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綴章:八束岳の麓で

03:現世の街角

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朱禅と炉伯に連れられて、昔ながらの情緒や風情と、観光客向けの新しい店が並ぶ町並みを黒塗りの車で素通りしながら胡涅は夜の観光地を眺めていた。


「いってくる」


そう言い残して、本日の運転手をつとめる炉伯が車を降りて、どこかに去っていく。
どこへ行ったのか。
それはわかっている。
全然似合わない、目の前の業務スーパーの扉を我が物顔で入っていったのだから、出てきていないということは、店内にいるのだろう。
五分、十分。
さすがに待てなくて、そわそわと落ち着きがなくなってくる。


「炉伯、まだ?」


スモークガラスの車の窓の外は、カップルや家族連れが多く、駐車場にある不自然な高級車の後部座席で、胡涅は隣の朱禅にへばりついたまま炉伯の姿を探していた。


「遅くない?」

「まだ店に入ったばかりだろ?」

「そうだけど、炉伯が見えない」

「姿が見えぬと不安になるか。可愛いな、胡涅は。こちらに来い」


朱禅の腕が隣ではなく上に来いと告げてくる。胡涅は窓の外に意識をおいたまま、朱禅の方へと身体をずらした。


「我らの好きに喰っていいが、定期的に現世に戻せと約束させたのは胡涅だろう?」

「そうだけど……こっち、寒い。朱禅、もっと温めて」

「ならば閨に戻るか?」

「やだ、まだ来たばかりだもん」


ひとりぶんの座席に二人で重なって座る。
朱禅の上に胡涅が移動して、朱禅を椅子のように扱って、その腕をシートベルト代わりにしただけだが、温もりはありがたい。
本当はちっとも寒くはない。
白のニットワンピースにカラータイツというくつろぎやすさ重視の服装だが、暖房はかかっているし、朱禅がストールをかけてくれている。
炉伯がいない寂しさを何かの形で訴えたくて「寒い」と口にしただけ。
もちろん朱禅もわかっている。だからこそ、後ろから抱き締める腕を強くしただけではなく、胡涅の首筋に手をはわせて振り向かせた唇にキスを落とした。


「んッ……ぁ、炉伯」


朱禅と舌をもつれあわせていると、ガチャリと後部座席のドアが開いて、当然のように炉伯が荷物をおいた。


「朱禅、代われ」


不機嫌な炉伯が車を回って、胡涅と朱禅が座る方のドアを開ける。


「朱禅、いっちゃうの?」

「すぐに戻る」


そうして、入れ替わりに炉伯が乗り込んできて、胡涅はぎゅっと抱き寄せられた。


「炉伯、冷たい」

「胡涅は温めてくれねぇの?」

「温めてあげるね」


座る炉伯の上にまたがって、胡涅は青い瞳を覗き込む。外の空気で冷えた炉伯の頬を両手で掴んで、ちゅっと可愛らしいキスを落とせば、その瞬間に後頭部を抱え込まれて深いキスが返される。


「………ぅ、にゅ」


炉伯のキスに溶かされた。
酸欠で回らない脳が炉伯の上で胡涅を溶かし、満足そうに胡涅の髪を撫でる炉伯がそこにいる。


「随分と冷えるな」

「朱禅、胡涅が夜叉化している。運転頼む」


荷物を抱えて帰って来た朱禅は、赤い瞳に写る瞳孔を鋭く変えたが、無言で運転席に座ってエンジンをかけた。
胡涅が炉伯の腕の中で落ち着いているからだろう。炉伯のあごと首の間に頭をおいて、すりすりと甘える声をあげている。


「炉伯、ツノは?」

「こっちの世界では目立つからな」

「牙もしまっちゃったの?」

「胡涅もしまっとこうな」


炉伯が魔法みたいに額に口付けながら何かを唱える。柔らかな唇と不思議な痺れにおおわれるのが心地よくて、胡涅は炉伯に全身を預けていた。


「炉伯、色んな匂いが混ざってる。私の匂い消えちゃった?」

「胡涅の匂いなら今つけてる」


よしよしと頭から背中まで撫でられると、それもそうかと思えてくる。ふふっと笑って、それから胡涅は炉伯の腕の中で瞳を閉じた。


「ねぇ、どこに向かってるの?」


閨から意識を戻したときには、もう車に乗せられて、繁華街から、今は高層マンションの方へと向かっている。


「いぬを拾う」

「いぬ?」


まるで動物を拾うみたいに運転席の朱禅は告げたが、停車した八束駅のロータリーには、見知った青年がいた。


「あ、狗墨がい……見えない」


炉伯が目をおおってきたせいだが、声だけでも状況は確認できる。どうやら朱禅が運転席から降りて、狗墨が運転をするらしい。
朱禅はどこへいくのか。炉伯の手を目から引き剥がそうと両手を添えたとき、胡涅は隣に朱禅の気配が来るのを感じてホッと肩の力を抜いた。


「胡涅、こちらへ」

「ンッ」


炉伯の上から両手を広げる朱禅の方へ移動する。そこにあった荷物はどうしたのかと、朱禅のキスの合間から首をかしげたところで、助手席にその荷物たちを積もうと、炉伯から狗墨に手渡されているのが見えた。


