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第四章 埋まりゆく外堀

第五十三話 指先だけの密事

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「アヤ、何かわからないことがあった?」

「……ぅ」


大人しく近づいたところで、そう微笑まれると返答に困る。
「全く聞いてなかった」など新卒じゃあるまいし、いい年齢をした社会人のすることじゃないとわかっているからこそ、肩身の狭い気持ちに嘘はつけない。


「事務統括は他の奴が動いてるが、当日の受付はアヤがメインで担当するんだからしっかりな」

「え?」

「やっぱり聞いてなかっただろ」

「……すみません」


彼氏としての顔でゆるく笑うスヲンはカッコいい。
誰もいない会議室。ここはあえて説明会場と表現するべきだろうか。例えばここが教室ならスヲンはさしずめ教師でアヤは生徒。静寂とは裏腹に鼓動が耳にうるさい。
至近距離で見えていた顔が音もなく近付いて、キスをされるのかとじっと見つめていた唇がニヤリと口角をあげる。


「会場の出入口は受付時にはひとつに絞るが、帰宅時間は各自に任せるから最終三か所設ける。手土産は明日届くのを確認して、明後日までに三か所に振り分けて。壇上で紹介予定者等、リストにチェックがついている人物には胸にリボンを頼む。そのあとは別の人間に任せればいい。招待者リストはメールで送信しておくから受付用の各パソコンにログインできるか確認して、当日の参加者と照らし合わせチェックを、チェックリストはまとめて火曜日には俺に提出すること。ああ、対応人数の調整、必要機材などの追加はアヤに任せる。要望があれば事務統括にと言いたいところだが、まずは俺を通してほしい」

「……はい」

「一応招待客にはチケットを事前配布している。当日それを持っていなくてもリストに名前があれば確認出来るだろう。明らかに怪しい奴は警備担当に連絡して。あと、受付用の機材搬入は今日中に運ぶよう指示しておいたが、不備があれば遠慮なく言ってくれていいから」


丁寧に教えてくれるスヲンの顔が近い。
イイ匂いがして、思わず抱きつきたくなる衝動に駆られてしまう。


「アヤ、聞いてる?」

「は、はい」


首がもげるのではないかと思えるほど勢いよく縦に振り過ぎたかもしれない。
スヲンがどこかおかしそうに笑って、頬にかかった前髪をその綺麗な指でよけてくれた。


「アヤ、ここは会社だ」

「……っ…」

「そんな物欲しそうな顔で見て、何か他にしてほしいことでも?」


唇を眺めすぎた事実に触れられて、勝手に熱が昇る。
ごくりと喉を鳴らしてしまった音を聞かれていないといい。
そういえばまだ、昼休みが終了したばかりの時間帯だったことを思い出して、アヤはスヲンから慌てて体を引き離した。


「な、なんでもありません。大丈夫です」

「そう?」

「……仕事、頑張ります」

「ああ、期待してるよ」


微笑みだけを置いて退散の意向を見せたスヲンの仕草に戸惑う。
頭を撫でてほしい、むしろキスをしてほしい。と、湧いた感情を飲み込んで、アヤも足早にその場から意識を遠ざけることにした。煩悩は強制的に振り払うに限る。さもなければ、職場なことも忘れてスヲンに抱かれたいという欲望が、元に戻らない陰核を刺激してしまう。


「ここは職場、職場、職場」

「アヤ」

「なに、スヲ……っ、ン」


ぶつぶつと足元を見つめていた顔で慌てて向き直った唇が塞がれる。
軽く見えて深く重なったスヲンのそれは、熱を帯びて柔らかく、それでいて強い。


「ん…っ、ぅ…ぁ」


あごを指先で持ち上げられて侵入してくる舌に体が反応してしまう。
ここは職場だと理性が訴えているのに、どうにもならない本心がその先を求めて、気付けばアヤの瞳はスヲンの行為を受け入れていた。


「だめ、スヲ…ンッ…だ、めっ」

「説得力がないな。やり直し」

「そ…っな…説得りょ…~~く」


舌を絡めとられた身では拒否の示しようがない。心地よい感触が唇から全身に広がって、じわじわと蕩ける甘みを与えてくるのだからどうしようもない。
たかがキスひとつ。
いつだったか、スヲンがロイに批判したことがあった気もする。いや、あれはロイがスヲンに「たかがキスだと思ってる?」と聞いたのだったか。
どちらにしろ今、自分の身に起こってるキスは「たかが」なんかでは説明がつかない感触と余韻を連れてきている。


