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第肆章:緋丸温泉

01:壊れた関係

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温泉街は平日の夜でもそれなりに人で賑わい、観光客を狙った催事がそこかしこで元気に開かれている。
秋晴れの夜なことも助力して、月を眺めながら足湯を楽しむ声や、温泉玉子に歓喜する声、土産を選ぶ声などが入り交じり、八束市緋丸温泉街は今夜も活気に満ちていた。


「…………ぅ゛ー」


ただし、それは高級老舗旅館の離れでうなだれる胡涅には当てはまらない。


「……ざぃ゛あ……ぐ」


叫びすぎて潰れた喉が濁音しか吐き出さない。しかも腰が言うことを聞かずに、せっかくの温泉も楽しめず、布団からも出られずにいる。
目が覚めて、のどが渇いたから水をのもうと身体を起こして悲鳴をあげたのは、三十分ほど前くらいか。
ダル重くて、腰から下が無くなったみたいに力が入らず、立ち上がることはおろか、起き上がることも出来なかった。
水はあらかじめ用意してくれていたらしい朱禅が飲ませてくれた。


「………も゛…ゃ」


絶対、処女喪失一夜目の流れではなかったと断言できる。体力オバケの朱禅と炉伯はニコニコしているが、とてもじゃないけど付き合っていられない。
穴という穴が開いたままの気がする。
じんじんひりひり、そんな痺れが微弱に続いていて、不快感がひどい。
世の女性はこんな経験をしてきたのだろうか。だとすれば、尊敬に値すると胡涅は肌にまとわりつくシーツに埋もれた。


「………はぁ」


もう二度とセックスなんてしたくない。
痛いし、変になるし、覚えてないし、しつこいし。大体、太っただけの貧弱体質が、二人同時に受け入れるのは無理がある。
気持ちいい以前にサイズ感の違いをもっと認識するべきだった。


「も゛……しな゛ぃ……」


胡涅は全裸のまま寝かされた布団のうえで、起きてから誓い続けてきた言葉を繰り返す。
元凶の二人が、ひどいことをしたと思っていない辺りが恐ろしい。むしろ足りないという不満そうな顔が見え隠れしている。


「胡涅」

「……ざわる…の…ぎんじ」


触るの禁止。ぺしんと乾いた音で叩いたのは朱禅の右手。


「胡涅」

「ッ……ちかづく、め゛」


近付くのもダメ。ぐいっと押し退けたのは炉伯の顔。まさかそのまま手のひらにキスをされると思っていなかったために、胡涅の顔は真っ赤に変わる。
じっと熱を込めて見つめられる顔に耐性がつく日が来るとは、どうしても思えなくて、胸がギュッと苦しくなる。


「……ゃ゛…」


頭から布団をかぶって、胡涅は寝起きからなぜか両サイドで全裸で寝転がっている男たちを一喝した。前から朱禅、後ろから炉伯。この場合は左側に朱禅、右側に炉伯というべきか。
いまは芋虫になるに限る。
恋人でも、婚約者でもない。ただの雇用関係しかない男たちと一線を越えてしまった。本当に、越えてしまった。
想像でも夢でもなく現実に。
どうしよう。
ぐるぐると頭のなかは混乱していた。
しかも昼間の記憶が一切ない。
いや、ある。ないのは途中からで、途中まではしっかりと記憶している。


「ひっ…ぃ゛」


布団の隙間から中に侵入してきた手に、胡涅は悲鳴を上げてそれらをつねったり、叩いたり、追い出す努力を試みる。
くすくすと笑っているのが聞こえてくる。わざと色んな方向から手を入れては抜いていくイタズラに、顔を隠していた胡涅の我慢の限界が突破した。


「こらぁ゛ぁ」


ガバッと布団から頭だけを這い出して、胡涅は色気のない声で二人の男に制止を命じる。鼻息が荒くなるのは仕方がない。


「そんな声で叫ぶと、本当に喉が潰れるぞ」

「……ンッ…ぅ」

「可愛い番の声ならば潰れていようと我は構わぬ」

「ちゅ…っ…が」


炉伯を睨むとキスをされ、朱禅を怪しめばキスをされる。それも触れるだけならまだしも、喉まで舐める勢いで侵入してくる分厚い舌に声も酸素も奪われる。


「……ぅぇ…え゛」


気管が反応して嗚咽していても、彼らは楽しそうに眺めてくる。なんなら、頭も撫でるし、遠慮なく全身触れてくる。
服を着ていない。
シーツの下は素肌だというのに、同じく全裸の彼らは気にもしていない。


