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第二章『神皇篇』
第三十八話『自信』 急
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翌日、航達は第二皇女・龍乃神深花に朝食の誘いを受けた。
日本国側で彼女と会ったことがあるのは航と白檀のみであり、他の者達は初対面である。
灰祇院の導きで荘厳な食堂に通されるなり、龍乃神の凜々しい外見に殆どの者は呆けてしまっていた。
「岬守君、また会えて本当に嬉しいよ」
龍乃神は航の手を取った。
安堵の微笑みを浮かべるその表情はどこか蠱惑的で、油断していると魅せられて心を奪われてしまいそうだ。
「何度も助けていただき、感謝に言葉もありません」
「あはは、そんなに畏まらなくても良いと言っているのに」
一方で、彼女は皇國皇族の中でも親しみ易い雰囲気を持った人物である。
航との遣り取りは、招かれた彼の仲間達からも緊張を取り除き、和やかな雰囲気を作っていた。
「さあ皆さん、遠慮せずに掛けてくれ。色々と話しておくこともある」
龍乃神に促されるままに航達はそれぞれに用意された席に着いた。
「皇族って普段どんなものを食べてるんだろうな、魅琴」
「さあ?」
航は隣の魅琴に話し掛けたが、反応はいつにも増して素気無かった。
朝には強い筈だが、どことなく機嫌が悪そうに見える。
「どうかしたか、魅琴?」
「別に」
否、機嫌が悪いというより怒っているようにも見える。
航は訳が分からず、反対側の双葉に助けを求める様に目配せする。
「取り敢えず、後で話をすれば良いと思う、よ?」
双葉の答えも要領を得ず、航は首を傾げた。
そんな中、龍乃神が彼らに語り始める。
「先ずは改めて、皆さんにお詫びしたい。皇國の政争に巻き込み、本来ならば三日前に帰国して頂いているべきところ未だ皇國内に留めてしまっている。今、事態の打開に向けて妾も独自の伝で動いているから、どうか今暫く辛抱してほしい」
龍乃神は航達に頭を垂れた。
「しかし、龍乃神殿下」
根尾が質問を返す。
「御言葉ですが、皇國でも我が国と同じく皇族が政治定期影響力を発揮することは禁忌とされていると聞きます。もし甲公爵が有力な貴族院議員としての立場を利用して我々の帰国を妨害しているならば、一筋縄ではいかないのでは?」
「御尤もな懸念だ、根尾殿。しかし、此方に全く対抗策が無いと言うことでもない。人間的に信用の出来る伝で、実力的に信用出来る者に働いてもらう手筈になっている。そうとしか今は言うことが出来ないが、確実に帰国は実現するだろう。政治的には全く心配は要らない」
龍乃神は繰り返し太鼓判を押した。
「だが、それでも甲が実力行使に出てくる可能性はまだ残されている。六摂家当主がほぼ全滅したとはいえ、彼自身の力という最後の手札がまだあるからね。不自由を強いて申し訳無いが、呉々も妾の邸宅から不用意に出ることの無い様に願いたい」
そう、最後の懸念は、甲夢黝もまた六摂家当主であるということだ。
即ち、他の五人と同じかそれ以上に理不尽な力を持っている可能性が高い。
「そういう訳で、妾の他にも十桐が帰国まで此処に留まってくれることになった。この後妾は所用で出掛けなければならないが、早速留守を預かってくれるかい?」
「謹んでお受けいたします」
同席した十桐が一礼した。
六摂家当主が航達の護衛に残るというならば、心強い。
十桐の能力は極めて強力で、味方に付ければ頼もしいことこの上無い。
「では、灰祇院。引き続き彼らに失礼の無いよう、最大限の敬意を以て持て成してくれ」
「畏まりました、我が麗しの姫君」
重要な話は一先ず終わり、彼らは揃って朝食を摂った。
⦿⦿⦿
時刻は夕方になった。
手洗いで用を足した航の中で、双葉の言葉が渦を巻いている。
『取り敢えず、後で話をすれば良いと思う、よ?』
双葉は魅琴が機嫌を損ねた理由を解っているのだろうか。
