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Story-05:触れるほど遠い距離

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ギルフレア帝国から婿に来たリゲイド王子と婚姻関係を結んでから七十八日と三時間。まるで、あの花弁の降り注いだ一日が遠い過去のようにラゼットの感覚を狂わせていた。


「お疲れ様です、ラゼット様」

「フラン?」

「本日は攻撃も落ち着いておりますし、午前の祈りはそれほどまででよろしいでしょう」

「あ、ええ。そうね」


天気は比較的穏やかで、フランの言うように今日はテゲルホルムからの攻撃も少ない。
午前中の祈りは何の障害もなく、特に祈り続けなければいけない理由もない。それでもラゼットは祈りをやめるのを少しためらっていた。


「ラゼット様?」

「ごめんなさい。なんだかボーっとしてて」


ラゼットは誤魔化すようにフランの手を取る。
本当は、あまり深く考えないようにしてここ二か月の間、人知れず悩んでいることがラゼットにはあった。
だけどそれは誰にも言えない。知られたくない。


「お顔の色がすぐれませんが?」

「そう、かしら?」

「まさか」


そこで繋がった手をギュッと握りしめてきたフランに、ラゼットは顔をあげる。
いったい何を思い当たったのか、少し険しい顔をしたフランがじっとラゼットを見下ろしていた。


「なに?」


怪訝そうに見つめてくるフランを少し見上げたまま、ラゼットはその思いつきが口にされるのを待つ。
これはフランの悪い癖だが、頭の中で考えを整理してから喋るのか、なかなか答えてもらえないままラゼットは同じ体制で次の言葉を待つ羽目になっていた。待っている方としては何が飛び出してくるのかとドキドキと身構えるしかないので、本当に心臓に悪いと思う。


「フラン?」


ラゼットがそろそろしびれを切らしかけたころ、フランはポツリと不愉快そうな顔でつぶやいた。


「ご懐妊、ですか?」

「え?」


一瞬、何を言われたのだろうかとラゼットはその意味を認識するまでに少し時間がかかっていた。
時間にしてほんの数秒。けれど、フランはラゼットよりも忍耐力があったらしい。
じっと見下ろしてくる目が、ラゼットの瞳孔までも見定めようと威圧感を増してくる。


「なっ何言ってるのよ。そんなことあるわけないじゃない」


問われた意味の内容に気づいたラゼットは、顔から火が出るんじゃないかと思うほど真っ赤になってうつむいた。


「まだ、リゲイド様とはきちんと、その…っ…そういうことはしていないもの」


本当に消えてしまいたい。
最後の方は息のように空気に溶けてしまいそうな声でラゼットはフランの手を振り払う。「リゲイド様は一緒に寝てはくださるけど、私の手すらお触れにならないわ」フランから振り払った手を握りしめながらラゼットは胸の中でつぶやいた。
「ラゼット様」と近づいてくるフランの気配に、ラゼットは慌てて笑顔を取り繕う。


「もっもういいじゃない。お腹すいちゃった」


うまく誤魔化せたとは思わなかったが、フランはそれ以上何も追求しては来なかった。
そうして朝の祈りの時間が終わり、塔を始終無言で降りた後、ラゼットはフランに誘導されるように昼食の席へと腰かける。


「ねぇ、フラン」


黙々と給仕をこなしていくフランが、食器に始まり、次々と準備を施していくのを横目にラゼットはぎこちない様子で声をかけた。


「いかがなさいましたか?」


ふわりとにこやかな笑みを浮かべるフランは、第三者から見てもわかるほどに上機嫌なことこの上ない。
もともと優雅で余念がないその所作には、女だけではなく男ですら目を奪われるほど素晴らしいと称賛されてきたが、今ではまるで魔法使いのようにフランは給仕をこなしている。
どこで機嫌が最高潮に達したのか、その理由はいまいちよくわからない。
ラゼットは自分が胸の内に秘めている悩みを少し吐露したものの、いつも通りにしか振舞わないフランに少し苛立ちを感じていた。


「リゲイド様の前でその顔は見せていらっしゃらないようですね」

「え?」

「いえ、なんでもありません」


ニコリ。こういう時のフランはあまり好きではない。
でもその言葉の意味を問い詰めたところで勝てる要素がひとつもないことはわかっている。
悔しいけれど、ラゼットは一人敗北を認めて、フランに本来聞きたかった質問をすることにした。


