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第玖章:世捨て人
02:いつかの青年
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黒髪、紫の瞳、右側だけの欠けた角と小さな牙。足元に血溜まり。日本刀を振り切った青年の周囲には、灰のような細かな粉塵が舞っている。その出所が、彼の向こうに見える怪物みたいな生き物だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「怖いなら目を閉じておけ」
朱禅が額にキスをくれるから遠慮なくそうさせてもらった。
炉伯の匂いが横を飛び出していったので、恐らくは炉伯が青年に加勢したのだろう。
「胡涅を寄越せ。愚叉の気配は気持ち悪ぃ」
戻ってくるなり朱禅の腕の中から奪われて、すーはーすーはー吸われるのをどういう気持ちで迎えればいいのか。
「……んッ」
猫じゃないのにと文句を言おうとした口は塞がれる。流されるまま舌を絡めて、離れていく唇が名残惜しいと薄く目を開けて、胡涅は盛大に「いやー」と炉伯に腕を立てた。
なぜかじっと観察されている。黒い髪に紫の瞳、大学生みたいな風貌。あの日の青年で間違いはない。
「見せつけてやればいい」
「そっ、そういう問題じゃない」
「狗墨は何とも思わねぇよ」
イヌミ。その名前は知っていると、胡涅は炉伯の腕の中から視線を動かす。
「胡涅」
たった一言、呼ばれて封じられるのは、学習能力がないせいだと反省したい。が、この腕のなかで自由があるかといえば、そうではない。
「ちょっ…ろは…くっ、ンッわっ、私が気にするぅっ、んン゛」
力の差は歴然としている。
周囲の目を気にしながら生きてきた身としては、他人の目の前でキスをするなど羞恥以外のなにものでもない。それを訴えているのに、炉伯は「見せつけるのが当然」と言わんばかりに濃厚なキスをおくってくる。
「なら、我も」
なにが、「なら」なのかわからない。
いつの間にか周囲から靄が消えて、暗い夜道に放り出されていたが、さすがに目立つと空気を読んでくれたのか、炉伯と朱禅のキスは止まった。
「……ひどい目に遭った」
ぐったりと、運ばれるしかない胡涅を嬉しそうに抱いて炉伯は進む。
和装からスーツに変わってくれたのはありがたいが、日本刀をぶら下げているから、最悪職務質問に遭うかもしれない。
「炉伯、そろそろ我に代われ」
「イヤだ」
「断る。胡涅の独占は我にも権利がある」
「あ、朱禅。こら、てめぇ」
仮に、じゃれあう二人を可愛いと思うなら、長身のイケメンというフィルターのせいだろう。例えば、地獄の生き物もなつけばカワイイと言えるだろうか。
いま現在、胡涅の身体を運ぶ担当を決めようと、交互に揺れる波では可愛いもなにもない。
「あ」
結局、炉伯の腕ごと胡涅を抱きしめた朱禅からのキスに応えたところで、狗墨というらしい青年が、暗闇のなかで異形を切った。
「狗墨、さん」
他の男の名前を呼ぶ失態は何度目か。しかも、今回は朱禅と炉伯の腕の中から呼んでしまったせいで、あきらかに不穏な空気が両サイドから沸いている。
どうせ、お仕置きが待っているならしたいことをしてしまおうと、胡涅は狗墨を視線だけで呼び寄せた。
「胡涅様」
刀を地面に押し付け、膝をついて、頭を下げ、目を閉じて呼ばれる名前。
前回会ったときは敵意剥き出しの様子だったのに、今は前と少し違う気がする。
「狗墨さん、この間は助けていただいて、ありがとうございます」
朱禅と炉伯が何かを言い出す前に、胡涅は先にお礼を告げた。
伏せた狗墨の顔はどこか驚いたようだったが、胡涅はかまわずに続ける。
