれと頼むなど――身分の境を越えて接してほしいという女王の意思の表れではないだろうか。そう考えていたのが、表情に出てしまっていたのだろう。エレミオが嘆息する。
「そんな目で見るなっての。鈍いフリしてる方が楽なんだから」
どうやら女心に疎いわけではないらしい。彼も苦労しているのだと思い、セラは笑った。確かにその方が楽だろう。少なくとも女王がエレミオにできることといえばお茶への招待くらいなのだから。
「中に部屋が用意してある。別々でいいんだよな?」
リカルドが二人にたずねた。
「あたりまえでしょ!」
「それから、セラは厨房を手伝ってやってくれ」
「了解!」
船に乗る以上、多少の手伝いはするつもりだった。
働かざる者、食うべからず。肉体労働だっていとわないけれど、リカルドは比較的楽な仕事をセラに割り当ててくれたようだ。
「エレミオは甲板掃除な」
あらあら、と彼女は気の毒そうな表情を作って見せた。暑い中での甲板掃除は大仕事だ。
「扱い違いすぎ」
「乗せてやるんだからありがたいと思え」
エレミオはむくれたが、反論などできるはずもなかった。
† † †
エレミオほどしょっちゅう乗っているわけではなかったが、セラ自身も何度も船に乗って国外に出ていた。
幸い嵐に巻き込まれたことはなく、平和な海しか知らないけれど。
セラは大きく背伸びをして、水平線を見つめる。
空は晴れ渡っていて嵐の来る気配はなかったが、海竜に祈りを捧げるために古物商の主にもらった銀貨を海に投げ込んだ。
モルディア王国を専門にしているとはいっても、今までマルゲリア島に実際に足を踏み入れたことはなかった。東の大陸に渡る機会はあったけれど、その時は違う遺跡を調べていたのだ。
自分一人で遺跡を調査するつもりで準備を始めたことは何度もある。けれど、いざ出発しようとすると別の依頼が入ってしまい、実現することはなかった。
マルゲリア島をたずねるのは、セラにとっては半分趣味のようなものだから、自分の食い扶持を稼ぐための仕事を断ってまで行こうなどとは考えもしなかった。
自分はまだ若いし、島に行く機会はあるとそのたびに言い聞かせて。それが思いがけず、モルディア王国の中でもかつて最も栄えていた地域、マルゲリア島――海竜の島に上陸する機会を得た。
その点だけはエレミオに感謝してもいいのかもしれない。振り向くと、エレミオは他の乗組員たちと一緒に甲板を掃除しているところだった。
彼の銀髪は太陽の光を受けてまばゆいくらいに輝いている。銀は海竜の鱗の色。青は海の色。だから、銀の髪と青い瞳を持つ者は、海竜の血を濃く受け継いでいる――とされてきた。
おそらくコルテス家には始祖について何らかの伝承が残っているのだろうが、部外者であるセラには真偽のほどを探り出す手段はなかった。いずれエレミオに確認する機会があるかもしれない。
エレミオはシャツの袖も、ズボンの裾もまくり上げてしまっていた。ブーツを履いていたはずだが、それは船室にでも放り込んできたようで近くには見あたらない。首もとが煌めいているのは、銀の鎖を首にかけているからだろう。その先に何をぶら下げているのかまでは、セラにはわからなかった。
細身だと思っていたが、むき出しになった手足の筋肉は意外にしっかりしている。船乗りたちの中に交ざっても、ひけを取らない。
真面目に働くエレミオを見て、ほんの少しだけ彼に対する印象が変わった。夜の街での行状を知られ、放蕩者というレッテルは貼られているものの、自分の仕事はきっちり果たす性分のようだ。
「お嬢さん! すまないが、芋の皮むきを手伝ってくれないかね?」
厨房担当の男がセラを呼びに来る。セラはそれに返事をすると甲板を後にした。
夕食時、男たちが浮き足立っているのは責められないだろう、とエレミオは思った。身なりにかまわないとはいえ、彼女の美貌は隠しきれない。長い手足。そしてシャツからこぼれんばかりの胸にはどうしたって目がいく。
