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Story-07:さらわれた姫君

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どんよりとした重苦しい湿度と、どこか薄暗い室内に、目覚めたばかりのラゼットの気持ちがふさぎ込んでいく。
泣いて目覚めた朝など何年ぶりだろうか。
相当ひどい顔をしていたに違いない。いつもなら嫌味のひとつでも飛ばしてきそうなフランでさえ、痛々しそうなものを見るような目で見つめてきただけだった。


「今日は一人でいたいの」


朝の支度を無表情でこなしたラゼットに、フランは何か言いかけて承諾の息を飲み込んだ。


「祈りを捧げてくるわ」


それだけを短絡的に告げた後で、ラゼットは毎日の日課をこなしに部屋を出る。途中、アキームにもすれ違ったが、ラゼットは無言でアキームのそばを通り抜けただけだった。
リゲイドの口から突き放されるような否定の言葉を吐かれたのはつい昨日のこと。


『お前には同情している。夫婦としての役目なら果たしてやってもいい。だが、俺がお前を愛することはない。』


どうして触れてくれないのかというラゼットの質問に対して、リゲイドは深く冷たい海の底のような色をした瞳でそう答えた。
愛することはない。
それなのに果たさなければならない夫婦の役目などあるのだろうか。


「……あるんでしょうね」


ラゼットとリゲイドは最強の盾と最強の矛。
それ以前にオルギス王国とギルフレア帝国の友好の証。世継ぎとなる子供を産んで初めてそれは形となり、民の信頼を得られるものなのだろう。


「お母さまもこんな気持ちだったのかしら」


決して夫婦仲がよかったとは言えない両親を思い出し、ラゼットは一人、寂しそうな声でつぶやく。


『俺には俺の望むものがある。』


たしかにリゲイドはそう言っていた。


『お前がどれほど祈り続けても叶えられない俺の願いだ。』


祈りが万能ではないことをラゼットは知っている。望んだことがすべて叶うほど、世界は甘くできていない。いつだって残酷で、人の努力や願いなど意図も容易くなかったことにされる方が多い。
それでも、誰かの、何かの力になりたいと思ってきた。
傲慢にも盾の力があれば、常人よりかはその力になれると思っていた。


「リゲイド様の願いはなに?」


昨晩から一人で何度も何度も問いかけてみたが、答えなどもらえるはずもない。
静まり返った寝室で一晩中寝ずに待ってみたが、結局リゲイドは帰ってこず、ラゼットは徹夜でその思いを巡らせていた。そして気づいた。自分は何も知らないということを。
仮初の夫婦だと思われるのも無理はない。
ラゼットはリゲイドの、リゲイドはラゼットの肩書に縛り付けられた表面の顔しか知らないのだから。


「……おばあさま」


こんなとき、いつも優しく包み込んでくれた大好きな祖母はもういない。
城の一番高い場所に設けられた祈りの塔へと続く階段をのぼりながら、ラゼットは十五年前に命を奪われた祖母の言葉を思い返していた。


『いいかい、ラゼット。』


記憶の中の祖母は、まだ小さなラゼットと目線を合わせるようにしゃがみこむ。


『祈りは自分のためにあるものではないの。』


深い紫色の瞳は、まるで宝石のように綺麗だった。


『誰かのため、何かのため。自分がもてる全てを与えたいと思う気持ちが大事なのよ。』


そう言って手に握らされたのは、楕円形をした滑らかな白色の石。それは代々、盾としての役割をもつオルギスの姫に継承されてきた祈りの魔石。


『愛する人を守るために、祈りを捧げるのが私たちに授かった力。』

『愛する人?』

『そうよ。思う心、願う心、信じる心が祈りに希望と勇気を与えてくれるわ。』


カツンカツンと軽い足音が円柱の壁に反響して、一定の音をラゼットに伝えてくる。
史上最強のオルギスの祈りと称賛された祖母の力。その重圧に耐えきれず、母はラゼットに冷たく当たるようになり、自らその命を絶ってしまった。
奪われた命と放棄された命。すべては盾としての役割が起こした悲劇にも関わらず、ラゼットの父は未知なる生物からの襲撃ばかりを恐れて、祈りの強化を最優先事項とあげてしまった。
託された宿命の重さを投げ出したくなる時はある。