「あの、毎日毎日同じ質問で申し訳ないんだけど」

「リゲイド様でしたら、またこりずに町へいっておられますよ」

「そ、そう。どこへ行っているとか、いつ帰ってくるとかは?」

「さあ、ラゼット様がご存じないものをわたしは存じ上げませんね」


ヒクヒクと口元がひくつくのも無理はない。あの夜、リゲイドを裏口から援助したことが悔やまれる。
バッサリと切り捨てられたフランの言葉に、ラゼットの質問は口にする前からなかったことにされてしまった。
これで通算、七十五回目。
リゲイドが街に何をしに行っているのかはわからないが、一緒に食事をとれた記憶は両手で事足りるほどに少なかった。


「今日も記録更新ね」


困ったように笑うラゼットに、フランの笑みがわずかに曇る。


「別にいいではありませんか」

「え?」

「ラゼット様は、リゲイド様がいない時の方がたくさん食べてくださるので、わたしとしては健康管理も含めて、今のような状態が安心しますよ」


本音でいて、元気づけるために少し大げさな表現をしたフランに、今度はラゼットの顔が曇りをみせた。


「でも、私は……」


出来ることであれば、朝も昼も夜も仲睦まじくありたいと思う。
リゲイドが望んで婿養子に来たわけではないことくらいわかっている。わかっていても、夫婦になったのだからお互いに仲良くいたいと願うのは、そんなに難しいことなのだろうか。


「リゲイド様も私といらっしゃると、お食事がのどを通らないのかもしれないわね」

「リゲイド様、も?」


言葉の運びに引っ掛かりを覚えたフランが、目ざとくその個所を指摘したせいで、ラゼットの顔にパッと赤みが差す。
無意識に口走った発言を意識した瞬間、恥ずかしさがこみあげてきて、ラゼットは照れたように口をおさえた。もちろん、その行為をみたフランの顔が、氷点下まで下がったように見えたのは気のせいではないだろう。


「あっ、わ、私、緊張してしまって、なんだか食事がうまくノドを通らないのよ」

「………さようでございますか」


コホンっと恥ずかしさを誤魔化すように小さく咳をしたラゼットに、ニコリとフランの笑顔にとげが増していく。
それに気づけばよかったのだが、ラゼットはフランの顔を見ることができないまま、自分の手のひらを見つめてさらなる心中を暴露した。


「食事中もそうだけど、リゲイド様に初めてお会いした時から心臓がとても苦しいの。隣にいるだけでドキドキしてくるのよ。あれからずっと。なんだか緊張してしまって、リゲイド様の前だとうまく息が出来ないの」


それだけではない理由をフランには告げられない。
初夜に与えられた秘密の快楽がそのドキドキを助長しているなどということは、口が裂けても言える気がしなかった。


「ねぇ、フラン」


突然、手のひらから顔をあげたラゼットに、うまく笑顔を作れなかったらしいフランの口元がヒクヒクと踊っていたのはいうまでもない。


「あら、どうかしたの?」


ようやくフランの異変に気付いたラゼットは、頭に浮かんだ疑問符を口にする。けれど、平然とした表情にそつなく戻したフランに、ラゼットは「勘違い」という雰囲気を納得させられてしまった。


「いえ、なにも」

「そう?」

「ええ。それよりも何か聞きたいことがあったのでは?」


そうそうとラゼットは思い出したように、再度フランを見上げるように両手を叩いた。


「私って、そんなに女としての魅力がないのかしら?」

「は?」


給仕に取り掛かろうとしたフランは、いつまでたっても進まない昼食の準備の手をまたしても止める羽目となる。
質問の意図が理解できない。
ついには表情を作ることを忘れたフランのいぶかしげな瞳がラゼットを見つめていた。


「ねぇ、フランは私に欲情する?」

「は?」


まるで不思議なものを見るような目で見つめてくるのはやめてほしい。
真剣な悩みを相談しているのだからと、ラゼットは不自然な体制のまま微動だにしないフランの瞳を見つめ返す。


