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序章
第三話『事態急変』 破
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二〇二六年四月二十八日月曜日、日本国の国会議員会館で一人の中年女性が資料を見ていた。
「皇國による米国の占領も終了か……」
コーヒーカップを片手に、皇奏手防衛大臣兼国家公安委員長が呟いた。
上質な椅子に踏ん反り返り脚を組む姿勢には、五十路を過ぎた女性とは思えぬ程に色気が沸き立っている。
「米国の運命は、皇國の属国化でしょうか」
秘書の根尾弓矢が皇に見解を問うた。
彼女はコーヒーに口を付けると、持論を展開する。
「少なくとも、都合の良い政府に立たせるでしょう。今後、米国を傀儡に仕立て、国際社会に影響力を発揮しようとするでしょうね」
「米国が大人しく言う事を聞くでしょうか?」
「無いわね。そりゃあ、降伏と占領はショックが大きいでしょう。でもおそらく、皇國を上手く利用し復活を目論む。幸い核使用の影響も限定的で、各国との関係修復も充分可能だしね」
皇の目が鋭く光る。
「私としては、この動乱を泳ぎ、夢を手繰り寄せるのみ。丁度、米国という目の上の大きな大きな瘤が取れた。目下、最大の問題は皇國ね。でも、上手く行けば我が国は強大な力を手に入れ、そして私の夢は実現する」
「あのー……」
根尾とは別のもう一人、伴藤明美という女性の秘書が皇に尋ねる。
「前から訊きたかったんですけど、先生の夢って一体何なんでしょう?」
「あら、教えていなかったかしら?」
皇は不敵な笑みを浮かべて答える。
「世界最強よ」
伴藤は驚いて顔を前に突き出した。
「な、何の冗談ですか?」
「大真面目よ。私はこの世界で最も強い存在になりたいの。それが私の長年の夢。最も強い力を持ち、米国だろうが中国だろうが、そして皇國であろうが、何者にも媚びることなく我を押し通す、そんな存在にね」
「ここからが政治手腕の見せ所、というわけですか」
若干引き気味に苦笑いを浮かべる伴藤と違い、根尾は織り込み済みといった様子で彼女の展望を確かめる。
「鍵となるのはあの娘よ。私が世界最強となった後釜に、とも考えているのだけれど、相変わらず『もう一つの血』に縛られているのが厄介だわ。御義父様のせいね。ま、崇神會の本家は廻天派と違い政府に融和的で使えるから、この後も利用するだけ利用させてもらうけれど」
「自分も言ったんですがね。彼女は充分貴女に尽力出来ますし、その方が『もう一つの血』の使命を果たす道としてスマートだと」
皇は写真立てに目を遣った。
そこには若かりし日の彼女と、夫と思しき男性、そして人形の様に可憐だが無愛想な少女が写っていた。
「精々強がっていなさい、魅琴ちゃん。どうせ私からは逃げられはしない。政治家を甘く見ないことね」
皇奏手――麗真魅琴の母親。
その特異な夢が、日本国と皇國、延いては世界の運命を大きく動かすことになる。
⦿⦿⦿
岬守航、麗真魅琴、久住双葉は、少しずつ道を別にし始めていた。
先ず、双葉は自分の夢を追うべく専門学校へ進学した。
高校卒業後、二年程は航及び魅琴と交流を保っていたが、段々と連絡も疎らとなっていった。
航と魅琴は同じ大学に進学したこともあって、交流は続いている。
しかし、現役合格した魅琴に対して一年浪人した航という差もあって、別々に行動することも増えてきていた。
ただ、人の縁とは奇妙なもので、大学に入って再び縁の出来た古い友人も居る。
二〇二六年六月一日月曜日は宵の口、二十一歳になっていた航は居酒屋のカウンターで一人の友人と酒を飲んでいた。
虎駕憲進は中学時代の同級生で、魅琴とも面識があり、大学入学を機に再会して連絡を取るようになった。
「麗真の奴、本格的に就職活動始めたと聞いたのだが?」
虎駕は箸で軟骨の唐揚げを食らうと、カクテルを僅かに口に含んだ。
