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第二章 共通の知人
第二十一話 突然の訪問者
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睡眠不足の木曜日が過ぎ、金曜日の夜。時刻は夜の十時過ぎ。
スヲン、ロイ、アヤ、ランディという座席位置でテレビを見ながら過ごしているとコンコンコンと扉を叩く音が聞こえてきた。最初は気のせいかと思ったそれも、どんどんどんと近所迷惑になりそうなほど強い力で来訪を訴えてくる。
「……はぁ」
ソファーの一番端に座っていたランディが一度キスを求めてから立ち上がり、玄関へと足を運ぶ。アヤはその姿を目で追っていたが、気にしなくていいとロイに頭を抱えられてキスをされ、ついでにランディの抜けた穴を埋めるようにスヲンが座る場所を移動してきたせいで意識が途切れる。
ところが、ランディの声にそうも言っていられない事態が舞い込んできたのだということは理解できた。
「ロイ」
ランディがロイを呼ぶ。
仕方なく立ち上がったロイが玄関に足を運ぶなり、今度は「スヲン、電話」と短い声が飛んできた。
「え、何?」
「なんだろうね」
よしよしとスヲンが頭を撫でてくれているが、もう片方の手はすばやく携帯の上を滑り、どこかへ電話をかけていた。
ロイは「電話」としか言っていないのに、誰にかければいいのかわかったというのだろうか。アヤはまじまじとスヲンの顔を眺めて、その電話相手が誰かに意識を集中させる。
「イーサン、急患。そうだ、今から行く」
たったそれだけ。
疑問符を浮かべながら眺めていた額に軽くキスをくれるが、まったく状況が飲み込めない。自分はどうすればいいのだろう。それすらもわからないまま、スヲンまで席を立ってしまったリビングのソファーの上でアヤはじっとしている。
「アヤも一緒においで」
いつのまに上着を手にしていたのか。すっかり寝間着だったので、どこかに行くなら着替えたかったのにそうも言っていられないらしい。
スヲンが上着を肩からかけてくれるのを他人事のように眺めていたが、アヤは足を運んだ玄関先で事態は緊急を要するのだと理解した。
「え、なに?」
そこには大量の血の跡。
壁に手形が押され、ずり落ちたように赤いシミが床まで弧を描いている。
そこで改めて、イーサンという人物が例の闇医者だったことを思い出した。
「スヲン。アヤに目隠ししてないの!?」
これは駐車場から車をまわしてきたロイの声。後部座席にランディと血痕の持ち主が乗っているようだが、スヲンはアヤを助手席に促して、自分は後部座席に乗り込んだ。
「ロイ、急げ」
「イーサンには連絡済みだ」
「はぁ…もう。アヤ、シートベルトちゃんとして」
「え…は、はい」
「怖かったら目を閉じててもいいし、耳を塞いでいてもいいから」
言われるままにシートベルトをしたアヤを確認するなり、ロイはバックミラーで後方を確認してアクセルを踏む。
週末の夜の街は眠るにはまだ早く、家々の明かりがともる中をアヤは暗がりの方へ向かって走る車に揺られていた。ロイの指がハンドルを握って静かに進んでいく。
目も耳も塞がなかったが、後部座席は怖くて確認できなかった。
「連れてきたんですか?」
これは手袋をはめながら出てきたイーサンの開口一番の言葉。
てっきり患者に向かって問いかけられたものだと思っていたのに、アヤを見た後で非難がましくロイを映した目を見る限りではそうではないのかもしれない。
「家に置いておくわけにいかないでしょ」
「戦場に女性とは」
「別にここは戦場じゃないし」
「同じことです」
言いながら後部座席に身体をめり込ませて、イーサンはランディが抱える人物の状態を確認しているらしい。時折うめき声があがるが、生きているのだとわかってアヤは人知れず胸をなでおろした。
「アヤ。イーサンの言うことは気にしなくていいから。だけどボクの傍を離れないで」
「…っ、はい」
降りる気配がしてアヤも続く。シートベルトを外してドアを開ける前に「お前たちは手伝え」とイーサンがランディとスヲンに向かって指示を出していた声を聞いた。
はっきり言って、普通の病院ではない。
