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第一章『脱出篇』
第五話『視界消失』 急
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航達七人が落とされた穴はテニスコート程の大きさで、その狭いスペースに三米の羆と一緒に閉じ込められた格好になっている。
羆と戦う航と新兒の戦況を見守りつつ、折野は虎駕に話し掛ける。
「おい」
「あ? 何なのだ?」
「出遅れちまったな。今更自分も戦える、なんて言えねえよなあ」
虎駕は僅かに震えた。
「な、何故判ったのだ?」
「羆を見た時、手前は怯えていた。だが、同時に戦わねえといけねえって焦りも見えた。つまり、その当てがあったって事だろ?」
折野の指摘は図星を突いていた。
ワゴン車の中でも最後まで冊子を読み込んでいた通り、虎駕は本来真面目で勉強熱心な性格である。
そんな彼もまた、椿と同じく独断で、冊子に書かれた内容を実演しようと追加で練習していたのだ。
だが、航や新兒、椿と違い、この危機的な状況でそれを役立てられなかった。
有事に足が竦み、身に付けた知識や能力を上手く活用出来なかった。
「まあ、良いんじゃねえか? 岬守の奴も言ったが、俺達はまだ他にやることがある。その時に備えて力を温存しとくのもアリだ」
「その時?」
「寝惚けてんのか、手前? 俺達は今日この後、あの扇って女を脅して脱走するんだろ? だったら、手前は隠し球になれるだろうが」
「あっ……」
折野の助言で、虎駕は自分がまだ役に立てると気付かされ、胸の奥から沸々と勇気が込み上げてきていた。
まだ遅くはない、手遅れにはなっていない――そう考えられたことは虎駕にとって小さな救いだった。
学生として、余計な事を悩んで一年棒に振ってしまった彼にとっては。
「折野……」
「礼なら働いて返せよ。あいつらが羆をぶっ殺したらすぐ動くぞ。俺と手前であの女のもとへ跳び上がり、そして取り押さえる、一気にだ」
「お前と?」
「クク、俺もまた同じってこった。力はあった方が逃亡し易いだろ?」
度々見せる観察眼といい、折野は侮れない男である。
その凶悪な人相以上に、虎駕は彼の秘めたる恐ろしさを感じずにはいられなかった。
だが、今は折野に乗ってみるのも悪くない。
「ああ、解ったのだよ」
戦いの裏で、二人の男が次の展開を見据えていた。
⦿
扇によって課された熊殺しの試験、戦力になるのは神為の第二段階に達した航と新兒、そして椿だけだが、椿は他の四人を守る役目を買って出ている。
つまり、航と新兒の二人だけで協力して羆を無力化しなければならない。
「うおおおおっ!!」
羆の怒爪を躱した航は、そのまま拳の一撃を獰猛な眼に叩き込んだ。
怯んだ隙に更なる拳を顎に一発、序でに頬にもう一発、喉への蹴りを駄目押しに一発、流れるように見舞う。
(信じられない体験だ。素手で羆と互角以上に戦うなんて、魅琴に言っても妄想癖を笑われるな。いや、憐れまれるかな?)
