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Date:4月5日(1)
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春真っ盛り。桜は豪華絢爛に咲き乱れ、見渡す限り一色に世界を染めている。誰もが陽気に木の下に集い、思い思いの記憶をつれてそこに参加していた。
「お花見、だもんね」
「まあな」
紗綾は隣を歩くぶっきらぼうの男に少し引きつった声を投げかける。春休み最後の日曜日。気候は晴天。こんな日に桜並木に足を踏み入れるべきじゃないと、紗綾は改めてごった返す人間絨毯の上を歩いていた。
「ほら」
無愛想に差し出された手。
それが照れからくる彼なりの不器用な優しさなのだということは、とっくの昔に気づいていた。
「ありがとう」
紗綾は差し出された十和の手をとって人垣の群れを越えていく。はたから見れば普通の恋人同士に見えるのだろうが、紗綾と十和はそういう関係ではない。二人そろって出かけることが増えたとしても、二人並んで歩くことが増えたとしても、そういう甘い関係に発展することはありえない。
「ごめん、十和」
「もう少し頑張れ」
歩道橋でも設けてくれればいいものの、目当ての場所に向かうまでに必ず通らなければならない桜並木の一本道。学校から家まで、中学から高校二年だった昨年の九月まで通い慣れたその道は、どこか別の時空からやってきた異物のように異質な光景を生み出している。
ひしめく人の合間を縫いながら、ようやく通りのある道に出るころには、紗綾の顔は真っ青になっていた。
「お前よく、そんなんで夜の繁華街うろつけるな」
褒めているのかけなしているのか、十和の手が紗綾を引き寄せる。
ちりんと、お礼の合図のように自転車が脇を通り抜けていった。
「夜はいいの。全部消してくれるから」
「目隠しして連れて行ってやろうか?」
「やだ、十和意地悪だから」
それは言えてると、含み笑いをこぼしながら赤から青に切り替わった横断歩道を十和は歩き始める。繋いだ手のまま連結した紗綾もそのあとに連なる。
「たった半年なのに、なんだかすごく懐かしい気分」
近づいていく見慣れた風景が、閑静な住宅街に二人を導いていく。少し急な上り坂、一区画が普通よりも広く作られた家々の羅列。通りがかるすべてに吠える犬、いつも手入れの行き届いた花壇のある家、高級車が何台も並ぶ中に、可愛い軽自動車がある家。何も変わらないようで、少し変化のある季節の雰囲気に懐かしさがこみあげてくる。
「変わらないなあ」
そう呟きながら、どこか変わっている事実を受け入れる。こんなに感傷的になったのは、当たり前にある光景を涙が出るほど愛しいと思えるようになったのは、すべてはあの事件があった日から。
「ついたぞ」
結局、目隠しをしていてもしていなくても紗綾の手をひいて目的地まで連れて来た十和の足がピタリと止まる。極力視界に入れないようにして、それでも感覚でその場所についたことを認識して、紗綾ののどがゴクリと小さな音をたてた。
「うん」
ぎゅっと、十和の手を握る力が増す。
かつては「堀田」と表札があった無人の空き家の横。「桐谷」と表札のある家だけが、今もまだあの日のまま時が止まっているようだった。
「無理するな」
「大丈夫」
これだけ陽気な日差しにも関わらず、目の前の家だけがどんよりと暗く見えるのはなぜだろう。かつては雑草一つなかった隣の家は主人が去ったことを喜んで思い思いに生命を育んでいるというのに、紗綾の実家だけは今も昔も変わらず殺風景な雰囲気だけが支配していた。
きぃと、少し錆びついたような門扉の音が周囲に響いて娘の帰りを出迎える。
歩く人影はおろか、眠った町のように近隣からの気配は感じない。
「十和、お願い」
震える紗綾の手から鍵を無言で受け取った十和は、紗綾の代わりにその鍵を鍵穴に差し込む。がちゃり。聞きなれた音をたててドアがあいた。あの雨の日に鍵をまわした記憶はないのに、玄関が空いていた現象に疑問をもたなかったのは何故だろう。不幸がいくつも重なったあの日のことを考え出せば、どこでどう間違ったのかと自問自答を繰り返す終わりない旅が始まっていく。
「紗綾」
十和の声が紗綾を現実世界に引き上げる。