ビル群から車で十分。橋を望む川の傍にひっそりと立つ廃墟のような倉庫のようなレンガ造りの建物。入り口付近にある見落とすほど小さな看板には「タトゥー、ピアス、その他」の文字と、わかりやすいアイコンが添えられている。
週末の夜にアポイントもなく尋ねてきた人物を送り込んだ場所。タトゥーでもピアスでもなさそうな彼に当てはまるとすれば「その他」なのだろうが、それらすべてを対応するのがイーサンだというのなら、謎しか深まらない気がする。
「ねえ、ロイ」
「ん-、なぁに?」
「あれは、誰。何があったの?」
知る人ぞ知る場所に違いない。周囲に人影はなく、車の通りもほとんどない。
近くを流れる川は黒い水を静かに流しているが、それさえもどこか不気味に感じるほど静寂が夜を包んでいる。
「何があったかはボクたちにもわからないから、これから知っていくことになると思うけど。あれは、ランディの弟アレックスだよ」
「アレックス?」
アヤは無意識にロイの腕に手をまわして尋ねていた。
先に入っていったイーサンたちは他に人気のない建物のどこへ消えてしまったのだろう。
前に訪れた時は怖いと思わなかったこの場所に、今度は肝試しに挑戦するほどの気分で足を踏み入れることになろうとは。
「エドガーって覚えてる?」
「……セイラの?」
「そう。エドガーが仕切ってるチームに、ね。これ以上は本人から直接聞いた方がいい」
ロイと歩く廊下の雰囲気が、見たことのある場所に代わっていく。
そういえば、先週はここの突き当たりにある病室でセックスしたのだと思い出した途端、恐怖がぶっ飛んだ。
「こ…こえ、意外と…響くね」
「そうだね。この間のアヤの声もきっとよく響いてたと思うよ」
ロイの返答に顔が真っ赤になる。あの日はセイラもいた。
薬のせいで意識が朦朧としていたとイーサンは言っていたが、本当に聞かれていなかったと信じたい。もしかしなくても自分の喘ぎ声で起こした可能性が浮上してきて胸が苦しくなる。
「ごめん、セイラ」
心中で謝ったのも無理はない。ランディの弟だというアレックスのうめき声が幽霊屋敷のように響いているのだから、きっと自分の声も大差なく聞こえていただろう。
恥ずかしい。
腕に抱き着いたまま真っ赤な顔でうつむいたアヤをつれてロイは歩き続ける。
「ここで座ってよっか」
建物内は広いが、手入れされている部分はそう多くはない。
待合室と呼んでいいのかどうか微妙な空間にある椅子に腰かけると、少しさび付いた様子で椅子はギ…と音をたてながら重力に耐えた。
「アヤ、怖い?」
「ん…ロイがいてくれるから平気」
正直にそう答える。色々な事情で恐怖を感じなくなったともいえるが、ロイがいるから大丈夫だと思えるのは嘘じゃない。けれど、気にならないかと問われればそうではない。
うめき声が止んだ様子にアヤが顔をあげると、ランディとスヲンが姿をみせた。
「ランディ、服は?」
上半身裸のランディは自分の姿に気づいたように「ああ」と短く息を吐くと、「血で汚れたから捨てた」と説明をくれた。
暗がりでみても逞しさは隠しようがない。
ケガをしていないことはわかっているのに、アヤはランディの身体を確認するように手のひらをぺたぺたと押し付けていた。
「怖がらせたな。アヤ、俺は大丈夫だ」
「うん…っ、うん」
ぎゅっと抱きしめてキスをくれるランディにホッとする。
緊張していたのだと自覚して涙腺がゆるんだのか、でもどうして泣きそうなのかわからずに、アヤはランディの胸に顔をうずめながら首を縦に振る。
生きている。それが単純に嬉しい。
「スヲンも大丈夫?」
「ん、ああ。心配してくれたのか。ありがとう、アヤ」
スヲンは家から出てきたときの格好のままロイの隣に腰かけていた。
ランディの腕のなかにいるアヤの頭を座りながら腕だけを伸ばして撫でてくれるが、その距離の取り方に疑問符が浮かぶ。
「……スヲン?」
しゃがんで下から覗き込んだスヲンの目が怒っている。
何に対してかはわからないが、その矛先はついで出てきたイーサンへの態度で誰に対してなのかは理解できた。
「さあ、アヤ。用事は済んだし、帰ろっか」
なぜかロイが立つようにうながしてくる。
