日本と皇國の幻争正統記

坐久靈二

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第二章『神皇篇』

第三十七話『孤児』 急

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 間一髪、命の危機から逃れたたかことの傍らで静かに涙を拭っていた。

「怖かった、怖かったぁ……」

 そんなたかに、ことは頭をでながらほほみかける。
 その姿はさながら聖母であった。

「目を離してしまってごめんなさいね。もう大丈夫よ」
うることさん、にいさまを守ってくれて、ありがとうなのです」

 ことの方にも微笑みを向けた。
 そして再び倒れているおとの方へ冷めた視線を戻した。
 おとは浜に打ち上げられた魚の様なざまな姿でのたうち回っている。

「ぐはっ、ぐはっ……! な、なんて拳打だ……!」

 おとは辛うじて起き上がろうとしていた。

「クク……やあ、お嬢さん。きみにはつのみやで世話になったなあ……」
「何のことかしら? あいにくわたしはお前の如き、子供を手に掛けようとする卑劣漢に覚えは無いのだけれど」
「ふふふ、まああの時は機体の中だったからねえ。ちようきゆうどうしんたい・ミロクサーヌれいしき、と言った方が通じるのかな?」

 二日前、拉致被害者は本来ならばつのみや警察署で取り調べが済んだ後、日本国・こうこく両政府の計らいでそのまま帰国出来るはずだった。
 だが、突如として襲ってきたちようきゆうどうしんたい・ミロクサーヌれいしきによって予定が狂い、十人でたつかみていを目指すことになったのだ。
 そのミロクサーヌれいしきを操縦していたおとは、この事態の元凶とも言えるだろう。

 立ち上がったおとことの方へと振り返った。
 痛烈無比な拳をたたまれた筈の顔面には傷一つ付いていない。

「それにしても、ちようきゆうどうしんたいを素手で解体した超絶なる拳、まさかこの身で受けることになるとは思わなかったよ。こんなものを浴びせられたら、わたりの心も折れる訳だ」

 言葉では不敵な態度を装うおとだったが、その両脚は子鹿の様に震えていた。
 ことの拳が余程堪えたのだろう。

「見てよこれ……。体の傷は修復されても、刻み付けられて消えない恐怖が脚に来てしまっている。たった一発でこのざま、魂まで震え上がってしまっている。あの男が作り上げたじんかいなる組織、大した事の無い御遊戯事かと思っていたら、ひそかにこんな怪物を育て上げていたとは……。ぼくたちいささかあの男の執念を読み違えていたらしい……」

 った笑みを浮かべるおとは、視線を動かして何かを探している。
 と次の瞬間、おとは素早くきびすを返し、こととは反対方向へ一気に駆け出した。
 その先には非常口があり、厄災から逃れようとする者の為に開け放たれている。
 明らかにおとは逃亡しようとしていた。

「こんなのを相手になどしていられるか! 遺憾だがこの場は退散させてもらうぞ!」

 おとは震えがうその様にまつぐ、れいな姿勢でブレ無く走っていく。
 このままでは取り逃がしてしまう――誰もがそう思った。

 しかし、ことは一歩も動こうとしない。
 まるで、おとの逃走がく行かないと、そう確信しているかの様に。

「ははははは、は……は……」

 おとの足取りは急激に衰えた。
 何者かがおとの逃走を防ぐべく、吸引力を発生させて逃げられない様にしていた。

「何……だ……。体が……吸われ……る……?」

 おとの動きは次第に鈍くなり、とうとう止まってしまった。
 彼の体は吸引式のモップに吸い寄せられ、とらわれの身となった。

「貴様は……!」

 おとは自身を捕縛した男の顔を見てどうもくした。

さきもりわたる! 忘れていた……。もう一人、取るに足らぬ凡夫が居たことを……!」

 モップを駆使しておとの動きを封じたのはさきもりわたるだった。
 一緒に行動していたことがこの場に辿たどいたのだから、わたるがすぐに到着するのも当然だろう。
 ふさいとに捉えられたおとが逃れようとくが、わたるはモップの柄を力強く握って放さない。

「随分な言われ様だな全く……。ま、その『取るに足らぬ凡夫』にお前は足元をすくわれた訳だが……」

 皮肉を言ったわたるは、おとから目を離して仲間達の方を向いた。

「で、こいつは一体誰ですか?」

 わたるは問い掛けた。
 丁度この時、上の階から続々と仲間が集まってきていた。
 遅れて降りてきたが答えを返す。

「そいつはおとせいそうせんたいおおかみきばの首領補佐だ! そしてそいつはしゆりようДデー以上の重要参考人になる!」

 二人の男を背負うだけでなく、少女の様に小柄な女を背負うずみふたも姿を現した。
 そのふたの背中から、重傷を負ったとおどうあやが恨めしそうに付け加える。

「我も根尾殿から話は聞いた。この男、ある意味ではいちどうきようかたきとも言えるの。小僧、しつかり抑えておれ。やつは長年誰一人として一切のじようつかめなかった男じゃ。警察に突き出せばお前は英雄、はや誰も帰国を阻むことは出来ぬじゃろうて」
「了解。誰だが存じませんが、そういうことなら逃がしゃしませんよ。丁度、筋力もほとんど戻ったところだ」

 わたるはモップの柄を握る手に力を込め、房糸の吸引力を更に上げた。
 おおかみきばの大幹部に今更関心は無いが、間違い無く悪人であろう。
 拘束しておくことが帰国につながるというならせつかく戻った力を存分に使えば良い。