「十和、手、離さないで」
十和は、声の代わりに手に込めた強さで紗綾の申し出に答えてくれた。
人が帰ってこなくなったことで、塗料の匂いが増したのか、新しく張り替えられた壁や綺麗に拭き取られた床が、他人の家のように紗綾たちを歓迎した。日頃から不在がちの両親がますます不在がちになったことで、清掃業者が入る頻度が増えたのか、ほこりひとつ落ちていない綺麗な家だった。
いくら壁紙や床が入れ替わっても構造までは変えられない。紗綾は十和の手をひきながら、階段をのぼり、自室へと向かっていく。あの日とは違い、今日は緊張から指先が温度をなくしたように冷えていく感覚に襲われる。寒い。冬はもう終わったはずなのに、全身から血の気が引いたような寒さが紗綾を包んでいく。
十和の手が、ギュッと紗綾の手を握ってくれた。
ふいに戻ってきた熱に精神状態が安定する。そしてそのまま、紗綾は立ち止まることなく部屋の扉をあけて中へと身を滑り込ませることに成功した。
「紗綾」
珍しく焦った十和の声が聞こえてくる。
それもそのはずで、口を押えてぐらりと揺れた紗綾の異変に十和が両手で紗綾の身体を支えていた。
「出よう」
イヤだと首を横に振る紗綾の意見を無視して、十和は紗綾を家の外に運び出した。そして青白い顔で荒い呼吸を繰り返す紗綾の代わりに、施錠をし、十和は紗綾が息をできる場所まで連れていく。住宅街を抜けるころには、紗綾の息は落ち着きを取り戻していた。
「ほら」
遠いようで意外と近い繁華街のベンチで、十和が自販機で買った冷たい飲み物を紗綾の頬に押し当てた。
「ありがとう」
なんとかお礼を言った紗綾は、ペットボトルのふたが空いていることに気が付いてふっと苦笑をこぼした。
「なんだ?」
「十和ってさ、わかりにくいけど優しいよね」
「俺がいつ優しくなかったんだよ」
その返答にまた紗綾はくすりと笑う。口の中に含んだその飲み物は、生き返れるほど冷たくて美味しかった。
「佳良、怒ってるかな」
「俺の妹だぞ」
怒るわけがないだろうと、十和は紗綾の頭にポンっと手を置く。
「誕生日に会いに来ようとしてくれただけで喜んでるよ」
そのまま髪をすくうように指先を動かした十和の言葉に、紗綾の視界がぼやけていく。泣く資格などないのに、十和の優しさが心の棘を溶かしていくように涙腺が滲んでいく。
「十和、優しすぎるよ」
涙をぬぐうように小さく鼻をすすった紗綾は、残酷だと知りながら、十和に小さく笑いかける。その顔をみて、十和も薄い笑顔を返してくれた。眼差しも指先も紗綾への慈愛に満ちているが、ふとした瞬間に見せる憎悪と困惑と悲壮を紗綾は知っている。佳良の家族だけが、紗綾に向けることの許された感情が存在する以上、それは払しょくできない永遠の境界線だということも理解していた。
「さて、と。佳良が好きだったものでも食いに行くか」
十和は紗綾に向かって決してその言葉を口にしない。「お前の代わりに妹が死んだ」という事実を十和は口にしない。十和が受験の日、紗綾の誕生日の前日、あのひどい雷雨の夜に堀田佳良という少女は、紗綾の部屋で強姦され惨殺された。
乱れた着衣、犯された痕、何かを物色した痕跡はなく強盗ではないことは警察の見識であきらかになった。実際、金品をとられておらず、また紗綾の部屋以外に犯人らしき男が入った可能性もなかった。犯人は紗綾を強姦する目的で家に不法侵入し、運悪くその場に居合わせた少女を紗綾の代わりに強姦し、そして口封じのために殺した。あの日、紗綾がずぶ濡れで帰宅したときには犯人はいなかった。玄関から二階へと続いていた白い斑点は、二階から玄関へと続いていた白い斑点で、その正体は佳良を白濁の液に沈めるほどおびただしい量を吐き出した犯人の精液だった。
紗綾が暗がりの中で佳良の存在を認識した時、まるで白い繭のなかにいるようだと思った。そしてこれは誰にも公言していないが、佳良の体から白く大きな花が一輪咲いていて、それが消える瞬間にゴポリと佳良の膣から黒い種のようなものが生み出されたのを見た。溢れ出た白い液体の中で鈍い光を放つ種のようなものの正体はわからない。その日はそれどころではなかった。自分の代わりに犯された幼馴染の無残な姿を狂ったように揺さぶり、抱きしめ、泣き叫び、何度も何度も名前を呼んでどれほどそうしていたかも定かではない時間の中で、紗綾は階段を駆け下り、堀田家のインターホンを何度も無心で鳴らしていた。