珍しくスヲンが無言のままイーサンをにらんでいるが、一体処置中に何があったのだろうか。唯一答えを知っていそうなランディに目を向けてみても、ランディは逆に複雑そうな目でイーサンを見ただけで、誰も何も言わない。
「対価の要求は変えませんよ」
これは静寂をやぶるイーサンの声。
「浅い刺し傷ですし、三日もあれば充分でしょう。経過観察役にアヤを置いておけばいい」
「え、私?」
物騒な単語が聞こえてくる。
イーサンに向かってロイとスヲンが文句を口にしたが、ランディだけがじっとこちらを見つめてくる。一体何が起こっているのだろう。日常会話では使わない言葉を聞き取り、理解するまでに時間がかかる。
グループ、抗争、麻薬、取引、売買、女。おおよそそんな単語が羅列されているが、それと自分がどうして関係するのだろうか。
「大体、人手不足っていうけどな。この間まで働かせてた看護師はどうした」
スヲンの言葉に意識が場面に戻ってくる。
「看護師……ああ、ラット。そういえば数日前から戻りませんね」
「戻らないんじゃなくて、捨てられたんでしょ。イーサンがそんなだから」
「ロイ。何度も言いますが、捨てるも何もそういう関係ではありません」
「そう思ってるのイーサンだけ……はぁ。イーサンと喋ると疲れる」
慰めを求めるようにロイが抱き着いてくるので、そのまま頭を撫でてみるが、なぜか見られている。イーサンにじっと見られている。
「そういう目でアヤを見ないでもらえるかな」
「イーサン。アレックスのことなら放置しておいて問題ない」
スヲンに続いてランディまで加勢している。
ただ、放置しておくという言葉に反応したのはアヤの方だった。
「え、だめだよ」
ロイの腕の中からランディの言葉を否定しただけなのに、なぜそんなにも全員に凝視されなければならないのだろう。彼らは本気でけが人を放置していくつもりだったのか。もし仮にそうなのであれば、それは少し人道的にどうかとも思う。
「傍にいてあげないと」
「これはいいですね。アヤは理解が早い」
「私はアレックスの傍にいたほうが、ンッ」
「違うって。アヤ、余計なことは口にしなくていいから。ボクたちはイーサンがアレックスの傍にいればいいじゃんって言ってんの」
イーサンとアヤの両方に声の音量を変えて喋るロイは器用だ。余計なことを口走ったつもりはないが、傍にいるのが悪いことだとは思えないから引くに引けない。
「傍にいてあげたほうがいいと思う」
どうやら余計なことを口走ってしまったらしい。
ロイの目がじとっと、見つめてくるが、ここは無視するに越したことはないだろう。
「では、アヤがこちらを手伝い。スヲンたちが……」
「わかった、手伝おう」
「……交渉成立だな」
ランディの弟ならなおさら、家族が傍にいたほうがいい。
そう思っていたのに、自分の判断が甘かったなんて気付いた時には時刻は夜の二時半を示していた。
「……ぅぅ…怖い…」
なぜかアレックスと二人きりでアヤは病室に滞在している。
刺し傷は縫合出来ないらしく、点滴で抗生物質を投与しているとイーサンは言っていったが、脇腹にまかれた包帯と汗をかいて苦しそうにうめくアレックスの顔は薄暗い病室でも認識できる。
「どうしたらいいんだろう……死なないよね?」
額に浮かぶ汗をその辺にあった綺麗なガーゼで拭きとってみても、決定的な解決方法にならないことくらいわかる。ここで病態が変化して緊急を要するような状態になったら……想像だけが悪い方に転がる。
「だけど、ランディとあまり似てないなぁ」
筋肉が盛り上がっているので体格はいいが、ランディよりも横幅が一回り大きい。肌の色も黒に近く、髪も細かく編み込んで伸ばしている。腕の鎖鎌みたいなタトゥーはおそろいなのか、そこだけがランディと繋がりを感じさせた。
「……ヒッ…」
指先でタトゥーをなぞっていた手首を突然掴まれて、声にならない息が漏れた。
「おっ…おはよう、ございます?」
あ、ランディと同じ黄緑色の瞳が兄弟っぽい。なんて思っている場合ではない。じっとにらみつけられ、掴まれている手首の圧力に緊張が募っていく。
「あんた、誰だ?」
「……アヤです。傷口、痛みますか?」
「はぁ?」
「ひっ、す、すみません。痛いですよね、ごめんなさい」
