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第二章『神皇篇』
第五十一話『神皇』 序
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月明かりが夜の大都会を照らしている。
未だ人の気配が絶えない大通りを避けるように、第三皇女・狛乃神嵐花は人目を忍んで裏道をフラフラと彷徨い歩いている。
「あり得ない……。この私様が……」
彼女は今、自分の足で人並みに歩くことしか出来ない。
麗真魅琴に叩きのめされたことで、無尽蔵に思われた皇族の神為が尽きてしまったのだ。
通常であれば、神為が回復するまでには暫く安静にしていれば充分だ。
しかし、彼女の場合はそうも行かない。
狛乃神嵐花を含め、皇族は全員が生まれながらに神為の使い手である。
こういう者達は自己の在り方そのものが内なる神と同化している為、神為の覚醒度が極めて深く、より強大且つ自在に力を行使することが出来る。
反面、神為を失う程の敗北を喫した場合、それだけ自己の存在そのものへの毀損が激しくなってしまう。
生まれながらの神為使いは、失った神為の回復に通常の比ではない程の時間――否、期間を要してしまうのだ。
「あの女……よくも私様をこんな目に……」
狛乃神嵐花は当分の間神為を使うことが出来ない。
それは彼女にとって完全に不測の事態だった。
皇族が瞬間的に離れた場所に姿を顕すことが出来るのは、神為に依って巨大な力を発揮して超高速で移動出来る為だ。
その力の拠所を失った今、彼女は傷付いた体を引き摺るように夜の路地裏を歩いているという訳だ。
乱れたギャルファッションを晒し、屈辱に表情が歪む。
普段ならば一瞬で移動出来る道程が果てしなく遠い。
しかし、狛乃神は迎えを呼ぶことが出来ない。
恥や外聞以前に、この外出に彼女は電話端末を持って来ていなかった。
このような失態、父や兄姉の耳に入ったらどのような叱責を受けるだろうか。
無断で外出した上、勝手に明治日本の民を虐殺しようとし、挙げ句に敢え無く敗北してこの様だ。
叱責では済まず、皇族としての立場を脅かされるような重い罰を受けるかも知れない。
(場合によっては東瀛丸を飲まされた上で何処かの下級貴族との縁談を進められちゃうかも知れないじゃん。最悪……)
生まれついての神為の使い手が神為を失った場合、他の者達と同様に東瀛丸を服用することで再び神為を身に付けることが出来る。
但し一度でも東瀛丸を飲んでしまうと、以降は他の者達同様に二十八日以内に再服用しなければ神為を維持出来なくなるのだ。
神為の大きさ自体が服用前後で変化する訳ではないが、狛乃神にとってそれは皇族として完全性を失うことを意味していた。
その認識は他の兄姉も大差無いだろう。
つまり狛乃神が危惧しているのは、そのような処遇を課されて皇族から見棄てられてしまうことだ。
そうなれば、縁談も皇族が嫁入りするに相応しい格の家ではなく、爵位の低い華族家になる――事実上の追放処分になることも充分あり得る。
(庇ってくれるとしたら獅兄様と蛟兄様かな……。麒姉様の目は厳しいだろうし、鯱兄様は今までの態度を憎々しく思ってるかも。龍姉様は普段なら味方してくれるだろうけれど、あいつらのこと匿ってた張本人だからな……。三対二かあ……御父様、許してくれるかな……)
狛乃神は暗澹たる気分を振り切ろうとして首を振った。
だがそんな彼女の前に、背の高いフリル付きの衣装を着た人影が現れた。
「まさか本当に皇族がこんな無様な姿を曝しているなんて……。首領補佐の仰っていたことは本当だったのね……」
鼻に掛かったハスキーボイス――その声に狛乃神は違和感を覚えた。
能く見ると、目の前に居るのは女装した男だ。
その不穏な物言いに、狛乃神は思わず後退った。
「だ、誰?」
「初めまして、狛乃神殿下。私は武装戦隊・狼ノ牙の最高幹部である八卦衆が一人・逸見樹といいます」
「狼ノ牙!?」
狛乃神は青褪めた。
普段ならばいざ知らず、神為を失った状態で叛逆者に出会ってしまうなど、想定を遙かに超えて最悪の事態である。