「な…で…りゅ゛め、ざわ、ん゛ぃ」


撫でるのダメ。触らない。
結局、無双するふたりを相手に敗北するしかなく、胡涅は瞳に涙をためて唇を結ぶ。


「……きら、ぃ゛」


ふんっと枕に顔をうめて、うつ伏せになった胡涅の態度に、ようやく自分達の行為の行く末に気付いたのだろう。「ほぉ」と炉伯が呟いて、「ふむ」と朱禅が息を吐く。
それから二人同時に「胡涅」と囁きながら抱き締めてきた。


「ぅ゛………ぐ」


潰れる。体格のいい二人の圧力は尋常じゃなく熱くて息苦しい。
それなのにいい匂いがする。
朝顔の刺青を掘っているから花の匂いがする肌にでもなったのだろうか。顔も声も体も匂いもいいとなれば、彼らに勝てる部分がなさすぎて、落ち込みたくもなる。


「胡涅、機嫌をなおせ」

「嫌いと吐いた言葉を取り消せ」


それで甘えているつもりかと、胡涅はますますふてくされた。


「……っ…ぅ゛」


布団が剥ぎ取られそうになったのを間一髪で阻止する。朱禅がチッと舌打ちしたのを無視していると、炉伯が無遠慮に潜り込んできた。


「逃げんなよ」


耳元で囁くな。抱きしめるな。優しく触れてくるなと叫びたい。のどさえ潰れなければと反抗心が炉伯から逃げ腰になる。


「胡涅。そうそう煽るな」

「………ん゛」


ひとりでも無理なもの、二人はもっと無理。
結局、三人揃って一枚の布団で、ぎゅうぎゅうひとつに固まっている。この旅館の布団はひとりで寝るには広いが、三人で寝るには狭い。


「胡涅、腰はどうだ。マシになったか?」

「のどにいい薬をあとで煎じてやろうな」


キスは雨のように降るというのは本当の話だったらしい。
布団のなかにいるはずなのに、自分を包む男たちの匂いで窒息しそうだと胡涅は無になる。四六時中嗅いでいても足りないほど、滅茶苦茶いい匂いで、ずっとこのまま二人と引っ付いていたいと思わせるくらいには幸せな気持ちになってくる。
だけど、わかっている。
これは、百戦錬磨の二人だからこそなせる技だと。


「も゛ぅ……な、に゛ぃ」


一回やったくらいで彼氏面しなくていい。特別に構ってくれなくても、面倒な女にならないから心配しないで。
そんな風な言葉を途切れ途切れに訴えた気がする。
処女をあげる前はたしかに渋った部分もあるが、なくなってしまったものはどうしようもない。後悔もしていない。声と腰は死んだが、勲章として受け取っておけばいい。
どうせ身の回りの世話は、セックスする前だろうと後だろうと、変わらず朱禅と炉伯がするのだから支障もない。
布団から顔だけを出した胡涅は、もみくちゃにされた動物みたいな顔をして、朱禅と炉伯の赤と青を見つめた。


「…………な、に?」


無言でじっと眺めてくる顔が何を言いたいのかわからない。
怪訝そうな顔はすでに面倒だと言いたそうだが、呆れたような息は、もはやバカにした雰囲気さえ感じられる。


「胡涅は鈍すぎだろ」


炉伯に至っては言葉に出ている。


「バカじゃねぇんだからいい加減気付け」

「だか……ら゛な、に?」

「俺たちからは逃げられねぇよ」


意味がわからない。キスされる意味がわからない。そう思って剥がそうとした手を掴まれて、じっと覗き込まれて「愛してる」は卑怯じゃないだろうか。


「あ……愛!?」

「胡涅が思う以上に重い愛だ。ありがたく受け取れ」


そういわれても頭がついていかない。
炉伯の腕の中で困惑した胡涅の顔は朱禅の瞳にも写っている。


「我らはようやく見つけた」


何を見つけたというのか。うっとりと近付いてくる顔にいい予感はしない。


「二千年近くかけて手に入れた番を誰に渡すものか」

「……つがい?」

「胡涅は我らの嫁だ」

「………は?」

「我の永遠の愛を胡涅に捧げよう」

「俺も胡涅に永久を誓う」


友達や恋人をすっ飛ばして、突然嫁になっていた事実に目が点になる。
疑問はそれだけではないが、とりあえず人間の脳はそのとき一番大事なことを先に片付けたがるものなのだろう。


