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第伍章:眠り姫の目覚め
02:体内に宿る疑問
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胡涅は、どこか寂しそうに空気を眺める翁呻の背中を見ていた。はずだった。
たしかに、目の前に翁呻の大きな背中が映っていたはずなのに、今はキレイな黄金色の瞳を持つ美人と相対している。
「して、そこの娘」
「え、は、はぇ、わ、私?」
いつの間に、手を伸ばせば触れる距離に移動してきたのか。正真正銘の藤蜜が胡涅に問いかけていた。
「うぬ以外に誰がおる」
今まで何の音沙汰もなかったため、自分が相手から認識されていると思っていなかった胡涅は、わかりやすく周囲を見渡していたが、やがて自分だと合点がいったのか。黄金色に光る瞳を見つめ返してごくりとのどを鳴らす。
「な、なんでしょう?」
少し首をかたむけて「ふっ」と鼻で笑われるのをどう受け止めるべきか。
藤蜜姫は美しく、時間を忘れるほど見惚れてしまう。艶やかに伸びた白髪、琥珀とも言える美しい瞳、なめらかな陶器を思わせる白い肌、藤の香りがほのかに漂い、人間離れした色気が無性に性をかきたてる。
藤蜜。
自分のことをそう呼ぶ人たちは、なぜこのような美人と自分を混合するのかと、胡涅は当たり前の疑問に違和感を持っていた。
「……全然、似てないじゃん」
一応、探してみたもののみじめになるほど似ていない。
顔の造形はもちろん、胸の大きさも、すらりと伸びた足も、仕草も口調もなにもかも。しいて言えば身長くらいか。あとは同じ、女であること。
「うぬは表情に落ち着きがないな」
ぐるぐるとひとり百面相をしていた胡涅に、藤蜜は距離を保ったまま息を吐いた。
「わらわの夢にふけるのもよいが、大概にせぬと双璧の獰猛さが増すぞ」
「そうへき?」
「飼っておるだろう。赤と青のふたりを」
真面目に見つめられて浮かんだのは、目の前の夜叉姫と同じ、白髪を持つ二人の男。赤い瞳の朱禅と、青い瞳の炉伯の存在をなぜ藤蜜姫が知っているのかは知らない。
聞けば答えてくれるのかもしれない。
それでも先に、聞きたいことがある。
「私……あなたに会ったことがありますか?」
名前を何度も耳にしてきたせいで、実際に顔を合わせたことがあるような錯覚が芽生えているのかもしれない。
藤蜜。藤蜜姫。藤蜜御前。
似ても似つかない容姿をした美しい夜叉は、鬼や吸血鬼というより天女や女神といわれても納得がいく。神話や童話に出てくるような、人外の妖しさを持っている。
「あなたと私は何か関係がありますか?」
この夢が始まった時からうすうす頭によぎっていた感想。
それでも、たどる記憶に藤蜜姫の面影はなく、夢ですら見たこともない。嗅いだことのある藤の香りは、自然に咲く花を連想させる程度で、角や牙を持つ人外の女性なんてアニメや漫画、イラストなどでしか見たことがないと胡涅は現実を否定する。
「藤蜜、姫さま」
「……藤蜜でよい」
どう呼びかけるのが正しいのかわからず、姫様をつけた胡涅の緊張を藤蜜姫はなんてことない風に切り捨てる。会話に飽きてきたのが一目でわかる。
随分と気まぐれだなと、口元が引きつりそうな感想を抱いたところで、胡涅の脳裏に真新しい記憶が触れた。
『お前と藤蜜さまは、まったく似ていない』
あれは日本刀と紫の瞳を持つ青年の言葉。彼の探していた女性は、今、胡涅の目の前にいる藤蜜なのだと、なぜかそれが腑に落ちて理解できる。
「紫の目をした男の人に心当たりありますか?」
素直に問いかけてみた。藤蜜姫の表情からは何もわからない。
心当たりがあるのかないのか、関係を持った男が多すぎてすぐには出てこないのかもしれない。
「その人が言っていました。藤蜜さんは美しく、男なら誰もが見惚れる妖艶さをもっている。芯が強く、気位の高い人だけど、ワガママで、自由奔放で、イタズラ好きで、特定の男は作らないって」