「アヤ」


スヲンの声が、その先への抵抗まで溶かしていく。


「……っ…スヲン」


手に持っていた紙がくしゃりと独特の音をたてて変形した。握りしめたのは自分のはずなのに、アヤは恨みがましくスヲンを見つめる。
「なに?」わかってて尋ねてくる彼氏はきっと性格がよろしくない。
おまけに変形した紙を取り上げてきたスヲンは無言のまま、空いた両手でフレアスカートをつかむように誘導してくる。


「ふぁっ!?」


形の良い指がショーツの上から滑り込んできて割れ目を強く往復しただけ。
それだけなのにこれは一体どういうわけか。
アヤは驚いた顔でスヲンを見つめ、その瞳の中で足を震わせて困惑する自分の顔が力なく首を横に振るのを見つけた。


「いつから濡らしてた?」

「…っ…ァ、違…」

「悪い子だな」


静かに上半身を重ねて左耳に囁くスヲンの声が低く響く。
腰に回されたスヲンの腕で、それ以上後退できないのをいいことに、ショーツを避けて侵入してきたスヲンの指は悪戯に陰核を弾こうとしている。


「ヤダ…っ…ぁ…指、スヲ…ッぅ」

「アヤ、声は我慢。出来るな?」

「だってそ、ぁ…ヒッぅ…~~~っ」

「ん?」


文句を口にしようとした唇を噛み締めて腰を振るアヤの頬にスヲンが問いかける。
本当は文句を言おうと思っていた。朝起きた時から今日一日。会えたら「嘘つき」と一番に伝えようと思っていた。スヲンが元通りになるという言葉を信じて目を開けたそのときからずっと、感じ続けていた違和感が、ここにきて正常に機能する。


「待っ…て…ンッ、ぁ」

「何を待てばいい?」

「なに、って、そ…ぁ…ァ」


スヲンの指が往復するたびに腰が振れて、足が揺れる。
その手首を両手で塞いでみても意味をなさないことはわかっている。そもそもスカートの裾を持ち続けることを強制された手は柔らかな布を握りしめるだけで、否定の共犯にはなってくれない。
快楽には抗えない体だということは、他の誰よりも自分が一番よく知っている。


「……ッ……ぃ…ぁあっ」


顔見知りの社員じゃなくても、不特定多数が出入りできる会議室で快楽の声をあげるのはマズい。そう思っているからこそ、ぎりぎりのラインで耐えているというのに、スヲンは面白がっているのか身体を密着させて指の加速を始めている。


「アヤ、それは煽っている?」

「…~~~ふっ、ぁ…スヲン」

「そんな目で見つめて来るなんて卑怯だ」

「ど……っ、ちが」

「ほら、ねだってごらん。上手に出来たらすぐにいけるよ」


首筋から頬を通って耳に囁くスヲンの吐息が心臓に悪い。
たしかに指を乱暴に差し込まれてぐちゃぐちゃに乱されれば呆気なく果てることは叶うだろう。実際に、それを望んでいることは否定しない。
陰核をぬらぬらと蜜で擦られるだけでなく、スヲンの思うままに激しくかき混ぜて欲しいと下半身は腰を揺らしている。


「はぁ…っ…ぁ…はぁ…ァッ」


スヲン。その名前を呟けば最後。アヤはわかっていてスヲンの首筋に顔をすり寄せる。
そればかりか、その先をねだるように足は宙に浮き、体重をスヲンに預けるようにして腰の力が抜けている。このままスヲンの指が乙女の割れ目を往復し、アヤの望むとおりにことが運べば数分、いや数秒でいきたい世界にいけるだろう。


「スッ…ぅ…~~~~んっん」


前言撤回。深い口付けと共にアヤは呆気なく果てた。
びくびくと引き付けを起こす腰ごとスヲンの指に身をゆだねて余韻に浸る。
いくら朝から勃起し続けていたとはいえ、蜜を生み出す壷にいれらてもいないのに、果てた現実が恥ずかしくてたまらない。粘着質な音ばかりが耳に届いて嫌気がさすが、この場合、その状況を作り出しているのはスヲンなのだから責任は自分にないと思いたい。


「悪い子だ」


熱のこもったスヲンの言葉を非難がましく見つめてしまったのは、そういう理由からだと脳内は言い訳を繰り返す。
何をもって「悪い」とするのかは知らないが、クリトリスを勃起状態で一日過ごさせた彼氏のほうが善悪で言えば悪だろうと反撃したくなる。


「ンッ…ぁ…スヲン…んっ」


キスで黙らせてくるスヲンは正しく悪人なのかもしれない。


「クリトリスだけじゃ足りない?」

「んっ…ぁ…~~ふぅ…ぁ」

「俺の指をこんなに濡らして。可愛い子猫ちゃんは何が欲しいのかな?」

「……スヲン…の…スヲンのが…欲しい」


羞恥をかなぐり捨てて本心を告げたのに、まさかのスヲンは深い笑みを宿して額にキスをくれるだけ。
それが何を意味するのか正しく理解できず、アヤは不可解な顔でその瞳をじっと見つめた。


