日本と皇國の幻争正統記

坐久靈二

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第二章『神皇篇』

第四十八話『夢から醒めた血塗れの天使』 急

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 わたるの髪をつかことは、彼の顔をこうこつとした表情で見詰めている。
 既にわたるの傷は治りが遅くなり、顔中が痛々しく腫れ上がっていた。
 わたるは一瞬、恋人同士が見つめ合っていると錯覚した。
 しかし、それにしてはことの笑みは随分と悪魔染みている。

「まさか貴方あなた、自分が望めば終わりに出来ると思っているの?」

 わたるは戦慄した。
 さもたのしそうに問うことはや鬼畜に思えた。

わたしなぶりものにされるしか能の無い雑魚ざこが、自分で自分の引き際を決められると思った? 都合良く負けさせてもらえると思ったのかしら?」
「あ……、あ……ア……!」

 余りの狂気に全身をわなわなと震わせるわたるは、魂までも恐怖に支配されていた。
 当然に、戦うどころではない。
 ここから先は、ただただ地獄が継続するだけである。

 しかし、継続は希望である。
 それはそれは、とても残酷な希望である。
 一層、終わりにして絶望を突き付けられた方がどれ程良かったことか。

「良い機会だから覚えておきなさいね。真に力の差が大きい場合、弱者は強者に屈服する自由すらも許されないの。ただただ、気が済むまで好き勝手にもてあそばれ続ける。さあ、あの時以上にしつかりたっぷりとトラウマを植え付けてあげるわ。後で思う存分はんすうしなさいね、うふふふふ、アハハハハ!」
「ヒイイイッッ!!」

 おぞましい暴行が再開された。

「うぎッ!! ごェッッ!! ギャアアアアアッッ!! ああああああああッッ!! アアアアアアアアアアアッッ!!」

 わたるは唯々、悲鳴を上げることしか出来ない。
 悲しみと痛みが絶叫となり、闇空へとこだまする。

「あが……ぐぅぅぅ……!」

 しばらくして、わたるは再びつんいになり、愛した女を見上げた。
 返り血に染まり、病的且つぎやく的なきようしようを浮かべたうることは、今までのどんな瞬間よりもあでやかに、わくてきに、こうごうしい程の美しさを全身にたたえてわたるを見下ろしていた。
 彼女こそはまさに、暴虐の女神。

「もう終わりにしてほしい? 許してほしい?」

 ことつぶやいた言葉が、わたるには至上の慈悲にすら思えた。
 最早抵抗の意思も無く、ただなぶりものにされるばかりのわたるに出来るのは、彼女に許しを乞うことだけだ。
 ただすがく様なで彼女を見上げ、あわれみを誘うだけだ。
 なんともまあ、惨めな姿である。

「そうねえ……」

 ことの笑みは大人しくなったものの、なおも邪悪な色を帯びている。
 彼女はまだわたるに対して悪意を持っているのか。
 事実、わたるに告げられたのは全く無意味な辱めだった。

「許してほしいなら土下座してわたしに謝りなさい。『聞き分けが悪くてごめんなさい。未練たらしくてすみませんでした。雑魚の分際で、こと様の優しさに逆らって申し訳御座いませんでした』と、誠心誠意わたしに謝罪しなさい」

 わたるには訳がわからなかった。
 どうしてそんなことを要求するのだろう。
 何の意味が、理由があって、二人が過ごした日々に積み重ねたおもいをここまでちやちやにされなければいけないのだろう。

 わたるは悲しみの余り、思わずことにらみ上げた、睨んでしまった。
 それを受け、ことは心底不快そうに舌打ちを鳴らす。
 その響きだけで、わたるは全身におぞが走り抜けるのを感じた。
 ことはというと、地下足袋を履いた右足をわたるの頭に乗せ、踏み付けて頭を下げさせる。

「気が変わったわ。謝罪の前に靴の裏をめてもらいましょうか。早く言うことを聞いた方が良いわよ。ここから先は降伏の条件を追加していくから。次はどんな尊厳りようじよくが待っているかしらね。言っておくけれども、エスカレートに際限なんか無いわよ。ま、わたしはとことんまで付き合ってあげても構わないけれどね。ふふっ……」

 ぐりぐりと、わたるの頭が踏み付けられ、顔が地面に擦り付けられる。
 わたるの性癖にとっては夢にまで見た至福の時のはずだが、終わりをたたけられた悲しみと拷問にさらされた恐怖でグチャグチャのドロドロに汚れ切っていた。

