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第四章 埋まりゆく外堀

第四十七話 日本支社の同僚

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八月最初の月曜日。日本の会社に出社するのは三回目の朝。
ホテルから会社に真っ直ぐ向かったアヤは、会員証を通してエレベーターに乗り込み、与えられたデスクのある事務室に入って「おはようございます」と挨拶をした。


「おはようございます」


返ってくる同年代の声が今日も明るい。
天気も良く、蝉も元気に鳴いていたので、これから猛暑になるだろう日でも頑張れそうな気がしてくる。
これがアメリカ研修に行く前と同じ会社だったら多分、いや絶対無理だったと断言できる。嫌味な上司も無口な先輩もいない。社内環境は大事だと一人うなずきながらアヤは自分のデスクに腰かけて、朝のメールチェックのためにパソコンを開いた。


「ねぇねぇ、斎藤さん。聞きました?」

「何がですか?」

「今日はすっごいお客様が来社するらしいですよぉ」

「すっごいお客様ですか?」

「そう……って、今日は何かいつもと違う匂いがする。香水変えました?」

「え?」

「あ、しかも腕時計かっこいい。ネックレスも新しいやつですか?」

「……ぅ」

「わかったぁ。彼氏からのプレゼント!!」


するどい。オシャレ女子の的確な観察眼に息を呑むしかない。
アメリカの本社ではロイと付き合っていることが公認となっていても、日本支社ではそうもいかない。それにスヲンもランディもいる。出来ることならこのまま穏便に、安定した空気で社内生活を送りたいと思う。
けれど、反面。あの素敵な人たちと相思相愛であることを知ってほしくなる。この奇跡を語ることが許されるなら、永遠と惚気話を聞いてほしい。


「耳まで顔真っ赤ですよ。図星ですね」


こそっと耳元で告げられた冷やかしに、アヤは素直に首を縦に振る自分自身に心臓を高鳴らせていた。
ドキドキする。
自分に彼氏がいることを第三者に知ってもらえる悦が熱い。


「それでは朝礼を始めます」


助かったと、胸を撫でおろしたのはいうまでもない。
アヤは他の職員同様、窓際中央のデスクから声をかけてきた上司の方を向き、今日の予定に耳を傾けることにした。


「本日は、先日よりアナウンスしていた広告モデルのキム・ヨンヒが来訪されます。事務は特に立ち寄らないと聞いていますが、何か依頼があった際は迅速に対応するようにしてください」

「……きむよんひ?」


どこかで聞いたことがある名前だと、アヤは思考を唸らせる。「きむよんひ」一度聞けば耳に残る名前なのに、なぜか顔が浮かんでこない。すぐそこまで出かかっているのに、出てこない時ほどもどかしいことはない。
これが十代であれば、すぐに合致しただろう。とはいえまだ二十代。出来れば他人から教えられる前に思い出したい。
そうして一人記憶と戦っていたアヤを置いて気付けば朝礼は終わり、周囲はデスクに腰を落ち着け始めている。


「んー……きむよんひ」


雰囲気に流されるままアヤも慌ててそれに習いながら、顔をあげて社内の壁にかけられたポスターに目をとめて思い出した。


「え、女優のキム・ヨンヒ?」


女優。なんていう簡単な単語で表現しているが、実際その活動は多岐にわたる。韓国出身の有名なトップモデルで、その美貌から「世界美人ランキング」には必ず名前が乗ると言われている。抜群のプロポーションと八か国語は喋れるという語学堪能ぶりに加え、今ではハリウッド映画にも出演し、「シャーリー号の奇跡」という映画では有名な賞を受賞していた。
そんな国際的に有名な彼女を広告に起用しているとは、今さらながらに自分の働いている会社の凄さを実感する。


「あの体型で子ども三人いるとか信じられないわよね」

「え、ヨンヒって子どもいるんですか?」

「まあ、夫が夫だし。お金はたくさんあるだろうから、かけるところにかけてるんだろうなとは思うけど」

「詳しいですね、えっと」

「相園カツラ。わからないことあったら気軽に聞いて、先週は私が有給とって休んでたから初めましてだよね」

「あ、初めまして。斎藤アヤです」


突如左隣から聞こえてきた声に反応した流れで自己紹介される。
ショートカットに無地のパンツスタイル。薬指に指輪だけのシンプルな装い。サバけた雰囲気がどことなくセイラに似ているが、落ち着いた家庭的な部分がにじみ出ている。