そこで初めてアヤの手首を握りしめていたことに気づいたのか、アレックスがハッとしたように手を放して深い息を吐く。アヤは解放された手首をさすりながら、アレックスを盗み見た。
「なんだ?」
「いえ。なんでもありません」
「てか、ここどこだよ」
「イーサン先生っていう人の病院です」
「イーサン……ああ、痛っ」
名前を聞くなりベッドから飛び降りようとしてアレックスは痛みに顔をしかめる。
「なっ、何やってるんですか。ちゃんと寝てください」
「帰るんだよ。治療終わってんだろ、てか兄貴は?」
「兄貴?」
「ランディだよ、俺は兄貴の家に…ッ、痛ってぇ」
「ほら、ちゃんと寝てください」
傷口を抑えて脱出を中断させたアレックスをアヤはベッドに寝かしつける。余程痛かったのかアレックスは素直に従ってくれたものの、依然警戒心むき出しなその態度に緊張はほぐれない。
「アヤ、つったな」
「は、はい」
「いいのかよ。ガキがこんなところに入り浸って。それにイーサンのところで働いてるって、あいつも女の扱いひでぇな」
色々訂正したいことがある。とはいえ、一番に訂正すべきは年齢の部分だろう。
「私はガキじゃありません。少なくともあなたよりは年上です」
「いや、だってどうみても」
「じろじろ見て、失礼ですね。これでも成長してるところはしてます」
「へぇ、たとえば?」
「たとえば…っ…全部ですよ、全部!!」
主に胸、いや、尻か。言いたいことは痛いほどにわかる。ボンキュッボンというわかりやすい体型とは程遠いうえに、お腹とか、二の腕とか、太ももとか、つかなくていいところに肉がついているのだから、みなまで口にしないでほしい。
それでもランディの弟ということは、ランディと同じ年のアヤよりは確実に年下なのだから、ここは年長者として少しでも威厳は回復しておきたいところ。
「今年で27歳です。あなたより年上でしょう?」
「兄貴と同い年……見えねぇな、あんた」
「うるさい」
パコっと手の甲を軽くたたく程度にとどめたのは彼がけが人だから。
それなのに、それの何を気に入ったのか。アレックスはベッドからの脱出をあきらめて、素直にくつろぎ始めていた。
スヲン、ロイ、アヤ、ランディという座席位置でテレビを見ながら過ごしているとコンコンコンと扉を叩く音が聞こえてきた。最初は気のせいかと思ったそれも、どんどんどんと近所迷惑になりそうなほど強い力で来訪を訴えてくる。
「……はぁ」
ソファーの一番端に座っていたランディが一度キスを求めてから立ち上がり、玄関へと足を運ぶ。アヤはその姿を目で追っていたが、気にしなくていいとロイに頭を抱えられてキスをされ、ついでにランディの抜けた穴を埋めるようにスヲンが座る場所を移動してきたせいで意識が途切れる。
ところが、ランディの声にそうも言っていられない事態が舞い込んできたのだということは理解できた。
「ロイ」
ランディがロイを呼ぶ。
仕方なく立ち上がったロイが玄関に足を運ぶなり、今度は「スヲン、電話」と短い声が飛んできた。
「え、何?」
「なんだろうね」
よしよしとスヲンが頭を撫でてくれているが、もう片方の手はすばやく携帯の上を滑り、どこかへ電話をかけていた。
ロイは「電話」としか言っていないのに、誰にかければいいのかわかったというのだろうか。アヤはまじまじとスヲンの顔を眺めて、その電話相手が誰かに意識を集中させる。
「イーサン、急患。そうだ、今から行く」
たったそれだけ。
疑問符を浮かべながら眺めていた額に軽くキスをくれるが、まったく状況が飲み込めない。自分はどうすればいいのだろう。それすらもわからないまま、スヲンまで席を立ってしまったリビングのソファーの上でアヤはじっとしている。
「アヤも一緒においで」
いつのまに上着を手にしていたのか。すっかり寝間着だったので、どこかに行くなら着替えたかったのにそうも言っていられないらしい。
スヲンが上着を肩からかけてくれるのを他人事のように眺めていたが、アヤは足を運んだ玄関先で事態は緊急を要するのだと理解した。
「え、なに?」
そこには大量の血の跡。
壁に手形が押され、ずり落ちたように赤いシミが床まで弧を描いている。
そこで改めて、イーサンという人物が例の闇医者だったことを思い出した。
「スヲン。アヤに目隠ししてないの!?」