「お花見、だもんね」
「まあな」
紗綾は隣を歩くぶっきらぼうの男に少し引きつった声を投げかける。春休み最後の日曜日。気候は晴天。こんな日に桜並木に足を踏み入れるべきじゃないと、紗綾は改めてごった返す人間絨毯の上を歩いていた。
「ほら」
無愛想に差し出された手。
それが照れからくる彼なりの不器用な優しさなのだということは、とっくの昔に気づいていた。
「ありがとう」
紗綾は差し出された十和の手をとって人垣の群れを越えていく。はたから見れば普通の恋人同士に見えるのだろうが、紗綾と十和はそういう関係ではない。二人そろって出かけることが増えたとしても、二人並んで歩くことが増えたとしても、そういう甘い関係に発展することはありえない。
「ごめん、十和」
「もう少し頑張れ」
歩道橋でも設けてくれればいいものの、目当ての場所に向かうまでに必ず通らなければならない桜並木の一本道。学校から家まで、中学から高校二年だった昨年の九月まで通い慣れたその道は、どこか別の時空からやってきた異物のように異質な光景を生み出している。
ひしめく人の合間を縫いながら、ようやく通りのある道に出るころには、紗綾の顔は真っ青になっていた。
「お前よく、そんなんで夜の繁華街うろつけるな」
褒めているのかけなしているのか、十和の手が紗綾を引き寄せる。
ちりんと、お礼の合図のように自転車が脇を通り抜けていった。
「夜はいいの。全部消してくれるから」
「目隠しして連れて行ってやろうか?」
「やだ、十和意地悪だから」
それは言えてると、含み笑いをこぼしながら赤から青に切り替わった横断歩道を十和は歩き始める。繋いだ手のまま連結した紗綾もそのあとに連なる。
「たった半年なのに、なんだかすごく懐かしい気分」
近づいていく見慣れた風景が、閑静な住宅街に二人を導いていく。少し急な上り坂、一区画が普通よりも広く作られた家々の羅列。通りがかるすべてに吠える犬、いつも手入れの行き届いた花壇のある家、高級車が何台も並ぶ中に、可愛い軽自動車がある家。何も変わらないようで、少し変化のある季節の雰囲気に懐かしさがこみあげてくる。
「変わらないなあ」
そう呟きながら、どこか変わっている事実を受け入れる。こんなに感傷的になったのは、当たり前にある光景を涙が出るほど愛しいと思えるようになったのは、すべてはあの事件があった日から。
「ついたぞ」
結局、目隠しをしていてもしていなくても紗綾の手をひいて目的地まで連れて来た十和の足がピタリと止まる。極力視界に入れないようにして、それでも感覚でその場所についたことを認識して、紗綾ののどがゴクリと小さな音をたてた。
「うん」
ぎゅっと、十和の手を握る力が増す。
かつては「堀田」と表札があった無人の空き家の横。「桐谷」と表札のある家だけが、今もまだあの日のまま時が止まっているようだった。
「無理するな」
「大丈夫」
これだけ陽気な日差しにも関わらず、目の前の家だけがどんよりと暗く見えるのはなぜだろう。かつては雑草一つなかった隣の家は主人が去ったことを喜んで思い思いに生命を育んでいるというのに、紗綾の実家だけは今も昔も変わらず殺風景な雰囲気だけが支配していた。
きぃと、少し錆びついたような門扉の音が周囲に響いて娘の帰りを出迎える。
歩く人影はおろか、眠った町のように近隣からの気配は感じない。
「十和、お願い」
震える紗綾の手から鍵を無言で受け取った十和は、紗綾の代わりにその鍵を鍵穴に差し込む。がちゃり。聞きなれた音をたててドアがあいた。あの雨の日に鍵をまわした記憶はないのに、玄関が空いていた現象に疑問をもたなかったのは何故だろう。不幸がいくつも重なったあの日のことを考え出せば、どこでどう間違ったのかと自問自答を繰り返す終わりない旅が始まっていく。
「紗綾」
十和の声が紗綾を現実世界に引き上げる。
「十和、手、離さないで」
十和は、声の代わりに手に込めた強さで紗綾の申し出に答えてくれた。