「あのときの傷は大丈夫ですか。ずっと気になっていて……」
「狗墨、答えよ」
「胡涅の問いへの発言を許す」
「ありがたき心くばり、痛み入ります」
「……は、え、そんな朱禅も炉伯も大袈裟な」
なぜ、ただの会話に許すや許さないと口を挟むのか。過保護も過干渉も望んでいないと、胡涅は朱禅と炉伯の口をそれぞれ手で塞ごうとしていた。
「では勝手ながら胡涅様」
手のひらにキスができるといわんばかりに、ところかまわずイチャついてくる朱禅と炉伯から身をよじったところで、「見える傷であれば、治していただいた。見えぬ傷は、ゆっくりと」という狗墨の言葉を聞いた。
「そっそれなら、傷が治るまで私が責任をとります」
「は」という単語が、これほど綺麗にそろうのも珍しい。狗墨はもちろん、朱禅と炉伯も呆気にとられて固まっているのは、少しだけ面白い。
「だって傷を負わせてしまったの、私のせいだもん。放置なんてできない」
「胡涅、狗墨の傷は治っている」
「朱禅。本人が大丈夫っていったって、大丈夫じゃないことなんていっぱいあるのよ?」
「胡涅。狗墨は半夜叉だ。人間とは違う。大体、見えぬ傷ってのは」
「炉伯まで、しっ。それ以上言ったら怒るよ。半分は人間なんだから夜叉とも違うってことでしょ?」
製薬会社を経営する棋風院の名を持つものとして、怪我人を無視することはできない。
社交辞令や謙遜、忖度の中で生きてきた身としては「言葉」というのをそこまで重視していないというのも大きい。あの日、どういう理由であれ、けが人を放置したことに違いはない。これは人としての沽券にかかわる問題でもある。
「狗墨さんは私の命の恩人なの。無礼を働いたら許さないんだから」
ふんっと、言い切った胡涅に注がれる視線は三者三様。いや、朱禅と炉伯は「ショック」といった顔をしているし、狗墨はどこか感動した目で見上げてくる。
「狗墨さん。一日でも早く傷が癒えるように、私にできることはするので、なんでも遠慮なく言ってくださいね」
外向きの愛想笑いをするしかないのは、この場の空気が何とも表現しがたいものだからだろう。
「お前、もうそれ以上喋るな」
「はっ…ぅ゛…ん」
「瞳に写すのも終いだ。いい加減、癇に触る」
炉伯に口を、朱禅に両目を同時に手で覆われれば混乱する。しかも片手のくせに、結構な圧力で押さえつけてくるせいで、バランスを保つのが難しい。
むしろ炉伯の腕に抱えられていてよかったと、胡涅は鼻息だけで現状を訴えた。
「狗墨。貴様に与えられる恩恵が腹立たしい」
「まったくだ。御前はともかく、胡涅に気にかけてもらえるとは至福の極みだぞ」
朱禅と炉伯が何か言っている。
ぶつぶつと嫉妬の念仏みたいだが、これは放っておくのがいいのだろう。
夜叉の愛は重いらしい。
「早く閨に閉じ込めてしまいたい」という二人の願望は聞こえないふりをするに限る。
「胡涅様、ありがとうございます。そのご恩に報いるため、狗墨は、あなたの犬として傍におりましょう」
狗墨と思える声が地面からあがってくるのがわかる。
恩返しはこちらがするのだと、言葉にならない胡涅の鼻息は、この場合、ただの空気になり下がる。朱禅と炉伯は、まだ胡涅に発言権を許さないらしいのだから仕方ない。
「胡涅様、この場は狗墨にお任せを」
耳に聞こえるのは、愚叉と思われる生き物の咆哮と高い金属の交差音。
もはや、狗墨が愚叉を切ったことが見なくてもわかった。
「やけに勇ましいな」
炉伯がからかい半分で狗墨を煽る声がすぐ近くで聞こえる。抱き寄せる腕に力が増した気がして、胡涅の鼻から吐息が抜けた。
「胡涅様の犬となったからといって、たわむれを見る趣味はない」
「我らとて部外者は不要。なぁ、炉伯?」
「ああ、朱禅。だが、まあ、誰かに見せつけたいほど浮かれてることは否定しねぇ」
