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閑話
【雑録1】ハートン家の日常
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心地よい風が吹き抜けていく窓際のテラス。眼前に広がる芝生の庭を視界に映しながら午後のティータイムを嗜んでいるのは一組のカップル。
カップルというには、あまりに失礼かもしれない。
テラス席に並んで腰かけるのは、しわが刻まれた顔を寄せ合い、シミの広がる手を重ねて、秘密の話を囁き合う熟年夫婦。とはいえ、時折、顔を赤くする夫人の姿の初々しさに、ついカップルと表現したくなる。
「やだわ、レイモンドったら。わたくしも、もう若くないのよ?」
「嗚呼、シャーリー。長い人生、君以上に素敵な女性をわしは知らない。若い頃から知っていても、いつでも目に映る今が最高に綺麗だ」
「ふふふ。そうは言っても、孫が選んだお嬢さんのこと、知りたいんでしょう?」
「ロイが選ぶやつは、昔から期待を裏切らんからな」
「運命の人と出会えなくて不貞腐れていたのが懐かしいわね。長い反抗期がようやく終わったのかしら。やっと手に入れたことで、少しは表情が増えているといいのだけど。ねぇ、シルフィ?」
濃い緑の芝生が映っていた瞳を家の中へ向けて夫人は笑う。かの有名な豪華客船シャーリー号と同じ名前を持つ女性。シャーリー・ハートンの視線の先には、柔らかな髪をした愛らしい姿。
肩までの柔らかなヘーゼルカラーを緩やかに巻いて、モスグリーンの滑らかなロングスカートに合わせた白のパフスリーブ。一言で「可愛い」と表現できるのは、シャーリーの息子アーサーの嫁であり、ロイの母親。シルフィ・ハートン。
「ええ、お義母様。天使がようやく運命の相手を見つけたのですから、それはキラキラ輝いているに違いありませんわ。でも、でも、納得いかない!!」
割れるほどの音を出して、今しがた口をつけたばかりのティーカップを机に叩きつけたシルフィの様子に空気が凍る。結果としてカップは割れなかったが、室内の視線はシルフィに集まっていた。
「シルフィは怒った顔も可愛い」
「アーサー。いまはキスしないで」
「だって、どんな顔も可愛いからつい」
「つい、じゃないの。いつもそんなことで誤魔化して、大事な話が先に進まないじゃない」
膨らんだシルフィの頬を引き寄せて、口付けるのは、金髪に碧眼を持つ美しい男性。アーサー・ハートン。シルフィこそ至宝だと年中愛を囁くのは誰に似たのか。
テラス席は祖父母が、リビングでは父母が、年中離れることがない二組は、さも当然といった風に隣り合って座っている。しかも付き合って日が浅いカップルのように、いちゃつく姿はもはやデフォルト。
そこを気にしていては、それこそ先へ進めない。
「心配せんでも、ロイなら大丈夫。なぁ、アーサー。お前の息子で、わしの孫だ」
「そうだよ、シルフィ。父さんの言うとおりだ。ロイはバカじゃない。あの子が選んだ道を応援してあげよう?」
「いや。スヲンとランディは素敵なお友達かもしれないけど、あの二人の能力は認めてるけど、それでも全員とお付き合いなんてどうかしてるわ」
「まあ、僕はシルフィを誰かと分け合うなんて出来ないけどね」
「だから、今はキスしないで」
「話もちゃんとするよ?」
「そう言っていつもいつも…っ…もう、アーサー!!」
夫の求愛から逃げるためか、苛立ちを霧散させるためか。シルフィは立ち上がり、テラス席の夫妻の元へ近付いていく。
二人の横を通り抜け、立ち止まった場所は濃い緑の芝生が広がる大きな窓際。
当然、流れるようにアーサーも腰をあげてシルフィに続いた。
「たしかにバージルから連絡が来たときは僕も驚いた」
「驚いた、なんてものじゃないわ。衝撃よ、衝撃。今まで、たったの一度も、二十七年間も、トキメキや青春といった運命の欠片もなかったロイが、よ。あの子のために何人のお嬢さんを送り込んだか。全部無駄になったのは、いいの。仕方ないわ。何回期待を裏切られても、それはそれ。スヲンやランディと三人で永遠に年老いていくだけかと本気で心配していたのに比べればマシよ。だけど、こんなことってありえる?」