戦いの最中に余計なことを考えてしまった航に、羆は容赦無く狂える牙を向ける。
「岬守っ!」
「あの莫迦、何やってんだ!」
間一髪、新兒と椿がラリアットの挟み撃ちを羆の両蟀谷に見舞った。
羆は崩れ落ちて苦痛と憤怒の唸り声を上げている。
「悪い、助かった!」
思いがけず危機に陥り、そして味方の助けで脱した航は、目の前に転がり込んだ絶好のチャンスに気を取り直す。
「っらぁッッ!!」
航は羆の顎を思い切り蹴り上げた。
会心の一撃に、羆は大きくバランスを崩す。
凶悪な口がだらしなく開き、舌が力なく垂れ下がり、涎を滴らせる。
第二段階の深みに達した神為は、一見ごく普通の青年に、蹴りで羆を横転させるという神業を為させた。
倒れた羆は打って変わって弱々しい声で鳴くばかりだ。
自分より遥かにひ弱な動物で飢えを凌ぐつもりが、その実化け物の群れに狩られていた――そんな恐怖に動揺しているのだろうか。
「良し」
相手を無力化することに成功した、これ以上徒に攻撃を加えることもないだろう――そう考え、航は止めを刺さずに立ち去ろうとする。
「ま、決着だろ。やったな、岬守」
新兒が航に肩を組んできた。
昔は荒れていた、という風なことを度々語っていた彼だが、この馴れ馴れしさは悪く取れば鬱陶しく、良く取れば親しみ易い。
そんな彼が航と同じく羆を追撃しないのは、不良時代も同様の考えで喧嘩に興じていたからだろうか。
だが、そう考えない者も居た。
椿の下段回し蹴りが羆の脳天を叩き割った。
「椿」
「詰めが甘いんだよ、貴方ら。戦いの最中ですぐ気を抜くし、所詮は素人か」
「んだァ手前?」
椿の物言いが癇に障ったのか、新兒は上から彼女に眼を付ける。
金髪で日に焼けた柄の悪い男が気の強い女に絡んでいるようにしか見えないその様子は、どうしても物騒な絵面に見えてしまう。
「おい、お前ら……」
航が二人を宥めようとした、その時だった。
「みんな、手を貸すのだよ!」
崖の上から虎駕の呼ぶ声が響いた。
穴の中から見上げる航達の視線が三人の男女に集まる。
折野が背後から扇の首根っこを鷲掴みにし、両手を後に回させて自由を奪っていた。
航と椿が真っ先に虎駕の元へ跳び上がり、新兒が慌てて後に続いた。
神為の第二段階に達した者がどれ程の跳躍力を発揮出来るか、航には六年前にその経験がある。
「岬守」
「ああ、解ってるよ」
折野もまた、宛ら獰猛な獣だった。
このまま彼の思うがままにさせていると、平気で扇を殺しかねない。
如何に彼女が悪辣な拉致犯の一味であろうと、それは防がねばならないと航は考える。
おそらく、虎駕の言う「手を貸せ」も半分はそういう意味だろう。
「どういうつもりですか?」
しかし、扇の態度は至って冷静である。
冷や汗一つ掻いていない。
「解るだろ? 俺達はここいらで手前らとオサラバしようと思ってるんだ。要求は三つ、先ず車の鍵を寄越せ。次に俺達が今何処に居るか、何処へ行くべきか、その大体の場所を吐け。それから、手前の組織にはこう報告しな。攫ってきた連中は全員羆の餌になりました、ってな」
折野の手に力が籠もる。
逆らえば殺す、という意思表示である。
だが扇は揺るがない。
唯々、冷徹な瞳で航達を見ていた。
(何だ、このプレッシャーは?)
逆に航達の方が扇に気圧されている。
直接彼女の眼を見ていない折野も何かを感じたのか、僅かに眉を動かし手の力を緩めた。
「お断りします。皆様は見事試験に合格しました。どうぞ御乗車ください」
「あ? 何言ってんだ、手前? 言っとくがこのまま殺しちまっても良いんだぜ? 車の鍵なら奪えば良い、現在地なら多分カーナビがある、組織への連絡はどうせ時間稼ぎにしかならねえ。こっちの要求は謂わば手前への慈悲なんだよ。俺は今更人殺しなんざ何とも思わねえんだぜ?」
首根っこを掴む手に力を込め直した折野はどこか焦っていた。
状況とは裏腹に、この場を支配しているのは脅されている扇に思える。
そんな彼女は小さく溜息を吐いた。
「承知いたしました。ならば私は私の仕事を遂行するまでです」
扇の長いポニーテールとメイド服のスカートが舞い上がる。
航達が得体の知れない気配に慄いた、その時だった。
『術識神為・朦朧苦滴下』
耳というよりは意識に直接言い付けるような声が聞こえたかと思うと、航達七人は一様に体の力を失い、その場に倒れ伏した。
