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Date:3月27日(3)

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パシンっと振り払った手の先が、かすかに男の頬に触れる。それに激情したのか、男は紗綾を休憩所に備え付けられたベンチの上に押し倒した。

「っ」

声が何も出てこない。恐怖に固まったまま見上げた男の息が早くなり、興奮したようにぎらついた目が紗綾の息を殺してくる。叫びたくても声音が何も発せない。先ほど名前を聞いたような気がするが、獣同然の力技で見下ろしてくる「雄」という存在の名前は一瞬にして紗綾の脳から消え去っていた。

「紗綾ちゃん…紗綾ちゃん」

狂ったように男の顔が紗綾の首筋にうまる。そこで荒ぶる息を整えようとしているのか、深呼吸をするように紗綾の匂いを嗅いでいた。

「ッヤ…め」

気持ち悪い。最大限の拒絶から小さくなろうとする紗綾の身体は男によって押さえつけられている。同じ年でも別のイキモノ。男と女という性別の違いだけで、ここまで力に差が出るのかと情けないような悔しいような、何とも言えない衝撃を受けていた。
このまま犯されてしまうのか。
這い上がってくる男の唇に、初めての唇を捧げてなるものかと紗綾は首を伸ばして強く瞳を閉じる。噛み締めた唇を我が物にしようと、紗綾の顎に男の手が触れた瞬間、なぜか紗綾の身体がふわりと軽くなった。

「大丈夫か?」

誰かは知らない、見たこともない。颯爽と現れたその人物は、返事がなく放心した紗綾を見るなり、その瞳に憎悪をみなぎらせて蹴り飛ばしたばかりの男を猛烈に殴り始めた。

「ちょ、ちょっと」

一方的な暴力に紗綾は通りがかりの男の腕にすがりつく。

「あ?」

苛立ちを目にした男は、すでに気を失っている男に気が付くとふんっと鼻をならしてその凶行を止めた。

「大丈夫か?」

また問いかけてくる。この一瞬の間に何が起こったのかと認識するまでもなく、紗綾は突然震え始めた足に全身の力が抜けていくのを感じていた。

「おっと」
「すみません」
「いや、いい。怖かっただろ、もう大丈夫だ」

よしよしと抱きしめてくれる胸が無性に安心できて泣けてくる。同じ男という生物のはずなのに、赤の他人の胸で泣いてしまうほどの恐怖を紗綾は生まれて初めて体験した。
決して安くはないだろう灰色のスーツに黒いシャツ。先のとがった黒い革靴、香水の匂い、武闘でもならっているのか、触れて初めて紗綾はその細い体が筋肉質なことに気が付いた。泣いているうちに冷静さが戻ってきた頭で、紗綾は男の正体を考え始める。明らかに学生ではない、ここから少し行った先の繁華街で働いているホストか何かかもしれない。出勤前に通りがかりでもしたのだろう、何はともあれ助かった事実に紗綾はお礼を言って感覚の戻ってきた足で立ち上がる。

「悪かったな」
「え?」
「お前の彼氏殴っちまって」
「彼氏なんかじゃありません」
「ならよかった」

笑うと意外と可愛いことがわかった。

「お、笑顔見せられるくらいになったならよかったよかった」

ポンポンっと頭を撫でて離れる存在が少し寂しい。名前はわからないが、男という生物全般を嫌いにならなくて済みそうな状況に大分気持ちは救われていた。

「思春期の男なんて盛りのついた野獣とかわらねぇんだから、彼氏でもない男とあまり人目につかない場所にいるのはお勧めしないぜ」
「そう、ですね」

たしかに自分も不用心だったかもしれないと思う。今まで大丈夫だからといって、今日も大丈夫だとは限らない。世界とはそういうものだ。

「以後、気を付けます」
「よっしゃ、じゃ、俺行くわ」
「あ、え?」

携帯を耳に当ててホスト風の男はどこかに走り去っていく。名前を聞くのを忘れたとか、お礼をまだ言っていないのにとか、口から出したい声は沢山あったが、意識を取り戻したらしい傷だらけの男の気配に気づいて、紗綾は慌てて鞄を握りしめて一目散にその場所から逃げ去った。

「一難去ってまた一難ってこのことよね」

ずぶぬれ。走って公園を抜け出し、ようやく人通りの多い道に出たところで紗綾は突然の夕立に襲われた。バケツをひっくり返したような豪雨。襲われた時の感覚も、守ってくれた香水の匂いもすべて洗い流してしまうかのような、それはひどい雨だった。