息をきらせて捲し立てる妻をアーサーは抱き締める。背の低いシルフィが一瞬にして見えなくなったのは、身長差、その一言に尽きるだろう。
アーサーの腕のなかで何かを訴えているが、それはすべて人間の厚みで遮られて言葉になっていない。
それをじっと見ていたレイモンドとシャーリー夫妻は、互いに顔を見合わせて困ったように笑い合う。
「それで、何か手を打っているんだろう?」
代表してレイモンドが、アーサーの腕にあやされるシルフィ夫人にそう尋ねた。
瞬間、顔を輝かせた愛らしい笑みが「もちろん」と声を弾ませる。
「歴史的行事ですもの。運命にはやっぱり、山あり谷ありが必要不可欠というもの。これで別れてしまうくらいなら、それまでの愛ということよ」
にこりと笑う小さな顔は愛らしいのに、なぜだろう。悪寒がするほどの毒々しさを感じるのは。
さすがのアーサーもそう感じたのだろう。
「ほどほどにね」と、シルフィの額にキスを落として苦笑している。
「あら、あなたの方が色々としてるんじゃなくて?」
「倒す敵は多い方が楽しいだろう?」
「そういうところ、ロイにしっかり遺伝してるわね」
「心配?」
「そう見える?」
ニコニコと互いに腕を回して顔を寄せ、ダンスを始める雰囲気で囁き合う。仲睦まじい美男美女はそれだけで絵になるが、会話の内容は悪天を示しているのだから気が抜けない。
「生き生きしておるな」
息子夫婦に対抗してか、息子夫婦の向こうに広がる芝生に嫉妬してか、レイモンドが隣に座る妻に語りかける。「ええ」とひとつ頷いて、シャーリーの瞳は緑色からまた隣の夫に帰って来た。
「若い頃を思い出すわ。アーサーがシルフィと出会ったときも大変だったもの。時代が移ろうとはいえ、高みの見物はつまらないわね」
「高みの見物だからこそ、純粋に楽しめる部分もあるぞ?」
「それもそうね。物語はいつだって、客観的に眺めるほうが色々な面を知れるもの」
「当事者にしかわからぬ深い部分にも興味は尽きないがな」
「あら、悪い顔。久しぶりにその顔を見るわ」
「そうか?」
「あなたらしい素敵な目をしているもの。バージルの運命にも試練がくるのかしら?」
「運命には抗えんさ。何事も」
「あなたらしい」
「シャーリーがいれば、いつだってわしはわしらしくいられるよ」
「わたくしもよ。レイモンド」
重ね合わせた手を再度擦り合わせ、二人の世界を強く築く。自分たちの他にはきっと何もいらないのだろう。
あちらでも、こちらでも。
ハートが飛び交う円満な夫婦の逢瀬が繰り広げられている。
「ああ、またバージルからカナコの写真が届いた」
「あの人も懲りないわね」
「わしのとこにもだ」
キスの邪魔をされたからか。アーサーの呟きにシルフィが息をつき、レイモンドがやれやれといった様子で携帯をにらむ。
連続で写真でも送られてきているのだろう。鳴りやまない着信音が、空気を読まずにバージルの連投を告げている。
「返事を欲しがっているのよ。いい加減、相手をしてあげたら?」
夫と息子に苦言したシャーリーの言葉は、瞬時に否定される他ない。
なぜなら、彼らにも「覚えがある」から。
「相手なんかしてみろ。夢に出てくるほど語られるぞ?」
「それは困るわね。あなたの夢に出てくるのは、わたくしだけでありたいもの」
「……シャーリー」
感動した夫からのキスに、また夫人は頬を赤く染める。自分の発言に照れた部分もあるのだろう。
レイモンドの肩に自分の頬を押し付けて、隠れているつもりでいた。
「お義母様は優しすぎるのよ。アーサーの夢に他の女なんて出ようものなら、悪夢に変えてでも叩き起こすわ」
「それはそれで楽しみだな」
「あら、いいの?」
「目覚めたときにキミがそこにいるならね」
「いつだって、その瞳に映るのはわたしじゃなきゃイヤ」
結局、どこで会話が交わっても、最終的には二人の世界に落ち着くらしい。愛を囁かないと生きていけない鳥じゃあるまいし。四六時中この調子では、先に進むものも進まない。
バージルからの連絡は続いていたが、返信はまだ当分先に違いない。
ハートン家にとっては当たり前の光景。異常ではなく、これが正常。優先順位の頂点は、いつだって妻との時間が独占している。
「ロイに会うのが楽しみ」
そう、口にしたのは誰だったのか。
