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綴章:八束岳の麓で

04:ヒトの姿

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頑丈な観音開きの玄関は音もなく開いて、胡涅たち三人を招き入れる。
ひんやりとした冷たさを感じる広くて暗い玄関ホール。ふわっと鼻腔をくすぐる懐かしい匂いに、我が家であることを実感できた。それでも、見慣れたものがどこかよそよそしく思えるのは、閨での濃密な時間のせいかもしれない。


「あ。雪、降ってきたみたい」


寒いはずだと、胡涅は玄関扉がしまる前に見えた光景に声を弾ませた。
ちらちらと空から降る雪は灰色の世界の中で、優しく降り落ちてきて、あの日、白い景色の中で空に昇っていく粉塵たちをどことなく思い出させた。


「ん…っ、ぅ」


心境の変化に敏感な二人に隠し事は通用しない。
胡涅は、朱禅と炉伯の顔が近づいてくる気配に合わせてわずかに顔をあげ、両頬にそれぞれの唇が押し付けられるのを受け入れる。
慰めてくれているのだろう。
心が落ち着きを取り戻す。過ぎたことは受け入れるしかないのだと、わからないほど胡涅も子供ではない。


「あれ、悪坊は?」

「呼んだぁ?」


気を取り直して、現実に意識を戻した胡涅が、すぐにわかる巨体が消えたことに気づけば、いつの間に家のなかに入ったのか、目の前に悪坊がいた。


「うわぁっ」


思わず朱禅に強く抱きつきながら胡涅は叫ぶ。
朱禅は嬉しそうな顔をしたが、逆に炉伯は「はぁ」と困った息を吐き出していた。


「悪坊、胡涅をびびらせんな」

「ごめんねぇ。怖くないよぉ、こっちにおいでぇ」

「なにが怖くねぇ、だ。その手を伸ばすな」

「おい、貴様。どさくさに紛れて胡涅に触れようとするな」


ぺしぺしと炉伯と朱禅に叩かれても、悪坊は気にせずニコニコしている。
打撃というより、衝撃すら皆無なのだろう。もちもちのクリームパンみたいな手の表面は、朱禅と炉伯の本気のパンチを受けても、かすり傷一つつかないらしい。


「おっきな赤ちゃんみたい」


口から出た言葉は、胡涅の素直な感想。
おもちゃをねだる赤ちゃんみたいだと、呆然と思ったまでを口にしただけだが、朱禅と炉伯の顔をみる限りでは、ものすごくバカにされたような気がする。


「この巨体を維持するのに、どれだけ喰うかわかるか?」

「かわいいなどと、口が裂けても言えんぞ。赤子らしくおしゃぶりを欲するところは同じかもしれんが」

「それでも赤ん坊のほうがまだマシだな」


やれやれと、朱禅が降ろしてくれて、ストールを巻き直してくれて、炉伯が靴をスリッパに変えてくれたが、なんとなく「まったくうちの姫様は」と言葉にならない声が聞こえてきて仕方ない。


「おー、やっと帰って来たんか、えらい遅かったな」

「無駄に時間をかけたのだろう。双璧といえど、つがいとのデートは大切らしい」

「何をしていたかはともかく……おや、亜麻克(あまかつ)、間に合ったのですね」

「えぇとぉ、んー、とぉ。ああ、そうだぁ、瀬尾(せお)、紘宇(こうう)、吟慈(ぎんじ)だぁ」

「なんや、まだ寝ぼけてんか?」

「腹をすかせて目覚めたか」

「うーん。そぉなんだぁ。ぼくたちより格上の姫様が誕生したって聞いてぇ、どんな味がするかなぁって、おいしそぅな匂いがするしぃ、興味がわいたから起きてきたんだぁ」


瀬尾、紘宇、吟慈が、なぜか家のなか、それも人間の姿でリビングの方からあらわれて近付いてくる。会話しながらまた悪坊が腕を伸ばしてきたせいで、胡涅は思わず朱禅と炉伯の腕に巻き付いた。