『その代わり、よく覚えておいで。』


ざらざらとした石壁に手を添えながらのぼる螺旋階段が、ラゼットの記憶に静かな警告の言葉を呼び起こしてくる。


『祈りは心。迷いや、弱さは祈りの効果をなくしてしまうもの。心には強さが必要だよ。』


三半規管を狂わせてくる円柱の塔を上りきるころには、祖母の幻影もラゼットの前から消えていた。


「私は、愛がよくわからない」


塔の先端から吹き下ろしてくる風が、ラゼットの髪をはためかせる。
曇っているとはいえ、眼下には相変わらず美しい光景が広がっていた。底の深い渓谷の内側には森が広がり、川が流れ、オルギスの祈りに守られて栄える見慣れた王国がそこにはある。対して谷の外側。
荒れ果てた荒野がどこまでも続き、むき出しの大地に黒くすさんだ空気が充満している。


「・・・テゲルホルム連邦」


祖母の命を奪ったばかりか、何百年と続く戦相手は今日もめげずにオルギスに向かって攻撃を続けていた。
時折、紫色に歪む空気の膜を見ることができるのは、その場所が攻撃を受けている証。祈りで膜の補充をし続けていないと、いつ、どこが破られてくるとも知れない。


「祈ることをやめたら、どうなるの?」


はるか昔。今から二千年もの昔に、最強の盾と最強の矛の由来とされる一組の男女が、谷を形成したと言われている。
それ以来、二つに分断された世界は底の見えない深い谷を挟んで、人間が住む領域と幻獣魔人族が住む領域とに分けられてきたとされてきた。
盾はその境界線を守るためにオルギスの地に残り、矛は新たな世界を創造するためギルフレア帝国を建国したらしいが、何百年、いや、何千年と続く種族間の争いは、一体いつになれば終焉とみなされるのだろうか。


「私は、リゲイド様とそうなれる自信がありません」


応えてくれる人はどこにもいない。
記憶の中の祖母でさえ、ラゼットの悩みに答えることはできないだろう。


「フィオラおばあさま。私もおばあさまのように最強の盾となれるのでしょうか?」


人間と幻獣魔人族の住む世界の文化や環境はかなり違っていると聞いている。唯一、お互いの世界を行き来できるのが大地の裂け目に存在する謎の塔。
十五年前まではオルギスの領地だったが、今はテゲルホルム連邦の領地となっている。


「おばあさま」


ラゼットは谷の裂け目の中央でポツンと存在する小さな塔を見つめて口を閉ざす。
胸が張り裂けそうなほど苦しかった。
今では、その場所に足を踏み入れることができない。十五年前にテゲルホルムの軍勢に奪われた祈りの塔は、当時の最強の盾と共にオルギスの歴史から葬り去れてしまった。


「どうすれば、リゲイド様に愛されるようになるのかわからない」


ラゼットの声が悲しい風に流れていく。


「どうすれば、フランやアキームと仲良くいられるのかもわからない」


瞳を伏せたラゼットのほほに、小さな雨があたる。


「おばあさま、愛って何ですか?」


突然、降り始めた雨に、吹きさらしの塔の頂上は嵐のように風が舞い踊っていた。
目の前が雨のしずくで遮られていく。
どんよりと曇る灰色のベールは、いつしか祈りの塔へと続く眼下の風景をかき消していた。


「私は何のために祈りを捧げ続けているのですか?」


祈りを捧げてわずか七年。自分でも壮大な祖母の偉功の足元にも及ばないとわかっている。
わかっていて、ラゼットはその問いの意味にとらわれていた。


「私一人の命を犠牲にして生きながらえることに、世界は何を望んでいるのでしょうか」


雨に打たれたホホには、もう涙なのか雨くずなのかわからない雫が伝っていく。
答えは、たぶん見つかりそうにない。
ドーン、ドーンと聞きなれた砲撃音が雨に混ざって上空から聞こえてくるが、ラゼットはそれに歯向かう気持ちが薄れていくのを感じていた。


「祈りなど、ただのまやかしよ」


祈ることで何が救われるというのだろう。
祈ることしかできない自分は無力でしかない。


「私は祈りの力などもう信じられない」


そうしてしばらくじっと佇んだ後で、ラゼットはドンドンと大きくなる砲撃音に急かされるように顔を上げる。
そして、それは唐突に訪れた。


「キャァアアアッ!?」


サーと軽やかな雨の音ではない。突然、雷に打たれたような衝撃が、ラゼットの立つ塔めがけて降り注いできた。
ガラガラと崩れていく石の散弾から身を守るように小さくなったラゼットの体は、ふいに頭に受けた衝撃に記憶が途切れて消えていく。