 それより、わたるが気になるのは仲間達の様子である。
 まんしんそうなところを見るに、何やらひともんちやくあったらしい。

「何かあったんですか、さん?」
「六摂家当主の襲撃に遭ったが、済んだことだ。その中から一人、とおどうあや卿が新たに我々の協力者となってくれた。これ以上、たつかみ邸までにしようがいとなる者は現れないだろう」

 再び、わたるふたに体を預けている小柄な女にを遣った。
 ふたに危害を加える様子も無いし、帰国のための助言をくれたことを考えると、信用して問題無いだろう。

「我の使用人に連絡して大型の車を三台用意させる。二台はお前達をたつかみ邸へ運び、一台はこのはんぎやく者を警察へ引き渡す」
「それはありがとうございます」
「迷惑を掛けたからの。せめてもの罪滅ぼしじゃ」

 とおどうは体を丸めるおとを怒りのこもった眼で見下ろしていた。

「ぐぅぅ、動けん……!」

 おとは最早藻掻くことすらままならない様子だった。
 謎のヴェールに包まれていた筈の男の、実にあつない逮捕劇――そう思われた。
 しかし、おとは不気味に笑い出した。

「ふふふふふ、まさかこんなことになるとはね。ここ数日、少し派手に動き過ぎたのは良くなかったね。慣れないことはしないものだ。これは、最終手段に出ることもむをないか……」
「何? 余計な動きはするな!」

 わたるおとの動きを封じようと更に力を込めた。
 とその時、おとの額に蜘蛛くもの紋様が浮かび上がった。
 紋様は妖しい光を放ち、おとの全身を包み込む。
 何やら大きな力がおとの中で胎動し始めている。

「みんな伏せて!!」

 突如、ことわたるに飛び付いてきた。
 わたるは体勢を保てず、モップを放してことに押し倒されてしまった。

 その瞬間、おとの体は爆発し、こっじんに砕け散った。
 ことの呼びかけで皆は辛うじてその場に伏せ、爆風の威力から逃れることが出来た。

な、自爆だと……?」

 突然の事態に、わたるだけでなく皆一様に驚きを隠せない様子だ。
 爆発の衝撃をもろに受けてしまったのか、ことの衣服が破れて下に着ていたレオタードスーツがあらわになっている。
 彼女がとつかばわなければ、一番近くに居たわたるは特にただでは済まなかっただろう。

『ははははは、ひとずこの場は退散させてもらうよ』

 立ち上がった彼らをあざわらう様に、何処どこからともなくおとの声が響いた。
 自爆したのは見せ掛けで、彼はいまなお何処かで生きているらしい。

『そしてここまで追い詰めてくれたほうに、ぼくの正体について少しだけ教えてあげよう……。びやくだんあげ、先程きみにも言った通り、ぼくもまたきみと同じくみなしだった。そしてもう一つの共通点として、まつりごとに関わる上流階級の女性に引き取られた。丁度きみが、すめらぎかな防衛大臣兼国家公安委員長の両親が経営する孤児院の出身である様に、ぼくもまた孤児院で育てられた……』

 びやくだんはその顔に不快感をにじませていた。
 しかし、続いておとが紡いだ言葉は全てを吹き飛ばす衝撃的なものだった。

ぼくを引き取った女性の名、かいみようほうきん。俗名、けのひろむし!』

 一際大きな声で響いたその名に、わたることまゆづきはこれ以上無い程に大きく瞠目した。
 辺りにはおとの不気味な笑い声がこだまし、次第に小さくなって消えていった。

「あり得ない……」

 が小さくつぶやいた。
 事情を呑み込めないしんがその真意を尋ねる。

「何があり得ないんだ?」
やつが口にした名前、こうこくの人物ではない……。けのひろむし、歴史上の……奈良時代の人物だ!」

 けのひろむし――日本史にいて、有名なのは彼女よりも弟であるけのきよの方かも知れない。

 当時の女性天皇・こうけん天皇は後継者問題に悩まされていた。
 てん天皇嫡流の男系皇族が少なくなっていたことが理由の一つである。
 その候補として、皇族ではないが天皇の信頼があつかった高僧・どうきようの名が挙がった。
 天皇に「どうきようを皇位に就かせるべし」という旨のはちまんぐうの神託が下ったと奏上されたのだ。

 事の真相を確かめる為に、天皇は宇佐八幡宮にけのきよを派遣した。
 きよが持ち帰った神託は「我が国はかいびゃく以来君臣の分定まれり、臣をもつて君とすこといまだあらざるなり。あまつぎは必ずこうしょを立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」というものだった。
 すなわち、日本に於いては国の興りから一貫してみかどは帝の血筋から立てるものであり、この例に背いてはならない、これを曲げようとするどうきようは排除すべし、ということである。

 この事件は通称「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれ、どうきようが皇位に就くことはなくなったが、怒りを買ったきよは姉のひろむし共々改名の上処罰され、それぞれおおすみのくにびんごのくにへとはいとなった。
 こうけん天皇が崩御し、てん天皇の男系孫でありきのの子であるこうにん天皇の治世になると、姉弟は許されて復権し、逆にどうきようは天皇の後盾を失って失脚した。

 そのけのひろむしだが、確かに孤児の養育に熱心だったという話が伝えられている。
 特に、ふじわらのなかの乱の後は八十名以上の孤児を引き取って養子にしたという。
 彼らは後にかづらおびと姓を賜ったともわれている。

 そんな人物の名を養母として出したおとの言葉は、あまりにも荒唐無稽なものだ。
 だが、そもそも世界そのものを荒唐無稽な事態が襲ったこの現実にあっては、あり得ない話と切って捨てることも出来ない。
 何やら想像を絶する陰謀が背後にうごめいているのかも知れない。
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