これは駐車場から車をまわしてきたロイの声。後部座席にランディと血痕の持ち主が乗っているようだが、スヲンはアヤを助手席に促して、自分は後部座席に乗り込んだ。
「ロイ、急げ」
「イーサンには連絡済みだ」
「はぁ…もう。アヤ、シートベルトちゃんとして」
「え…は、はい」
「怖かったら目を閉じててもいいし、耳を塞いでいてもいいから」
言われるままにシートベルトをしたアヤを確認するなり、ロイはバックミラーで後方を確認してアクセルを踏む。
週末の夜の街は眠るにはまだ早く、家々の明かりがともる中をアヤは暗がりの方へ向かって走る車に揺られていた。ロイの指がハンドルを握って静かに進んでいく。
目も耳も塞がなかったが、後部座席は怖くて確認できなかった。
「連れてきたんですか?」
これは手袋をはめながら出てきたイーサンの開口一番の言葉。
てっきり患者に向かって問いかけられたものだと思っていたのに、アヤを見た後で非難がましくロイを映した目を見る限りではそうではないのかもしれない。
「家に置いておくわけにいかないでしょ」
「戦場に女性とは」
「別にここは戦場じゃないし」
「同じことです」
言いながら後部座席に身体をめり込ませて、イーサンはランディが抱える人物の状態を確認しているらしい。時折うめき声があがるが、生きているのだとわかってアヤは人知れず胸をなでおろした。
「アヤ。イーサンの言うことは気にしなくていいから。だけどボクの傍を離れないで」
「…っ、はい」
降りる気配がしてアヤも続く。シートベルトを外してドアを開ける前に「お前たちは手伝え」とイーサンがランディとスヲンに向かって指示を出していた声を聞いた。
はっきり言って、普通の病院ではない。
ビル群から車で十分。橋を望む川の傍にひっそりと立つ廃墟のような倉庫のようなレンガ造りの建物。入り口付近にある見落とすほど小さな看板には「タトゥー、ピアス、その他」の文字と、わかりやすいアイコンが添えられている。
週末の夜にアポイントもなく尋ねてきた人物を送り込んだ場所。タトゥーでもピアスでもなさそうな彼に当てはまるとすれば「その他」なのだろうが、それらすべてを対応するのがイーサンだというのなら、謎しか深まらない気がする。
「ねえ、ロイ」
「ん-、なぁに?」
「あれは、誰。何があったの?」
知る人ぞ知る場所に違いない。周囲に人影はなく、車の通りもほとんどない。
近くを流れる川は黒い水を静かに流しているが、それさえもどこか不気味に感じるほど静寂が夜を包んでいる。
「何があったかはボクたちにもわからないから、これから知っていくことになると思うけど。あれは、ランディの弟アレックスだよ」
「アレックス?」
アヤは無意識にロイの腕に手をまわして尋ねていた。
先に入っていったイーサンたちは他に人気のない建物のどこへ消えてしまったのだろう。
前に訪れた時は怖いと思わなかったこの場所に、今度は肝試しに挑戦するほどの気分で足を踏み入れることになろうとは。
「エドガーって覚えてる?」
「……セイラの?」
「そう。エドガーが仕切ってるチームに、ね。これ以上は本人から直接聞いた方がいい」
ロイと歩く廊下の雰囲気が、見たことのある場所に代わっていく。
そういえば、先週はここの突き当たりにある病室でセックスしたのだと思い出した途端、恐怖がぶっ飛んだ。
「こ…こえ、意外と…響くね」
「そうだね。この間のアヤの声もきっとよく響いてたと思うよ」
ロイの返答に顔が真っ赤になる。あの日はセイラもいた。
薬のせいで意識が朦朧としていたとイーサンは言っていたが、本当に聞かれていなかったと信じたい。もしかしなくても自分の喘ぎ声で起こした可能性が浮上してきて胸が苦しくなる。
「ごめん、セイラ」
心中で謝ったのも無理はない。ランディの弟だというアレックスのうめき声が幽霊屋敷のように響いているのだから、きっと自分の声も大差なく聞こえていただろう。
恥ずかしい。
腕に抱き着いたまま真っ赤な顔でうつむいたアヤをつれてロイは歩き続ける。
「ここで座ってよっか」
建物内は広いが、手入れされている部分はそう多くはない。
待合室と呼んでいいのかどうか微妙な空間にある椅子に腰かけると、少しさび付いた様子で椅子はギ…と音をたてながら重力に耐えた。
「アヤ、怖い?」