線の細い、神経質そうな見た目の青年で、実際に暴飲暴食するタイプではないが、航の誘いにはよく乗ってくれる付き合いの良い友である。
「取り敢えず、早速今日の午前中から面接だったってさ」
「あいつ、無愛想だが大丈夫なのか?」
「午後には二次選考の案内が来たってよ。成績は良いし、受け答えもちゃんとしてるからな」
目出度い話の筈だが、航の気分は浮かなかった。
彼自身、来年度の卒業と就職に向けて準備を進めてはいるのだが、それ故に余計彼女に先んじられていると意識してしまうのだ。
航はハイボールをぐいと飲み込んだ。
「なんか魅琴の奴、最近余所余所しいんだよなあ……。男でも出来たのかなあ?」
「就活状況教えてもらっておいて言う台詞じゃないのだよ」
「いや、余計な詮索するなって釘刺されたんだよ」
航は大きな溜息を吐いた。
酒が入っているせいで気が弱くなっているのかも知れない。
「小学校の頃からずっと一緒だったけど、流石にもう潮時なのかな……。どこの企業受けてるのか教えてくれないし」
「教わってどうするのだ。いくら幼馴染でも就職先まで付いて行くなど、一寸尋常ではないのだよ」
虎駕は僅かに肩を逸らして航と距離を開けた。
航自身そんなことは百も承知である。
お互いもう子供ではないのだから、いい加減けじめを付けるべきなのだ。
『関係をはっきりさせるのは早い方が良いと思うな』
嘗て双葉にそんなことを言われてから、もう五年近くも経っている。
今更離れたくないと言ってももう遅いのかも知れない。
「もう一層、今から麗真の奴を呼び出して告白するか?」
虎駕の目は笑っていなかった。
もういい加減にうじうじ悩むのは止めろと思うのも当然だろう。
だが、それは決して出来ない。
「いや、実は魅琴、この店出禁なんだ」
「は?」
「僕も知らなかったんだが、あいつ酒癖悪いんだよ。別に暴れる訳じゃないんだが、酷い絡み酒でな。態度が癇に障る客がいると赤の他人だろうと絡みに行くんだよ」
一応擁護しておくと、態度が癇に触るというのは他の迷惑客に対してで、誰彼構わず因縁を付ける訳ではない。
だが、それで自分から喧嘩を売る訳だから、迷惑の火に油を注いでいるも同然である。
「で、僕はその場に居なかったんだが、ゼミ仲間との飲み会でやらかしたらしくてさ、大声で口論していた団体客に一丁咬みしたんだと。そしたら話が更に拗れて乱闘に発展したみたいでさ、暴れた団体と纏めて煽った魅琴も出禁を食らったと、そういうわけらしい」
「うわ、マジなのか。毒舌なのは知っているが、それは正直幻滅なのだよ」
「ま、後でゼミ仲間から顛末聞いて本人も反省したらしい。それ以来酒は飲まなくなったんだが、客を暴れさせられた店には関係無いからな。ゼミの中で出禁があいつ一人で済んだだけ店は寛容だよ」
航は思い出す。
魅琴の酒癖の悪さで被害を受けた経験は彼にもあった。
『このヘタレが。私を押し倒すくらいのこと、してみなさいよ。ま、返り討ちにしてやるけれどね』
そう耳元で囁き、誘惑するように密着させてきた身体の感触を、航はよく覚えている。
魅琴は記憶が無いと言っていたが、態度や返事が余所余所しくなったのはそれ以来ではないか。
「あ、そうだ。良い就職先があるのだよ」
虎駕は何か思い出したように、今度は航の方へ身を乗り出してきた。
「麗真の母親はあの皇奏手なのだろう? あの人の下で働けば、卒業後も関係性は途切れないのだよ」
呼び出し案よりも余程冗談染みた提案だが、虎駕は航の眼を真直ぐ見ていた。
虎駕は妙な所で必要以上に真面目な男で、滅多に冗談を言わないのだ。
突拍子の無いような発言も、本人は本気だったりする。
「それは……絶対に無いな」
皇奏手の名前を聞いて、航はすぐに根尾の顔を思い浮かべた。
魅琴に手を出そうとしたあの男の下で働くなど、考えただけで不愉快になる。
そんな航の事情を知らない虎駕は、解せないといった様子で首を傾げる。