因みに狛乃神は知らないことだが、この逸見樹は既に六摂家当主の一人・鷹番夜朗を殺害している。
「ど、どうしてよりにもよってこんな時に……?」
「私の術識神為『把巣家把背体下』の能力は、狙いを定めた相手の近辺へと一瞬で移動すること。対象のことは鮮明にイメージする必要がありますが、皇國で皇族の顔が曖昧な人間は居ませんからね」
逸見は話しながら、自らのスカートの裏からスタンガンを取り出した。
「ヒッ……!?」
「加えて、首領補佐から貴女が敗北したとの報を受けたので、喜んで馳せ参じたという訳ですよ。情報の出所は知りませんけどね。貴女達皇族は術識神為を舐めているようですが、弱みを見せたが最期、私がそれを逃しはしません」
スタンガンのスイッチを細かくオンオフする様を見せ付けながら、逸見は狛乃神にゆっくりと迫る。
「さあ殿下、零落のお時間です。堕ちる覚悟は宜しいですか?」
「や、やめろ!!」
狛乃神は恐怖から叫んだ。
「待て! 無礼は許さないから! 私様に手を出したら唯じゃ済まないぞ!」
「唯じゃ済まない? 叛逆者なんだから、元々そういう立場なんですけどね」
「やめろ! 来るな!!」
狛乃神の命令など一顧だにされる筈も無く、一瞬で間合いを詰めた逸見はスタンガンを彼女の身体に押し当てた。
狛乃神は敢え無く再び失神し、その体を叛逆者・逸見樹に預けてしまった。
「生まれ付きの神為使いね……。暫く安静にしていないと神為の喪失から復活出来ないらしいじゃない。でも、今から貴女は私達の大切な交渉道具、即ち人質。神為はずっと失ったままで居て貰わなきゃ困るのよね……」
狛乃神の身体を抱え、逸見は不気味で下卑た笑みを浮かべる。
「つまり、貴女はこれから先もう安静になど出来ないということ。あの人に、首領Дに犯していただく悦びをたっぷりと教えてもらうと良いわ。私の……私の様に……! ふへ、ふひへへへ……!」
逸見は狛乃神を連れ、その場から姿を消した。
斯くして、第三皇女・狛乃神嵐花は叛逆組織「武装戦隊・狼ノ牙」の手に落ちた。
⦿⦿⦿
夜の皇宮、その広大な敷地内で、様々な虫達の音が交響曲を響かせている。
そんな中、神皇が住まう混凝土造の和風宮殿「御所」に侵入すべく、一人の女が忍び寄っていた。
全身が濡れて雫が滴り落ちる姿を月明かりが照らし、麗しき女体を瑞々しく艶めかせている。
女は静かに宮殿の屋根を睨み上げた。
その鋭い目付きは、宛ら獲物に狙いを定めた禽獣といったところか。
「随分とまあ、不用心ね。いや、宮殿の主が主だから、用心する必要が無いのか……」
麗真魅琴は跳び上がり、宮殿正面の広間向かいに拵えられた窓の防弾硝子面に右手の指を押し当てた。
その手の形は壁に張り付く蜥蜴の足に似ていたが、彼女は滑らかな硝子面を片手で掴んで体勢を維持しているという、俄かには信じられない状態になっている。
そのまま、今度は広げた左手の全指を揃え、手刀を大きく振るった。
音も無く、防弾硝子は丁度魅琴の身体が通るくらいの長方形に刳り抜かれた。
魅琴は即席で作った進入口から御所の回廊へと降り立った。
彼女の目的は唯一つ、この先にある寝室で休んでいる神皇の暗殺である。
皇國の強大な軍事力が日本国に行使される前に、そのエネルギー供給源である神皇を亡き者にすることで、祖国を戦禍と滅亡から守らなければならない。
魅琴は一歩一歩、己が人生の集大成に向けて回廊を進む。
神皇を始めとした皇族が臣民に謁える為の窓硝子が星月の明かりを取り込み、皮肉にも賊の美しさを天女のように際立たせていた。
(御所の構造は頭に入っている。神皇の寝室の場所も……)
魅琴は少し、都合の良い期待をしていた。
もしも神皇が眠っていれば、事はすんなりと為せるだろう。
神皇と刺し違える覚悟で此処まで来たが、そんな余裕のある展開になったらもう少し私怨で動いてみようか。
皇族には一人、岬守航に自分がしたくても出来なかったことをしでかした許せない女が居る。
(序でだから、殺してしまおうか……)
魅琴は思わず暗い笑みを零した。
