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第五章 動き出す人々

第六十九話 噛み痕

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「あーあ、スヲンが噛んだところ。週明けまでに治らないかも」


結局、アヤは文句ひとつ言えずに綺麗にされてしまった。
これで笑顔になれるだろうか。
お風呂からあがり、タオルにくるまれ、ベッドに運ばれて仰向けに転がされたところで、上を陣取ったロイの顔が心配そうな目で見つめてくる。が、しかし。論点はそこではないと気付いてほしい。


「痛くない?」

「……平気」


スヲンの歯形を指で撫でたロイの唇が軽く傷痕に触れて、頬をすり寄せてくる。
視界には、髪を乾かすためにドライヤーを持ってきたランディと、美容液などを並べ始めたスヲンの姿。彼らを横目に眺めていると、わかりやすく機嫌を取りに来たロイの瞳に、アヤは唇を尖らせて強がりを口にした。


「別に、痛くないし」

「そう?」

「痛……く、ない…ッし」

「すごく痛そうなのに?」


わざと一番深く刺さった部分を舌先でつつくロイに身体が引きつく。
「ロイ」と名前を呼んでにらみたくても、体格差に抑え込まれた体は少しも逃げられない。逃げられないから、好きにされる。それとも、逃げようとするから好きにされるのか。
どちらにしても、ロイの悪戯が過ぎてアヤが泣きだすのは時間の問題だった。


「~~~~ッ、なん…で、いじわるするの?」


ロイの肩を全力で押すのにも疲れて、震える声をあげたアヤの瞳に、金色の髪が踊っている。


「ヤッ……ろ、ぃ…痛ぃ…~~ンんぅッ」


突然、ロイの左手で口を塞がれて息を呑む。
なぜスヲンの歯型の上から噛みつかれたのか理解できずに、アヤの視界が滲んでいく。
混乱に足をばたつかせ、ロイの腕に爪痕を刻んでみるものの、吸血鬼のようにロイの唇はそこから離れない。離れてくれない。


「ンっ…ぅ…ンンンッん」


あまりの痛さに微塵も動けなくなった。
スヲンとランディはどうしたのか。
覆いかぶさって彼女を抑え込むロイの姿は、普段の優しいロイからは想像つかないほど物騒で過激に思えた。静寂の支配。セレブの子息よりも、ドラキュラの末裔の方がぴったりの称号だと、アヤは滲む視界にその支配者を眺める。


「……ロイ…ッ……ぅ」


そういえば昔、セイラに誘われて無断で夜遊びをした挙句、彼らを避け続けていたときもロイに噛まれたことを思い出す。
あのとき、ロイは怒っていた。ともすれば、今回も怒りの表れなのかもしれない。
それは何に対してなのか。理不尽でしかない不機嫌をぶつけてしまった結果なのか。それともしつこい態度を続けたせいで、ついに愛想が尽きたのか。こんな面倒な女は彼女にしておけないと、呆れられたのかもしれない。
何にせよ、なぜロイが噛んできたのかわからずに、怖くなった。
嫌われたくなくて、離れてほしくなくて、アヤはぎゅっとロイにしがみつく。


「煽らないで、アヤ。ボクはね、優しくしたいんだよ。大事にしたいって思ってるのに、そんな風に泣いたり、強がったり、反抗的な態度を取られると、加減が難しいんだ。可愛すぎて壊しちゃいそう。そうじゃなくても、今日はアヤを抱けないと思ってたボクにとって、嬉しい誤算づくしなのに、アヤはどこまでボクを夢中にさせれば気が済むの?」

「っ…ぅ……ぁ」

「嗚呼、怖くないよ。大丈夫、これはね、怒ってるんじゃないんだ。食べたくなるほど可愛いアヤに興奮しちゃったっていうか、してるっていうか……ねぇ。アヤ。童話の狼は赤ずきんを噛まずに丸のみにしたっていうけど、ボクはそんな勿体ないことは出来ない」