「皇先生は信頼の置ける政治家なのだよ。政界でも屈指の愛国議員だ。あの偽物の日本が顕れる前から防衛力の強化を力説し、中朝韓露に対して毅然とした態度を貫き、ポリコレリベラルに安易に迎合せず、経済に関する嘘に騙されず、歴史に揺るぎない誇りを持っている。我が国に必要な政治家なのだよ」
また始まった――今度は航が肩を反らせて虎駕から身を引いた。
「虎駕、取り敢えず僕達の就職の話しない? こんな情勢だし、この国の将来を心配するのは分かるんだけどさ」
「岬守、何度も言わせるな。『この国』じゃない、『我が国』なのだよ」
航は目眩がしそうになった。
虎駕は航と違って現役で法学部に合格している。
しかし、航と同じく卒業するのは来年度、つまり一年留年しているのだ。
理由は、勉強よりも別な事に熱を上げてしまっていたからだった。
彼は「妙な所で」「必要以上に」真面目なのだ。
「虎駕、今は自分のことに専念した方が良いと思うぞ。国や政治なんて大それた事考える器じゃないって。学生なんだぞ、僕達は」
「勉学そっちのけで女に現を抜かしている奴に言われたくはないのだよ」
航は閉口した。
振り返れば最初、虎駕が語る皇國についての一家言に口裏を合わせてしまったのが拙かった。
『左翼共は、目と鼻の先に大嫌いな大日本帝国そのものが顕れたというのに、まだ国の足を引っ張るような綺麗事ばかり言う。やはりあいつら、日本を滅ぼしたいのだろう』
結論は過激だが、不満と批判は解らぬでもない――そう言ったが運の尽き、虎駕は時折こういう話を航に振ってくるようになった。
苟且の同意を得たことが原因でのめり込んでいるとしたら、責任を感じてしまう。
弁護士の夢はどうしたのかと心配になってしまうし、先程のように注意はしている。
このまま思想の底無し沼に嵌まって人生を見失わないように願うばかりであった。
⦿⦿⦿
虎駕と飲み終えた航は借りているアパートの部屋に戻り、布団の上でスマートフォンの画面を見詰めていた。
〈面接どうだった?〉
〈もう二次選考の案内が来たわ〉
〈やったじゃん〉
〈ちなみに、どこ受けたの?〉
〈聞いてどうするの?〉
〈航には関係無いでしょう〉
〈教える気は無いから〉
〈余計な詮索しないで〉
〈ごめん〉
メッセージの遣り取りはここで途切れている。
航は溜息を吐いた。
「もう……潮時なのか? これ以上は……ストーカーか……?」
自覚しているなら思い止まるべきだろう。
しかし航はというと、更に情けなさに輪を掛けようとしていた。
『このヘタレが』
一度だけ、酔った勢いで絡んできた魅琴の記憶――その身体を鮮明に思い出す。
息が掛かる程近くで感じた彼女の温もり、絹糸の様な長い髪の感触、そして夢の中に誘うマシュマロの様な柔らかい乳房……。
『私を押し倒すくらいのこと、してみなさいよ』
何度も何度も盗み見た、魅琴の体つきを思い出す。
航の中で煩悩がふつふつと沸き立ち、理性の器から溢れ出さんと内圧を増していく。
実際、血液が身体の或る一点に集まってきている。
だがまだ、航の欲望は決壊しない。
ただ女体の妄想が浮かぶだけならば、航にとってまだマシだった。
航を辛抱堪らなくさせるのは、それに伴う別の記憶と歪んだ性癖である。
『ま、返り討ちにしてやるけれどね』
瞬間、航の中で記憶が弾けた。
高校二年の秋、喫茶店でテロリストを軽い平手打ちで昏倒させた魅琴。
高校一年の秋、武装したテロリストの身体を片腕で軽々持ち上げ、地面に落として気絶させた魅琴。
そして、出会った小学一年のあの日、自分の事を容赦無くボコボコに叩きのめした魅琴。
共に過ごし、成長する中で、何度か思い知った一つの現実。
自分は魅琴に腕力で、暴力で、男女間で絶対的優位にある筈の要素で到底敵わないという事実。
では勉学や芸術的才能はどうかというと、これも駄目だ。
最初から植え付けられ、歳月と共に強まった、拭いようの無い敗北感と劣等感。
航はそれを思うと、如何ともし難い情欲に激しく囃し立てられてしまう。
被虐嗜好が航を雁字搦めにし、操り人形の様に突き動かす。
(魅琴。ああ、魅琴! 魅琴!!)