キスで遮られた思考は、そこから先を紡ぎはしない。それでも誰もが等しく訪れる未来を想像して、そっと口元に笑みを浮かべた。
カップルというには、あまりに失礼かもしれない。
テラス席に並んで腰かけるのは、しわが刻まれた顔を寄せ合い、シミの広がる手を重ねて、秘密の話を囁き合う熟年夫婦。とはいえ、時折、顔を赤くする夫人の姿の初々しさに、ついカップルと表現したくなる。
「やだわ、レイモンドったら。わたくしも、もう若くないのよ?」
「嗚呼、シャーリー。長い人生、君以上に素敵な女性をわしは知らない。若い頃から知っていても、いつでも目に映る今が最高に綺麗だ」
「ふふふ。そうは言っても、孫が選んだお嬢さんのこと、知りたいんでしょう?」
「ロイが選ぶやつは、昔から期待を裏切らんからな」
「運命の人と出会えなくて不貞腐れていたのが懐かしいわね。長い反抗期がようやく終わったのかしら。やっと手に入れたことで、少しは表情が増えているといいのだけど。ねぇ、シルフィ?」
濃い緑の芝生が映っていた瞳を家の中へ向けて夫人は笑う。かの有名な豪華客船シャーリー号と同じ名前を持つ女性。シャーリー・ハートンの視線の先には、柔らかな髪をした愛らしい姿。
肩までの柔らかなヘーゼルカラーを緩やかに巻いて、モスグリーンの滑らかなロングスカートに合わせた白のパフスリーブ。一言で「可愛い」と表現できるのは、シャーリーの息子アーサーの嫁であり、ロイの母親。シルフィ・ハートン。
「ええ、お義母様。天使がようやく運命の相手を見つけたのですから、それはキラキラ輝いているに違いありませんわ。でも、でも、納得いかない!!」
割れるほどの音を出して、今しがた口をつけたばかりのティーカップを机に叩きつけたシルフィの様子に空気が凍る。結果としてカップは割れなかったが、室内の視線はシルフィに集まっていた。
「シルフィは怒った顔も可愛い」
「アーサー。いまはキスしないで」
「だって、どんな顔も可愛いからつい」
「つい、じゃないの。いつもそんなことで誤魔化して、大事な話が先に進まないじゃない」
膨らんだシルフィの頬を引き寄せて、口付けるのは、金髪に碧眼を持つ美しい男性。アーサー・ハートン。シルフィこそ至宝だと年中愛を囁くのは誰に似たのか。
テラス席は祖父母が、リビングでは父母が、年中離れることがない二組は、さも当然といった風に隣り合って座っている。しかも付き合って日が浅いカップルのように、いちゃつく姿はもはやデフォルト。
そこを気にしていては、それこそ先へ進めない。
「心配せんでも、ロイなら大丈夫。なぁ、アーサー。お前の息子で、わしの孫だ」
「そうだよ、シルフィ。父さんの言うとおりだ。ロイはバカじゃない。あの子が選んだ道を応援してあげよう?」
「いや。スヲンとランディは素敵なお友達かもしれないけど、あの二人の能力は認めてるけど、それでも全員とお付き合いなんてどうかしてるわ」
「まあ、僕はシルフィを誰かと分け合うなんて出来ないけどね」
「だから、今はキスしないで」
「話もちゃんとするよ?」
「そう言っていつもいつも…っ…もう、アーサー!!」
夫の求愛から逃げるためか、苛立ちを霧散させるためか。シルフィは立ち上がり、テラス席の夫妻の元へ近付いていく。
二人の横を通り抜け、立ち止まった場所は濃い緑の芝生が広がる大きな窓際。
当然、流れるようにアーサーも腰をあげてシルフィに続いた。
「たしかにバージルから連絡が来たときは僕も驚いた」
「驚いた、なんてものじゃないわ。衝撃よ、衝撃。今まで、たったの一度も、二十七年間も、トキメキや青春といった運命の欠片もなかったロイが、よ。あの子のために何人のお嬢さんを送り込んだか。全部無駄になったのは、いいの。仕方ないわ。何回期待を裏切られても、それはそれ。スヲンやランディと三人で永遠に年老いていくだけかと本気で心配していたのに比べればマシよ。だけど、こんなことってありえる?」
息をきらせて捲し立てる妻をアーサーは抱き締める。背の低いシルフィが一瞬にして見えなくなったのは、身長差、その一言に尽きるだろう。
アーサーの腕のなかで何かを訴えているが、それはすべて人間の厚みで遮られて言葉になっていない。