また、何日も徹夜した後の様な抗い難い眠気が意識を何処か遠い所へと連れ去って行く。
「何……だ? これ……は……?」
「神為の第三段階、異能の発現。今の皆様に私を出し抜き逃亡する力は御座いません。宿へは御送りしましょう。明日からは地獄の様な鍛錬の日々が始まりますので、本日はどうか御緩りとお休みくださいませ」
幽かに消えかかった視界で揺らめく扇の姿を睨みながら、航は頭へ響く声に対して懸命に抗う。
既に他の六人は完全に眠りへ落ちている。
航は失いかけた意識を振り絞るように叫んだ。
「必ず帰る!! 絶対に、こんな場所に縛られはしない! 日本へ、僕らの生きる場所へ……」
実際、どんな声が出たのか、叫べたのかどうかすら航には判らない。
だが落ちる最後の瞬間まで、航は抵抗の意思を点し続けた。
羆と戦う航と新兒の戦況を見守りつつ、折野は虎駕に話し掛ける。
「おい」
「あ? 何なのだ?」
「出遅れちまったな。今更自分も戦える、なんて言えねえよなあ」
虎駕は僅かに震えた。
「な、何故判ったのだ?」
「羆を見た時、手前は怯えていた。だが、同時に戦わねえといけねえって焦りも見えた。つまり、その当てがあったって事だろ?」
折野の指摘は図星を突いていた。
ワゴン車の中でも最後まで冊子を読み込んでいた通り、虎駕は本来真面目で勉強熱心な性格である。
そんな彼もまた、椿と同じく独断で、冊子に書かれた内容を実演しようと追加で練習していたのだ。
だが、航や新兒、椿と違い、この危機的な状況でそれを役立てられなかった。
有事に足が竦み、身に付けた知識や能力を上手く活用出来なかった。
「まあ、良いんじゃねえか? 岬守の奴も言ったが、俺達はまだ他にやることがある。その時に備えて力を温存しとくのもアリだ」
「その時?」
「寝惚けてんのか、手前? 俺達は今日この後、あの扇って女を脅して脱走するんだろ? だったら、手前は隠し球になれるだろうが」
「あっ……」
折野の助言で、虎駕は自分がまだ役に立てると気付かされ、胸の奥から沸々と勇気が込み上げてきていた。
まだ遅くはない、手遅れにはなっていない――そう考えられたことは虎駕にとって小さな救いだった。
学生として、余計な事を悩んで一年棒に振ってしまった彼にとっては。
「折野……」
「礼なら働いて返せよ。あいつらが羆をぶっ殺したらすぐ動くぞ。俺と手前であの女のもとへ跳び上がり、そして取り押さえる、一気にだ」
「お前と?」
「クク、俺もまた同じってこった。力はあった方が逃亡し易いだろ?」
度々見せる観察眼といい、折野は侮れない男である。
その凶悪な人相以上に、虎駕は彼の秘めたる恐ろしさを感じずにはいられなかった。
だが、今は折野に乗ってみるのも悪くない。
「ああ、解ったのだよ」
戦いの裏で、二人の男が次の展開を見据えていた。
⦿
扇によって課された熊殺しの試験、戦力になるのは神為の第二段階に達した航と新兒、そして椿だけだが、椿は他の四人を守る役目を買って出ている。
つまり、航と新兒の二人だけで協力して羆を無力化しなければならない。
「うおおおおっ!!」
羆の怒爪を躱した航は、そのまま拳の一撃を獰猛な眼に叩き込んだ。
怯んだ隙に更なる拳を顎に一発、序でに頬にもう一発、喉への蹴りを駄目押しに一発、流れるように見舞う。
(信じられない体験だ。素手で羆と互角以上に戦うなんて、魅琴に言っても妄想癖を笑われるな。いや、憐れまれるかな?)
戦いの最中に余計なことを考えてしまった航に、羆は容赦無く狂える牙を向ける。
「岬守っ!」
「あの莫迦、何やってんだ!」
間一髪、新兒と椿がラリアットの挟み撃ちを羆の両蟀谷に見舞った。
羆は崩れ落ちて苦痛と憤怒の唸り声を上げている。
「悪い、助かった!」
思いがけず危機に陥り、そして味方の助けで脱した航は、目の前に転がり込んだ絶好のチャンスに気を取り直す。
「っらぁッッ!!」
航は羆の顎を思い切り蹴り上げた。
会心の一撃に、羆は大きくバランスを崩す。
凶悪な口がだらしなく開き、舌が力なく垂れ下がり、涎を滴らせる。
第二段階の深みに達した神為は、一見ごく普通の青年に、蹴りで羆を横転させるという神業を為させた。
倒れた羆は打って変わって弱々しい声で鳴くばかりだ。
自分より遥かにひ弱な動物で飢えを凌ぐつもりが、その実化け物の群れに狩られていた――そんな恐怖に動揺しているのだろうか。