端整な顔立ちをした青年が、均整の取れた肉体の衝動を鎮めるようとしている。
半開きになった航の口から情けなくも艶やかな吐息と喘ぎ声が漏れていた。
航はこの一時が好きではなかった。
欲望の決壊を迎えた後は、毎度死にたくなる程気分が落ち込んでしまうからだ。
⦿
航は眠ってしまっていたようだ。
「シャワー浴びよ……」
夜に目が覚めた航は、身に纏わり付いた屁泥の様な雑念を洗い流したかった。
まだ週明けだというのに、悪い酒になってしまった。
「潮風に当たりたい気分だな……」
航は、海に行こうと思い立った。
外へ出ると、限りなく満月に近い月に雲が掛かっていた。
心做しか、月と雲、星々が渦を成して闇の中へ吸い込まれていく様だ。
「バイクは……拙いか。酔いは覚めてるけど、飲んでからまだ間もない。タクシー、呼べるかな……」
航は生まれて初めてタクシー会社に配車を依頼した。
運転手は最初、宅飲みで帰れなくなったと思っていたようだが、どうでも良い事情に拘わらず快く乗せてくれた。
どうやら青春を感じたらしく、若さを羨ましがっていた。
タクシーが海浜公園へと向かって走る。
夜の叢雲が、まるで黄泉比良坂の入り口へ誘う様に、航の行く道先へと伸びている。
それは宛ら、彼をこれから数奇な運命に絡め取ろうとしているかの様だった。
「皇國による米国の占領も終了か……」
コーヒーカップを片手に、皇奏手防衛大臣兼国家公安委員長が呟いた。
上質な椅子に踏ん反り返り脚を組む姿勢には、五十路を過ぎた女性とは思えぬ程に色気が沸き立っている。
「米国の運命は、皇國の属国化でしょうか」
秘書の根尾弓矢が皇に見解を問うた。
彼女はコーヒーに口を付けると、持論を展開する。
「少なくとも、都合の良い政府に立たせるでしょう。今後、米国を傀儡に仕立て、国際社会に影響力を発揮しようとするでしょうね」
「米国が大人しく言う事を聞くでしょうか?」
「無いわね。そりゃあ、降伏と占領はショックが大きいでしょう。でもおそらく、皇國を上手く利用し復活を目論む。幸い核使用の影響も限定的で、各国との関係修復も充分可能だしね」
皇の目が鋭く光る。
「私としては、この動乱を泳ぎ、夢を手繰り寄せるのみ。丁度、米国という目の上の大きな大きな瘤が取れた。目下、最大の問題は皇國ね。でも、上手く行けば我が国は強大な力を手に入れ、そして私の夢は実現する」
「あのー……」
根尾とは別のもう一人、伴藤明美という女性の秘書が皇に尋ねる。
「前から訊きたかったんですけど、先生の夢って一体何なんでしょう?」
「あら、教えていなかったかしら?」
皇は不敵な笑みを浮かべて答える。
「世界最強よ」
伴藤は驚いて顔を前に突き出した。
「な、何の冗談ですか?」
「大真面目よ。私はこの世界で最も強い存在になりたいの。それが私の長年の夢。最も強い力を持ち、米国だろうが中国だろうが、そして皇國であろうが、何者にも媚びることなく我を押し通す、そんな存在にね」
「ここからが政治手腕の見せ所、というわけですか」
若干引き気味に苦笑いを浮かべる伴藤と違い、根尾は織り込み済みといった様子で彼女の展望を確かめる。
「鍵となるのはあの娘よ。私が世界最強となった後釜に、とも考えているのだけれど、相変わらず『もう一つの血』に縛られているのが厄介だわ。御義父様のせいね。ま、崇神會の本家は廻天派と違い政府に融和的で使えるから、この後も利用するだけ利用させてもらうけれど」
「自分も言ったんですがね。彼女は充分貴女に尽力出来ますし、その方が『もう一つの血』の使命を果たす道としてスマートだと」
皇は写真立てに目を遣った。
そこには若かりし日の彼女と、夫と思しき男性、そして人形の様に可憐だが無愛想な少女が写っていた。
「精々強がっていなさい、魅琴ちゃん。どうせ私からは逃げられはしない。政治家を甘く見ないことね」
