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第肆章:緋丸温泉

03:温泉街

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胡涅は結局、浴衣を着せてもらえなかった。
なんでもノーブラノーパンで薄い布一枚を巻き付けて歩こうなどと許せるわけがない、ということで、勝手に彼氏面している二人を連れて、胡涅は温泉街を普段通りに歩いていた。
本当は夜の町を歩きたかったが、残念ながら、腰の回復に日数を費やした。部屋に備え付けの露天風呂と甲斐甲斐しい世話をやかれて、ようやく復活できたのは五日目の朝のこと。


「……っ…ぅ」

「抱くか?」

「いらないってば」


しつこい筋肉痛が、階段の多い石畳の坂道で思い出したように呻いたのを、めざとくとらえた炉伯に胡涅は噛みつく。
声の回復は意外と早かったのに対して、筋肉痛やら関節痛やら処女喪失の代償に得たものが多すぎる。胡涅の文句は痛みを感じるごとに吐き出されるので、ようやくやりすぎたと悟ったのか、罪と罰を背負った二人の男は、キスすらも遠慮していた。
遠慮は違う。語弊がある。彼らはキス「だけでも」解禁を求めている。
必要以上のスキンシップを禁止したときの彼らの反応は、新たな攻略対象を見つけたときみたいに輝いたが、胡涅の本気度に少し弱気になっているだけのこと。
「これが蛇の生殺しというやつか」「腹を空かせた方が後々厄介だぞ。早々に禁を解いた方がいい」などと、隙あればキスを求めてくる朱禅と炉伯をかわし続けた結果、余計に付きまとわれているのは、この際気にしないことにする。
老舗旅館の離れを貸しきりにして五日目の朝。こうして、ようやく外の空気を吸うに至っているのだから気遣い不要だと、胡涅は炉伯の申し出を断った。


「二人と歩いてると目立つのよ。こんな坂道で抱いて運ばれるなんて、私がワガママな悪役令嬢みたいに見えるじゃない」


ふんっと、鼻をならしてそっぽを向く。


「悪役令嬢とやらが何かは知らぬが、胡涅のワガママを聞けぬほど我らは狭量ではない」

「朱禅、そういう話をしてるんじゃないの」

「朱禅、悪役令嬢ってのは、あれだ。最近胡涅が見てた配信アニメの主人公で、王子やら騎士やらに求愛される金持ち娘のことだ。胡涅よりバカだが、参考にはなるぞ」

「炉伯。朱禅に変なことを教えないで」


炉伯がダメなら朱禅が。朱禅がダメなら炉伯が。なぜ、交互に攻めれば籠絡できると思うのか。
しかも炉伯に至っては、一緒に見たアニメのせいで変な知識までついている。
同じ白髪を揺らして、違う瞳の色で見つめてくる双子みたいな別人を両脇に並べていると、ただでさえ疎ましく囁かれるのに、悪いイメージも追加されそうで恐ろしい。将来のためにも、家のためにも、この八束市の住民のためにも棋風院の孫娘は「健全、純心、潔白」のイメージを守らなくてはならない。
健全ではない、すでに病弱というオプションが加味されている。とはいえ、世間はひとつ屋根のしたで暮らす年頃の男女をいつまでも「普通」には見てくれない。下世話な人はどこにでもいる。
そこのところが二人には伝わらない。


「胡涅、腹減ってないか?」


歩く速さを合わせてくれているからか、一歩一歩が大きい炉伯が、すぐ前の店で売られている団子を見ながら提案してきた。


「お腹……そういえば」


炉伯は何気なく。本当に何気なく口にしたのだろうと思う。それでも違和感は確実に胡涅の中に芽吹いた。


「私、食事してなくない?」


最後の食事を思い返してみれば祖父との会食になる。あれから五日。いくら処女喪失の副作用に苦しみ、温泉と睡眠を繰り返していただけとはいえ、普通じゃないことはわかる。


「……最高記録かも」


特に困らなかったといえば、病人らしいといえるのかもしれない。昔から食事は苦手で、自分から食べ物をねだる習慣がないせいもある。
旅館には朱禅と炉伯のどちらかが伝えてくれたのだろう。五日間、離れに人の気配はひとつも訪れなかった。とはいえ、朱禅と炉伯以外が作るものを美味しいと思えるかは謎だが、意識がむけば、不思議と胃袋が空腹を訴えた気がする。


「たしかに、言われてみれば……なにか食べたほうがいいのかな」


炉伯の示す団子をみて思案する。
躊躇してしまうのは「おいしそう」に見えるが、恐らく食べれば「まずい」と思ってしまいそうだから。
店の人に迷惑だし、無作法に食べる姿はあまり人に見られたくない。


「買ってこよう」

「え……ちょっと」


行動力がありすぎる朱禅が、制止の声をかける前に店の方へ向かって歩いていく。
食べないとは言ってないが、食べるとも言っていないのに、こういうところは前から制御がきかない。


「ん?」


珍しく三人分。いつもは胡涅が残すのを見越して二人分しか買わないのに、今日は丸々全部食べると思われているのか。
小さな団子が五つ。棒に突き刺さって食べやすそうな大きさ。口の大きな炉伯はすでに三つ一気に食べている。


「………いただきます」


立ち食いはキライだ。
おいしそうな顔をしないとダメな気がする。まずかったときを考えて、あらかじめどんな反応にするか決めて、それから胡涅はひとつめの団子にかじりついた。


「どうだ?」


炉伯が食べきるのを横目に、朱禅はまだ団子が綺麗に刺さった棒を持ったまま尋ねてくる。
胡涅はモグモグと租借して、租借して、租借していくうちに、どんどん顔をあげていた。


