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第弐章:崩壊の足音

01:モーニングキス

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目が覚めると、そこは自分の部屋だった。
自分の趣味ではない壁紙に、やたら豪勢なベッド。どこへ行くわけでもないのに、備え付けのウォークインクローゼットにはカバンも靴も服も溢れるほど並んでいる。ブランドにこだわりはないが、袖を通すそのすべてが安物じゃないことがわかるほどには、色んなものにお金をかけてもらっている自覚がある。
つまり、高級シルクのパジャマと軽くて温かな掛け布団、肌触りの良いシーツと、埋もれるほどあるたくさんの枕は、一流のホテルでもそうそう揃えることが出来ないもの。そのうえ、ほんのり香る上質な匂いも嗅ぎなれたものだった。
だから、間違えようもなく、ここが自室であり、息がつまるほど退屈な部屋だという現実にため息がこぼれた。


「よぉ、起きたか」

「………炉伯?」

「調子はどうだ」


正直いってよろしくない。
二日酔いみたいに頭は重いし、思考がうまく働かない。昨日の記憶が曖昧で、靄がかかったダル重さが、ベッドから起き上がるのを拒否している。


「検査の次の日はしんどいだろ」

「………うん」


今日も完璧なスーツ姿の炉伯が言うように、月に一度の定期検診の次の日は、身体が思うように動かないことが多い。
特に昨日は、途中で点滴を抜いた。


「あれ、どうして抜いたんだっけ」


記憶がふわふわしている。
栄養素が足りていないのかもしれない。たしか、新しい担当者が挨拶に来て、それから似合っていないメガネを思い出して、少しだけ笑ってしまった。


「機嫌は悪くないみたいだな」


ベッドに腰かけてきた炉伯のせいで、シーツが突っ張る。視線を向けると、自然と影が落ちてきて、胡涅の唇は炉伯のそれと静かに重なっていた。


「おはよう、胡涅」

「………っぁ、おはよ、炉伯」


朝の挨拶はキスで始まる。
いつもは寝起きに濃厚さは求めていないと軽く済ませて終わるのが、今朝は少し深かった。


「炉伯…っ……?」


至近距離にある炉伯の青い瞳がイラついているように見える。ガラスみたいに綺麗な瞳。じっと眺めていると、問答無用でまたキスをされた。
それは特別でも何でもなく「警護する対象のことはよく知る必要がある」「体調管理等の都合上、最低限そうする必要がある」と、朱禅と炉伯につかれた嘘を信じた自分が悪い。
二十歳まで、隔離された生活で世間を知らなかったことを言い訳にするほどバカではないつもりだった。他人と触れあわないにしても、漫画や小説やテレビで得た情報はきちんと把握していたし、実際、二人とあいさつ代わりにキスすることに違和感を持っていた。


「……ッ…ん……」


それなのに流されるまま四年間も過ごしてきてしまったのは、彼らが魅力的なこと以上に、キスをされると不思議と体調が安定したことが大きい。
現代医学では説明できない現象だが、ものすごくラクになる。手術を終えても、薬をのんでも、突発的に襲ってくる生理的な不快感は、息も苦しく、身体もしんどい。それが、彼らとのキスでやわらぐのだから、お手軽かつ安上がりだと、ファーストキスを奪われた怒りも吹っ飛ぶ興奮を思い出した。


「炉伯…ゃ…やっぱ…り、ゥ」

「なんだ?」


ベッドの上で交わすキスを拒まれれば、誰でもそう反応するように、炉伯が怪訝な顔をする。
青い瞳に覗き込まれて言葉に詰まってしまったのは、イヤではない感情を持っているから。
おかしい。変。そういう世間体を理解しているのだから言い淀むほかない。複雑そうな顔をする胡涅を見て、普通はそこで憂慮するところを炉伯は「足りないか?」と至極真っ当に問いかけてくるのだから気が抜ける。


「うん。足りない」


意地悪の意味を込めてワガママを口にしてみれば、今度はニヤリと口角をあげて、炉伯はさらに深く重なり落ちてくる。


「いいぜ、好きなだけくれてやる」

「…………ッ、ん」


炉伯の大きな手が前髪を撫でて、額を通過して、頬を軽く触れて、耳から頭ごと支えて、深い口づけを与えてくる。
ぐちゃりと、寝起きにしては聞きなれないキスの音だが、そう言えば歯を磨いていないことに気付いて、胡涅は早々に炉伯とのキスを切り上げた。いや、切り上げようとした。


「胡涅、口開けろ」

「ヤッ……んっ、ぅ」


圧迫感に埋もれていく。酸素を求めて口を開ければ、炉伯の舌が奥まで進んで、口内を蹂躙してくる。息が切れて苦しいのに、朱禅もそうだったが、炉伯も平然とキスをしてくるのはいかがなものか。
与えられているはずなのに、捧げているように思うのは、食べられている錯覚を感じているからかもしれない。


「……っ…ンゥ……」


上から並行して重なり落ちてくる炉伯のせいで、背中がこれ以上ないほどベッドに押し付けられている。頬を掴んで頭を固定され、ぐちゃぐちゃと口腔内で舌を縦横無尽に動かされると、どうしようもなく頭がボーっとしてくる。
大きくて筋張った炉伯の手首を掴んで、窒息死してしまいそうなキスから逃げようとするのに、逃げしてもらえるはずもなく、銀の糸で唇同士が繋がる頃には胡涅の顔はすっかり蕩けて浅い息に変わっていた。


「……りょ、は……く」

「ん?」


呂律すら回らない。額に唇を押し付けてくる男の名前を呼んでも、愛撫に似たキスが降り注いでくるばかりで話が進まない。


「まだ足りないか?」

「ん、も……だいじょ、ぶ」

「なら、まだだな」

「………ッぅ、あ」


大きな手のひらは耳をたやすくふさいで、粘着質な唾液が混ざりあう音だけを届けてくる。恥ずかしいとか、卑猥だとか、そういう普通の感覚を得る前に、炉伯は酸素を奪い、呼吸を止めにかかってくる。


「はぁ…っン…んっぅ、はぁ……ぁ」


抜けた甘い声が漏れていく。出したくて出すのではない。舌を吸い上げられ、喉までねじ込まれ、歯列をなぞる炉伯のキスが単純にうますぎるせい。


「ろ、は……クッ……アッん」

「胡涅」

「ぁ………ッ」


足の間に割りいった炉伯の腰が、布越しにきつく押し付けられる。一度揺れ始めれば、高級ベッドは優しく刺激を吸収して、心地よい輸送を助力する。


「胡涅」


ふさがれていた左耳に炉伯の声が口付けてくる。その掠れた低い欲情の囁きを、いったいどう受け止めればいいのだろう。
何度も名前を呼んで、本来なら簡単に潰せてしまうだろう力加減を調整して、大事に扱ってくれる指先や唇に甘えたくてたまらない。


「………炉伯」


炉伯の首に腕を回して、キスの隙間から名前を呼び返した瞬間、今度は全身で深く抱き締められた。
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