皇奏手――麗真魅琴の母親。
その特異な夢が、日本国と皇國、延いては世界の運命を大きく動かすことになる。
⦿⦿⦿
岬守航、麗真魅琴、久住双葉は、少しずつ道を別にし始めていた。
先ず、双葉は自分の夢を追うべく専門学校へ進学した。
高校卒業後、二年程は航及び魅琴と交流を保っていたが、段々と連絡も疎らとなっていった。
航と魅琴は同じ大学に進学したこともあって、交流は続いている。
しかし、現役合格した魅琴に対して一年浪人した航という差もあって、別々に行動することも増えてきていた。
ただ、人の縁とは奇妙なもので、大学に入って再び縁の出来た古い友人も居る。
二〇二六年六月一日月曜日は宵の口、二十一歳になっていた航は居酒屋のカウンターで一人の友人と酒を飲んでいた。
虎駕憲進は中学時代の同級生で、魅琴とも面識があり、大学入学を機に再会して連絡を取るようになった。
「麗真の奴、本格的に就職活動始めたと聞いたのだが?」
虎駕は箸で軟骨の唐揚げを食らうと、カクテルを僅かに口に含んだ。
線の細い、神経質そうな見た目の青年で、実際に暴飲暴食するタイプではないが、航の誘いにはよく乗ってくれる付き合いの良い友である。
「取り敢えず、早速今日の午前中から面接だったってさ」
「あいつ、無愛想だが大丈夫なのか?」
「午後には二次選考の案内が来たってよ。成績は良いし、受け答えもちゃんとしてるからな」
目出度い話の筈だが、航の気分は浮かなかった。
彼自身、来年度の卒業と就職に向けて準備を進めてはいるのだが、それ故に余計彼女に先んじられていると意識してしまうのだ。
航はハイボールをぐいと飲み込んだ。
「なんか魅琴の奴、最近余所余所しいんだよなあ……。男でも出来たのかなあ?」
「就活状況教えてもらっておいて言う台詞じゃないのだよ」
「いや、余計な詮索するなって釘刺されたんだよ」
航は大きな溜息を吐いた。
酒が入っているせいで気が弱くなっているのかも知れない。
「小学校の頃からずっと一緒だったけど、流石にもう潮時なのかな……。どこの企業受けてるのか教えてくれないし」
「教わってどうするのだ。いくら幼馴染でも就職先まで付いて行くなど、一寸尋常ではないのだよ」
虎駕は僅かに肩を逸らして航と距離を開けた。
航自身そんなことは百も承知である。
お互いもう子供ではないのだから、いい加減けじめを付けるべきなのだ。
『関係をはっきりさせるのは早い方が良いと思うな』
嘗て双葉にそんなことを言われてから、もう五年近くも経っている。
今更離れたくないと言ってももう遅いのかも知れない。
「もう一層、今から麗真の奴を呼び出して告白するか?」
虎駕の目は笑っていなかった。
もういい加減にうじうじ悩むのは止めろと思うのも当然だろう。
だが、それは決して出来ない。
「いや、実は魅琴、この店出禁なんだ」
「は?」
「僕も知らなかったんだが、あいつ酒癖悪いんだよ。別に暴れる訳じゃないんだが、酷い絡み酒でな。態度が癇に障る客がいると赤の他人だろうと絡みに行くんだよ」
一応擁護しておくと、態度が癇に触るというのは他の迷惑客に対してで、誰彼構わず因縁を付ける訳ではない。
だが、それで自分から喧嘩を売る訳だから、迷惑の火に油を注いでいるも同然である。
「で、僕はその場に居なかったんだが、ゼミ仲間との飲み会でやらかしたらしくてさ、大声で口論していた団体客に一丁咬みしたんだと。そしたら話が更に拗れて乱闘に発展したみたいでさ、暴れた団体と纏めて煽った魅琴も出禁を食らったと、そういうわけらしい」
「うわ、マジなのか。毒舌なのは知っているが、それは正直幻滅なのだよ」
「ま、後でゼミ仲間から顛末聞いて本人も反省したらしい。それ以来酒は飲まなくなったんだが、客を暴れさせられた店には関係無いからな。ゼミの中で出禁があいつ一人で済んだだけ店は寛容だよ」