「俺を仕置きの材料にしないでください」
この二人相手に喧嘩を売る希少な人物に、不謹慎ながら少し笑ってしまう。踊る鼻息に気付いた朱禅と炉伯が耳をかじってきたが、その悲鳴は暗い闇に溶けるように甘く沈んでいった。
「怖いなら目を閉じておけ」
朱禅が額にキスをくれるから遠慮なくそうさせてもらった。
炉伯の匂いが横を飛び出していったので、恐らくは炉伯が青年に加勢したのだろう。
「胡涅を寄越せ。愚叉の気配は気持ち悪ぃ」
戻ってくるなり朱禅の腕の中から奪われて、すーはーすーはー吸われるのをどういう気持ちで迎えればいいのか。
「……んッ」
猫じゃないのにと文句を言おうとした口は塞がれる。流されるまま舌を絡めて、離れていく唇が名残惜しいと薄く目を開けて、胡涅は盛大に「いやー」と炉伯に腕を立てた。
なぜかじっと観察されている。黒い髪に紫の瞳、大学生みたいな風貌。あの日の青年で間違いはない。
「見せつけてやればいい」
「そっ、そういう問題じゃない」
「狗墨は何とも思わねぇよ」
イヌミ。その名前は知っていると、胡涅は炉伯の腕の中から視線を動かす。
「胡涅」
たった一言、呼ばれて封じられるのは、学習能力がないせいだと反省したい。が、この腕のなかで自由があるかといえば、そうではない。
「ちょっ…ろは…くっ、ンッわっ、私が気にするぅっ、んン゛」
力の差は歴然としている。
周囲の目を気にしながら生きてきた身としては、他人の目の前でキスをするなど羞恥以外のなにものでもない。それを訴えているのに、炉伯は「見せつけるのが当然」と言わんばかりに濃厚なキスをおくってくる。
「なら、我も」
なにが、「なら」なのかわからない。
いつの間にか周囲から靄が消えて、暗い夜道に放り出されていたが、さすがに目立つと空気を読んでくれたのか、炉伯と朱禅のキスは止まった。
「……ひどい目に遭った」
ぐったりと、運ばれるしかない胡涅を嬉しそうに抱いて炉伯は進む。
和装からスーツに変わってくれたのはありがたいが、日本刀をぶら下げているから、最悪職務質問に遭うかもしれない。
「炉伯、そろそろ我に代われ」
「イヤだ」
「断る。胡涅の独占は我にも権利がある」
「あ、朱禅。こら、てめぇ」
仮に、じゃれあう二人を可愛いと思うなら、長身のイケメンというフィルターのせいだろう。例えば、地獄の生き物もなつけばカワイイと言えるだろうか。
いま現在、胡涅の身体を運ぶ担当を決めようと、交互に揺れる波では可愛いもなにもない。
「あ」
結局、炉伯の腕ごと胡涅を抱きしめた朱禅からのキスに応えたところで、狗墨というらしい青年が、暗闇のなかで異形を切った。
「狗墨、さん」
他の男の名前を呼ぶ失態は何度目か。しかも、今回は朱禅と炉伯の腕の中から呼んでしまったせいで、あきらかに不穏な空気が両サイドから沸いている。
どうせ、お仕置きが待っているならしたいことをしてしまおうと、胡涅は狗墨を視線だけで呼び寄せた。
「胡涅様」
刀を地面に押し付け、膝をついて、頭を下げ、目を閉じて呼ばれる名前。
前回会ったときは敵意剥き出しの様子だったのに、今は前と少し違う気がする。
「狗墨さん、この間は助けていただいて、ありがとうございます」
朱禅と炉伯が何かを言い出す前に、胡涅は先にお礼を告げた。
伏せた狗墨の顔はどこか驚いたようだったが、胡涅はかまわずに続ける。
「あのときの傷は大丈夫ですか。ずっと気になっていて……」
「狗墨、答えよ」
「胡涅の問いへの発言を許す」
「ありがたき心くばり、痛み入ります」
「……は、え、そんな朱禅も炉伯も大袈裟な」
なぜ、ただの会話に許すや許さないと口を挟むのか。過保護も過干渉も望んでいないと、胡涅は朱禅と炉伯の口をそれぞれ手で塞ごうとしていた。
「では勝手ながら胡涅様」