「………よめ?」


うんうんと朱禅と炉伯がうなずいている。が、待ってほしい。
いったい、いつから、どこから、なぜ、そんな話になっているのか。


「………え、朱禅と炉伯って私のこと好きなの?」


その質問に対する反応は、むすっとすねた感じで、一言でいえば「滅多に見られない顔」だろう。


「この期に及んでまだそのような戯れ言を」

「わかるまでわからせるか?」

「え……ぇ゛……ちょ、ぅわ」


ガバッと二人同時に布団をはぎとってくる。美形の裸体だけでも混乱するのに、自分の裸体を隠す布が無くなった衝撃は大きい。


「いい加減認めろ。胡涅も俺らのこと好きだろ」

「…………ぅ」

「世間体とか忖度とかいらねぇんだよ。自分の人生は、自分の心に従え。第一、俺たち以外に伴侶を得られると思うな。そんな奴がいたら殺す」


それは脅迫では。と口角が引き付けを起こすほどの迫力を真上から注がれる。


「胡涅も監禁されたくなかろう。大人しく我らの愛に応えておけ」


それも脅迫ではないだろうか。
何を言い返せばいいのかわからない。
結論からいえば、胡涅は百戦錬磨のモテ男たちを振った。一言「無理」と告げただけだが、まさか振られると思っていなかったらしい朱禅と炉伯はその瞬間から不機嫌になって、互いに喧嘩を始めていた。


「朱禅がところ構わず口説くから本気にされねぇんだよ」

「思ったことを口にして何が悪い。貴様こそ胡涅に近寄る虫はことごとく排除してきた行いが裏目に出たのではないか」

「いいや。しつこいから嫌われたんだよ」

「炉伯こそ、執着して嫌われたのだ」

「は、上等だ。胡涅に夫は二人もいらねぇ」

「同感だ。どちらが相応しいか、今ここで決着をつけよう」


全裸で組み合う二人を置いて、胡涅はいそいそと身体を起こす。
身体はまだしんどいが、浴衣を着て、気分転換に外の空気を吸いに行くくらいは問題ないだろう。
胡涅の夫は自分だと喧嘩しあう男たちを横目に「ちがうから」と内心で突っ込みをいれながら、胡涅は痛む腰をさすって苦笑する。意図せず聞いてしまったとはいえ、一度関係を持っただけで恋人面される人の気持ちをまさか自分が知ることになるとは思っていなかった。青天の霹靂。夢でも現実でも、たぶん悪い未来しかない気がする。


「ねぇ」


浴衣が見つからなくて声をかければ、二人の喧騒も少しはやむ。


「浴衣だぁ?」

「そんなものを着てどうするつもりだ?」

「……え、せっかくだから探索に」


行こうかと、という言葉は続くことなく暗い室内にしんと落ちる。
月明りが差し込んで、赤と青の瞳だけが浮かび上がる現象に息をのんだのもつかの間、胡涅は這い出たばかりの布団の中へ二人がかりで引きずり込まれていた。


「まったく、油断も隙もない」

「お前、そんな足腰で歩けると本当に思ってるのか?」


どうやら主人の体力を根こそぎ奪った自覚はあったらしい。とはいえ、二人に主導権を握らせると、時間が無情に過ぎていくことは過去の経験則から知っている。


「だって、月が綺麗だし……まだお店とかやってそうだし……」


いつもおねだりするときはそうするように、胡涅はちらっと二人を見上げる。なぜか朱禅も炉伯も肩を落として息を吐いているが、残念な子を見る目は変わらない。


「胡涅くらいだぞ、我らの手をわずらわせるのは」

「まあ、そんなところも含めて愛しく思っているんだけどな」

「手がかかる子ほどかわいいと聞くが」

「あながち嘘でもないとわかる」


微笑まれて頭を撫でられる。それが捕獲の手段であったとしても、胡涅はまんまと二人の手中におさまり、布団の中へと逆戻りする夜を楽しんでいた。
朱禅と炉伯と何でもない時間を過ごす。それを嬉しく思うと同時に悲しくもあった。
好きで、好きで、好きなんだと思う。朝顔を身体に刻んで、宝石みたいな目をした二人のこと。
ヤクザではないというが、一般人でもないだろう朱禅と炉伯の手を迷わず掴めたら、どれほど幸せだろう。
だけど、それはできない。
棋風院は八束市を背負う名を持っている。
何千、何万という社員を抱えるグループ会社の社長は高齢で、唯一の血縁は病弱な孫娘ひとりだけ。婿養子をとり、跡継ぎを産むためだけに生かされている。それは生まれてからずっと、稼ぐことのできない莫大な私財をかけて保たれてきた命が証明している。
できる唯一の祖父孝行は文字通り身を捧げることだと、物心ついた頃から理解していた。
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