航は思い出す。
魅琴の酒癖の悪さで被害を受けた経験は彼にもあった。
『このヘタレが。私を押し倒すくらいのこと、してみなさいよ。ま、返り討ちにしてやるけれどね』
そう耳元で囁き、誘惑するように密着させてきた身体の感触を、航はよく覚えている。
魅琴は記憶が無いと言っていたが、態度や返事が余所余所しくなったのはそれ以来ではないか。
「あ、そうだ。良い就職先があるのだよ」
虎駕は何か思い出したように、今度は航の方へ身を乗り出してきた。
「麗真の母親はあの皇奏手なのだろう? あの人の下で働けば、卒業後も関係性は途切れないのだよ」
呼び出し案よりも余程冗談染みた提案だが、虎駕は航の眼を真直ぐ見ていた。
虎駕は妙な所で必要以上に真面目な男で、滅多に冗談を言わないのだ。
突拍子の無いような発言も、本人は本気だったりする。
「それは……絶対に無いな」
皇奏手の名前を聞いて、航はすぐに根尾の顔を思い浮かべた。
魅琴に手を出そうとしたあの男の下で働くなど、考えただけで不愉快になる。
そんな航の事情を知らない虎駕は、解せないといった様子で首を傾げる。
「皇先生は信頼の置ける政治家なのだよ。政界でも屈指の愛国議員だ。あの偽物の日本が顕れる前から防衛力の強化を力説し、中朝韓露に対して毅然とした態度を貫き、ポリコレリベラルに安易に迎合せず、経済に関する嘘に騙されず、歴史に揺るぎない誇りを持っている。我が国に必要な政治家なのだよ」
また始まった――今度は航が肩を反らせて虎駕から身を引いた。
「虎駕、取り敢えず僕達の就職の話しない? こんな情勢だし、この国の将来を心配するのは分かるんだけどさ」
「岬守、何度も言わせるな。『この国』じゃない、『我が国』なのだよ」
航は目眩がしそうになった。
虎駕は航と違って現役で法学部に合格している。
しかし、航と同じく卒業するのは来年度、つまり一年留年しているのだ。
理由は、勉強よりも別な事に熱を上げてしまっていたからだった。
彼は「妙な所で」「必要以上に」真面目なのだ。
「虎駕、今は自分のことに専念した方が良いと思うぞ。国や政治なんて大それた事考える器じゃないって。学生なんだぞ、僕達は」
「勉学そっちのけで女に現を抜かしている奴に言われたくはないのだよ」
航は閉口した。
振り返れば最初、虎駕が語る皇國についての一家言に口裏を合わせてしまったのが拙かった。
『左翼共は、目と鼻の先に大嫌いな大日本帝国そのものが顕れたというのに、まだ国の足を引っ張るような綺麗事ばかり言う。やはりあいつら、日本を滅ぼしたいのだろう』
結論は過激だが、不満と批判は解らぬでもない――そう言ったが運の尽き、虎駕は時折こういう話を航に振ってくるようになった。
苟且の同意を得たことが原因でのめり込んでいるとしたら、責任を感じてしまう。
弁護士の夢はどうしたのかと心配になってしまうし、先程のように注意はしている。
このまま思想の底無し沼に嵌まって人生を見失わないように願うばかりであった。
⦿⦿⦿
虎駕と飲み終えた航は借りているアパートの部屋に戻り、布団の上でスマートフォンの画面を見詰めていた。
〈面接どうだった?〉
〈もう二次選考の案内が来たわ〉
〈やったじゃん〉
〈ちなみに、どこ受けたの?〉
〈聞いてどうするの?〉
〈航には関係無いでしょう〉
〈教える気は無いから〉
〈余計な詮索しないで〉
〈ごめん〉
メッセージの遣り取りはここで途切れている。
航は溜息を吐いた。
「もう……潮時なのか? これ以上は……ストーカーか……?」
自覚しているなら思い止まるべきだろう。
しかし航はというと、更に情けなさに輪を掛けようとしていた。
『このヘタレが』
一度だけ、酔った勢いで絡んできた魅琴の記憶――その身体を鮮明に思い出す。
息が掛かる程近くで感じた彼女の温もり、絹糸の様な長い髪の感触、そして夢の中に誘うマシュマロの様な柔らかい乳房……。
