5%の冷やした砂糖水

煙 うみ

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8.5 露空

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真子が、無邪気な顔をしてふと問いかけてきた。

「星羅は?恋とか・・・したい?」

恋。


口元まで運んでいったコーヒーに口をつけずにまた離す。

真子と一緒に戯れで繰り出す出会いの場は、他業種との交流も品定めも新鮮で楽しいけれども、恋とは少し違う気がする。

義足の親友の、スマホを触りながら歩いているところに、名前を呼ぶと顔をあげて立ち止まって待っていてくれた、駆け寄るあのときの胸の高鳴りが恋だろうか。

彼への感情にはわざと名前をつけずに、蓋をして海に流してしまったから、今はもう、遠くに離れていて思い出せない。


「うーん・・・今はいいかな、前のやつでだいぶ消耗してるから・・・」


多分好きだった人の声さえも、香りさえも上手く思い出せなくて、鼻の奥がツンと冷たくなる。


「今はなかなか仕事も落ち着かないし、もう少し全体的に余裕でたらかな。」

「ふーん。余裕って、会う時間作ったりが大変ってこと?」


雨のしとしと落ちる音の中、体温の高い真子が側に寄ってきて、体に触れるその温かさに、気持ちがゆっくりと融けていく。

私は、実は結構傷ついていたのかもしれない、と他人事のように思ってちょっと驚いた。

人知れず膿んで、静かに心を蝕んで、癒えていく時にやっとその存在に気づく傷もある。


「そうね。物理的にね。

このご時世だとデートの場所も渋めだし、うちら当直不規則だし。

職場離れてると会いづらそう・・・」


悠馬が拓也に向けていたような真っ直ぐな想いを、あの親友にたとえぶつけていたとしても、彼は私のことを受け容れてくれなかっただろうと思う。

困った顔をして、笑ったかもしれない。

全部預けるとか俺そういうの苦手なんだよね。

恋人も所詮他人なんだし。

そうさりげなく突き放されてしまったら、私はそうだねって返すしかなかったよ。

それでも君を真っ直ぐ追いかけ続ける気概は、私にはなかったよ。



屋根の下から眺める雨が細く細かくなって、カーテンのように視界を曇らせていた。

まだ濁っていない雨が足下を流れていく様子を眺めながら物思いに耽っていると、真子が#徐_おもむ__#ろに私のマスクに指を掛け、下向きに引っ張って顎の辺りまで下げた。


「・・・じゃあ、同じ病院の人なら、どう?」


一瞬、屋根の下で雨が降ったのかと思った。

剥き出しの右の頬に、柔らかく湿った何かが優しく触れた。

「・・・え?」

驚いて真子の方を向くと、もう私から体を離した真子が、くすくすと悪戯っぽく笑っていた。

「『院内』、意外とありなんじゃない?星羅。」

マスクを間抜けにぶら下げたままの私を置き去りにして、小雨のなか傘もささずに、病院の正面玄関まで歩いて行く。

・・・おい、ちょっと。
いい感じになってた薬剤師とかは一体どうなったんだよ。

真子がなのを改めて思い出し、私は今世紀最大級の溜息をつきながら、真子の背中を追いかけて歩き始めた。



ちょっとだけ自分の口元が緩んでいるのに気付き、慌ててマスクを鼻まで上げる私のことを、夕雨に染まる冬の空が
見守っていた。
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