口にしていて尻すぼみになるのは、やはりこれが悪口だと思うせい。
あの青年も翁呻と呼ばれた先ほどの大男も、藤蜜を語るときはうっとりとした顔をしていたが、言葉だけをみると良い印象はないなと、胡涅も改めて思う。しかし、藤蜜はそうではないらしい。
「狗墨(いぬみ)か。可愛い男であろう?」
ニッと口角をあげた顔はイタズラに歪み、それ以上は何もいうつもりがないという顔をしていた。
「うぬも気に入ったのか?」
「そ、そんなわけないです」
「狗墨は忠実で良い犬だぞ。裏切りはなく、誠実で真面目な犬だ」
「犬って」
仮にも人に対してそんな言い方はないと胡涅は言葉に詰まる。
藤蜜姫には正論や感情論といった他人の声はおそらく届かない。
「わらわの見る目は確かぞ。うぬとわらわ、本能で惹かれる部分は、似るところはあるやもしれん」
くすくすと笑う顔に背筋がぞくりと泡立つ。そして、同時に確信に近い感覚を得る。
最近会った青年はもとより、祖父から都度聞いていた「藤蜜」という愛称は、この人物を指すという確信。
「祖父が呼ぶ藤蜜は、私ではなく、あなたのことでしょう?」
知っているはずがないと思いながら、どこかで期待している感覚のままに胡涅は尋ねる。すると藤蜜はそのキレイな顔に驚きを宿して、それからニヤリと恐ろしいくらいの笑みを浮かべた。
「さよう」
たった一言。肯定の言葉だけが、空気までもしんと静寂に凍らせる。
「棋綱も人間のくせに執着が過ぎる」
「棋綱(きつな)?」
なぜそこで棋綱製薬の創業者の名前が出てくるのだろうと胡涅は首をかしげる。けれど、やはり藤蜜は必要以上を教える気はないらしい。
「わらわはもうおらぬというのに、うぬにわらわの影を重ねる姿がいと哀れよの」
「どうして、私に藤蜜さんを?」
「簡単なことじゃ。うぬにわらわの血が流れておる」
「……え?」
キレイな白い指先を向けられて、胡涅はわかりやすく息をのむ。
「私、人間じゃないの?」
「いや、うぬは人間じゃ」
「え……じゃあ、藤蜜さんが私のお母さん?」
「いや、うぬを生んだのは人間の女だ。写真を見ただろう、破り捨てられたあの写真だ」
思い出すのは数日前に、祖父の堂胡との会食中に破られた一枚の写真。
家の飾り棚にある本の中から見つけた貴重な一枚で、それは藤蜜のいうとおり、今はごみとして葬り去られている。
「うぬの母とわらわは融合し、そして共に肉体が朽ちた。まあ、そういう意味ではうぬはわらわの娘といって良いかもしれん」
「は?」
いたずらに微笑む藤蜜の姿は、面白がっていることがひしひしと伝わってきて、胡涅はむっと唇をとがらせた。
今は言葉遊びをしたい気分ではない。
そういう冗談やからかいはごめんだと、胡涅は不機嫌な目で藤蜜をにらんだ。
「怖い顔をするな。語ってやっても良いが、そろそろ目覚めねば、あやつらの好きにいじられるぞ。良いのか?」
「良いのかって……」
聞かれても、困る。
こちらが聞きたいことは、はぐらかしてくるのに、本当にワガママで気まぐれだと納得せざるを得ない。
「気を付けることだ。牙を隠していても夜叉は夜叉。うぬが思う以上に奴らの愛は重く、深い。深淵の闇に似て、闇よりも厄介なことになる」
そのことが何よりも面倒で、気色悪いと目の前の藤蜜は自身を抱きしめてぶるりと震えた。
「うぬはわらわの血を分けたとはいえ、本来は人間、夜叉の愛には耐えられぬ」
「……夜叉って、何ですか?」
「骨まで喰らい、果てるまで求めつくす化け物よ」
冷めた瞳は黄金色にも関わらず、黒く濁ったように見える。
心底嫌悪するその声は、自分が夜叉であることをひどくいやがっているみたいだった。
「下手なことはせぬほうが良い。翁呻なぞ可愛いものぞ。わらわでも双子夜叉はごめんだ」
「翁呻さんって、さっきの」
胡涅は藤蜜の後ろに見えるはずの姿を探して顔を覗き込む。けれどそこには半透明の黄金がかった靄があるだけで、何も見えない。