「ずるーい、カツラちゃん。あたしが先にアヤちゃんに目を付けてたのにっ」

「え?」


右隣から対照的なふわふわ系の女の子に上目遣いで見上げられると戸惑ってしまう。
香水とアクセサリーを指摘してきた観察眼の鋭い彼女。朝からやたら距離が近いと思っていたが、いかにも可愛いオシャレ系女子に詰められると委縮してしまうのはなぜだろうか。
斎藤さんからアヤちゃんに呼び方も変わっているが、気にすべきところは別にある。
ゆるく巻いた茶色のロングヘア―にシフォンスカートとノースリーブシャツ。二の腕を惜しみなくさらけ出せる細さのくせに、どうしてもその胸の大きさに目が行ってしまうのを止められない。


「…っ…大きい」

「ふふ、萌由(もゆ)のおっぱいアイカップなんですぅ」

「……あい」


思わず指折り数えて大きさを確認してしまった。
それから自分の胸を見下ろして、負けた気分が哀愁を誘う。


「先週は電話かわってもらえて助かりましたぁ」


語尾を伸ばす独特の喋り方に空気が抜かれる。そういえば先週、セイラからの怒号の国際電話を替わったことを今さらながら思い出した。


「あ、いえ。ああいうときはお互い様なので」

「アヤちゃん、大人ぁ。ねぇねぇ、アメリカ研修ってどんなのだった?」

「ちょっと、三原。仕事中に私語しすぎ」

「えー、カツラちゃんのけちぃ。最初に喋りかけたのカツラちゃんなのにぃ」

「語尾を伸ばすな。あと、私を下の名前で呼ぶな」


本当に前の会社と同じかと再度疑う。
朝のメールを確認しながら声を飛ばし合う両サイドの二人に、どうにかやっていけそうだとアヤは人知れず笑みをこぼしていた。


「アヤちゃんって本当色気があって可愛いですよねぇ」

「三原みたいに作った可愛さじゃないから余計に引き立つわ」

「な、カツラちゃ…あ、電話出ます」


切り替えの速さが凄すぎる。派手なネイルでキーボードを叩きながら国際電話に対応する変貌ぶりは、一種の変身ものを見ているような気分にさせてくれるのだなと感心するしかない。
さすが、能力重視の会社。
語尾を伸ばすふわふわ系女子が英語をしゃべりながらキーボードを爆速で打ち鳴らしていくのを横目に、どこの国かわからない言語を英語と日本語に訳していく反対側のもう一人を眺めて顔面蒼白になる。


「二人とも、凄いですね」


呆然と棒読みでそう告げれば、二人ともそろって「ま、これくらいはね」と頼もしい声ぶりでこたえてくれた。


「アヤちゃんのことは、萌由とカツラちゃんでサポートするから。なんでも遠慮なく頼ってねぇ」

「サポートされておきながらよく言うわ」

「あれは…ぅ…たしかに。ありがとうございました」

「いえ。あの、こちらこそよろしくお願いします」


ぺこりとアヤは新しく同僚になった二人の間で頭を下げる。
日本支社三日目。ようやく自分の職場だという意識が芽生えた気がした。


「でもあのときのアヤちゃん、めっちゃかっこよかったぁ」

「私のところにも連絡来たわ。だから今日会えるの楽しみだったのよ」

「そんな……大袈裟ですよ」

「いやいや、前体制一斉解雇の生き残りで海外研修帰りの先輩ってだけでも怖そうって思ってたのに、仕事のフォローも自然で、真面目で優しいってギャップにかなり盛り上がったって聞いたけど?」