人が帰ってこなくなったことで、塗料の匂いが増したのか、新しく張り替えられた壁や綺麗に拭き取られた床が、他人の家のように紗綾たちを歓迎した。日頃から不在がちの両親がますます不在がちになったことで、清掃業者が入る頻度が増えたのか、ほこりひとつ落ちていない綺麗な家だった。
いくら壁紙や床が入れ替わっても構造までは変えられない。紗綾は十和の手をひきながら、階段をのぼり、自室へと向かっていく。あの日とは違い、今日は緊張から指先が温度をなくしたように冷えていく感覚に襲われる。寒い。冬はもう終わったはずなのに、全身から血の気が引いたような寒さが紗綾を包んでいく。
十和の手が、ギュッと紗綾の手を握ってくれた。
ふいに戻ってきた熱に精神状態が安定する。そしてそのまま、紗綾は立ち止まることなく部屋の扉をあけて中へと身を滑り込ませることに成功した。
「紗綾」
珍しく焦った十和の声が聞こえてくる。
それもそのはずで、口を押えてぐらりと揺れた紗綾の異変に十和が両手で紗綾の身体を支えていた。
「出よう」
イヤだと首を横に振る紗綾の意見を無視して、十和は紗綾を家の外に運び出した。そして青白い顔で荒い呼吸を繰り返す紗綾の代わりに、施錠をし、十和は紗綾が息をできる場所まで連れていく。住宅街を抜けるころには、紗綾の息は落ち着きを取り戻していた。
「ほら」
遠いようで意外と近い繁華街のベンチで、十和が自販機で買った冷たい飲み物を紗綾の頬に押し当てた。
「ありがとう」
なんとかお礼を言った紗綾は、ペットボトルのふたが空いていることに気が付いてふっと苦笑をこぼした。
「なんだ?」
「十和ってさ、わかりにくいけど優しいよね」
「俺がいつ優しくなかったんだよ」
その返答にまた紗綾はくすりと笑う。口の中に含んだその飲み物は、生き返れるほど冷たくて美味しかった。
「佳良、怒ってるかな」
「俺の妹だぞ」
怒るわけがないだろうと、十和は紗綾の頭にポンっと手を置く。
「誕生日に会いに来ようとしてくれただけで喜んでるよ」
そのまま髪をすくうように指先を動かした十和の言葉に、紗綾の視界がぼやけていく。泣く資格などないのに、十和の優しさが心の棘を溶かしていくように涙腺が滲んでいく。
「十和、優しすぎるよ」
涙をぬぐうように小さく鼻をすすった紗綾は、残酷だと知りながら、十和に小さく笑いかける。その顔をみて、十和も薄い笑顔を返してくれた。眼差しも指先も紗綾への慈愛に満ちているが、ふとした瞬間に見せる憎悪と困惑と悲壮を紗綾は知っている。佳良の家族だけが、紗綾に向けることの許された感情が存在する以上、それは払しょくできない永遠の境界線だということも理解していた。
「さて、と。佳良が好きだったものでも食いに行くか」
十和は紗綾に向かって決してその言葉を口にしない。「お前の代わりに妹が死んだ」という事実を十和は口にしない。十和が受験の日、紗綾の誕生日の前日、あのひどい雷雨の夜に堀田佳良という少女は、紗綾の部屋で強姦され惨殺された。
乱れた着衣、犯された痕、何かを物色した痕跡はなく強盗ではないことは警察の見識であきらかになった。実際、金品をとられておらず、また紗綾の部屋以外に犯人らしき男が入った可能性もなかった。犯人は紗綾を強姦する目的で家に不法侵入し、運悪くその場に居合わせた少女を紗綾の代わりに強姦し、そして口封じのために殺した。あの日、紗綾がずぶ濡れで帰宅したときには犯人はいなかった。玄関から二階へと続いていた白い斑点は、二階から玄関へと続いていた白い斑点で、その正体は佳良を白濁の液に沈めるほどおびただしい量を吐き出した犯人の精液だった。
紗綾が暗がりの中で佳良の存在を認識した時、まるで白い繭のなかにいるようだと思った。そしてこれは誰にも公言していないが、佳良の体から白く大きな花が一輪咲いていて、それが消える瞬間にゴポリと佳良の膣から黒い種のようなものが生み出されたのを見た。溢れ出た白い液体の中で鈍い光を放つ種のようなものの正体はわからない。その日はそれどころではなかった。自分の代わりに犯された幼馴染の無残な姿を狂ったように揺さぶり、抱きしめ、泣き叫び、何度も何度も名前を呼んでどれほどそうしていたかも定かではない時間の中で、紗綾は階段を駆け下り、堀田家のインターホンを何度も無心で鳴らしていた。
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