話し合えば解決するのだろうか。
航は今の今まで踏ん切りが付かないままである。
一先ず、部屋に戻ろうとする航。
とその時、男性陣が借りている部屋の前で立ち止まる魅琴の姿が見えた。
「あ、航……」
此方に気付いた魅琴の方から話し掛けてきた。
彼女の方も会話を望んでいたのだろうか。
「朝の接し方を謝っておきたかったの。ごめんなさい」
「ああ……」
どうやら、魅琴の方も気にしていたらしい。
それだけで、航はほっと胸を撫で下ろした。
「気にしてないよ。今までだって時々あったじゃないか」
「そうね。でも、それで最近一寸距離が出来ちゃったから……」
航は目を開かされた。
航だけでなく、魅琴の方もここ最近疎遠になっていたことを気にしていたのだ。
「でも、またこうして他愛の無い話が出来るようになっただろ?」
「ええ、そうね……」
航は考える。
帰国が実現したら想いを伝えるつもりではあるが、そのことをそれとなく言っておいた方が良いかも知れない。
魅琴にしても、唐突に伝えるよりもその方が気持ちの準備も出来るだろう。
「あのさ」
「何?」
「日本に帰ったらなんだけど、話したいことがあるんだよね……」
航は少しの勇気を胸に切り出した。
それを受けた魅琴は、目を見開いていた。
航の意図しているところを察したのだろうか。
しかし魅琴は、何故か眉根を寄せて目を伏せた。
その眼は酷く哀しげな愁いを帯びている。
航は言い様の無い不安に襲われた。
魅琴の眼の意味が、航には全く分からなかった。
と、そこへ灰祇院がやってきて、魅琴に声をかける。
「御婦人、貴女に御客人です。どうぞ、待合室へお越しください」
「私に?」
「信用の置ける御方ですし、貴女にとっても大変結構な御申出かと」
魅琴は怪訝そうな表情で、灰祇院の後へ続き待合室へ赴いた。
そんな彼女を、航は密かに付けていった。
⦿
待合室に通されていたのは、非常に背が高く、帯刀したメイド服の美女だった。
扉の影から中を覗き込む航は、初めて見た筈の来訪者に何故か見覚えがあった。
一方で、魅琴は彼女のことを知っているらしい。
「貴女は確か……」
「先日は大変な御無礼を働きましたこと、心よりお詫び申し上げます。第一皇子殿下付きの近衛侍女・敷島朱鷺緒で御座います。我が主・獅乃神叡智殿下と御会食頂きたく、お迎えに参りました」
敷島朱鷺緒は魅琴を見るなり深々と頭を下げ、挨拶と用件を告げた。
第一皇子・獅乃神叡智。
魅琴が以前街中で偶然会い、酒席の誘いを受けたことがある。
その時は、拉致被害者の奪還に忙しくそれどころではないと断っていた。
「敷島さん、あの……」
「拒否権は行使なさらぬよう願いたい。現在、麗真様はご友人を叛逆者から救い出し、帰国の許可が下りるのを待つばかりと存じ上げております。この機を逃しますと、我が主は大変お嘆きになり給います。断じてあってはならぬ事態、何卒御理解願います」
敷島は態度こそ畏まっているが、その言葉は魅琴よりも主君のことばかりを慮った、非常に無礼なものだった。
「……私の意思を聞くつもりは無いのですね」
「麗真様、前回、我が主は畏れ多くも貴女の理をお認めになられました。しかし今、同じ理は既に無いことは承知しております。であるならば、今貴女の意思とは理無き情であり、故に第一皇子殿下の御意思に優先するは神皇陛下の大御心のみにございます」
魅琴の皮肉にも、敷島は頑なに態度を崩さない。
しかし次の言葉は、一転して強い魅力を持つものだった。
「御友人の帰国に手間取られているのなら、決して悪い話にはならぬかと存じます」
敷島の言葉に、魅琴は天井を仰いだ。
彼女の中で何かが揺れている――そう見える仕草だ。
「航達を安全に帰国させ、私は神皇の嫡男とお近づきになる……」
影から盗み見る航の胸を、日本刀の様な焦燥感が貫いた。
駄目だ、駄目だ、駄目だ――航は居ても立ってもいられなくなり、堪えきれずに待合室の中へと飛び込んだ。
「魅琴!!」