「全員そろってんのか?」

「悪坊さま以外は」

「悪坊は最初から期待してねぇよ」


荷物を渡し終えたらしい炉伯の声が優しい。いつも狗墨に対して不機嫌だったのに、今は普通に喋っている。


「………炉伯」

「ん?」


朱禅とキスを交わしながら炉伯の名前を呼んでみる。朱禅が唇から離れなかったので、行き場をなくした炉伯の唇が耳や頬、首筋に触れてくる感覚がくすぐったい。


「しゅぜ……ンッ…ろ…は……ぅ」


頭を朱禅に、首を炉伯に固定され、交互にもたらされる甘いキスに浸る。
ちゅっと耳に軽い音からぐちゅっと脳内に響く音まで、繰り返し与えられていると、いつの間にか車は目的地にたどり着いたようだった。当然、若干あきれた狗墨が「つきましたけど」と、荷物を降ろしていくのが見えた。


「ど……こ?」


どこについたのかと、キスの余韻に浸る胡涅は、朱禅の肩に頭を置いて、炉伯に髪を撫でられる。
問いかけに答えてもらえるとは思っていない。大体、胡涅を愛でるのに忙しいときは、二人は自分たちの世界を堪能している。


「なぜこんなにも愛しい生き物がいるのだろう」

「胡涅の存在は俺たちのすべて」

「違いない。ああ、そうだ。胡涅、寒くはないか?」


朱禅に抱き締められて、胡涅は「うん」と小さく答える。元から寒くはない。むしろ今は暑いくらいだと、胡涅はそっと朱禅の肩から顔をあげた。


「あれ……ここ」


どうやら棋風院邸に帰って来たらしい。
ただ、買い物に出掛けていただけ。
それならそうと教えてくれてもよかったのにと、胡涅は首をかしげて、ようやく車から出る気になったらしい朱禅に抱かれて外気を吸う。


「…………ふぇ?」


ずーんっと、記憶の中にはない肉厚の壁。
影が頭上から振り落ちてくるような威圧感に、胡涅は朱禅の腕の中から顔をあげる。
そして、無意識にギュッと朱禅に抱きついていた。


「案ずるな、我の腕の中だ」


その声と額に触れる唇の感触に、朱禅がわざとタイミングを図ったのだとわかる。
胡涅と密着できる要素は見逃さない。
それが、夜叉のオスらしさなのか、朱禅の性格なのかはわからない。
ちなみに、炉伯はというと、その巨大な壁に向かって声を張り上げていた。


「おーい、坊。そこに立ってたら邪魔だ。ったく、相変わらず鼻が利きやがる」

「んー、とぉ、あっ、思い出したぁ。朱禅と炉伯だぁ」


やけにゆっくりと、巨大な手が胡涅の前に音もなくあらわれた。正確には胡涅を掴もうと真正面から近付いてくる。


「それからぁ、んー、おいしそうなイイにおいぃ。それぇ、今日のでざーとぉ?」

「悪坊、久しぶりだな」

「炉伯ぅ、ぼくが先に食べていーい?」

「いいと思うか?」

「朱禅。ぼくにもちょーだい」


伸びてた腕はぷにぷにと柔らかそうで、クリームパンみたいな手が可愛いらしい。全身が溶けたモチみたいな脂肪で出来ているのか、腕もお腹も足もたるみがあって、さらに顔もふくよかで「福」を運んできそうな出で立ちではある。


「悪坊、我らの番だ。触れてくれるな」


近くに寄ってきた手は、朱禅と胡涅を簡単に掴んでしまえそうなほど大きく、褐色肌の相撲取りとでもいえばいいのか、おだやかな口調に反して覗き込んだ瞳の奥は「夜叉」が宿っているのがわかった。


「………ッ」


本能が警戒して、ますます朱禅に強く抱きついてしまったのは幸か不幸か。


「見ろ、悪坊のせいで胡涅が朱禅ばかりにしがみつく」

「良いではないか。ああ、胡涅。なぜそんなに愛らしい」

「ん、ンッ…ッぅ……ん」

「いい加減、俺に寄越せ。さっきの件、まだ怒ってんのか?」

「車内で胡涅を夜叉化させたことなら気にしていない」

「気にしてんじゃねぇか」


二人の腕を行ったり来たりするのは、今に始まったことではない。でも、今はすぐそこに巨大な生き物がいる。
二人が気を散らせばさらわれてしまう気がして、気が気じゃないのに、朱禅も、炉伯も普段通りはしゃいでいる。


「…………ん、ぅ?」


胡涅はキスの合間をみて、悪坊を覗いてみた。
そこでは、ひとり、時間停止したような顔で悪坊が固まっていた。


「つがい…つがい……朱禅と炉伯に……つがい?」


理解できないと、混乱した巨体が同じ言葉を呟いている。


「つがい……つがい……あの、朱禅と炉伯に?」


疑問符が飛び出してきそうなほど、悪坊のなかでは朱禅と炉伯が、生涯の伴侶を得ることは理解できないらしい。
魔法がかかったみたいに固まった悪坊の巨体の横を胡涅は朱禅に抱き上げられたまま進んでいく。


「い、いいの?」


「なにが?」という顔を朱禅がしてくる。炉伯も当然「放っておけ」と何ともない風にとなりにいるのだから、問題はないのだろう。


「ただいまー」


普段からそうであるように、胡涅は朱禅と炉伯と誰もいない家にただいまを告げた。
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