それをじっと見ていたレイモンドとシャーリー夫妻は、互いに顔を見合わせて困ったように笑い合う。
「それで、何か手を打っているんだろう?」
代表してレイモンドが、アーサーの腕にあやされるシルフィ夫人にそう尋ねた。
瞬間、顔を輝かせた愛らしい笑みが「もちろん」と声を弾ませる。
「歴史的行事ですもの。運命にはやっぱり、山あり谷ありが必要不可欠というもの。これで別れてしまうくらいなら、それまでの愛ということよ」
にこりと笑う小さな顔は愛らしいのに、なぜだろう。悪寒がするほどの毒々しさを感じるのは。
さすがのアーサーもそう感じたのだろう。
「ほどほどにね」と、シルフィの額にキスを落として苦笑している。
「あら、あなたの方が色々としてるんじゃなくて?」
「倒す敵は多い方が楽しいだろう?」
「そういうところ、ロイにしっかり遺伝してるわね」
「心配?」
「そう見える?」
ニコニコと互いに腕を回して顔を寄せ、ダンスを始める雰囲気で囁き合う。仲睦まじい美男美女はそれだけで絵になるが、会話の内容は悪天を示しているのだから気が抜けない。
「生き生きしておるな」
息子夫婦に対抗してか、息子夫婦の向こうに広がる芝生に嫉妬してか、レイモンドが隣に座る妻に語りかける。「ええ」とひとつ頷いて、シャーリーの瞳は緑色からまた隣の夫に帰って来た。
「若い頃を思い出すわ。アーサーがシルフィと出会ったときも大変だったもの。時代が移ろうとはいえ、高みの見物はつまらないわね」
「高みの見物だからこそ、純粋に楽しめる部分もあるぞ?」
「それもそうね。物語はいつだって、客観的に眺めるほうが色々な面を知れるもの」
「当事者にしかわからぬ深い部分にも興味は尽きないがな」
「あら、悪い顔。久しぶりにその顔を見るわ」
「そうか?」
「あなたらしい素敵な目をしているもの。バージルの運命にも試練がくるのかしら?」
「運命には抗えんさ。何事も」
「あなたらしい」
「シャーリーがいれば、いつだってわしはわしらしくいられるよ」
「わたくしもよ。レイモンド」
重ね合わせた手を再度擦り合わせ、二人の世界を強く築く。自分たちの他にはきっと何もいらないのだろう。
あちらでも、こちらでも。
ハートが飛び交う円満な夫婦の逢瀬が繰り広げられている。
「ああ、またバージルからカナコの写真が届いた」
「あの人も懲りないわね」
「わしのとこにもだ」
キスの邪魔をされたからか。アーサーの呟きにシルフィが息をつき、レイモンドがやれやれといった様子で携帯をにらむ。
連続で写真でも送られてきているのだろう。鳴りやまない着信音が、空気を読まずにバージルの連投を告げている。
「返事を欲しがっているのよ。いい加減、相手をしてあげたら?」
夫と息子に苦言したシャーリーの言葉は、瞬時に否定される他ない。
なぜなら、彼らにも「覚えがある」から。
「相手なんかしてみろ。夢に出てくるほど語られるぞ?」
「それは困るわね。あなたの夢に出てくるのは、わたくしだけでありたいもの」
「……シャーリー」
感動した夫からのキスに、また夫人は頬を赤く染める。自分の発言に照れた部分もあるのだろう。
レイモンドの肩に自分の頬を押し付けて、隠れているつもりでいた。
「お義母様は優しすぎるのよ。アーサーの夢に他の女なんて出ようものなら、悪夢に変えてでも叩き起こすわ」
「それはそれで楽しみだな」
「あら、いいの?」
「目覚めたときにキミがそこにいるならね」
「いつだって、その瞳に映るのはわたしじゃなきゃイヤ」
結局、どこで会話が交わっても、最終的には二人の世界に落ち着くらしい。愛を囁かないと生きていけない鳥じゃあるまいし。四六時中この調子では、先に進むものも進まない。
バージルからの連絡は続いていたが、返信はまだ当分先に違いない。
ハートン家にとっては当たり前の光景。異常ではなく、これが正常。優先順位の頂点は、いつだって妻との時間が独占している。
「ロイに会うのが楽しみ」
そう、口にしたのは誰だったのか。
キスで遮られた思考は、そこから先を紡ぎはしない。それでも誰もが等しく訪れる未来を想像して、そっと口元に笑みを浮かべた。
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