 おそろしい、おそろしい――もう無理だ、とわたるの心に強い想念が浮かび上がった。

(このひと、怖い……)

 わたるの心は最早ぞうきんの様にズタズタだった。
 そんなわたるの前に、先程まで頭をにじっていた右足が爪先を上げて差し出される。
 芸術的なまでに美しい足の形だった。

「早くしなさい。それとも、もっと続けてほしい? わたしは別に良いわよ。何回戦でも付き合ってあげる。更なる辱めを追加するのも楽しみだしね」
「ぐふぅっ……!」

 ああ、そうか――わたるは悟った。

 どの道、ことの我慢が限界を迎えればいつでも問答無用で気絶させられる。
 これ以上耐えたところで、終わりの時がほんの少し延びるだけで、何の意味も無い。
 ただいたずらに、痛みと悲しみと恥辱を重ねるだけ。

 ぼくは彼女を引き留められない。
 ぼくは今の彼女を否定出来ない。
 ぼくは二人の日々が幻に消えてしまうのを止められない。

 ぼくは無力だ……――わたるは観念した、してしまった。

 そして同時に、しびれを切らしたことが数え始める。

「何? 続きを御所望?」
「や、やめっ……!」
「なら早く舐めなさい。ほら十秒以内。じゅーう、きゅーう、はーち、なーな……」
「ま、待って!」
「六、五、四」
「速い速い速い!!」
「三二一」
「ヒイイイやります! やりますから!」

 カウントダウンが止まった。
 わたることの爪先から、靴裏に舌をわせる。

「はぁ……はぁ……うぅ……」
「素敵な思い出が出来て良かったわね、わたる。感謝しなさい」

 わたるは悟った。
 これは罰なのだ。
 この美しくも残酷な女神に対し、しつけにも関わり、幼馴染などと言う分不相応なポジションに収まって煩わせ、あろうことか身の程知らずな恋心を抱き、邪な劣情の対象にすらした。
 このひとに徹底的に屈服させられ、辱められるのは、まさにずっと欲望していたとおりの展開ではないか。

 ただ、この後には決定的な別れが待っている。
 女神に脳を焼かれたわいしような男は、女神の居ない世界でどうやって生きていけば良いのだろう。
 わたるに出来るのは、この瞬間を少しでも引き延ばすことだけだ。
 まみれの舌を靴裏の全体に這わせながら……。

「もう良いわ」

 それすらも、たった一言で事も無げに終わらせられる。
 女神の言うことは絶対だ。
 逆らえば苛烈極まり無い罰が待っている。
 最早わたるにはそれに耐える気力など一分たりとも残されていない。

「次はどうするか、解っているわね?」
「はい……うぅ……」

 わたるは両手と額を地べたに着けた。
 土下座姿になった幼馴染を、ことは腕を組んで見下ろしている。

「聞き分けが悪くて……ごめんなさい……」
「そうね。わたしだって、出来れば円満に別れたかったわ」
「未練たらしくて……すみませんでした……」
「いいえ、さいに楽しめたわ」
こと様の……優しさに……逆らって……申し訳御座いませんでした……」
「はい、く出来ました」

 ことは再びわたるの頭をぐりぐりと踏み躙った。
 言葉通りに取るなら、頭をでる代わりだろうか。
 二人にはこれがさわしいのかも知れない。

 わたるの頭から足の重みが消え、代わりに目線が近付いてくる。
 ことかがみ、わたるの髪をまた掴んで顔を上げさせた。
 蠱惑的な嬌笑が心の芯まで凌辱されたわたるの顔を見詰めている。
 そして……

「ぷっ!」

 ことわたるの顔に唾を吐き付けた。
 それはさながら、決別への駄目押しだった。
 そして、わたるの頭はそのまま激しく混凝土コンクリートの地面に叩き付けられた。
 ことは立ち上がり、わたるを冷たく見下ろす。

「じゃあね、負け犬君。これからわたしは死にに行くから、どうぞ安心して、何処どこへなりと行き好き勝手に幸せになると良いわ。貴方あなたの前途を心から応援しているわよ、くそヘタレのわたる君」

 わたるもうろうとする意識の中、ことの浮遊する様な別れの言葉を聞いていた。
 打ち上げられた魚の様にけいれんしながら。
 いつかの様に小便を垂らしながら。
 長い夢の終わりに打ちのめされながら。