気付かないうちに消えてしまった。
大岩も、自然豊かな森も、空気も何もかも。
「翁呻は次代の王と謳われた八の衆を束ね、夜叉統一を果たした王の中の王だ。今は山となったのだったか」
見た目どおりだろうと、藤蜜はのどの奥でくつくつ笑う。それを視界に移しながら胡涅は「山?」と首をかしげた。
「八束山という山があるだろう」
その言葉をすぐには理解できなかった。あまりにスケールの違う話だったからかもしれない。八束市を取り囲むようにそびえる八束岳は、ひときわ大きな八束山が誕生した際にできたとされ、胡涅の住む屋敷の裏がそれにあたる。
知っているなどというものではない。
生まれた時から、それは当然のように生活の背景として存在している。
「……っ、ぅ」
突然、胡涅はひどく心臓がはねた気がして胸を抑える。どくどくと脈拍が早くなり、呼吸も荒く変わっていく。
貧血に似た頭痛とめまいがおこり、ぐらりと身体が揺れた。
「そのように貧弱では、うぬは夜叉にも人にもなれぬ」
藤蜜が抱き留めてくれたらしい。案外優しい人なのかもしれないと、胡涅は薄れゆく意識の中で思う。
「早々に決めるが良い。夜叉として生きるか、人として死ぬか」
「私が…ッ…な、ぜ」
「あやつらに身をゆだねていれば、自然と夜叉にされてしまうぞ」
うぬの意志に関係なく。
夜叉の男はそういう自分勝手な生き物だと、藤蜜はどこか悲しそうに微笑む。
「人として命を全うしたければ、将門之助を頼るが良い」
「まさ……かど?」
「今は確か、保倉 将充というたか。うぬの新しい担当となった、あの若者だ」
「……保倉先生が……どう、して」
「夜叉を殺すならば将門之助ほど適任者はおらぬ。肝に銘じよ、夜叉を選べば、骨の髄まで赤と青に永久にとらわれるのだと」
黄金色の瞳に自分の顔が映っているのを遠くの方に感じていく。
「そして二度と人には戻れぬ」
漠然と、夢から覚めるのだと身体の実感が戻っていく気配がして、それから胡涅は閉じていたまぶたをこじ開ける様に瞳をそっと揺らした。
たしかに、目の前に翁呻の大きな背中が映っていたはずなのに、今はキレイな黄金色の瞳を持つ美人と相対している。
「して、そこの娘」
「え、は、はぇ、わ、私?」
いつの間に、手を伸ばせば触れる距離に移動してきたのか。正真正銘の藤蜜が胡涅に問いかけていた。
「うぬ以外に誰がおる」
今まで何の音沙汰もなかったため、自分が相手から認識されていると思っていなかった胡涅は、わかりやすく周囲を見渡していたが、やがて自分だと合点がいったのか。黄金色に光る瞳を見つめ返してごくりとのどを鳴らす。
「な、なんでしょう?」
少し首をかたむけて「ふっ」と鼻で笑われるのをどう受け止めるべきか。
藤蜜姫は美しく、時間を忘れるほど見惚れてしまう。艶やかに伸びた白髪、琥珀とも言える美しい瞳、なめらかな陶器を思わせる白い肌、藤の香りがほのかに漂い、人間離れした色気が無性に性をかきたてる。
藤蜜。
自分のことをそう呼ぶ人たちは、なぜこのような美人と自分を混合するのかと、胡涅は当たり前の疑問に違和感を持っていた。
「……全然、似てないじゃん」
一応、探してみたもののみじめになるほど似ていない。
顔の造形はもちろん、胸の大きさも、すらりと伸びた足も、仕草も口調もなにもかも。しいて言えば身長くらいか。あとは同じ、女であること。
「うぬは表情に落ち着きがないな」
ぐるぐるとひとり百面相をしていた胡涅に、藤蜜は距離を保ったまま息を吐いた。
「わらわの夢にふけるのもよいが、大概にせぬと双璧の獰猛さが増すぞ」
「そうへき?」
「飼っておるだろう。赤と青のふたりを」
真面目に見つめられて浮かんだのは、目の前の夜叉姫と同じ、白髪を持つ二人の男。赤い瞳の朱禅と、青い瞳の炉伯の存在をなぜ藤蜜姫が知っているのかは知らない。
聞けば答えてくれるのかもしれない。