「……え、だ、れ?」


ツンツン頭に派手な刺繍のある革ジャンの男はたぶん瀬尾だろう。長い髪をひとつにまとめ、タートルネックにジャケットと細身のパンツスタイルの美形男子はおそらく吟慈に違いない。
では最後の海外アイドルばりの超絶美形が紘宇かと、胡涅は長身のヒトに囲まれて萎縮していた。
大きい。変な和装姿でないからこそ、余計にその大きさがわかる。
背も、厚みも、朱禅と炉伯と同じくらいの迫力に、無言の圧力を感じる。


「胡涅姫は人見知りですか?」

「閨に入る前は意外と友好的やったのに」

「しつけがいのある娘ということだろう」


吟慈、瀬尾、紘宇の順というより、三人同時に覗き込まれて胡涅はますます朱禅と炉伯にしがみつく。が、それを朱禅も炉伯も喜んでいるのだから終わりはない。
胡涅が怖がり、不安になり、自分たちを頼ってくるのが、たまらなく嬉しいといった顔をしている。


「胡涅、大丈夫だ」

「怖がらずとも我らがいる」

「……ッ…ぅ…うん」


頭を撫で、背中から滑り落ちてきた手が腰を抱き、頬にキスをするまでがセットの牽制ぶりに、近付いてきた八束の衆のほうがムッと苛立つ顔に変わった。


「そう睨むな。胡涅は我らの番」

「俺たち以外を欲する気はない。なぁ、胡涅?」


おずおずと二人の腕の中から顔を取り囲む面々にむけてみる。


「……えっ…ぅ……」


美形は、寄ればさらに威力を増す。
キラキラと輝いてみえるのは、彼らの持つ独特の雰囲気と色気が加算されているからかもしれない。それでなくても、夜叉の身体を得た胡涅は、「オス」である彼らから、美味しそうな匂いをかぎ取ってしまう。


「オスが寄ってたかって、みっともないなぁーもぉー。胡涅、母乳は出るようになったかぁ?」

「ひゃぁああぁ…毘貴さ、ァッ…な、なっ、なってません」


弾丸みたいに飛び込んできた毘貴姫(びきひめ)に胸を揉まれる。いったいどんな呼び掛けかと、胡涅は唯一の女性である毘貴姫の言葉に慌てふためいていた。


「……も、胸…だめっ、だってば」


両手で胸を守る際に拒絶を口にしたが、真っ赤な顔で、声も裏返ってしまった。これが夜叉の挨拶だというのであれば、随分と失礼だと言い返したいところだが、「なぁーんだ」とつまらなさそうに宙返りして離れていく毘貴姫の反応に、自分が悪いのかと困った顔で胡涅は唇をかんだ。


「そっかぁ、まだなんだぁ。それならぼくがぁ、すぐに出るようにしてあげるぅ。いっぱぁい注いでぇ、びゅーって、おいしいからぁ、すぐに出せるようになるよぉ。そのあとは、ぼくがずぅーっとしゃぶってあげるねぇ」

「こらこら、悪坊は洒落にならんってぇ」


クリームパンに似た悪坊の手を叩きながら「にゃはは」と笑う姿に改めて目を向けてみれば、そこには金髪ショートカットの女子高生の格好をした毘貴姫がいた。


「……え、可愛い」


ぱっと、胡涅の顔が変わったのは言うまでもない。
配信アニメを娯楽のひとつとして楽しんできた目には、現実世界に登場した小柄で可愛い女の子がまぶしく映る。精巧なアニメのコスプレイヤーみたいに、金髪ショートカット、巨乳とくびれ、小さな身長とパッチリな瞳。お人形みたいな毘貴姫は、それだけでは飽き足らず、なぜか八束高校の制服を着ている。


「高校の制服だ。すごく、似合ってる」

「可愛いっしょー。あちきは八束高校に通う女子高生ってわけよ。制服も二十五年前と違ってリニューアルされたらしい。どーよ、どーよ、いいっしょ?」

「え、通うの?」

「人里に降りたからには楽しむのがあちきのモットー。現代を謳歌するには女子高生が一番って壬禄に教えてもらってぇ。学校とやらが出来てからは、あちきはずっと青春真っ只中」