「ああ、そういう顔をしないで。ロイみたく俺までアヤを監禁したくなる」


誤魔化すキスにしては随分甘やかしが入っていると感じる。
それはスヲンが苦笑交じりに唇を重ねてくるせいかもしれない。そういう顔とは相変わらずどういう顔かわからないが、監禁されるのは冗談か本気か境界線が曖昧なので進言するわけにもいかない。


「職場ではしない。アヤが約束させたんだろ?」

「…そ…ぅ…ッ…だけ、ど…」

「これ以上は確実に怪しまれるし、誰もここに入ってこない保証はないよ?」

「……ぅ」


アヤは観念したように嘆息すると、無意識の内にスヲンに巻き付けていた足を降ろして不満足な息を吐く。


「……今晩は帰ってくる?」

「アヤの寝顔は見に帰るよ」

「そういう意味じゃなくて」

「善処する」


ワガママをいうつもりはない。
スヲンが忙しいことは雰囲気でわかっている。ホテルの相部屋に帰ればロイとランディがいるから寂しいというのは嘘になるかもしれないが、アヤにとっては三人そろっていることが普通で、誰か一人が欠けていればそれは正しく欠けているのと同義。


「スヲンがいないと寂しい」


素直にそう告げてみれば、スヲンは少し驚いたように目を見開いたあとで今までにない優しい瞳で微笑んだ。


「アヤ、ここで抱き潰していい?」

「……ここは、ちょっと」


縦に首を振れば、容赦なく抱き潰してくれただろう。
一度快楽の頂点を体感してしまったことで、理性がスヲンの提案を否定してしまったことに後悔はない。と思いたい。
自分で約束させておいて矛盾していると呆れられるだろうか。
頭を撫でて離れたスヲンの体温を名残惜しく思う心が、言いようのない息を吐いて唇をとがらせる。


「可愛いアヤ。俺を仕事に戻らせてくれる?」

「……私も、もう戻らなきゃ」

「パーティーが終われば時間がとれるから」

「ほんと?」

「俺が帰るまでロイとランディに甘えてろ」

「それは…そう、なんだけど」

「不足した分を補充させてもらうから体力は残しとけよ」

「……っ、う、うん」

「いい子」


現金なやつだと思われてもいい。
スヲンに文字通り目と鼻の先で微笑まれてキスを落とされると、自然と全部を受け入れてしまう。特に「いい子」と評価されると弱い。


「しょうがないなぁ」


顔のデッサンが狂ってしまうのは仕方がない。クリトリスが元に戻らない文句も忘れて、仕事に戻るスヲンの背中を見送った。


「アヤちゃん、お帰り。どうだった?」

「事務選抜は当日の受付リーダーになるらしかった」

「まじ?」

「うん。詳細メールを送られているはずだから見に戻って来たの」


事務室へ戻ってくるなり出迎えてくれた萌由に答えながらアヤは自分のパソコンを開いて笑みを零す。
スヲンからの業務メールひとつで喜んでしまう顔は今さらどうにもならない。
萌由が指摘してきた赤い顔を「説明会場の席が窓際だったから日焼けしちゃったのかも」と夏のせいにして、スヲンとの指先だけの情事に関しては内緒にした。


「うわ、ごめん。そんな役になるとは思ってなかった」

「萌由も」

「そんな。相園さん気にしないでください。萌由ちゃんも。会場受付用のパソコンは今日中にIT部が運んでくれるらしいし、案内役は秘書課が持ってくれるそうです。事務統括は別にいますし、当日の受付だけをもつ感じなので」


メールの文面を確認しながら二人に内容を告げていたアヤは、最後に添えられた『当日は自由が利くよう業務調整しておくように』という言葉に息をついた。


「金曜日のスケジュールなんですが、私は直行直帰しても大丈夫そうですか?」


添えられていた文面に、金曜日のスケジュールを確認する。
通常の仕事は特に専門を受け持っているわけではないので、萌由やカツラたち他のメンバーで補えるだろう。実際にそれを報告がてら口頭確認すると、同情こそされたものの、問題ないと言い切ってくれた。


「出来る限り協力するから一人で負担にしないでね」

「うんうん。最後まで一緒に踏ん張ろう」

「相園さん、萌由ちゃん、ありがとうございます!!」


頼もしい同僚たちに恵まれた幸せを噛み締め、会場の下見がてら同じホテル内の部屋に直帰した直後、アヤはその日の一日を呪う羽目になっていた。
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