自分は今から命を投げ出してまで日本を守ろうというのだから、神様からそれくらいの御褒美があってもおかしくはない。
普段は敬虔な魅琴だが、このときばかりは少し邪な心が芽生えていた。
(どうせ何もかも上手く行ったって最期は海に身を投げるんだから、夢くらい見ても良いでしょう)
祖国の為に相手国の現人神を手に掛けようという暗殺者が、敵国に素性を追求されて祖国に迷惑にならないように自らの命を絶ち、証拠を隠滅するのは当然の後始末である。
今の魅琴はたった一人の決死隊である。
そんなことを考えながら、魅琴は目的となる部屋の扉の前までやって来た。
一つ、大きく深呼吸をして、扉に手を掛ける。
意外にも、扉は魅琴を全く拒みもせず、まるで部屋の主を迎え入れるようにあっさりと開かれた。
世界一の大国の君主が過ごす私室にしてはこぢんまりとした、しかし格式を感じさせる洋室へと、魅琴は足を踏み入れた。
怜悧な光を宿した彼女の両眼は、先ず寝台の方へと視線を遣った。
布団の中は空、神皇は寝ていない。
「来たか……」
声を聴いた魅琴は溜息と共に、近くの椅子へと視線を移した。
桜色の髪をした、少年のような小男が腰掛けて寛いでいる。
この男こそ、魅琴の暗殺対象である神聖大日本皇國の君主・神皇である。
魅琴は慌てるでもなく朗らかな笑みを浮かべて応えた。
「ええ。起きていらっしゃったのですね、神皇陛下」
「今宵はまだ招かれざる来客がある気がしてな。朕の予感は能く当たるのだ」
神皇は小さく笑うと、椅子から腰を上げた。
魅琴よりも一回りも二回りも小柄なその姿はまるで少年のまま時が止まった様だ。
だが同時に、不思議な威厳と貫禄を涼やかに備えている。
皇國臣民の崇敬を一身に集めるも納得の佇まいであった。
「して、何の用かな、麗真魅琴? 明日の皇太子妃、未来の皇后よ」
「そのお話をお断りし、陛下のお命を頂戴しに参りました」
静かな、命を狙う者と狙われる者とは思えぬ程穏やかな会話だった。
互いに向ける表情には奇妙な程敵意が無い。
まるで晩酌でも共にしようという風情ですらある。
「成程な。小一時間程前に新首相の小木曽が明治日本への宣戦布告を上奏して来おってな、夜分に憩いの興を殺がれたが、一先ず勅を出してやったところだ。あ奴は能條と同じく開戦には慎重だと思っておったが、どうも腹に一物抱えておったようだな。それは兎も角、つまり爾にしてみれば、祖国を守るには最早予断は許されぬという訳だな」
「はい」
「爾の祖父、確か鬼獄入彌改め麗真魅射だったか。あの男の遺志だな?」
「やはり御存知でしたか」
「先祖の行いを贖うは子孫、か……」
「然様で御座います、陛下。この命に代えましても」
意見の食い違いがある麗真家の三代だが、そんな中でも彼女らには一つだけ共通見解がある。
神聖大日本皇國を生み出し、数多の世界線にその厄災がばら撒かれる元凶となったのは麗真魅射の父・鬼獄魅三郎である。
麗真家の宿命とは護国であるが、それは彼らの血の贖罪でもあった。
結局の所、魅琴は曾祖父の罪から逃れられず、向き合い立ち向かうことを選ばざるを得なかったのだ。
「そうか、因果なものよ……」
「陛下、私はこの選択と決意に誇りを持って殉じます」
神皇は「うむ」と頷くと、自らを手に掛けようとする賊たる魅琴に背を向けて、窓の方へ歩いた。
魅琴はそんな彼に手を出さず、隣に立って共に外を見詰める。
「よくぞ……これ程の国を作り上げられましたね」
「爾の方こそ、美事な迄に練り上げたものよ。一目見たときから好ましく思っておったぞ。爾ならば叡智の后として迎えても良かったのだがな」
「恐縮です。しかし、私の心は始めから決まっております」
ふ、と小さく笑った神皇は、魅琴に手を差し伸べた。
「少し歩いて外の空気に当たらぬか? 宮殿の脇には朕の統べる穀物企業『帝嘗』の本社が入る高層建築がある。その半ばの屋根は屋上庭園になっていてな。朕は其処から一望する統京の夜景が気に入っているのだ」
魅琴は神皇に笑い返すと、腰を屈めて彼の手を取った。
「お供いたしますわ、陛下」