ウインクして、くるっと一回転。
仕草はどうにも古めかしいが、本人が楽しそうならいいかと胡涅は手をたたく。


「毘貴姫さま、そんな言い方だと俺の趣味みたいに聞こえますよ」


毘貴姫の愛玩だという壬禄(みろく)が、やはりリビングの方から姿をみせる。大学生みたいな雰囲気は相変わらずで、エプロン姿は目新しい。


「できた!?」


ハイテンションで目を輝かせて壬禄の方へ飛んで行った毘貴姫は、本当の女子高生みたいに見えるのだが、それ以前に人間の姿で壬禄と並んでいると、ただのカップルにしか見えない。


「何か作ってるの?」


ヒトの家の台所で、主人を不在にして何を作っているのかと、素朴な疑問が浮かんだ。
胡涅は料理をしないが、台所を聖域としている朱禅と炉伯がよく使用を許可したなとじっと二人を見上げてみる。


「……もー、すぐキスする」


人前で恥ずかしいとうつむいた胡涅に、「新鮮だな」と紘宇の声が笑う。
その声に触発されたのか、瀬尾と吟慈もそろってうなずいていた。


「まあ、あれがオレらの日常っていうか」

「夜叉は基本的に奔放ですからねぇ」

「ずぅるぅいぃ。胡涅姫様もぉ、ぼくと、ちゅーしよぉ」


悪坊の手から逃れるのに、朱禅と炉伯は容赦がない。八束の衆には指一本触れさせないという使命でもあるみたいに、先ほどから二人の手は全然胡涅から離れようとしない。


「おい、貴様らも人の家で盛るな」

「やるなら閨にこもってやれ」


朱禅と炉伯が指摘するように、ちょっと目を離した隙に、壬禄と毘貴姫がディープなキスを交わしていたのだから目のやり場に困る。
ポッキーゲームみたいに何かを咥えた壬禄の肩に手を回し、少し背伸びする体勢で毘貴姫が顔を近付けているが、「うまっ、うまっ」と色気とはほど遠いリップ音に、理解が追い付かないのは自分だけだろうか。


「芋けんぴ、胡涅様も食べられます?」

「狗墨(いぬみ)」


大皿に盛られた大量の芋けんぴ。
手作りなのだろうそれは、さつまいも何本分なのか。相当の量が用意されていた。


「狗墨が作ったの?」

「いや、壬禄が……なんだ」

「え、あ……ごめんなさい。食べさせてくれるのかと思っンンッ」


あーんと、ついクセで口を開けてしまった自分が恥ずかしくなる。なぜ、食べさせてくれないのかと普通に疑問を浮かべていたが、朱禅と炉伯の手が口を塞いできて我に返った。


「胡涅、俺たち言ったよな?」

「……もめんまひゃい」

「我らが与える以外のモノを口にするな」

「ふぁい」


人間の姿なのにツノが見えると、胡涅は涙目で首を縦に動かす。


「胡涅ちゃんは口が小さいなぁ。ってか、狗墨。なんやねん、その役得は」

「狗墨は、また姫をたらしこんだのですか?」

「抜け目がない」


瀬尾、吟慈、紘宇が狗墨の持つ大皿と胡涅を見比べてから、狗墨にふんっと鼻をならす。


「オレに嫉妬とかやめてください。オレは生涯、藤蜜様以外におりません」


心底迷惑そうな狗墨が、八束の衆を凄む。大皿を持っていなければそれなりに格好がついただろうに、左側では壬禄との芋けんぴゲームを終わらせた毘貴姫が、右側では悪坊のクリームパンみたいな手が、大皿から芋けんぴを物凄い速度で消費している。


「うんまぁい」

「こら、悪坊。壬禄があちきのために作ったんだから、ちょっとは遠慮しろ」


あれだけ幸せそうに、美味しそうに食べられると、食べてみたくなる。
夜叉でも美味しいということは、本当に美味しいのだろう。


「………ぅー」


朱禅と炉伯の手のひらに押さえられた唇から胡涅の不満は漏れたが、もちろん彼らがそれを与えてくれることはなかった。
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