手のひらにキスができるといわんばかりに、ところかまわずイチャついてくる朱禅と炉伯から身をよじったところで、「見える傷であれば、治していただいた。見えぬ傷は、ゆっくりと」という狗墨の言葉を聞いた。
「そっそれなら、傷が治るまで私が責任をとります」
「は」という単語が、これほど綺麗にそろうのも珍しい。狗墨はもちろん、朱禅と炉伯も呆気にとられて固まっているのは、少しだけ面白い。
「だって傷を負わせてしまったの、私のせいだもん。放置なんてできない」
「胡涅、狗墨の傷は治っている」
「朱禅。本人が大丈夫っていったって、大丈夫じゃないことなんていっぱいあるのよ?」
「胡涅。狗墨は半夜叉だ。人間とは違う。大体、見えぬ傷ってのは」
「炉伯まで、しっ。それ以上言ったら怒るよ。半分は人間なんだから夜叉とも違うってことでしょ?」
製薬会社を経営する棋風院の名を持つものとして、怪我人を無視することはできない。
社交辞令や謙遜、忖度の中で生きてきた身としては「言葉」というのをそこまで重視していないというのも大きい。あの日、どういう理由であれ、けが人を放置したことに違いはない。これは人としての沽券にかかわる問題でもある。
「狗墨さんは私の命の恩人なの。無礼を働いたら許さないんだから」
ふんっと、言い切った胡涅に注がれる視線は三者三様。いや、朱禅と炉伯は「ショック」といった顔をしているし、狗墨はどこか感動した目で見上げてくる。
「狗墨さん。一日でも早く傷が癒えるように、私にできることはするので、なんでも遠慮なく言ってくださいね」
外向きの愛想笑いをするしかないのは、この場の空気が何とも表現しがたいものだからだろう。
「お前、もうそれ以上喋るな」
「はっ…ぅ゛…ん」
「瞳に写すのも終いだ。いい加減、癇に触る」
炉伯に口を、朱禅に両目を同時に手で覆われれば混乱する。しかも片手のくせに、結構な圧力で押さえつけてくるせいで、バランスを保つのが難しい。
むしろ炉伯の腕に抱えられていてよかったと、胡涅は鼻息だけで現状を訴えた。
「狗墨。貴様に与えられる恩恵が腹立たしい」
「まったくだ。御前はともかく、胡涅に気にかけてもらえるとは至福の極みだぞ」
朱禅と炉伯が何か言っている。
ぶつぶつと嫉妬の念仏みたいだが、これは放っておくのがいいのだろう。
夜叉の愛は重いらしい。
「早く閨に閉じ込めてしまいたい」という二人の願望は聞こえないふりをするに限る。
「胡涅様、ありがとうございます。そのご恩に報いるため、狗墨は、あなたの犬として傍におりましょう」
狗墨と思える声が地面からあがってくるのがわかる。
恩返しはこちらがするのだと、言葉にならない胡涅の鼻息は、この場合、ただの空気になり下がる。朱禅と炉伯は、まだ胡涅に発言権を許さないらしいのだから仕方ない。
「胡涅様、この場は狗墨にお任せを」
耳に聞こえるのは、愚叉と思われる生き物の咆哮と高い金属の交差音。
もはや、狗墨が愚叉を切ったことが見なくてもわかった。
「やけに勇ましいな」
炉伯がからかい半分で狗墨を煽る声がすぐ近くで聞こえる。抱き寄せる腕に力が増した気がして、胡涅の鼻から吐息が抜けた。
「胡涅様の犬となったからといって、たわむれを見る趣味はない」
「我らとて部外者は不要。なぁ、炉伯?」
「ああ、朱禅。だが、まあ、誰かに見せつけたいほど浮かれてることは否定しねぇ」
「俺を仕置きの材料にしないでください」
この二人相手に喧嘩を売る希少な人物に、不謹慎ながら少し笑ってしまう。踊る鼻息に気付いた朱禅と炉伯が耳をかじってきたが、その悲鳴は暗い闇に溶けるように甘く沈んでいった。
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