敷島は飛び込んで来た場違いな航へ不快感に満ちた視線を向けた。
一方で、魅琴もまた航の方へと振り向く。
「航……」
魅琴の表情は思いの外普通だった。
普段なら航がこの様な行動を取った時は、呆れと蔑みの混じった冷ややかな眼を向けてくるものだ。
しかし彼女は全てを受け容れる様な微笑みを一瞬だけ浮かべ、敷島の方へと向き直った。
「敷島さん、謹んでお受けいたします」
「魅琴!!」
航は魅琴の方へ駆け寄ろうとした。
しかし、前に灰祇院が立ち塞がり、航の体を止めてしまった。
灰祇院は愁いを帯びた眼をしつつ、心苦しそうに首を振る。
どうやら、航の心をまるで解らないでもないらしい。
「御婦人方」
灰祇院は航を抑えたまま、魅琴と敷島に呼び掛けた。
「御二人のことは私が送り届けましょう。敷島殿、貴女がお誘いになった御方は我が姫君の客人。私が目を離す訳には参りません」
「畏まりました」
魅琴と敷島は、灰祇院の案内の下で待合室を出て行った。
皇族の侍従と侍女に遮られ、航は魅琴を止めることが出来なかった。
航は何も出来ずに魅琴のことを見送るしか無かった。
⦿
航は重い足取りで部屋に戻ろうとする。
と、一つの扉の前で、中から女の声が聞こえてきた。
「待ちなされ、水徒端男爵! いくらなんでも無謀に過ぎる!」
十桐の声だった。
どうやら誰かと電話しているらしい。
その相手の名前に、航は聞き覚えがあった。
(水徒端男爵……早辺子さんのお父さんか? 一体、どうしたって言うんだ?)
航の脳裡に水徒端早辺子の姿が蘇る。
狼ノ牙の碧森支部からの脱出劇は、彼女の助力無しに為し得なかった。
そんな大恩人の早辺子だが、航は脱出の数日前、愛の告白を受けている。
あの時、航は魅琴への想いを理由に早辺子の想いを受け容れられなかった。
だが今、魅琴は別の男の誘いを受け容れてしまった。
航の弱った心に、早辺子が別れ際に見せた笑顔が花開いていた。
「男爵! 話を聞け! おい……!」
航は十桐の電話が無性に気になり、扉に聞き耳を立てた。
しかし、どうやら電話は相手に一方的に切られてしまったらしい。
「何があった、十桐?」
龍乃神の声だ。
どうやら同席していたらしい。
「水徒端男爵が……甲邸に乗り込むつもりでいるようです」
「何だと? 一体何故そのようなことに?」
「はい。どうやら、彼の御令嬢が甲卿の使用人として住み込みで働いているそうなのですが、甲卿は彼女に酷い虐待を加えているそうなのですじゃ」
航は我が耳を疑った。
水徒端男爵家の令嬢と言えば、早辺子とその姉の二人が候補に挙がるが、姉は行方不明なのだから、間違い無く早辺子のことだろう。
今生の別れを経た筈の早辺子が、どういう因果か航達の帰国を妨害している甲夢黝の下で働いており、しかも酷い扱いを受けているのだという。
「それがどうして、十桐に連絡してきたんだ?」
「水徒端家令嬢・早辺子殿には皇道保守黨新華族との繋がりがあります。その中でも有力者である伯爵・鸙屋敷唯織殿は男爵・水徒端賽蔵殿と親しい仲で、また我も付き合いがあるのです。その伝で、鸙屋敷伯爵から水徒端男爵へ早辺子嬢の境遇について連絡が入り、我にも連絡が繋がりました次第で御座いますじゃ」
航は腸が煮えくり返ってきた。
細かい事情を十桐が説明したが、そんなことはどうでも良い。
自分達の帰国を妨害し、刺客を差し向けて殺そうとしてきた甲夢黝という男が、恩人で自分を好いてくれている女を虐待している。
こんなことを聞かされては、航も我慢出来なかった。
「野郎……!」
気が付くと、航は走り出していた。
怒りに駆り立てられ、止められているにも拘わらず、龍乃神邸を飛び出した。
甲邸の場所は、一昨日魅琴が調べていた。
今考えれば、貨物高速列車を利用した移動の際に敵の本拠地近くを通らないか確認したのだろう。
航はその画面を何気なく見ていた。
とは言え、神為を身に着けた今、記憶を呼び起こす力もまた大幅に強化されている。