「ん…ロイがいてくれるから平気」
正直にそう答える。色々な事情で恐怖を感じなくなったともいえるが、ロイがいるから大丈夫だと思えるのは嘘じゃない。けれど、気にならないかと問われればそうではない。
うめき声が止んだ様子にアヤが顔をあげると、ランディとスヲンが姿をみせた。
「ランディ、服は?」
上半身裸のランディは自分の姿に気づいたように「ああ」と短く息を吐くと、「血で汚れたから捨てた」と説明をくれた。
暗がりでみても逞しさは隠しようがない。
ケガをしていないことはわかっているのに、アヤはランディの身体を確認するように手のひらをぺたぺたと押し付けていた。
「怖がらせたな。アヤ、俺は大丈夫だ」
「うん…っ、うん」
ぎゅっと抱きしめてキスをくれるランディにホッとする。
緊張していたのだと自覚して涙腺がゆるんだのか、でもどうして泣きそうなのかわからずに、アヤはランディの胸に顔をうずめながら首を縦に振る。
生きている。それが単純に嬉しい。
「スヲンも大丈夫?」
「ん、ああ。心配してくれたのか。ありがとう、アヤ」
スヲンは家から出てきたときの格好のままロイの隣に腰かけていた。
ランディの腕のなかにいるアヤの頭を座りながら腕だけを伸ばして撫でてくれるが、その距離の取り方に疑問符が浮かぶ。
「……スヲン?」
しゃがんで下から覗き込んだスヲンの目が怒っている。
何に対してかはわからないが、その矛先はついで出てきたイーサンへの態度で誰に対してなのかは理解できた。
「さあ、アヤ。用事は済んだし、帰ろっか」
なぜかロイが立つようにうながしてくる。
珍しくスヲンが無言のままイーサンをにらんでいるが、一体処置中に何があったのだろうか。唯一答えを知っていそうなランディに目を向けてみても、ランディは逆に複雑そうな目でイーサンを見ただけで、誰も何も言わない。
「対価の要求は変えませんよ」
これは静寂をやぶるイーサンの声。
「浅い刺し傷ですし、三日もあれば充分でしょう。経過観察役にアヤを置いておけばいい」
「え、私?」
物騒な単語が聞こえてくる。
イーサンに向かってロイとスヲンが文句を口にしたが、ランディだけがじっとこちらを見つめてくる。一体何が起こっているのだろう。日常会話では使わない言葉を聞き取り、理解するまでに時間がかかる。
グループ、抗争、麻薬、取引、売買、女。おおよそそんな単語が羅列されているが、それと自分がどうして関係するのだろうか。
「大体、人手不足っていうけどな。この間まで働かせてた看護師はどうした」
スヲンの言葉に意識が場面に戻ってくる。
「看護師……ああ、ラット。そういえば数日前から戻りませんね」
「戻らないんじゃなくて、捨てられたんでしょ。イーサンがそんなだから」
「ロイ。何度も言いますが、捨てるも何もそういう関係ではありません」
「そう思ってるのイーサンだけ……はぁ。イーサンと喋ると疲れる」
慰めを求めるようにロイが抱き着いてくるので、そのまま頭を撫でてみるが、なぜか見られている。イーサンにじっと見られている。
「そういう目でアヤを見ないでもらえるかな」
「イーサン。アレックスのことなら放置しておいて問題ない」
スヲンに続いてランディまで加勢している。
ただ、放置しておくという言葉に反応したのはアヤの方だった。
「え、だめだよ」
ロイの腕の中からランディの言葉を否定しただけなのに、なぜそんなにも全員に凝視されなければならないのだろう。彼らは本気でけが人を放置していくつもりだったのか。もし仮にそうなのであれば、それは少し人道的にどうかとも思う。
「傍にいてあげないと」
「これはいいですね。アヤは理解が早い」
「私はアレックスの傍にいたほうが、ンッ」
「違うって。アヤ、余計なことは口にしなくていいから。ボクたちはイーサンがアレックスの傍にいればいいじゃんって言ってんの」
イーサンとアヤの両方に声の音量を変えて喋るロイは器用だ。余計なことを口走ったつもりはないが、傍にいるのが悪いことだとは思えないから引くに引けない。
「傍にいてあげたほうがいいと思う」
どうやら余計なことを口走ってしまったらしい。
ロイの目がじとっと、見つめてくるが、ここは無視するに越したことはないだろう。
「では、アヤがこちらを手伝い。スヲンたちが……」