「ケケケケケケ」


甲高い声が呪詛のように笑っている。


「ついにやりやしたぜ、ダヴィド将軍。女神を手に入れる日が来ましたぜ。ダヴィド将軍、万歳!」

─────────────────
──────────────
───────────

小さい頃の記憶など、ほぼ鮮明に思い出すことはない。
記憶はところどころ断片的で、より強く刻まれた思い出だけがその記憶を形成していると言っても過言ではない。


『どうして悲しそうな顔をしているの?』


小さな女の子が当時、まだ十歳になったばかりのリゲイドに声をかけてきた。


『目が見えないから悲しいの?』


両目を遮るように包帯を巻いた少年を見つけた女の子は、それをリゲイドだとは知らずに声をかけてきたに違いない。


『俺は悲しくなんてない。』


当時、強がることでしか自分を表現する術を知らなかったリゲイドは、その少女が声をかけてきたことですらわずらわしかった。目が見えないのは自分のせい。
自業自得だということはわかっているのに、与えられた力の大きさを呪い、世界を呪うことでか自分を保つこと出来なかった。


『自分に嘘なんかつかなくていいんだよ。心が泣いてるときは、泣いたっていいんだよ。』

「ッ?!」


そのとき、心の中で何かがはじけた音を聞いた気がした。
目の見えないリゲイドには、その少女がどういう表情でその言葉を口にしたのかはわからない。それでも救われた。
勝手にあふれてくる涙が包帯を濡らし、まだ完治していない両目に光を与えてくれたようだった。


『私が祈っていてあげる。あなたが幸せになるように。』


少女は包帯を濡らすリゲイドの手のひらに、そっと小さな石を握らせてくれる。
それは手のひらに治めるには少し大きく滑らかな触感。


「こ、れは?」


心の中で声にならない質問をしたことが懐かしい。


『これは私の大事なお守りなの。今はあなたに貸してあげる。だから、もしね。』


少女の声は、優しく温かくリゲイドの暗く荒んだ心の棘を溶かしてくれるようだった。


『私が泣きそうになった時、今度はあなたがそれを返しに来て。』

「ああ。約束するよ」


今ではもう手のひらにすっぽりとおさまるようになった小さな石に、リゲイドは強い意志の言葉を吹き込める。


「必ず見つけて、今度は俺がお前を守ってやる」


白く滑らかな楕円形の石。
その石は十歳のころからリゲイドの精神の支えとなり、心の強さを保ってくれていた。


「最強の矛と言われるまでの強さになったのはお前のおかげだ」


誰に聞かせるまでもなく、リゲイドはその小さな石に向かって話しかける。
いつしか窓の外には雨が降り始め、下町のすすけた宿の中はさらに埃っぽい匂いが充満していた。


「俺は帝国のために力をつけてきたわけじゃない」


簡素なつくりの部屋が落ち着くのは、物心ついた時からずっと質素な暮らしを強要されてきたからだろう。オルギスで与えられた王宮の部屋は豪華な装飾品で彩られているが、息が詰まりそうな圧迫感にリゲイドは人知れず悩んでいた。
それでも毎晩、ラゼットと寝室を共にするために戻っていたのは、決して愛することなどできないのに、負の遺産に苦しめられる盾と矛としての痛みを少しでも緩和することができたらという形式上のものでしかない。


「俺はラゼットを愛してやれない」


お互いが政略結婚だからと割り切れると思っていた。
事実、ラゼットにはフランとアキームという従者が始終傍についてリゲイドを監視している。それなのに昨日、ラゼットは女性として自分を見てほしいと言ってきた。
だからこそ決めたのだ。しばらく城には戻らない。ラゼットに愛することはできないと理解してもらうために。


「絶対探し出してやる」


愛する女性は、自分を救ってくれたあの時からたった一人。
名前も姿も知らない記憶の中の小さな少女。
手掛かりは白色に滑る楕円形の小さな魔石だけ。


「リゲイド様っ!!」


バンッとドアをけ破るように侵入してきたのは、フランとアキームのどちらかはわからないが、いや、そのどちらにもだろう。監視という名の見張りについていた兵士が、血相を変えて部屋に押し入ってきた。


「はぁ」


自ら護衛を名乗り出てきた下町のガラ悪い連中どもは一体何をしているのかと、リゲイドは人知れずため息を吐く。


「ったく、監視、管理ばかりで嫌になるな」


どこもかしこも息苦しいと、うんざりした顔でリゲイドは魔石を手のひらで包む。
これだけは奪われるわけにはいかない。
自分の人生を奪った矛としての力に唯一逆らうことのできる手掛かりは、ギルフレア帝国にいたころから誰にも触らせたことはない。