「ただいま」

すっかり日が暮れた時刻になって、紗綾はずぶ濡れのまま返事のない玄関でクツを脱ぐ。全身から雨水が滴り落ちて、床に水たまりが出来ているが、紗綾は早く制服を脱いでしまいたい願望だけにかられていた。とりあえず鞄を置き、靴下を脱ごうとしたところで、紗綾は家の床に白い水たまりが出来ていることに気付く。それは白い斑点のように、二階へと続く階段から玄関に向かって一直線に連なっていた。

「なにこれ、ペンキ?」

疲れた脳で真っ先に想像したのは、佳良のいたずら。先に帰った佳良が何かを企んでいるのかもしれない。指ですくった白い液体はペンキにしてはサラッとしていて、指でこすってみても色は手につかなかった。

「佳良?」

二階に向かって紗綾はずぶ濡れのまま声を投げかける。返事はない。

「佳良?」

外では真っ黒な雲が雷を内包しているからか、室内は異様なほど暗い。玄関に備え付けられた電気をつけて、それでも返事のない二階の様子に違和感を感じて、紗綾はずぶ濡れの格好のまま階段を上ることにした。
怖いもの見たさ。そういう感情が脳で警鐘を鳴らすよりも早く、体を突き動かすこともある。ヘンゼルとグレーテルでもあるまいし、白い斑点を消さないように、そしてそれを辿るように紗綾は壁伝いに階段をのぼりながら、自分の部屋の前にたどりつく。
そして、言いようのない恐怖が紗綾の全身を硬直させた。

「佳良?」

少し隙間の空いた扉。室内へと続く白い液体。頭が思考を促す回路を焼き切ってしまったみたいに心臓がバクバクと音をたてて、全身を熱く沸騰させていく。指先が震える、喉が渇く。関節のすべてが固まったようにぎこちない動作で、紗綾は汗が噴き出す感覚を訴える指先を意識しながら、少し空いた部屋の扉を軽く押した。

「きゃぁあああ」

心臓が止まったのかと思った。
近くに落ちたらしい雷はこの際どうでもいい。停電になったのか、わずかな灯りになっていた玄関の明かりが消えてしまったこともどうでもいい。むしろ、驚かせようとこの演出を意図的にしている幼馴染を何発か殴らせてもらいたい怒りにかられていた。なんとか紗綾は暴れる心臓をなだめるように、両手を胸に押しあてて呼吸を整える。
今日は厄日だ。
全てを差し引いて、明日が誕生日でなければそんな考えには至らなかったかもしれない。もう少し慎重に動いていたかもしれない。悪戯好きの佳良がサプライズを計画していることを知っていた。知っていながら知らないふりをするのが当たり前だった。毎年の恒例だった。

「佳良?」

叫んだことでいつもの感覚が戻った紗綾は、今までの苦労を捨て去るように室内に足を踏み入れた。

* * * * *

「──────佳良ッ」

紗綾は叫ぶように飛び起きてから、そこが寮のベットの上なことに気が付いた。うたたねをしていたのか、時刻はとっくに黄昏時を通り過ぎ、室内を暗く沈めている。

「夢、か」

全身から汗を吹き出し、肩で息をしながら目覚めるのはもう何度目か。夢で見たあの日の惨劇は、どの物語にも載っていないほど酷い光景だった。
すべて忘れたい。脳裏にこびりついた記憶は色鮮やかに瞼を閉じれば思い出す。願っても消えてくれないあの日の光景は紗綾のそれまでの人生を簡単に塗り替えてしまった。

「はあ」

再びベットに体を横たえてから、紗綾は深い息をゆっくりと吐きだす。そこでタイミングよくなった携帯に、紗綾は頭を抱えながら「はい」と短く応答した。

「ひどい声だな」
「大丈夫」

心配しているのかしていないのか、抑揚のない声は相変わらずで、それが少し紗綾の神経を落ち着かせてくれた。けれどそれはすぐに紗綾にイヤな記憶を呼び起こさせる。

「SNSで白濁の少女の件が炎上している」
「え?」

その言葉の真実を確認しようと紗綾は携帯を耳から離して指先で画面を操作する。噂好きの若者が集まるSNSでは確かに「白濁の少女」についての話題でもちきりだった。

「今はもう消されているが数分前に動画がアップされた」
「それで」
「警察はシュガープラムによる異常死だとしているが、しばらく夜は出ない方がいい」
「わかった」

短い会話で電話は切れる。用件のみの会話。
自分勝手のようでいて空気の読めるところはよく似ていると、紗綾は少し笑って体を起こす。ガタガタと春の夜風が窓を叩いていた。
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