「………おいしい」


おいしい。
いかにも観光客向けの商品で、特別何かというわけでもない。大抵の観光客は「観光名物」という看板に引かれて買う程度の定番な団子で、正直期待はしていなかった。それなのに、これはいったいどういうわけか、今はおいしいと素直に思える。


「うん、なんだろう……すごく美味しい」


空腹は最大の調味料を差し引いたとしても、三ツ星のお店で出されたものよりも格別においしく感じる。二つ目も、三つ目も難なく食べすすめる。さすがに四つ目から苦しくなってきたが、胡涅は初めてひとりで団子を完食していた。


「あ、胡涅。棒をもって走るな」

「平気、捨てに行くだけ」


朱禅と炉伯の腕が伸びる前に、食べ終えた棒を自分で店頭に備え付けのゴミ箱に捨てにいく。


「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」


胡涅に突然話しかけられたからか、団子を焼いていたアルバイト店員が一瞬驚いた顔をして、それから「ありがとうございました」と返してくれたので、ものすごく機嫌がよくなった。
人とはげんきんなもので、気分がよくなると羽振りもよくなる。


「ねぇ、炉伯。あれ、食べてみたい」

「んー、どれ?」


追いかけてきたらしい炉伯のそでを引っ張って告げてみれば、少し背を丸めて目線を合わせてくれる仕草が嬉しい。
普段は高級デパートや産地直送、三ツ星など何かしらの付加価値がついた食べ物が身近なお嬢様が、目を輝かせて庶民の味を模索するのは護衛にとっても大変だろう。
胡涅が食べる前に自分が試食して、問題ないと判断する必要があるに違いない。


「胡涅。前にあれと似たようなの食ったときは吐いただろ?」

「大丈夫。なんか今ならイケる気がする」

「本当かよ」


そんな風に言いながらも炉伯は道端の温泉に浸かっている卵を取りに行く。


「胡涅。何か飲むか?」

「えっと、じゃああれ。あそこのお茶飲んでみたい」


食べ終えた棒を捨てに来たらしい朱禅に、お茶のお使いも頼んだ。久しぶりに笑顔の胡涅を見たせいだろう。彼らの気が緩んだ一瞬のスキ。
意識すらしない、たった一度のまたたきの間。
目を閉じて、開けた瞬間、なぜか、胡涅は見知らぬモヤの中にいた。


「…………え?」


ほんの数秒前まで見えていた朱禅と炉伯の姿が視界から消えて、ヒヤリとした寒気を覚える。無意識に両腕を抱きしめたが、吐く息の白さに警戒心が募っていく。
冷蔵庫の中ほど寒くもなく、だからといって、周囲一帯が真白に埋め尽くされた状態では神経が張りつめて、身体はどんどん冷え固まっていく感覚が宿る。
見渡す限り立ち込める湯気みたいに白いモヤで埋まり、自分がどこかに迷いこんだ錯覚に陥るのも無理はない。


「…ッ…火事?」


爆発音も何も聞こえなかったが、匂いも何もしないが、もしかしたら突然の衝撃で自分の感覚がマヒしてしまっただけで、そうなのかもしれないと、胡涅はひらめいたように状況把握に意識を戻す。
そうして不安のまま半歩、足を前に進めようとしたところで、胡涅は真後ろに人が立っているのを認識した。


「しゅぜ……ッ……だ、れ?」


振り返ったそこには、黒髪に紫の瞳をした綺麗な青年。見たことはない。それなのに少しだけ懐かしい気がする不思議な青年がいた。
相手も突然目の前に胡涅がいたせいで驚いたのか。目を見開き、無言で立ち尽くしている。
お互いに見つめあったまま、しばらくの沈黙。
先に口を開いたのは青年の方だった。


「…………藤蜜さま?」


青年が胡涅に対して疑問系で尋ねてくる。けれど、胡涅はその呼び方を何度かされてきたせいで「藤蜜」の自覚はある。


「あ……えっと」

「……っ、藤蜜さま」

「お祖父様はときどき私をそう呼ぶけど、あなたも私をそう呼ぶのね」


うんざりした声を出してしまって申し訳ないが、胡涅は取り繕った笑顔を浮かべて、黒髪の青年の疑問に答えた。それなのに感動しかけた顔を瞬時にこわばらせて、「違う。この偽物が」と、敵対心をむき出しに、威嚇される意味がわからない。


「なぜお前からあの方の気配がする?」

「……気配?」

「どうやって俺の狭間路(はざまろ)に入った?」

「ごめんなさい。何のことだかさっぱりわからない……です」


初対面の相手に殺伐とした空気で睨まれるような何かをしただろうか。
いや、しているしていないは問題ではない。
いつどこで誰がみているかわからない。
いつも試されている。本性を、素行を。だから突然、意味のわからない理不尽な状況におかれても、平常心を装わなければならない。声を荒げて変に敵対すれば、棋風院の名前に傷をつけるといわれて育ってきた。
板についた他人行儀。
丁寧に、下手に出るのが良策だと、胡涅はそうしつけられている。けれどそれは、相手にとって関係のない話。先読みできない相手の対処は、はっきりいって経験がない。
こういうときのために、朱禅と炉伯がいるはずだが、こうも窮地では二人を探している時間もない。
青年は警戒心満開で、体の距離は近くても心の距離は随分と遠い。一体どうしたものかと、胡涅は困った顔で息を吐いた。


「あの」

「近寄るな。オレに触れていいのは藤蜜さまだけだ」


先手必勝は無事に破れた。
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