二人は手を繋いだまま寝室を出て、回廊をゆっくりと歩いて行く。
その姿は宛ら、花嫁通路を歩く様であった。
未だ人の気配が絶えない大通りを避けるように、第三皇女・狛乃神嵐花は人目を忍んで裏道をフラフラと彷徨い歩いている。
「あり得ない……。この私様が……」
彼女は今、自分の足で人並みに歩くことしか出来ない。
麗真魅琴に叩きのめされたことで、無尽蔵に思われた皇族の神為が尽きてしまったのだ。
通常であれば、神為が回復するまでには暫く安静にしていれば充分だ。
しかし、彼女の場合はそうも行かない。
狛乃神嵐花を含め、皇族は全員が生まれながらに神為の使い手である。
こういう者達は自己の在り方そのものが内なる神と同化している為、神為の覚醒度が極めて深く、より強大且つ自在に力を行使することが出来る。
反面、神為を失う程の敗北を喫した場合、それだけ自己の存在そのものへの毀損が激しくなってしまう。
生まれながらの神為使いは、失った神為の回復に通常の比ではない程の時間――否、期間を要してしまうのだ。
「あの女……よくも私様をこんな目に……」
狛乃神嵐花は当分の間神為を使うことが出来ない。
それは彼女にとって完全に不測の事態だった。
皇族が瞬間的に離れた場所に姿を顕すことが出来るのは、神為に依って巨大な力を発揮して超高速で移動出来る為だ。
その力の拠所を失った今、彼女は傷付いた体を引き摺るように夜の路地裏を歩いているという訳だ。
乱れたギャルファッションを晒し、屈辱に表情が歪む。
普段ならば一瞬で移動出来る道程が果てしなく遠い。
しかし、狛乃神は迎えを呼ぶことが出来ない。
恥や外聞以前に、この外出に彼女は電話端末を持って来ていなかった。
このような失態、父や兄姉の耳に入ったらどのような叱責を受けるだろうか。
無断で外出した上、勝手に明治日本の民を虐殺しようとし、挙げ句に敢え無く敗北してこの様だ。
叱責では済まず、皇族としての立場を脅かされるような重い罰を受けるかも知れない。
(場合によっては東瀛丸を飲まされた上で何処かの下級貴族との縁談を進められちゃうかも知れないじゃん。最悪……)
生まれついての神為の使い手が神為を失った場合、他の者達と同様に東瀛丸を服用することで再び神為を身に付けることが出来る。
但し一度でも東瀛丸を飲んでしまうと、以降は他の者達同様に二十八日以内に再服用しなければ神為を維持出来なくなるのだ。
神為の大きさ自体が服用前後で変化する訳ではないが、狛乃神にとってそれは皇族として完全性を失うことを意味していた。
その認識は他の兄姉も大差無いだろう。
つまり狛乃神が危惧しているのは、そのような処遇を課されて皇族から見棄てられてしまうことだ。
そうなれば、縁談も皇族が嫁入りするに相応しい格の家ではなく、爵位の低い華族家になる――事実上の追放処分になることも充分あり得る。
(庇ってくれるとしたら獅兄様と蛟兄様かな……。麒姉様の目は厳しいだろうし、鯱兄様は今までの態度を憎々しく思ってるかも。龍姉様は普段なら味方してくれるだろうけれど、あいつらのこと匿ってた張本人だからな……。三対二かあ……御父様、許してくれるかな……)
狛乃神は暗澹たる気分を振り切ろうとして首を振った。
だがそんな彼女の前に、背の高いフリル付きの衣装を着た人影が現れた。
「まさか本当に皇族がこんな無様な姿を曝しているなんて……。首領補佐の仰っていたことは本当だったのね……」
鼻に掛かったハスキーボイス――その声に狛乃神は違和感を覚えた。
能く見ると、目の前に居るのは女装した男だ。
その不穏な物言いに、狛乃神は思わず後退った。
「だ、誰?」
「初めまして、狛乃神殿下。私は武装戦隊・狼ノ牙の最高幹部である八卦衆が一人・逸見樹といいます」
「狼ノ牙!?」
狛乃神は青褪めた。
普段ならばいざ知らず、神為を失った状態で叛逆者に出会ってしまうなど、想定を遙かに超えて最悪の事態である。
因みに狛乃神は知らないことだが、この逸見樹は既に六摂家当主の一人・鷹番夜朗を殺害している。
「ど、どうしてよりにもよってこんな時に……?」