船に乗るのはたいてい男だ。特にこの船のような交易船にはよほどのことがない限り女は乗らない。そこに一人美女が乗り込んだとなれば、彼らの目の色が変わるのもわかる。
男たちが彼女の隣の席を確保しようと、押し合いへし合いしているのに割り込もうとしたけれど、エレミオはあっけなく輪の外に放り出されてしまった。
「あんたみたいなべっぴんさんが、まさかこんな船に乗るとはなあ」
「あら、ありがと――でも、お触りは禁止」
セラの隣に座った男が、何気なく彼女の膝に手を置いた。その手をぴしゃりと払い、セラはにこりと微笑む。
「陸で恋人が待ってるの。こう見えても身持ちは堅いんだから――触るなって言ってるでしょう!」
別の男が肩を抱く。
「ちょっと! 肩を抱くのもなし!」
左手の拳が見事に男の額に的中した。呻いた男は慌ててセラから離れる。
「堅いこと言うなって」
「軽い女じゃないって言ってるでしょ!」
また別の男が隣に座り込む。セラは迷惑そうに新しい男の頬をひっぱたく。
彼らがやっているのは、酒場で働く娘たちへのちょっかいと同じ振る舞いで、まっとうな女性にするものではない。エレミオも、酒場では似たような悪ふざけを毎度のようにしているが、時と場所と相手は選んでいる。
「彼女、俺の連れなんだけど?」
セラへの助け船のつもりでそう言ってみるけれど、彼の声は誰にも聞こえていないようだ。それが面白くなくて、エレミオは立ち上がりかけた。
「ちょっと、リカルドさん! まともに食事もできないじゃないの!」
最終的にキレたセラが叫んで、男たちを押しのけ、リカルドとエレミオの間に強引に割り込んだ。
「まったく――あなたまで変なことしないでしょうね?」
「するわけないだろ」
エレミオは苦笑して、スープの皿にスプーンをつっこんだ。
自分の悪名を知らないなどと言うつもりはない。それをよしとしてきた面もある。そうすれば、女性は向こうから寄ってくるから不自由しなかった。エレミオと知人になることは、彼女たちにとって今後の利益につながる。
自分の容姿に惹かれる者が多いのは確かだが、父の持つ財力の方がはるかに人を引きつけるであろうことはわかっていた。たとえ相手が彼に好意を持っていなかったとしても、コルテス商会を敵に回すなんて愚かなことだ。エレミオに接する者は皆、表向きは愛想よく接してくれるのが常だった。
そんな中、露骨に嫌悪感を示したのはセラが初めてだった。逆にその態度に興味を引かれたというのもおかしな話だが。
窮屈な席での夕食を終え、それぞれの部屋へ引き揚げる。
「それじゃ、お休み」
「……お休みなさい」
セラの部屋とエレミオの部屋は隣同士だった。リカルドが楽しそうに「境の扉は鍵を開けておいたぞ!」と教えてくれたのだが、こちら側から押してみると、扉に何か押しつけられているようで開くことはできなかった。身持ちが堅い、と言うだけのことはある。
狭い船室で眠るのには慣れている。両手を枕代わりに頭の下で組むと、エレミオは上掛けもかけないまま、あっという間に眠りに落ちた。
ぐっすりと眠り込んでいたのに一瞬で目が覚めたのは、隣の部屋から聞こえてきたのが明らかに女の悲鳴だったから。続いて聞こえてきたのは、壁に何かがぶつかるような音。先ほどの悲鳴の正体がセラのものだと気づき、エレミオは船室を飛び出した。
「セラ! どうした? 何があった?」
それからしばらくどたばたと暴れ回る音が続く。扉を叩きながらセラの名を呼び続けるエレミオに気づいて、不寝番の乗組員が駆けつけてくる。それだけに留まらず、寝ていた乗組員たちまで部屋から顔をのぞかせた。
「……うるさいぞ。何してる」
船長室からやってきたリカルドが声をかけた時、部屋の扉が開かれた。