「なんだ?」


リゲイドは息を切らした兵士に、早く要件を伝えるようにと冷酷な眼差しを向けた。
その深い紺碧の瞳の温度と亜麻色の髪が魅せる容貌の温度差に一瞬たじろいだのか、兵士がごくりとのどを鳴らしたのがわかった。


「さっさと要件を言え」

「は、はい!!」


決まり切った挨拶の姿勢をした兵士は、そのままの姿勢で声高らかに現状を叫ぶ。


「祈りの防御壁が破壊され、祈りの塔上空にテゲルホルムの軍勢が現れました」

「は?」


激しい雨に打ち付けられた窓のきしみのせいで、よく聞き取れなかった。
そう言えればよかったのだが、残念なことに事態に気づいたらしい町中の人々の悲鳴が簡素な宿場につながる道の上から聞こえてくる。


「ラゼットが祈りを捧げているんじゃなかったのか?」


悲鳴が聞こえてしまった以上、もう聞かなかったことにはできない。


「防御壁が破壊って、あいつ何やってんだよ」


兵には聞こえないほどの小さな声で舌打ちすると、リゲイドはマントを羽織りながら簡素な部屋を飛び出した。


「なっ!?」


守るものがなくなっただけで、世界はこんなに変わるものなのかと痛感せざるを得ない。
雨に混ざって降り注いでくる砲弾。そして爆発音。逃げ惑う人々の悲鳴と幻獣魔族の咆哮が遠くから聞こえてくる。


「くそっ」


リゲイドは、どこからでもその存在がわかるように造られた城の塔めがけて走り出す。


「何やってんだよ!!」


この国の象徴ともいえる白い塔。その頂上には毎日天使のような白い髪をした少女の姿があるはずだった。
それが今はどうだろう。


「どうなってんだよ」


竜のような鱗をもち、鳥のような翼をもった巨大な生き物が祈りの塔の上空を飛んでいる。
この時間帯はラゼットが祈りを捧げるために、その頂上にいるはずだというのに、塔はえぐり取られたように崩壊しているようにしか見えない。


「ケケケケケケ」

「ッ!?」


塔の方角からテゲルホルムの方角に向かって、突発的な風塵がリゲイドの上空を飛んでいく。
そのあとを慌てて視線で追ってみれば、古来のものとされてきたような巨大な鳥が、その大きなかぎ爪でラゼットの体を掴んでいた。


「ラゼット!?」


気を失っているのか、ラゼットが抵抗しているような素振りは見られない。


「あいつら、何やってんだ」


てっきり、ラゼットのそばにはフランとアキームが付いていると思っていた。最初に手合わせをした際、彼らなら問題ない腕前だと認めていたのに、なぜラゼットは敵国の巨大鳥にさらわれているのかが理解できない。


「くそっ!!」


何にいら立ちを覚えているのか。
リゲイドは逃げ惑う人々の合間を縫うようにして破壊された祈りの塔へと向かっていく。


「はぁ…はぁ…っ」


なぜかはわからない。とにかく現状を知らなければならないという衝動にかられていた。
息が切れるなんて自分でも意外だったことは誰にも言わない。
悟られないように取り繕うことよりも、リゲイドは全力疾走で駆け付けた場所で見た光景に目を奪われていた。


「はぁ…っはぁ…っお前ら」


そこは、どこよりも悲惨な場所だった。
えぐり取られるように破壊された塔の残骸と、べったりとした血で濡れた赤い石の数々。もとが白い石でつくられた城なだけに、その赤い色は見る者の胸を痛めつける。


「リゲイド…さま?」


腕に重傷を負ったらしいフランが、肩から流れる血をおさえるようにして体を向けてくる。
一瞬、驚いたように目を見開いていたのは言うまでもないが、その次の瞬間、リゲイドはフランに胸倉をつかまれていた。


「こんなときに、どこへ行っていたのですか!!」

「ッ!?」


普段見せる温厚な人物だとは思えない剣幕に、リゲイドは言葉を失ってフランを見つめ返す。
雨でぬれたフランの顔は、絶望と悲しみに支配されたように色を失っていた。
応えられるわけがない。
自分たちが愛する女性を裏切って、記憶の中で愛する少女を探していることなど、この二人の従者にだけは知られるわけにはいかない。
そうして答えられないリゲイドの様子にますます腹が立ったのか、行き場がない怒りをぶつけるように、フランはつかんだ胸倉を乱暴に振り切ると、そのままリゲイドを地面へと押し倒した。