「ッ、ぁ……ヒッぅ……んッ」

「アヤがボクの愛を信じられないっていうなら、些細なことでも不安になるなら、全身に残してあげてもいいよ。消せないくらい深く、激しく、痛くて泣いちゃうくらいのボクの印を感じさせてあげる。ああ、そのときアヤはどんな顔をみせてくれるのかな。例えば、この細い指先を食べるときとか」


いつも以上に甘い声で、熱のこもった瞳で言われる台詞を信じたくない。力を込めてロイの腕に食い込んでいたはずの指先が、いともたやすく捕らえられて、その唇に運ばれた途端。アヤは思わず涙をこぼした。


「ヤバい……可愛い、アヤ。もっと泣い、てっ痛ぁぁああ。ちょっとランディ、なにするの!?」

「殴り殺すか?」

「待って待って、手に持ってるの、ドライヤーじゃん。それで殴るとか怖すぎる。凶器だよ凶器。ちょっとスヲンも、なにそれ!?」

「ランディに先を越された」

「舌打ちする前に自分の姿を鏡で見てよ。アヤが泣いちゃってるじゃん。木刀なんてどこで買ったの?」


噛んでいた場所に一瞬深くめり込んで、すぐに顔をあげたロイの目に涙が浮かんでいる。ランディが殴って、スヲンは出遅れたらしい。
勢いよく抱きついて「アヤ、怖いよね。よしよし」と、慰めてくるロイの気が知れない。
自分が泣かすのはよくて、他人に泣かされるのはイヤ。実に気難しい。


「元はといえばスヲンが歯型残したせいじゃん」

「アヤを怖がらせるような本性の出し方をするな」

「本当にな」

「でも遅かれ早かれだよ。ねぇ、アヤ。噛まれて発情しちゃうような猫ちゃんだもん。泣きながらボクに食べられることを想像するだけで、ほら、もうトロトロ」

「ッ!?」


思わず、全身を硬直させてしまった。
抱きついたロイが左側に重心を寄せて、右手で太ももの付け根に指を這わせたせい。スヲンとランディに見せつけるように持ち上げたその指は、ベッド横にあるサイドテーブルに灯されたランプの明かりを受けて、光っている。


「~~~ッ、ぅ」


本格的に泣けてきたのは、情けなさの一言につきる。
愛想をつかされてなかったどころか、今回の噛み痕の意味を知って安堵してしまった。嬉しいと思ってしまった。歪んだ愛情表現。だけどそれは、自分だけが知る特別なもの。
彼らがいないと生きていけない。
それは頭で理解するよりも早く、心と体が物語っている。


「どんなことされても悦んじゃうね」

「オレたちみたいなのに見つかったのが運の尽きだな」

「ロイじゃなくても、アヤが愛し過ぎて制御が効かなくなりそうだ」


ロイに足を持ち上げられたそこに、ランディとスヲンの息がかかっていた。
覗き込まれなくても、改めて告げられなくても、自分の体なんだからわかっている。
勝ち負けなんて、もうどうでもいいのだと。
感情を上回る身体を早く慰めてほしいのだと。
蜜は糸を引いて、誘う色香を放っている。


「怖がらせたお詫びに、いつも通り優しく。時間をかけて食べてあげるね」


くすぶった気持ちを制御できずに、自分から腰を揺らして続きを促す。
本能は貪欲に、彼らの本性を刻んでほしいと期待している。
痛いだとか、怖いだとか、不思議と感じていなかった。
情けなくて、悔しくて、涙が止まらない。
もう、好きすぎておかしくなりかけているのだろう。狂いかけているのかもしれない。それとも、すでに狂っているのか。
三方向から伸びてきた腕に甘えて、声をあげたくてたまらない。
そしてそれを許されるのが自分だけだという幸福に、今はただ、溺れてしまいたかった。
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