それでも先に、聞きたいことがある。
「私……あなたに会ったことがありますか?」
名前を何度も耳にしてきたせいで、実際に顔を合わせたことがあるような錯覚が芽生えているのかもしれない。
藤蜜。藤蜜姫。藤蜜御前。
似ても似つかない容姿をした美しい夜叉は、鬼や吸血鬼というより天女や女神といわれても納得がいく。神話や童話に出てくるような、人外の妖しさを持っている。
「あなたと私は何か関係がありますか?」
この夢が始まった時からうすうす頭によぎっていた感想。
それでも、たどる記憶に藤蜜姫の面影はなく、夢ですら見たこともない。嗅いだことのある藤の香りは、自然に咲く花を連想させる程度で、角や牙を持つ人外の女性なんてアニメや漫画、イラストなどでしか見たことがないと胡涅は現実を否定する。
「藤蜜、姫さま」
「……藤蜜でよい」
どう呼びかけるのが正しいのかわからず、姫様をつけた胡涅の緊張を藤蜜姫はなんてことない風に切り捨てる。会話に飽きてきたのが一目でわかる。
随分と気まぐれだなと、口元が引きつりそうな感想を抱いたところで、胡涅の脳裏に真新しい記憶が触れた。
『お前と藤蜜さまは、まったく似ていない』
あれは日本刀と紫の瞳を持つ青年の言葉。彼の探していた女性は、今、胡涅の目の前にいる藤蜜なのだと、なぜかそれが腑に落ちて理解できる。
「紫の目をした男の人に心当たりありますか?」
素直に問いかけてみた。藤蜜姫の表情からは何もわからない。
心当たりがあるのかないのか、関係を持った男が多すぎてすぐには出てこないのかもしれない。
「その人が言っていました。藤蜜さんは美しく、男なら誰もが見惚れる妖艶さをもっている。芯が強く、気位の高い人だけど、ワガママで、自由奔放で、イタズラ好きで、特定の男は作らないって」
口にしていて尻すぼみになるのは、やはりこれが悪口だと思うせい。
あの青年も翁呻と呼ばれた先ほどの大男も、藤蜜を語るときはうっとりとした顔をしていたが、言葉だけをみると良い印象はないなと、胡涅も改めて思う。しかし、藤蜜はそうではないらしい。
「狗墨(いぬみ)か。可愛い男であろう?」
ニッと口角をあげた顔はイタズラに歪み、それ以上は何もいうつもりがないという顔をしていた。
「うぬも気に入ったのか?」
「そ、そんなわけないです」
「狗墨は忠実で良い犬だぞ。裏切りはなく、誠実で真面目な犬だ」
「犬って」
仮にも人に対してそんな言い方はないと胡涅は言葉に詰まる。
藤蜜姫には正論や感情論といった他人の声はおそらく届かない。
「わらわの見る目は確かぞ。うぬとわらわ、本能で惹かれる部分は、似るところはあるやもしれん」
くすくすと笑う顔に背筋がぞくりと泡立つ。そして、同時に確信に近い感覚を得る。
最近会った青年はもとより、祖父から都度聞いていた「藤蜜」という愛称は、この人物を指すという確信。
「祖父が呼ぶ藤蜜は、私ではなく、あなたのことでしょう?」
知っているはずがないと思いながら、どこかで期待している感覚のままに胡涅は尋ねる。すると藤蜜はそのキレイな顔に驚きを宿して、それからニヤリと恐ろしいくらいの笑みを浮かべた。
「さよう」
たった一言。肯定の言葉だけが、空気までもしんと静寂に凍らせる。
「棋綱も人間のくせに執着が過ぎる」
「棋綱(きつな)?」
なぜそこで棋綱製薬の創業者の名前が出てくるのだろうと胡涅は首をかしげる。けれど、やはり藤蜜は必要以上を教える気はないらしい。
「わらわはもうおらぬというのに、うぬにわらわの影を重ねる姿がいと哀れよの」
「どうして、私に藤蜜さんを?」
「簡単なことじゃ。うぬにわらわの血が流れておる」
「……え?」
キレイな白い指先を向けられて、胡涅はわかりやすく息をのむ。
「私、人間じゃないの?」
「いや、うぬは人間じゃ」
「え……じゃあ、藤蜜さんが私のお母さん?」
「いや、うぬを生んだのは人間の女だ。写真を見ただろう、破り捨てられたあの写真だ」