「……どういうつもり? この船じゃ女が乗り込んだら、何をしてもいいってわけ?」
肩で息をしているセラは、部屋の中を指さす。彼女の指先には、床の上にうずくまる男がいた。
「ちゃんと鍵かけたのに、何でこいつが部屋の中に入り込んでくるのよ!」
男の手が押さえている部分に気がついて、エレミオは身体を縮めた。あれは――痛い。女のセラにはわからないだろうが。
リカルドは男を部屋の外に引きずり出した。その勢いで、男のポケットから合い鍵の束が落ちる。彼の顔には殴られた跡があり、そのうえ鼻血を流していて酷い有様だ。
「……連れて行ってちょうだい。わたしは寝直すわ」
セラは肩をすくめて、それ以上は何も言わず扉を閉じる。リカルドが男の顔を強引に持ち上げた。
彼が夕食の間、セラの身体をべたべたと触っていた男であることに気がついて、エレミオは眉を寄せる。
「おまえ、俺の船でとんでもないことをしてくれたな?」
リカルドの怒りのこもった低い声が、エレミオの耳に入る。
「こいつの処分は朝になってからだ。とりあえず空き部屋に放り込んでおけ」
リカルドはそう命じると、男を他の乗組員に引き渡した。
それが初日の夜のこと。
彼女の部屋に侵入した男が、三回も急所を蹴り上げられたという話はあっという間に広まった。忍び込んだ男を撃退したということで、セラに対する乗組員の態度が明らかに変わった。
「……どうやって撃退したんだ?」
エレミオがたずねると、彼女は軽く笑いながら言った。
「いつも通りの用心をしていただけ。誰かが近づいてくればすぐに目が覚めるわ」
鍵をかけて寝ていたのにもかかわらず、警戒をしていたとは――エレミオがそう言いたげな表情をしていたせいか、セラは淡々と答える。
「……何があるかわからないでしょ。初めての場所なんだし」
「……すごいな」
「たいしたことじゃないわ」
エレミオはそれ以上何も言えなかった。
† † †
きいきいとわめく声は、若い女――少女のものだ。
「エレミオを探してって言ってるでしょ? いなくなったってどういうことよ?」
「ですが――陛下」
なだめるような年上の男の声に、彼女は眉を吊り上げた。
淡い桃色のドレスが彼女のほっそりとした肢体を包んでいる。栗色の髪は後頭部で結われていて、そこに金の鎖と金のネットがかけられていた。
ドレスには連になった真珠が縫いとめられていて、彼女が身体を動かすたびにぶつかって、がちゃがちゃというやかましい音を立てている。
「必要なのよ、エレミオが。家にはいないの? コルテス家の店には?」
「陛下」
彼女の前に膝をついた男は、もう一度彼女に告げる。
「ありとあらゆる場所を探しました。彼の実家、店、出入りの店まで全て――ですがどこにも見あたらないのですよ」
出入りの店、という言葉に彼女はわめくのをやめて、傍らの机に身体を寄せた。
「出入りの店? どんなお店なの? 行ってみたいわ」
アグレダ王国女王アリアドナは、扇子を手にとって、首を傾げて見せる。落ち着きを取り戻した彼女はなかなか愛らしかった。女王とはいえ、まだ十七歳なのだ。
笑うとあどけない表情になって、彼女が女王であるということを周囲に忘れさせてしまう。明るい茶色の瞳には、好奇の色が浮かんでいた。
彼女が寄りかかっているのは、祖父の代から使われている執務机だ。インク壷と羽根ペンが出番を待ちかまえている。
「――陛下がお気に召すような店ではありませんよ」
苦々しい表情で男は立ち上がった。彼は宰相のステファノである。
「あら、どんなお店なのかしら?」
なおもアリアドナは問いかけるが、ステファノは聞こえなかったふりをした。本来ならば許されない行為であるが、彼は女王の従兄弟でもあるので処罰はされない。アリアドナも流すことにしたようだった。
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