「良し」
相手を無力化することに成功した、これ以上徒に攻撃を加えることもないだろう――そう考え、航は止めを刺さずに立ち去ろうとする。
「ま、決着だろ。やったな、岬守」
新兒が航に肩を組んできた。
昔は荒れていた、という風なことを度々語っていた彼だが、この馴れ馴れしさは悪く取れば鬱陶しく、良く取れば親しみ易い。
そんな彼が航と同じく羆を追撃しないのは、不良時代も同様の考えで喧嘩に興じていたからだろうか。
だが、そう考えない者も居た。
椿の下段回し蹴りが羆の脳天を叩き割った。
「椿」
「詰めが甘いんだよ、貴方ら。戦いの最中ですぐ気を抜くし、所詮は素人か」
「んだァ手前?」
椿の物言いが癇に障ったのか、新兒は上から彼女に眼を付ける。
金髪で日に焼けた柄の悪い男が気の強い女に絡んでいるようにしか見えないその様子は、どうしても物騒な絵面に見えてしまう。
「おい、お前ら……」
航が二人を宥めようとした、その時だった。
「みんな、手を貸すのだよ!」
崖の上から虎駕の呼ぶ声が響いた。
穴の中から見上げる航達の視線が三人の男女に集まる。
折野が背後から扇の首根っこを鷲掴みにし、両手を後に回させて自由を奪っていた。
航と椿が真っ先に虎駕の元へ跳び上がり、新兒が慌てて後に続いた。
神為の第二段階に達した者がどれ程の跳躍力を発揮出来るか、航には六年前にその経験がある。
「岬守」
「ああ、解ってるよ」
折野もまた、宛ら獰猛な獣だった。
このまま彼の思うがままにさせていると、平気で扇を殺しかねない。
如何に彼女が悪辣な拉致犯の一味であろうと、それは防がねばならないと航は考える。
おそらく、虎駕の言う「手を貸せ」も半分はそういう意味だろう。
「どういうつもりですか?」
しかし、扇の態度は至って冷静である。
冷や汗一つ掻いていない。
「解るだろ? 俺達はここいらで手前らとオサラバしようと思ってるんだ。要求は三つ、先ず車の鍵を寄越せ。次に俺達が今何処に居るか、何処へ行くべきか、その大体の場所を吐け。それから、手前の組織にはこう報告しな。攫ってきた連中は全員羆の餌になりました、ってな」
折野の手に力が籠もる。
逆らえば殺す、という意思表示である。
だが扇は揺るがない。
唯々、冷徹な瞳で航達を見ていた。
(何だ、このプレッシャーは?)
逆に航達の方が扇に気圧されている。
直接彼女の眼を見ていない折野も何かを感じたのか、僅かに眉を動かし手の力を緩めた。
「お断りします。皆様は見事試験に合格しました。どうぞ御乗車ください」
「あ? 何言ってんだ、手前? 言っとくがこのまま殺しちまっても良いんだぜ? 車の鍵なら奪えば良い、現在地なら多分カーナビがある、組織への連絡はどうせ時間稼ぎにしかならねえ。こっちの要求は謂わば手前への慈悲なんだよ。俺は今更人殺しなんざ何とも思わねえんだぜ?」
首根っこを掴む手に力を込め直した折野はどこか焦っていた。
状況とは裏腹に、この場を支配しているのは脅されている扇に思える。
そんな彼女は小さく溜息を吐いた。
「承知いたしました。ならば私は私の仕事を遂行するまでです」
扇の長いポニーテールとメイド服のスカートが舞い上がる。
航達が得体の知れない気配に慄いた、その時だった。
『術識神為・朦朧苦滴下』
耳というよりは意識に直接言い付けるような声が聞こえたかと思うと、航達七人は一様に体の力を失い、その場に倒れ伏した。
また、何日も徹夜した後の様な抗い難い眠気が意識を何処か遠い所へと連れ去って行く。
「何……だ? これ……は……?」
「神為の第三段階、異能の発現。今の皆様に私を出し抜き逃亡する力は御座いません。宿へは御送りしましょう。明日からは地獄の様な鍛錬の日々が始まりますので、本日はどうか御緩りとお休みくださいませ」
幽かに消えかかった視界で揺らめく扇の姿を睨みながら、航は頭へ響く声に対して懸命に抗う。
既に他の六人は完全に眠りへ落ちている。
航は失いかけた意識を振り絞るように叫んだ。
「必ず帰る!! 絶対に、こんな場所に縛られはしない! 日本へ、僕らの生きる場所へ……」
実際、どんな声が出たのか、叫べたのかどうかすら航には判らない。
だが落ちる最後の瞬間まで、航は抵抗の意思を点し続けた。
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