思い出すのは数日前に、祖父の堂胡との会食中に破られた一枚の写真。
家の飾り棚にある本の中から見つけた貴重な一枚で、それは藤蜜のいうとおり、今はごみとして葬り去られている。
「うぬの母とわらわは融合し、そして共に肉体が朽ちた。まあ、そういう意味ではうぬはわらわの娘といって良いかもしれん」
「は?」
いたずらに微笑む藤蜜の姿は、面白がっていることがひしひしと伝わってきて、胡涅はむっと唇をとがらせた。
今は言葉遊びをしたい気分ではない。
そういう冗談やからかいはごめんだと、胡涅は不機嫌な目で藤蜜をにらんだ。
「怖い顔をするな。語ってやっても良いが、そろそろ目覚めねば、あやつらの好きにいじられるぞ。良いのか?」
「良いのかって……」
聞かれても、困る。
こちらが聞きたいことは、はぐらかしてくるのに、本当にワガママで気まぐれだと納得せざるを得ない。
「気を付けることだ。牙を隠していても夜叉は夜叉。うぬが思う以上に奴らの愛は重く、深い。深淵の闇に似て、闇よりも厄介なことになる」
そのことが何よりも面倒で、気色悪いと目の前の藤蜜は自身を抱きしめてぶるりと震えた。
「うぬはわらわの血を分けたとはいえ、本来は人間、夜叉の愛には耐えられぬ」
「……夜叉って、何ですか?」
「骨まで喰らい、果てるまで求めつくす化け物よ」
冷めた瞳は黄金色にも関わらず、黒く濁ったように見える。
心底嫌悪するその声は、自分が夜叉であることをひどくいやがっているみたいだった。
「下手なことはせぬほうが良い。翁呻なぞ可愛いものぞ。わらわでも双子夜叉はごめんだ」
「翁呻さんって、さっきの」
胡涅は藤蜜の後ろに見えるはずの姿を探して顔を覗き込む。けれどそこには半透明の黄金がかった靄があるだけで、何も見えない。
気付かないうちに消えてしまった。
大岩も、自然豊かな森も、空気も何もかも。
「翁呻は次代の王と謳われた八の衆を束ね、夜叉統一を果たした王の中の王だ。今は山となったのだったか」
見た目どおりだろうと、藤蜜はのどの奥でくつくつ笑う。それを視界に移しながら胡涅は「山?」と首をかしげた。
「八束山という山があるだろう」
その言葉をすぐには理解できなかった。あまりにスケールの違う話だったからかもしれない。八束市を取り囲むようにそびえる八束岳は、ひときわ大きな八束山が誕生した際にできたとされ、胡涅の住む屋敷の裏がそれにあたる。
知っているなどというものではない。
生まれた時から、それは当然のように生活の背景として存在している。
「……っ、ぅ」
突然、胡涅はひどく心臓がはねた気がして胸を抑える。どくどくと脈拍が早くなり、呼吸も荒く変わっていく。
貧血に似た頭痛とめまいがおこり、ぐらりと身体が揺れた。
「そのように貧弱では、うぬは夜叉にも人にもなれぬ」
藤蜜が抱き留めてくれたらしい。案外優しい人なのかもしれないと、胡涅は薄れゆく意識の中で思う。
「早々に決めるが良い。夜叉として生きるか、人として死ぬか」
「私が…ッ…な、ぜ」
「あやつらに身をゆだねていれば、自然と夜叉にされてしまうぞ」
うぬの意志に関係なく。
夜叉の男はそういう自分勝手な生き物だと、藤蜜はどこか悲しそうに微笑む。
「人として命を全うしたければ、将門之助を頼るが良い」
「まさ……かど?」
「今は確か、保倉 将充というたか。うぬの新しい担当となった、あの若者だ」
「……保倉先生が……どう、して」
「夜叉を殺すならば将門之助ほど適任者はおらぬ。肝に銘じよ、夜叉を選べば、骨の髄まで赤と青に永久にとらわれるのだと」
黄金色の瞳に自分の顔が映っているのを遠くの方に感じていく。
「そして二度と人には戻れぬ」
漠然と、夢から覚めるのだと身体の実感が戻っていく気配がして、それから胡涅は閉じていたまぶたをこじ開ける様に瞳をそっと揺らした。
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