「認められるかよ、早辺子さんがまた一人で苦しみを背負っているなんて。あの女は、幸せになるべき女だ! 待ってろよ、甲!」
航は単身、杉濤区の甲邸へと急いだ。
日本国側で彼女と会ったことがあるのは航と白檀のみであり、他の者達は初対面である。
灰祇院の導きで荘厳な食堂に通されるなり、龍乃神の凜々しい外見に殆どの者は呆けてしまっていた。
「岬守君、また会えて本当に嬉しいよ」
龍乃神は航の手を取った。
安堵の微笑みを浮かべるその表情はどこか蠱惑的で、油断していると魅せられて心を奪われてしまいそうだ。
「何度も助けていただき、感謝に言葉もありません」
「あはは、そんなに畏まらなくても良いと言っているのに」
一方で、彼女は皇國皇族の中でも親しみ易い雰囲気を持った人物である。
航との遣り取りは、招かれた彼の仲間達からも緊張を取り除き、和やかな雰囲気を作っていた。
「さあ皆さん、遠慮せずに掛けてくれ。色々と話しておくこともある」
龍乃神に促されるままに航達はそれぞれに用意された席に着いた。
「皇族って普段どんなものを食べてるんだろうな、魅琴」
「さあ?」
航は隣の魅琴に話し掛けたが、反応はいつにも増して素気無かった。
朝には強い筈だが、どことなく機嫌が悪そうに見える。
「どうかしたか、魅琴?」
「別に」
否、機嫌が悪いというより怒っているようにも見える。
航は訳が分からず、反対側の双葉に助けを求める様に目配せする。
「取り敢えず、後で話をすれば良いと思う、よ?」
双葉の答えも要領を得ず、航は首を傾げた。
そんな中、龍乃神が彼らに語り始める。
「先ずは改めて、皆さんにお詫びしたい。皇國の政争に巻き込み、本来ならば三日前に帰国して頂いているべきところ未だ皇國内に留めてしまっている。今、事態の打開に向けて妾も独自の伝で動いているから、どうか今暫く辛抱してほしい」
龍乃神は航達に頭を垂れた。
「しかし、龍乃神殿下」
根尾が質問を返す。
「御言葉ですが、皇國でも我が国と同じく皇族が政治定期影響力を発揮することは禁忌とされていると聞きます。もし甲公爵が有力な貴族院議員としての立場を利用して我々の帰国を妨害しているならば、一筋縄ではいかないのでは?」
「御尤もな懸念だ、根尾殿。しかし、此方に全く対抗策が無いと言うことでもない。人間的に信用の出来る伝で、実力的に信用出来る者に働いてもらう手筈になっている。そうとしか今は言うことが出来ないが、確実に帰国は実現するだろう。政治的には全く心配は要らない」
龍乃神は繰り返し太鼓判を押した。
「だが、それでも甲が実力行使に出てくる可能性はまだ残されている。六摂家当主がほぼ全滅したとはいえ、彼自身の力という最後の手札がまだあるからね。不自由を強いて申し訳無いが、呉々も妾の邸宅から不用意に出ることの無い様に願いたい」
そう、最後の懸念は、甲夢黝もまた六摂家当主であるということだ。
即ち、他の五人と同じかそれ以上に理不尽な力を持っている可能性が高い。
「そういう訳で、妾の他にも十桐が帰国まで此処に留まってくれることになった。この後妾は所用で出掛けなければならないが、早速留守を預かってくれるかい?」
「謹んでお受けいたします」
同席した十桐が一礼した。
六摂家当主が航達の護衛に残るというならば、心強い。
十桐の能力は極めて強力で、味方に付ければ頼もしいことこの上無い。
「では、灰祇院。引き続き彼らに失礼の無いよう、最大限の敬意を以て持て成してくれ」
「畏まりました、我が麗しの姫君」
重要な話は一先ず終わり、彼らは揃って朝食を摂った。
⦿⦿⦿
時刻は夕方になった。
手洗いで用を足した航の中で、双葉の言葉が渦を巻いている。
『取り敢えず、後で話をすれば良いと思う、よ?』
双葉は魅琴が機嫌を損ねた理由を解っているのだろうか。
話し合えば解決するのだろうか。
航は今の今まで踏ん切りが付かないままである。
一先ず、部屋に戻ろうとする航。
とその時、男性陣が借りている部屋の前で立ち止まる魅琴の姿が見えた。
「あ、航……」