『私を押し倒すくらいのこと、してみなさいよ』
何度も何度も盗み見た、魅琴の体つきを思い出す。
航の中で煩悩がふつふつと沸き立ち、理性の器から溢れ出さんと内圧を増していく。
実際、血液が身体の或る一点に集まってきている。
だがまだ、航の欲望は決壊しない。
ただ女体の妄想が浮かぶだけならば、航にとってまだマシだった。
航を辛抱堪らなくさせるのは、それに伴う別の記憶と歪んだ性癖である。
『ま、返り討ちにしてやるけれどね』
瞬間、航の中で記憶が弾けた。
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そして、出会った小学一年のあの日、自分の事を容赦無くボコボコに叩きのめした魅琴。
共に過ごし、成長する中で、何度か思い知った一つの現実。
自分は魅琴に腕力で、暴力で、男女間で絶対的優位にある筈の要素で到底敵わないという事実。
では勉学や芸術的才能はどうかというと、これも駄目だ。
最初から植え付けられ、歳月と共に強まった、拭いようの無い敗北感と劣等感。
航はそれを思うと、如何ともし難い情欲に激しく囃し立てられてしまう。
被虐嗜好が航を雁字搦めにし、操り人形の様に突き動かす。
(魅琴。ああ、魅琴! 魅琴!!)
端整な顔立ちをした青年が、均整の取れた肉体の衝動を鎮めるようとしている。
半開きになった航の口から情けなくも艶やかな吐息と喘ぎ声が漏れていた。
航はこの一時が好きではなかった。
欲望の決壊を迎えた後は、毎度死にたくなる程気分が落ち込んでしまうからだ。
⦿
航は眠ってしまっていたようだ。
「シャワー浴びよ……」
夜に目が覚めた航は、身に纏わり付いた屁泥の様な雑念を洗い流したかった。
まだ週明けだというのに、悪い酒になってしまった。
「潮風に当たりたい気分だな……」
航は、海に行こうと思い立った。
外へ出ると、限りなく満月に近い月に雲が掛かっていた。
心做しか、月と雲、星々が渦を成して闇の中へ吸い込まれていく様だ。
「バイクは……拙いか。酔いは覚めてるけど、飲んでからまだ間もない。タクシー、呼べるかな……」
航は生まれて初めてタクシー会社に配車を依頼した。
運転手は最初、宅飲みで帰れなくなったと思っていたようだが、どうでも良い事情に拘わらず快く乗せてくれた。
どうやら青春を感じたらしく、若さを羨ましがっていた。
タクシーが海浜公園へと向かって走る。
夜の叢雲が、まるで黄泉比良坂の入り口へ誘う様に、航の行く道先へと伸びている。
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少年テッドには、両親がいない。
両親は低ランク冒険者で、依頼の途中で魔物に殺されたのだ。
両親の少ない保険でやり繰りしていたが、もう金が尽きかけようとしていた。
テッドには、妹が3人いる。
両親から「妹達を頼む!」…と出掛ける前からいつも約束していた。
このままでは家族が離れ離れになると思ったテッドは、冒険者になって金を稼ぐ道を選んだ。
そんな少年テッドだが、パーティーには加入せずにソロ活動していた。
その理由は、パーティーに参加するとその日に家に帰れなくなるからだ。
両親は、小さいながらも持ち家を持っていてそこに住んでいる。
両親が生きている頃は、父親の部屋と母親の部屋、子供部屋には兄妹4人で暮らしていたが…
両親が死んでからは、父親の部屋はテッドが…
母親の部屋は、長女のリットが、子供部屋には、次女のルットと三女のロットになっている。
今日も依頼をこなして、家に帰るんだ!
この少年テッドは…いや、この先は本編で語ろう。
お楽しみくださいね!
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