「……え?」

「あの瞬間、アヤちゃんに惚れた人続出したよぉ。話しかけるタイミング失ってて、今日は絶対話すって決めてたんだ」


左右からの思いがけない賛辞に顔が赤くなる。
仕事で直接的に褒められると素直に嬉しいし、何より距離を感じていた輪に馴染めそうな雰囲気に心が浮かれる。


「……相園さん、三原さん」

「えぇ、そんな他人行儀なのやめよーよ。萌由のことは萌由ちゃんって呼んでほしい」

「え、あ。じゃあ、萌由さん」

「ちゃん」

「……萌由、ちゃん」

「ん、おっけー。あと敬語もやめよ、入社時期でいえばアヤちゃんのが先輩だし、萌由たちみんな同じ年だし、助け合う仲間って感じでいきたい、ね?」


同じ年。そう言われると、個性という言葉で表現したくなる。
結局「相園さん」「萌由ちゃん」という呼び名に定着しそうな雰囲気のまま、アヤは朝の仕事を終え、時刻は昼を回り、ランチに行く人で空席が出始める頃合いになった。


「アヤちゃん、お昼はどうするぅ?」

「私は何か適当に社員食堂にでも行こうかと」

「カツラちゃんは今日もお弁当?」

「そうよ、デスクで食べるからおかまいなく」


そう言って相園カツラは自分のデスクにお弁当を広げている。
別に食事は自由なのだから、それをとやかくいうつもりは毛頭ない。けれど、アヤはカツラとそのお弁当のあまりの違和感に目を奪われていた。


「か…、可愛い」

「ああ。これ、子どもの弁当を作るついでだからどうしてもこうなっちゃって」


いわゆるキャラ弁はシンプルという言葉が似合う相園カツラに反比例して我が物顔でデスクを陣取っているのだから、人は見かけによらないというべきか。


「アヤちゃん、行こう。人気のメニュー売り切れちゃうよ」

「あ、はい。では、相園さん。行ってきます」

「いってらー」


ひらひらと手を振るカツラを残して、アヤは三原萌由の後に続く。すれ違う男性陣たちの視線をイヤというほど感じるのは、もしかしなくても萌由の歩幅に合わせて揺れる重量のある胸のせいだろう。


「やっぱお肉だよね、お肉最高ぅ」

「……え」


無難に日替わりAランチを頼んだアヤの横で、大盛りチャーシュー麺をほうばる萌由の姿にもすれ違う人の視線は突き刺さる。
そのたわわに実った脂肪の正体はお肉なのかと、ついつい観察したくなる。


「うまぁーい。ここのチャーシューは絶品なんだよ、はい、いっこあげるぅ」

「え、あ、ありがとう?」

「あはは、疑問形うける」


巨乳のふわふわ女子が大盛ラーメンを食べる姿は圧巻だった。いっぱい食べるキミが好きというフレーズが脳内で音楽再生されるくらいには、気持ちいい食べっぷりに見惚れてしまう。
そのときキャーと甲高い女性の声援が聞こえて、男性の声援がざわめきを誇張する。次第にその波が近付いていることに気付いたアヤは萌由から顔をあげ、その出所を探し当てた。


「わぁ、あれ。キム・ヨンヒじゃない?」


アヤの視線の先に気付いた萌由が歓声の正体を口にする。実際、男も女も総立ちで眺める場所には、一般人が持っても持てないオーラを身にまとった絶世の美女が歩いていた。
ただ、アヤは有名女優よりもその横に立っていた顔見知りに驚きを隠せない。


「……スヲン?」


絵になりすぎて、眩しい。
彼氏の一人が世界的有名人のとなりに立ち並んでも違和感がないことに内心のトキメキが止まらない。それでもよくよく観察してみれば、スヲンが迷惑そうな顔でキム・ヨンヒに応対しているように見えた。元気がなさそうにも見える。
どこか具合でも悪いのだろうか。
仕事に関しては黙々とこなすスヲンが、珍しい。


「アヤちゃん、早く食べないとランチタイム終わるよぉ?」

「え、あ、ああ」


萌由にうながされてアヤは意識を目の前の食事に向け直す。
そのあとは意外と静かに業務は進み、アヤは定時に仕事を終えてロイたちの待つホテルへと時間通りに帰っていた。
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