此方に気付いた魅琴の方から話し掛けてきた。
彼女の方も会話を望んでいたのだろうか。
「朝の接し方を謝っておきたかったの。ごめんなさい」
「ああ……」
どうやら、魅琴の方も気にしていたらしい。
それだけで、航はほっと胸を撫で下ろした。
「気にしてないよ。今までだって時々あったじゃないか」
「そうね。でも、それで最近一寸距離が出来ちゃったから……」
航は目を開かされた。
航だけでなく、魅琴の方もここ最近疎遠になっていたことを気にしていたのだ。
「でも、またこうして他愛の無い話が出来るようになっただろ?」
「ええ、そうね……」
航は考える。
帰国が実現したら想いを伝えるつもりではあるが、そのことをそれとなく言っておいた方が良いかも知れない。
魅琴にしても、唐突に伝えるよりもその方が気持ちの準備も出来るだろう。
「あのさ」
「何?」
「日本に帰ったらなんだけど、話したいことがあるんだよね……」
航は少しの勇気を胸に切り出した。
それを受けた魅琴は、目を見開いていた。
航の意図しているところを察したのだろうか。
しかし魅琴は、何故か眉根を寄せて目を伏せた。
その眼は酷く哀しげな愁いを帯びている。
航は言い様の無い不安に襲われた。
魅琴の眼の意味が、航には全く分からなかった。
と、そこへ灰祇院がやってきて、魅琴に声をかける。
「御婦人、貴女に御客人です。どうぞ、待合室へお越しください」
「私に?」
「信用の置ける御方ですし、貴女にとっても大変結構な御申出かと」
魅琴は怪訝そうな表情で、灰祇院の後へ続き待合室へ赴いた。
そんな彼女を、航は密かに付けていった。
⦿
待合室に通されていたのは、非常に背が高く、帯刀したメイド服の美女だった。
扉の影から中を覗き込む航は、初めて見た筈の来訪者に何故か見覚えがあった。
一方で、魅琴は彼女のことを知っているらしい。
「貴女は確か……」
「先日は大変な御無礼を働きましたこと、心よりお詫び申し上げます。第一皇子殿下付きの近衛侍女・敷島朱鷺緒で御座います。我が主・獅乃神叡智殿下と御会食頂きたく、お迎えに参りました」
敷島朱鷺緒は魅琴を見るなり深々と頭を下げ、挨拶と用件を告げた。
第一皇子・獅乃神叡智。
魅琴が以前街中で偶然会い、酒席の誘いを受けたことがある。
その時は、拉致被害者の奪還に忙しくそれどころではないと断っていた。
「敷島さん、あの……」
「拒否権は行使なさらぬよう願いたい。現在、麗真様はご友人を叛逆者から救い出し、帰国の許可が下りるのを待つばかりと存じ上げております。この機を逃しますと、我が主は大変お嘆きになり給います。断じてあってはならぬ事態、何卒御理解願います」
敷島は態度こそ畏まっているが、その言葉は魅琴よりも主君のことばかりを慮った、非常に無礼なものだった。
「……私の意思を聞くつもりは無いのですね」
「麗真様、前回、我が主は畏れ多くも貴女の理をお認めになられました。しかし今、同じ理は既に無いことは承知しております。であるならば、今貴女の意思とは理無き情であり、故に第一皇子殿下の御意思に優先するは神皇陛下の大御心のみにございます」
魅琴の皮肉にも、敷島は頑なに態度を崩さない。
しかし次の言葉は、一転して強い魅力を持つものだった。
「御友人の帰国に手間取られているのなら、決して悪い話にはならぬかと存じます」
敷島の言葉に、魅琴は天井を仰いだ。
彼女の中で何かが揺れている――そう見える仕草だ。
「航達を安全に帰国させ、私は神皇の嫡男とお近づきになる……」
影から盗み見る航の胸を、日本刀の様な焦燥感が貫いた。
駄目だ、駄目だ、駄目だ――航は居ても立ってもいられなくなり、堪えきれずに待合室の中へと飛び込んだ。
「魅琴!!」
敷島は飛び込んで来た場違いな航へ不快感に満ちた視線を向けた。
一方で、魅琴もまた航の方へと振り向く。
「航……」
魅琴の表情は思いの外普通だった。
普段なら航がこの様な行動を取った時は、呆れと蔑みの混じった冷ややかな眼を向けてくるものだ。
