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序章:ルージュの伝言
しおりを挟むいつまでも色あせない
記憶の中に閉じ込められて
前にも進めず
後ろにも引き返せない
異質な鎖をつけられた
* * * * * *
眠らない街。聞こえはいいが、未成年には関係のない大人だけに許された夜の町がこの世には存在する。ろれつの回らない声、甲高く響く笑い、がやがやと雑踏の中にあるようで虚無に支配された空気。深まる秋の風を敏感に煽っていくカサカサと枯れた葉の転がる音が、まるで耳鳴りのようにいつまでも路上の端でうずくまっていた。
「ねえ、おねえさん。ひとり?」
行先を阻むように、若い男が少女の前に立ちはだかる。
「うわ、可愛い・・・って未成年?」
全身を黒い衣装で包んだ少女に興味があるのか、男はにこやかな笑みを浮かべて営業らしい声で名刺を差し出す。
「未成年なわけないか、お姉さんなら可愛いから稼げると思うよ。はい。興味があったらどうぞ」
クラブマドンナ。手渡された名刺は、高級そうな黒い紙に金色の文字が中央で踊っている。にこやかな男に対して少女は興味がないのか、その名刺を無言で突き返すと、初めからその一瞬がなかったようにまた雑踏に向かって歩きだす。
「顔はいいけど性格悪」
引きつった男の嫌味な声が、カサカサと擦れる枯れ葉に混ざって少女を包む。けれど、少女が気に留める暇もなく男はまた別の女性に声をかけて、先ほど少女が突き返した黒い名刺を手渡していた。
「はあ」
くだらない。そう言いたかったけれど、声は口から出てこなかった。繁華街に出ればその他大勢の中の一人になれる。誰も他人に興味はない。波が浜辺へ押し寄せ、返すように、この人波の群れは決まった流れの中で泳ぐ人間を気には留めない。
「はい」
少女は震えた携帯を取り出すことなく、空中に向かって返答をした。そしてすぐに走り出す。突然の少女の奇行に周囲の視線は驚いた形相を見せたが、誰もが道を譲るように脇へそれていく。誰も関わろうとはしない。群れからはぐれる魚は、やがて深海のエサになることを群れの住民たちは知っている。
そんな雑踏の中、闇に紛れるように黒い服で身を包んだ少女は息をきらせて走っていた。目的地までの距離は一瞬で縮められるほど近くはない。走って走って、それでもきっと間に合わない場所で少女の目的は転がっている。息が切れて、足がもつれて、唇を噛み締めるころになって突然、目の前で悲鳴が聞こえた。
数ブロック先まで響く、イヤなブレーキ音。
路上に飛び出した男性がふわりと宙を舞い、次いでグシャリと地面にたたきつけられて、なぜか白い花を咲かせる。ありふれた日常の中に、突然訪れた悲劇。雑踏は騒然と足を止め、渋滞と混雑、興味と驚愕に身を寄せ合い黒い亡者の波となって周囲の流れをせき止めた。
「はぁ、はぁっ、はぁ」
黒い少女は流れが止まる一瞬のスキをついてそこから抜け出し、事故死した男が出て来たであろう路地に身を滑り込ませる。幸いにも誰もそれに気づかない。強烈な出来事が目の前でおこった場合、視線の誘導は小さなものには行き届かない。
路地は夜の闇が溜まるのか、高い建物と建物の壁の間に出来たわずかな空間は少女の視界を黒一色に覆いつくす。誰かが捨てた空き缶、タバコ、鮮やかな落書き、ゴミ。通り過ぎていく視界の端にそれらを感じながら、少女は細い路地を突き進んでいく。人はいない。思わず身震いするほどの静寂が空気を支配し、あれほど耳鳴りだった枯れ葉の音もここまでは届かない。
無風。
秋の風でさえ、この異様な夜の雰囲気にあてられて息を呑んで固まっているようだった。
「っ」
今まで全力疾走でここまでやってきた少女の足がピタリと止まる。
何をみたのか。反射したネオンの青白い光が空から差し込むその場所で、少女は繭に包まれたような白い塊を目にした。
「はぁ、はぁっ、はぁ」
肩で息をしながら減速した歩幅は、ゆっくりとそこに転がる目的の対象物に向かって距離を縮め、そして視界にその正体を捉えた。
女性の死骸。
赤いハイヒールが片方遠くに転がっているが、全身の着衣は乱れたように女性にまとわりつき、頭の先から足の先まで白い粘着質の液体に覆われている。精液で溺死した。そう表現してもおかしくはないが、そう表現できる事態を一体だれが信じるのだろう。情事の最中で死んだのか、情事の後に殺されたのか、それとも情事の前なのか。名前も知らない見ず知らずの他人に起こった悲劇に、ここまで走ってきた少女は唇を噛んで息を呑む。
「十和(とわ)」
空中に向かってかすれるような息を吐いた少女に、電話越しの相手は何も答えない。次の言葉はもうわかっているのだろう。
「間に合わなかった」
そう口にした少女の悲痛な声と共に、通話は終了の合図を小さく告げた。
かちゃ。静寂と吐息だけが支配していた路地裏に、少女がポケットから取り出した金属音が異質な音を響かせる。それは口紅。
黒い服の少女は、相対する世界で生きるような白濁の死骸に近づくと露わになった肌の一部に赤い十字架を書き殴った。血の気の失ったその顔が何の恐怖を見たのかは知らない。それでも少女はこうつぶやいた。
「私が、復讐してあげる」
これは約束の印。面識のない女性に頼まれたわけでもないのに、少女は勝手に誓いを立てる。誰も聞いてなどいないのに、聞き届けられたような錯覚に満足して、少女はその場から遠ざかる。暗がりに少女を見つけるものはどこにもいない。二つの事件が同時に起こった繁華街の夜に、赤いサイレンの鳴り響く音が不気味な光を放っていた。
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