「私の術識神為『把巣家把背体下』の能力は、狙いを定めた相手の近辺へと一瞬で移動すること。対象のことは鮮明にイメージする必要がありますが、皇國で皇族の顔が曖昧な人間は居ませんからね」
逸見は話しながら、自らのスカートの裏からスタンガンを取り出した。
「ヒッ……!?」
「加えて、首領補佐から貴女が敗北したとの報を受けたので、喜んで馳せ参じたという訳ですよ。情報の出所は知りませんけどね。貴女達皇族は術識神為を舐めているようですが、弱みを見せたが最期、私がそれを逃しはしません」
スタンガンのスイッチを細かくオンオフする様を見せ付けながら、逸見は狛乃神にゆっくりと迫る。
「さあ殿下、零落のお時間です。堕ちる覚悟は宜しいですか?」
「や、やめろ!!」
狛乃神は恐怖から叫んだ。
「待て! 無礼は許さないから! 私様に手を出したら唯じゃ済まないぞ!」
「唯じゃ済まない? 叛逆者なんだから、元々そういう立場なんですけどね」
「やめろ! 来るな!!」
狛乃神の命令など一顧だにされる筈も無く、一瞬で間合いを詰めた逸見はスタンガンを彼女の身体に押し当てた。
狛乃神は敢え無く再び失神し、その体を叛逆者・逸見樹に預けてしまった。
「生まれ付きの神為使いね……。暫く安静にしていないと神為の喪失から復活出来ないらしいじゃない。でも、今から貴女は私達の大切な交渉道具、即ち人質。神為はずっと失ったままで居て貰わなきゃ困るのよね……」
狛乃神の身体を抱え、逸見は不気味で下卑た笑みを浮かべる。
「つまり、貴女はこれから先もう安静になど出来ないということ。あの人に、首領Дに犯していただく悦びをたっぷりと教えてもらうと良いわ。私の……私の様に……! ふへ、ふひへへへ……!」
逸見は狛乃神を連れ、その場から姿を消した。
斯くして、第三皇女・狛乃神嵐花は叛逆組織「武装戦隊・狼ノ牙」の手に落ちた。
⦿⦿⦿
夜の皇宮、その広大な敷地内で、様々な虫達の音が交響曲を響かせている。
そんな中、神皇が住まう混凝土造の和風宮殿「御所」に侵入すべく、一人の女が忍び寄っていた。
全身が濡れて雫が滴り落ちる姿を月明かりが照らし、麗しき女体を瑞々しく艶めかせている。
女は静かに宮殿の屋根を睨み上げた。
その鋭い目付きは、宛ら獲物に狙いを定めた禽獣といったところか。
「随分とまあ、不用心ね。いや、宮殿の主が主だから、用心する必要が無いのか……」
麗真魅琴は跳び上がり、宮殿正面の広間向かいに拵えられた窓の防弾硝子面に右手の指を押し当てた。
その手の形は壁に張り付く蜥蜴の足に似ていたが、彼女は滑らかな硝子面を片手で掴んで体勢を維持しているという、俄かには信じられない状態になっている。
そのまま、今度は広げた左手の全指を揃え、手刀を大きく振るった。
音も無く、防弾硝子は丁度魅琴の身体が通るくらいの長方形に刳り抜かれた。
魅琴は即席で作った進入口から御所の回廊へと降り立った。
彼女の目的は唯一つ、この先にある寝室で休んでいる神皇の暗殺である。
皇國の強大な軍事力が日本国に行使される前に、そのエネルギー供給源である神皇を亡き者にすることで、祖国を戦禍と滅亡から守らなければならない。
魅琴は一歩一歩、己が人生の集大成に向けて回廊を進む。
神皇を始めとした皇族が臣民に謁える為の窓硝子が星月の明かりを取り込み、皮肉にも賊の美しさを天女のように際立たせていた。
(御所の構造は頭に入っている。神皇の寝室の場所も……)
魅琴は少し、都合の良い期待をしていた。
もしも神皇が眠っていれば、事はすんなりと為せるだろう。
神皇と刺し違える覚悟で此処まで来たが、そんな余裕のある展開になったらもう少し私怨で動いてみようか。
皇族には一人、岬守航に自分がしたくても出来なかったことをしでかした許せない女が居る。
(序でだから、殺してしまおうか……)
魅琴は思わず暗い笑みを零した。
自分は今から命を投げ出してまで日本を守ろうというのだから、神様からそれくらいの御褒美があってもおかしくはない。
普段は敬虔な魅琴だが、このときばかりは少し邪な心が芽生えていた。