しかし彼女は全てを受け容れる様な微笑みを一瞬だけ浮かべ、敷島の方へと向き直った。
「敷島さん、謹んでお受けいたします」
「魅琴!!」
航は魅琴の方へ駆け寄ろうとした。
しかし、前に灰祇院が立ち塞がり、航の体を止めてしまった。
灰祇院は愁いを帯びた眼をしつつ、心苦しそうに首を振る。
どうやら、航の心をまるで解らないでもないらしい。
「御婦人方」
灰祇院は航を抑えたまま、魅琴と敷島に呼び掛けた。
「御二人のことは私が送り届けましょう。敷島殿、貴女がお誘いになった御方は我が姫君の客人。私が目を離す訳には参りません」
「畏まりました」
魅琴と敷島は、灰祇院の案内の下で待合室を出て行った。
皇族の侍従と侍女に遮られ、航は魅琴を止めることが出来なかった。
航は何も出来ずに魅琴のことを見送るしか無かった。
⦿
航は重い足取りで部屋に戻ろうとする。
と、一つの扉の前で、中から女の声が聞こえてきた。
「待ちなされ、水徒端男爵! いくらなんでも無謀に過ぎる!」
十桐の声だった。
どうやら誰かと電話しているらしい。
その相手の名前に、航は聞き覚えがあった。
(水徒端男爵……早辺子さんのお父さんか? 一体、どうしたって言うんだ?)
航の脳裡に水徒端早辺子の姿が蘇る。
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そんな大恩人の早辺子だが、航は脱出の数日前、愛の告白を受けている。
あの時、航は魅琴への想いを理由に早辺子の想いを受け容れられなかった。
だが今、魅琴は別の男の誘いを受け容れてしまった。
航の弱った心に、早辺子が別れ際に見せた笑顔が花開いていた。
「男爵! 話を聞け! おい……!」
航は十桐の電話が無性に気になり、扉に聞き耳を立てた。
しかし、どうやら電話は相手に一方的に切られてしまったらしい。
「何があった、十桐?」
龍乃神の声だ。
どうやら同席していたらしい。
「水徒端男爵が……甲邸に乗り込むつもりでいるようです」
「何だと? 一体何故そのようなことに?」
「はい。どうやら、彼の御令嬢が甲卿の使用人として住み込みで働いているそうなのですが、甲卿は彼女に酷い虐待を加えているそうなのですじゃ」
航は我が耳を疑った。
水徒端男爵家の令嬢と言えば、早辺子とその姉の二人が候補に挙がるが、姉は行方不明なのだから、間違い無く早辺子のことだろう。
今生の別れを経た筈の早辺子が、どういう因果か航達の帰国を妨害している甲夢黝の下で働いており、しかも酷い扱いを受けているのだという。
「それがどうして、十桐に連絡してきたんだ?」
「水徒端家令嬢・早辺子殿には皇道保守黨新華族との繋がりがあります。その中でも有力者である伯爵・鸙屋敷唯織殿は男爵・水徒端賽蔵殿と親しい仲で、また我も付き合いがあるのです。その伝で、鸙屋敷伯爵から水徒端男爵へ早辺子嬢の境遇について連絡が入り、我にも連絡が繋がりました次第で御座いますじゃ」
航は腸が煮えくり返ってきた。
細かい事情を十桐が説明したが、そんなことはどうでも良い。
自分達の帰国を妨害し、刺客を差し向けて殺そうとしてきた甲夢黝という男が、恩人で自分を好いてくれている女を虐待している。
こんなことを聞かされては、航も我慢出来なかった。
「野郎……!」
気が付くと、航は走り出していた。
怒りに駆り立てられ、止められているにも拘わらず、龍乃神邸を飛び出した。
甲邸の場所は、一昨日魅琴が調べていた。
今考えれば、貨物高速列車を利用した移動の際に敵の本拠地近くを通らないか確認したのだろう。
航はその画面を何気なく見ていた。
とは言え、神為を身に着けた今、記憶を呼び起こす力もまた大幅に強化されている。
「認められるかよ、早辺子さんがまた一人で苦しみを背負っているなんて。あの女は、幸せになるべき女だ! 待ってろよ、甲!」
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