 お別れ。
 初恋の終わり。
 生涯の恋はごうの死を遂げる。
 わたるの意識はしんえんの闇へと沈んでいった。

しまの、大和やまとくにに、人二人、ありしと思はば、何かなげかむ』

 ――まんようしゅうよみびとしら



    ⦿⦿⦿



    ⦿⦿



    ⦿



 しばしの時が流れた。
 先程までの暴虐がうその様に、ことは静かにたたずんでいる。
 わたるの身体は動かない。
 意識を失っていることを確信したように、ことは一つ息を吐いた。

て、と……」

 ことわたるに歩み寄り、手を延ばす。
 彼のことも他の者たち同様に飛行機へと積み込もうというのか。
 しかしそんな彼女を、怒りをはらんだ女の声が制止する。

さきもりに触るな」

 顔を上げたことは、タラップから降りてきた椿つばきようと顔を見合わせた。
 ようは憤りをけんに刻み、強い足取りで近付いてくる。
 そしてそのまま、わたるを挟んで二人はにらう。

貴女アンタ、いくらなんでも酷過ぎるだろ。悪魔かよ……」

 ようことを痛罵した。

「別れるために突き放すにしてももう少しやりようがあるんじゃないか?」
「こいつにも言ったけれど、わたしだって最初はそう思ったわ。でも、しつこいからげんうんざりしたのよ」
「そりゃ、こいつの身になれば当然だろ。貴女アンタが多少手荒になるのは仕方が無いよ。でも、やり過ぎなんだよ。あそこまでする必要なんかじんも無い。気絶させるんなら最初からそうすれば良い」

 ことようから目を背けた。
 一方、ようの目にはわたるへの憐れみの色が宿る。

さきもりやつ、幼馴染にずっと会いたがっていたんだよ。苟且かりそめの仲間に過ぎなかったあたしにも分かるくらいだった。その想いを、貴女アンタは滅茶苦茶に踏み躙ったんだ」

 情感を込めて責めるようの言葉に耳を背ける様に、ことは振り返って背を向けた。
 そんな相手の態度に、ようは断言する。

貴女アンタ、最低だ」
「ええ、そうよ。こんな女と親しくしたこいつが見る目無く、間抜けだったのよ」

 ことは背中越しにようへと視線を送り、拳を握り締める。

わたしのことなんかどうでも良いわ。口出しするならこいつのこと、さっさと飛行機に乗せて頂戴。日本に連れ帰ってくれるんでしょ?」
「っ……!」
「早くした方が良いわよ。操縦するのが弟ってことは、姉の方は別に意識が無くても良いんだもの。幼馴染のわたるにすらこれなのに、ぽっと出のならず者組織のお嬢さんに掛ける慈悲があると思う?」

 ようは険しい顔に憤怒と軽蔑を刻み、わたるの身体を背負い上げた。
 そしてことに背を向けると、最後に一言だけりふを吐く。

「地獄に落ちろ、くそおんな

 悪態をことにぶつけ、ようわたると共に飛行機へと乗り込んだ。
 暫くして、飛行機は激しいごうおんと共に離陸した。

「さようなら、わたる……」

 ことは夜空に消える飛行機を見送って呟いた。

 西暦二〇二六年七月八日、こうこく時間二〇時一〇分。
 さきもりわたる達ははね国際空港をち、日本国へと帰国する。
 日本国は東京、横田基地への到着予定は約三時間後、日本時間にして一九時である。

 だがその先にわたるの幼馴染。・うることは待っていない。
 彼女は一人、こうこくに残って時を待つ。
 彼女には確信に近い予感があった。

 こうこくの新総理大臣・ふみあきが日本国に宣戦布告を通達するのは、確かに時間の問題である。
 だがとうそつが分散したこうこくの軍が行動を起こすのは、それよりも早いだろう。
 日本とこうこくは戦争状態に突入しようとしていた。
 後の世にいう「日本戦争」である。

 さきもりわたるにとって、これはしゆうえんなのだろうか。
 らんの月に照らされ、彼の青春はと化してしまったのだろうか。
 彼が大切に温め続けた想いは徹底的に、見る影も無く、完膚無きまでに破壊し尽くされてしまったのだろうか。
 心が折れた、愛する女に念入りにられたわたるは、もう二度と立ち直れないのだろうか。

 否、これは始まりである。
 一人の英雄、救世主、真の勇者の目覚めである。

 彼は間も無く、相応しきまといて再びこの地に降り立つだろう。
 それは宛ら、日本人が歩んできた歴史が韻を踏むかの如く。
 古くは神代より繰り返してきた、敗北と挫折の後に活路をみいし大事をす――そんなとうくつの歴史が……。
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