「わかった、手伝おう」
「……交渉成立だな」
ランディの弟ならなおさら、家族が傍にいたほうがいい。
そう思っていたのに、自分の判断が甘かったなんて気付いた時には時刻は夜の二時半を示していた。
「……ぅぅ…怖い…」
なぜかアレックスと二人きりでアヤは病室に滞在している。
刺し傷は縫合出来ないらしく、点滴で抗生物質を投与しているとイーサンは言っていったが、脇腹にまかれた包帯と汗をかいて苦しそうにうめくアレックスの顔は薄暗い病室でも認識できる。
「どうしたらいいんだろう……死なないよね?」
額に浮かぶ汗をその辺にあった綺麗なガーゼで拭きとってみても、決定的な解決方法にならないことくらいわかる。ここで病態が変化して緊急を要するような状態になったら……想像だけが悪い方に転がる。
「だけど、ランディとあまり似てないなぁ」
筋肉が盛り上がっているので体格はいいが、ランディよりも横幅が一回り大きい。肌の色も黒に近く、髪も細かく編み込んで伸ばしている。腕の鎖鎌みたいなタトゥーはおそろいなのか、そこだけがランディと繋がりを感じさせた。
「……ヒッ…」
指先でタトゥーをなぞっていた手首を突然掴まれて、声にならない息が漏れた。
「おっ…おはよう、ございます?」
あ、ランディと同じ黄緑色の瞳が兄弟っぽい。なんて思っている場合ではない。じっとにらみつけられ、掴まれている手首の圧力に緊張が募っていく。
「あんた、誰だ?」
「……アヤです。傷口、痛みますか?」
「はぁ?」
「ひっ、す、すみません。痛いですよね、ごめんなさい」
そこで初めてアヤの手首を握りしめていたことに気づいたのか、アレックスがハッとしたように手を放して深い息を吐く。アヤは解放された手首をさすりながら、アレックスを盗み見た。
「なんだ?」
「いえ。なんでもありません」
「てか、ここどこだよ」
「イーサン先生っていう人の病院です」
「イーサン……ああ、痛っ」
名前を聞くなりベッドから飛び降りようとしてアレックスは痛みに顔をしかめる。
「なっ、何やってるんですか。ちゃんと寝てください」
「帰るんだよ。治療終わってんだろ、てか兄貴は?」
「兄貴?」
「ランディだよ、俺は兄貴の家に…ッ、痛ってぇ」
「ほら、ちゃんと寝てください」
傷口を抑えて脱出を中断させたアレックスをアヤはベッドに寝かしつける。余程痛かったのかアレックスは素直に従ってくれたものの、依然警戒心むき出しなその態度に緊張はほぐれない。
「アヤ、つったな」
「は、はい」
「いいのかよ。ガキがこんなところに入り浸って。それにイーサンのところで働いてるって、あいつも女の扱いひでぇな」
色々訂正したいことがある。とはいえ、一番に訂正すべきは年齢の部分だろう。
「私はガキじゃありません。少なくともあなたよりは年上です」
「いや、だってどうみても」
「じろじろ見て、失礼ですね。これでも成長してるところはしてます」
「へぇ、たとえば?」
「たとえば…っ…全部ですよ、全部!!」
主に胸、いや、尻か。言いたいことは痛いほどにわかる。ボンキュッボンというわかりやすい体型とは程遠いうえに、お腹とか、二の腕とか、太ももとか、つかなくていいところに肉がついているのだから、みなまで口にしないでほしい。
それでもランディの弟ということは、ランディと同じ年のアヤよりは確実に年下なのだから、ここは年長者として少しでも威厳は回復しておきたいところ。
「今年で27歳です。あなたより年上でしょう?」
「兄貴と同い年……見えねぇな、あんた」
「うるさい」
パコっと手の甲を軽くたたく程度にとどめたのは彼がけが人だから。
それなのに、それの何を気に入ったのか。アレックスはベッドからの脱出をあきらめて、素直にくつろぎ始めていた。
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※2022年アンソロジー「十二月恋奇譚」寄稿作品
※無防備な子ほどイトシイをコンセプトにしたドルチェシリーズにも掲載
》》https://fancyfield.net/main/dolce/
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