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第壱章:ふたりトひとり

05:解放の接吻

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「それなら、別れの接吻でも置いていけ」

「……せっぷん?」

「胡涅は何て言えば伝わる、口吸いか、口付けか」

「え、ぁ、き、キスのこと?」

「キス、ああ、そういうのだったな。まあいい、どうせここに来るのも最後だろ?」

「ま、まあ。木の根にするキスは、ファーストキスにも入らないか」

「何をぶつくさと……っ」


重なる唇の感触に、背筋が泡立つ。すっかり役割を放棄していたはずの神経が震えて、炉伯は青い瞳で間近に控えた胡涅の顔を呆然と眺めていた。


「朱禅も」


甘い香りが離れて、それは隣の木の根に埋もれていく。同じように赤い瞳に胡涅を写した朱禅も感じ取っているだろう。
十八年ぶりの懐かしい感覚、生命がみなぎっていく、飢えを満たす前の高鳴りが蘇ってくる。


「じゃあね、朱禅、炉伯。さよなら」


手を振って、去っていく背中が名残惜しい。名前を呼び、引き留めることが叶うなら、そうしようと思った。
ところが、胡涅は廊下に出たところで『お祖父様』とやらに捕まったらしい。


「地下に行くなと言っただろ。部屋を抜け出したと聞いたときは、わしの心臓が止まるかと思ったぞ。自由に出歩かせるために行きたい場所を聞いたのではない。しかもなぜ、ここなのだ。何かあればどうする。ああ、胡涅。わしがどれだけ心配したと」

「ごめんなさい、お祖父様」

「怪我はないな。さあ、早く戻りなさい。こんな場所に来るものではない」


会話する声が遠のいていく。
それと同時に意識が遠のき、また夢を見る日々が続くのだろうと、炉伯はひとつ息を吐いた。朱禅もきっとそうしたに違いない。
目を閉じ、悪夢が来るのをじっと待つ。
繰り返し見た懐かしい歴史をもう一度繰り返すだけ。


「…………朱禅、気付いたか」

「ああ」

「はは、王の執着をもう馬鹿に出来ねぇな」


いつまでたっても訪れない意識の終わりに、炉伯は青い瞳を輝かせる。何年ぶりだろう。生命力が湧き出る感覚に、興奮が増して、動かないはずの指を動かす。


「くっ……はは、ははははは」


この場に第三者がいたなら、腰を抜かして顔面蒼白に息をのんだに違いない。それとも、慌てて逃げ出し、軍隊でも呼び寄せるか。それほどまでに、圧倒的な格の違いが渦を巻く。
暗い部屋を支えていた二本の木が、軋みをあげて裂け始め、そこから二人の男を吐き出していく。
ゆっくりと、ゆっくりと、それは繭から巣立つように、ツノを出し、白髪の頭を出し、均整のよい体躯を出し、血筋が脈打つ腕を出し、そして二人同時に、部屋の床を踏みしめた。


「久しぶりだな」

「痩せたか?」

「腹は減ってる」


互いの身体をみて、それから口角を少しあげる。見惚れるほどに美しい赤の瞳と青の瞳は、それぞれ獲物を捕らえる前の鋭利さを宿し、同じ人物を脳裏に思い描いていた。


「まさかこの年で番(つがい)が見つかるとは」

「けど、見つけちまったからには手に入れねぇと。腹の虫がおさまらねぇ」

「それが、我らの性だろう」

「風となり山となりても我、唯一を思う。だっけか?」

「王の辞世の句も、今となっては馬鹿に出来んな」

「だから先にそう言ったろ」

「そうだな」


込み上げてくる笑いが止まらない。
これからどうしてやろうか。まずは、人間どもを皆殺しにし、十八年ぶりの外の空気を吸うのも悪くないと、物言わぬ瞳が語っている。


「服はどうする?」

「ひとまず、元のでいいだろう」


風をまとった裸体は、すぐに豪奢な和装に変わる。腰に刀をぶら下げて、顔の半分を布で覆い、重い宝石をあしらった装飾品が手首や腰で揺れている。


「で、殺すのは簡単だが、御前はどうする?」

「それのことだが」


炉伯の問いかけに朱禅が考えをのべようとした時だった。裂けて死んだように見えた木の残骸が動き出し、縦横無尽に襲いかかってくる。意思を持ち、養分となるエサを逃がすまいと、傍若無人の攻撃が朱禅と炉伯の二人を狙ってくる。


「………っく、腹が減って、力がでねぇ」

「それだけではないな」

「将門之助(まさかどのすけ)の力か」

「認めたくはないが」


抜刀した銀の線が宙を切り裂き、木の枝を地面に落としても、襲いかかってくる木の勢いは止まらない。
狭い部屋のなかでは、ぐにゃぐにゃと動く得体の知れない木の方に分があるのか。二人は反対側の壁際まで追い込まれる。


「そこまで」


突然、部屋の扉が開け放たれ、眩しい光が一人の影を浮き上がらせていた。十四年間、顔を見せなかった男。くたびれた白衣を着たその姿は、忘れようと思っても忘れられるものではない。


「ふはは、ひゃは。本当に復活してるじゃないか。興味深い、実に興味深い。胡涅様がこの部屋から出てきたと聞いて、まさかと思って見に来たが、なるほどなるほど。取巻草(とりまきそう)を裂いて出てくるとは」


笑みを隠しきれていない早口で、それはうねうねと動く木に何かを与えている。途端、大人しくなった木々はボロボロと役目を終えたように灰に変わった。


「して、お前たち二人に提案がある」


この状況で警戒心をといて対応できるほうがどうかしている。何を考えているのか、十八年も身体の自由を奪った男の提案を「はい、そうですか」と受け入れられるほどの寛容さは持ち合わせていない。
朱禅と炉伯は、同時に刀の柄に指をはわせて、どちらが男の首を跳ねるか、競うほどの気迫を巡らせた。


「胡涅様の傍にいたくはないか?」


首が跳ねられる直前、空を切った男たちの中央で、確信に満ちた笑みが深まる。


「堂胡様は胡涅様を夜叉に近付けたくないと仰るが、このままでは胡涅様の身体がもたない。だが、祖先種の夜叉ならば」


不気味な笑みが、刀を納めた二人の男を下から上まで舐めるように眺めている。よほどの勝機があったのだろう。
自分は決して殺されることがないと、わかっていた素振りを見せる保倉に、炉伯は忌々しそうな舌打ちを飲み込む。


「ひとつ聞きたい」


朱禅から声をかけるとは珍しい。
炉伯の視線を感じながらも朱禅は赤い瞳で目の前の男を見下ろした。


「我らは、藤蜜を引き取りに来た。王が愛した御前の身柄はいまどこにある?」


身長の差が、山のような壁として保倉の前に立ちはだかる。
本来なら十八年も前に、このやり取りは成されるべきだったが、目の前の男が取巻草などという厄介な代物で捕縛してくれたおかげで、これほどまでに時間が過ぎてしまった。そう思い返せば、冷めない殺意が沸いてくる。


「身柄など、わかりきっているだろう。藤蜜御前(ふじみつごぜん)は十八年前に死んでいる」


このとき、さっさと殺しておけばよかったと、彼らが後悔したのはいうまでもない。


「胡涅様を殺してくれるなよ。祖先種ども」


保倉の勝ち誇った笑みをいつか崩してやりたいと心に刻む。
それから数か月。二人は胡涅が十九歳になる前に三回目の再会を果たすが、手術を受けた胡涅から二人の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。
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