「だって、リゲイド様はあの晩依頼、私に触れようともなさらないの」


今度こそ確実に、ここ二か月間の悩みを暴露したラゼットの告白に、フランの口元はわなわなと震えていた。


「ラゼット様に欲情しない男などおりませんよ」


どこでどう不機嫌のスイッチが入ったのかはわからないが、フランの声が低く変わる。


「ラゼット様に触れたくても触れられない男たちがいるのですから、そのような心配は必要ありません」

「フラン、私はお世辞が聞きたいんじゃないのよ?」


いつもであればフランの機嫌を取り戻そうと奮闘するはずのラゼットも今回ばかりは譲るわけにはいかなかった。
夫婦としての問題がかかっている。


「どうすれば、リゲイド様に女としてみてもらえるのかしら」

「私の方が逆に聞きたいくらいですよ」

「フラン、どうして怒るのよ。一緒に考えてくれ───」

「それは直接、本人にお聞きになってください」

「───ッ?!」


この言葉を最後に、なぜかそこからフランは一度も声を交わしてはくれなかった。


「フランの意地悪っ」


昼食後、喧嘩別れのようにフランと別行動をとったラゼットの声が誰もいない廊下の中をすすんでいく。


「リゲイド様は私に幻滅してしまわれたのかしら」


さすがに初夜以来、手出しをされないとなると、女としての自信をなくしてしまう。
毎晩きまって寝室を共にはしてくれるが、興味をなくしたように背を向けて寝られると、泣きたくなるほど悲しい気持ちがこみあげてくる。
もう七十七回の何もない夜が終わってしまった。今夜で七十八回目の夜。
また眠れない夜を一人で悩みながら過ごしたくはない。


「フランのほかに誰に相談しろって言うのよ」


最強の盾として半ば監禁状態で育てられてきた身だけに、心の悩みを打ち解けられるほど仲のいい友人はいない。
女中に相談してもいいのだが、夫婦の問題は国の問題ともいえるだけに、軽率に打ち明けられる話でもなかった。世継ぎ問題は遅かれ早かれ浮上してくることだろう。そうならない前に、何か解決の糸口を見つけておきたかった。


「あ、そうだわ」


ラゼットは廊下を歩きながら、もう一人の従者の存在を思い出す。


「アキームっ!!」


少し駆け足でたどり着いた場所は、ちょうど兵たちが訓練を終えて誰もいなくなっているはずの広場。
いつも通り、一人で居残って剣術の稽古をしていたアキームを見つけて、ラゼットは大きく手を振りながらその名前を呼んだ。


「どうかなさいましたか?」


一度深々と頭をさげたあとで、駆け寄ってくるラゼットを迎え入れたアキームがゆるく微笑む。
さすが、鍛え上げられた肉体と黒髪に金色の双眸が城内の女性たちから高い評価を得ているだけあって、長身のアキームに微笑まれると優越な気持ちがこみあげてきた。


「ごめんなさい、邪魔したかしら?」


幾分か気持ちが上昇したラゼットもアキームにつられて緩やかな笑みを浮かべる。


「いっいえ。大丈夫です」

「そう」


そこから見つめ合うこと数秒間。ラゼットは意を決したように、アキームへと一歩近づく。
さらりとラゼットのしなやかな髪が揺れ、アキームが少しだけ息をのんだのがわかった。


「ねぇ、アキーム。突然の質問で申し訳ないのだけれど、私って女としての魅力がないかしら?」

「は?」


数分前のフランの反応が懐かしい。
まったく同じ表情で固まったアキームに、ラゼットは答えてくれるまで離さないといった風に簡素な訓練着の裾を握りしめた。


「アキームは、私に欲情する?」

「なっななないきなりどうされました?」

「フランにも尋ねたのだけれど、ねぇ、どう?」


深紫の大きな瞳をうるうると彷徨わせ、密着させるように顔を覗き込んでくるラゼットに、アキームのノドがごくりと音をたてた。あきらかに混乱している。
質問の意味ではなく、意図は何かとアキームの頭の中がフル回転しているのだろう。