(どうせ何もかも上手く行ったって最期は海に身を投げるんだから、夢くらい見ても良いでしょう)
祖国の為に相手国の現人神を手に掛けようという暗殺者が、敵国に素性を追求されて祖国に迷惑にならないように自らの命を絶ち、証拠を隠滅するのは当然の後始末である。
今の魅琴はたった一人の決死隊である。
そんなことを考えながら、魅琴は目的となる部屋の扉の前までやって来た。
一つ、大きく深呼吸をして、扉に手を掛ける。
意外にも、扉は魅琴を全く拒みもせず、まるで部屋の主を迎え入れるようにあっさりと開かれた。
世界一の大国の君主が過ごす私室にしてはこぢんまりとした、しかし格式を感じさせる洋室へと、魅琴は足を踏み入れた。
怜悧な光を宿した彼女の両眼は、先ず寝台の方へと視線を遣った。
布団の中は空、神皇は寝ていない。
「来たか……」
声を聴いた魅琴は溜息と共に、近くの椅子へと視線を移した。
桜色の髪をした、少年のような小男が腰掛けて寛いでいる。
この男こそ、魅琴の暗殺対象である神聖大日本皇國の君主・神皇である。
魅琴は慌てるでもなく朗らかな笑みを浮かべて応えた。
「ええ。起きていらっしゃったのですね、神皇陛下」
「今宵はまだ招かれざる来客がある気がしてな。朕の予感は能く当たるのだ」
神皇は小さく笑うと、椅子から腰を上げた。
魅琴よりも一回りも二回りも小柄なその姿はまるで少年のまま時が止まった様だ。
だが同時に、不思議な威厳と貫禄を涼やかに備えている。
皇國臣民の崇敬を一身に集めるも納得の佇まいであった。
「して、何の用かな、麗真魅琴? 明日の皇太子妃、未来の皇后よ」
「そのお話をお断りし、陛下のお命を頂戴しに参りました」
静かな、命を狙う者と狙われる者とは思えぬ程穏やかな会話だった。
互いに向ける表情には奇妙な程敵意が無い。
まるで晩酌でも共にしようという風情ですらある。
「成程な。小一時間程前に新首相の小木曽が明治日本への宣戦布告を上奏して来おってな、夜分に憩いの興を殺がれたが、一先ず勅を出してやったところだ。あ奴は能條と同じく開戦には慎重だと思っておったが、どうも腹に一物抱えておったようだな。それは兎も角、つまり爾にしてみれば、祖国を守るには最早予断は許されぬという訳だな」
「はい」
「爾の祖父、確か鬼獄入彌改め麗真魅射だったか。あの男の遺志だな?」
「やはり御存知でしたか」
「先祖の行いを贖うは子孫、か……」
「然様で御座います、陛下。この命に代えましても」
意見の食い違いがある麗真家の三代だが、そんな中でも彼女らには一つだけ共通見解がある。
神聖大日本皇國を生み出し、数多の世界線にその厄災がばら撒かれる元凶となったのは麗真魅射の父・鬼獄魅三郎である。
麗真家の宿命とは護国であるが、それは彼らの血の贖罪でもあった。
結局の所、魅琴は曾祖父の罪から逃れられず、向き合い立ち向かうことを選ばざるを得なかったのだ。
「そうか、因果なものよ……」
「陛下、私はこの選択と決意に誇りを持って殉じます」
神皇は「うむ」と頷くと、自らを手に掛けようとする賊たる魅琴に背を向けて、窓の方へ歩いた。
魅琴はそんな彼に手を出さず、隣に立って共に外を見詰める。
「よくぞ……これ程の国を作り上げられましたね」
「爾の方こそ、美事な迄に練り上げたものよ。一目見たときから好ましく思っておったぞ。爾ならば叡智の后として迎えても良かったのだがな」
「恐縮です。しかし、私の心は始めから決まっております」
ふ、と小さく笑った神皇は、魅琴に手を差し伸べた。
「少し歩いて外の空気に当たらぬか? 宮殿の脇には朕の統べる穀物企業『帝嘗』の本社が入る高層建築がある。その半ばの屋根は屋上庭園になっていてな。朕は其処から一望する統京の夜景が気に入っているのだ」
魅琴は神皇に笑い返すと、腰を屈めて彼の手を取った。
「お供いたしますわ、陛下」
二人は手を繋いだまま寝室を出て、回廊をゆっくりと歩いて行く。
その姿は宛ら、花嫁通路を歩く様であった。
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