「痛ってぇな。てめぇ、何す──」

「最強の矛であるあなたが、ラゼット様がさらわれるというときにどこをほっつき歩いていたんですか!?」

「────だから、それがなんだってんだよ!!」


失意に濡れる手負いのフランを投げ飛ばすように、リゲイドは体をおこす。
立ち上がる際、背中についた泥がマントを汚していたが、リゲイドは頭に来ていた熱を吐き出すようにそれを翻した。


「最強の矛だから盾を守らなきゃならねぇ?迷信や伝承に決められた運命かなんだか知らねぇけど、そんなものにとらわれて生きるのはイヤなんだよ」


その場に集まった兵士たちが、十五年前の悲劇「レルムメモリア」を想起させるリゲイドの発言に顔をしかめる。けれどリゲイドにとってそんなことはどうでもよかった。
ギルフレア帝国出身なことに肩身の狭い思いをするのもうんざりだ。
裏切り者だとが、嘘つきだとか言われてもそれは勝手にオルギスの民が作り出した幻像に過ぎない。
誰が自分がわかってくれるのか。この気持ちを理解してくれる人は誰もいない。


「ラゼットを救いたきゃ、救いに行けよ。守りたきゃ、お前らで勝手に守ればイッ!?」


グシャ。それは血と雨で出来た水たまりに、リゲイドの体がたたきつけられた音。


「痛ってぇ。何、殴ってんだよ」


地面に倒れたままのフランの代わりに、アキームの拳が立ち上がったばかりのリゲイドを後方へ吹き飛ばしたらしい。その事実に気が付いたリゲイドは、怒りに任せてまた立ち上がる。
出来るものならやってみろ。
一言でいえばそういう気持ちだったが、切れた口の中に広がる血の味はリゲイドの神経をとがらせていくと同時に、冷静さを与えてくれていた。
アキームがなぜ「殴った」のか。幸いにもそれ以上の打撃は与えられなかったが、リゲイドは痛む左頬に与えられた衝撃の強さにアキームの怒りを感じ取っていた。


「いい加減にしろ」


足の自由がきかないのか、アキームの体が引きずるようにリゲイドの胸倉をつかむ。
先ほどはフラン、今度はアキーム。
一体何なんだと、リゲイドは顔を歪めてアキームをにらみ返した。


「偉そうにお前に言われる筋合いはねぇ!」

「ラゼット様の加護を受けた恩を忘れたとは言わさん!!」

「………は?」


何を言っているんだと、リゲイドの顔が奇妙に歪む。
勢いをそぐための弁論としては成功したかもしれないが、アキームの真意は理解できない。


「持っているだろう希叶石(キキョウセキ)を」

「希叶石なんて知らねぇよ!」

「白く滑らかな楕円の石のことだ。十年前、ラゼット様が渡されたその魔石をきさまは大事に持っているんだろうが」

「なっ!?」


その存在に心当たりがあったのか、リゲイドの顔が驚いたように固まっていた。
なぜ、自分だけが大切に持っている石の名前を、ただの従者である一兵士が知っているのかと疑えてならない。
希望を叶える石。
十年前に記憶の中の少女にもらったリゲイドの宝物。
希叶石と名前がつくらしいその魔石は、白く滑らかで、楕円の形をしていた。


「ラゼット様は昔よりああいうお方。石を渡した相手がきさまだとは知らなかったのだろう。覚えてはいるだろうが、ラゼット様はきさま一人に限らず、誰よりも自分を犠牲にしてこの世界を守ってきた。逃げてばかりのきさまに、その重みが理解できるのか!?」

「ちょっと待てよ。ラゼットが、なんだって?」


突然の告白に、頭の中が混乱して整理が追い付いてくれない。
リゲイドは胸倉をつかむアキームの顔を蒼白な面持ちで見つめていたが、その焦燥にかられた心中はそのまま彼らに伝わっていただろう。
泥の中から腕を守るようにして立ち上がったフランが、アキームに掴まれたままのリゲイドの隣に歩み寄ってくる。


「あなたが大事になさっているその石は、十年前、ラゼット様がフィオラ様より授かったオルギスの命です」


サーと軽い雨の音が、妙な重さを連れてリゲイドの肩を濡らしていた。
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