「ラゼット様」


コホンと、赤面しながら息をついたアキームが、裾から手を離すようにやんわりとラゼットの手を包み込む。


「魅力であれば、十分すぎるほどだと思いますが」

「アキームまで、もう。お世辞が上手ね」


ラゼットは落ち込んだように肩を落としてアキームから手を離した。


「フランも同じようなことを言うのよ。でも、私が欲しいのはお世辞ではなく答えなの」


困ったようにアキームが首を傾ける。こういう時、フランが通訳のように質問の背景や意図を説明してくれるのだが、残念ながら今ここに、頼りの相棒は存在しない。
「んー」と悩める獅子のようにアキームが小さくノドを鳴らす。


「何か悩みでもおありなのですか?」

「え?」


面と向かって率直に尋ねられると、今度はラゼットが赤面する番だった。
夫婦間の夜伽事情を親しい従者とはいえ、異性に相談してもいいものだろうか。今更、当たり前のような疑問が浮かんできて、ラゼットはおろおろと視線をさまよわせた。


「リゲイド様がっ」


変な緊張感がラゼットを襲う。
改めて口にしようとすると、パクパクと変な空気だけが言葉の代わりにこぼれ出てきた。


「リゲイド様がどうかなさいました?」


アキームが怪訝な顔をするのは仕方がない。


「あ、あの、ね」


変な裏声が出そうになって、ラゼットは深呼吸するように胸に手を置く。
はぁーと、鼓動を落ち着かせるために深い息を吐き出したところで、ラゼットは質問を取りやめる決意をした。


「いえ、なんでもないわ」


やっぱり、夫婦間の問題に他人をいれるのはやめよう。
ラゼットは取り繕うような笑顔で首を振ってアキームの疑問を振り払う。
一瞬、アキームはうなるように眉をしかめたあとで、ふっと困ったように苦笑の息を吐いた。


「俺はいつでもラゼット様のお傍におりますよ」

「…っ…アキーム」


ポンポンと撫でられた頭にホッと肩の力が抜けていく。アキームの手の平は、戦闘で戦うためではなく、何かを慈しむために使ってほしいと心からそう思わざるを得ない。


「アキーム」

「はい」

「私、アキームのこと大好きよ」


アキームの手の下からラゼットはその金色の瞳をじっと見上げる。
綺麗な瞳。真っ直ぐに見下ろしてくるアキームの目が、ゆらゆらとゆれて、まるで琥珀のように煌いていた。


「ラゼット様」

「なに?」


ポンポンと撫でていたはずのアキームの手が、後頭部へとゆるやかに滑ったせいで、ラゼットは引き寄せられるようにアキームの胸に顔をうずめる。
ドキドキと分厚い胸板の向こう側に、早鐘に鳴るアキームの心音が聞こえてきた。


「ラゼット様」

「なっなに?」


密着するアキームの声が耳におちてきたせいで、落ち着かせたはずの鼓動が再び暴れようとしてくる。
低い声で名前を呼ばれると、感じたことのない違和感が体の中心から疼いてくるようだった。


「あっアキーム。苦しいわ」

「ラゼット様は子供みたいですね」

「なっ!?」


すっぽりと抱きしめられたせいでアキームの顔が見えない。
耳にささやく低音がぞくぞくと背筋に神経を走らせてくる。


「ちょっ、ぁ、アキーム?」


ラゼットは金縛りにあったようにじっと動けないまま、しばらくアキームの腕の中で大人しくしていた。
ギュッと抱きしめられる感覚が妙に心地いい。


「リゲイド様がどうかは知りませんが、甘え方をもう少し勉強なされたほうが良いですよ」

「ッ!?」


パンっと軽い音がアキームの頬を襲う。


「もう、アキームったら!!」


限界地点を突破したことを悟られたくはなかった。
ただそれだけの理由で、ラゼットはアキームの頬を平手打ちしてしまったが、恥ずかしさのあまり真っ赤に染めた顔は隠しようがない。


「私は真剣に悩んでいるっていうのに、このまま世継ぎが生まれなかったら二人のせいだからね」


その場から立ち去る口実を盛大に叫んでから、ラゼットはアキームに背を向けて走り出した。
アキームがどんな顔をしていたかなんて見ていない。
見たくもなかった。
フランとアキームは幼少期から親しくしているただの付き人。彼らを異性だと意識しないようにしてきたのに、ドキドキと心拍があがっていくこの不可解な現象の正体を認めるわけにはいかない。


「ッ!?」


突然、前を見ずに走っていたラゼットの体が、ドンッと鈍い衝撃にぶつかって大きく揺れる。


「ったく、あぶねぇなぁ」


ぐらついた体は、なぜか背中を支えられるようにしてぶつかった壁に抱き留められていた。


「他の男といちゃつくんならもっと人目のないところでやれよ」


その壁の正体を顔を上げる前から認識したラゼットの顔がさっと青ざめていく。
アキームとは違う落ち着いた胸の鼓動。少し苛立ちを含んだ声。
ぶつかった時に痛めたらしい鼻をこすりつけるように見上げたラゼットの瞳に、深い紺碧の瞳が覗き込んでくる。


「り、ゲイド様?」

「なんだよ」


今から七十八日前、初めて見たその時から何も変わっていない風貌。どこか無関心を決め込んだ冷めた眼差しは、何の感情もラゼットに向けようとしない。


「さっさと離れろ」

「あ、す、すみません」


端正に整った綺麗な顔で無表情に突き放されると、ずきりと胸が痛んだ。
けれど、そんなことを口に出したところでリゲイドはラゼットを置いてどこかへ行ってしまうだろう。
近くにいるとドキドキと息が詰まるように苦しくなるのは自分だけ。そんな感情に耐え切れずに、ラゼットはぎゅっと目を閉じてリゲイドからそっと離れた。


「はぁ」


わざとらしく息を吐いて髪をかく姿でさえ、自分を責めているようで近寄りがたい。


「お前さぁ」


亜麻色の髪をかき上げながらだるそうに声をかけてきたリゲイドに、ラゼットは小さく肩を揺らしながら、恐る恐るその顔をあげていく。そして、大きく目を見開いた。


「浮気だったら俺に見つからないようにやれよ」


言葉の意味がよくわからない。
素直にその感想は顔に出ていたのだろう。ラゼットの疑問符を拭い去るように、リゲイドは先ほどラゼットが走ってきた方角をアゴで示すと、何も言わずに嘲笑の息を吐く。


「さっきほら、あれだ。誰だっけ、そう。アキームと抱き合ってただろ?」

「え?」


つかの間の沈黙。
リゲイドの言葉の意味を理解するのに数秒間固まった後で、ラゼットはハッと息をのんで弁明の言葉を吐きだした。


「ちっ違います。リゲイド様。あれは───」

「まぁ、俺はお前がどうこうしようが何も咎めるつもりはない」

「───え?」


先ほどからリゲイドの口から紡がれる言葉が何一つとして素直に頭に入ってこない。
「他の男に好意を寄せていたとしても何も感じない」そう言われているようにしか聞こえなくて、ラゼットは頭の悪い機械のように、ぎこちない動作でリゲイドへと手を伸ばしかけた体制で固まっていた。


「だから、お前も俺に干渉してくるな」


今度こそ、ビクッとラゼットの体は大きく揺れる。


「リゲイド様っ」


自分の真横を無表情で通り抜けていく風に向かって、ラゼットは震える声で呼び止めた。
もう顔を上げても見えない背後のリゲイドに、立ち止まってもらえたことが、せめてもの救いかもしれない。


「ひとつだけ、よろしいでしょうか?」


泣き出しそうになるのを必死でこらえたせいか、ラゼットの声は勇気だけで支えられるように小さく廊下に響いていく。
カツン。
半分だけ体を向けて聞く姿勢をみせたリゲイドの足音だけが、ラゼットに質問の許諾を示していた。


「なぜ、私に触れてくださらないのですか?」


恐る恐る訪ねながら、ラゼットはリゲイドの方へと体を向ける。そのとき、ふわりと舞った白雪の髪が弧を描いて揺れ動き、ラゼットの儚さに空気が少しだけ揺れ動いた気がした。


「お前には、同情している」


リゲイドの声が、ラゼットから目をそらすように床に向かって落ちていく。


「夫婦としての役目なら果たしてやってもいい。だが、俺がお前を愛することはない」


その宣告は静かに壁と床に染み渡っていく。


「俺には俺の望むものがある」


他に聞くものがいないことを願いながら、ラゼットは未来の約束を誓い合った夫から最悪の告白を耳にした。


「それは、ラゼット。お前がどれほど祈り続けても叶えられない俺の願いだ」


夫婦となって七十八日目の夜。
とうとうリゲイドは寝室を共にすることもなくなった。
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