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参書:四季を冠る香妃

(Side:ニガナ)禿の生い立ち

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~Side:ニガナ~


初めてアザミ花魁を見た時、天女様は本当にいるんだと思った。
艶やかな黒髪、焦げ茶や黒柿色にも見える綺麗な瞳。五色の菊が刺繍された着物に包まれる華奢な手足、白い肌。ぶつかっていなければ、実物だと思わなかったかもしれない。
あまりに可憐で、消えてしまいそうなほど儚くて、あたしは夢を見ているのだと思った。


「ごめんなさい。怪我はありんせんか?」


ぶつかったのはあたしの方なのに、謝る声が優しく問いかけてくる。
天女様は声まで美しいのだと勝手に顔が赤くなって、出会えた喜びを隠し切れずに、興奮気味で「天女様」と叫んでしまった。
無礼極まりない。
それなのに、そんなあたしを怒るどころか、天女様はくすくすと笑って、目線を合わせるように膝をついてくれた。


「わっちはアザミ」

「……アザミ、様……天女様ではない?」

「ええ、残念ながら天女様ではありんせん。わっちはアザミ、黄宝館の花魁よ。あなたは……見かけない顔ね。新入りかしら?」


アザミ花魁の周りだけが、別世界みたいに輝いて見えた。
こんなにキレイだから統王様や四獣様は高い高い塔の上に花魁を閉じ込めて、誰にも見られないようにしているんだ。邪獣に襲われないように、怖い人たちにさらわれないように。この人は大切に閉じ込められているんだと理解した。
掛け軸や絵姿でしか見たことのない花魁は、天女の器として左手首に封花印があって、本当にあって、でも、だけど、この人こそが天女様だと納得できる美しさに、あたしはなぜかわからないけど、泣いてしまった。
ここが現実なのだと、変な実感に包まれて、わんわん声をあげて泣いてしまった。


「あらあら、迷子でありんすか?」


それがアザミ花魁とあたしの出会い。
泣いたあたしを抱きしめて、よしよしと頭を撫でて「困りんしたなぁ」と手を握ってくれた。その手はとても温かくて、力強くて、優しくて、頼もしくて、あたしが泣き止むまで、アザミ花魁はあたしの手を握ってくれていた。


「ニガナは、わっちの禿にしんす」


そう言ってくれた日を、あたしは生涯忘れない。
あたしがアザミ花魁と会ったのは、二年ほど前のこと。
親に売られ、行き着いた先が黄宝館だった。
華やかな帝都でも全員が華やかな暮らしをしているわけではない。あたしが生まれ育った場所は、麒麟の端のほう。一般の妓楼がひしめき合い、商家が建ち並ぶ大通りから何本も暗い路地を抜けた先。
足抜けした妓女が隠れるにはうってつけの場所で、犯罪者たちが好んで集まる場所でもある。よく警吏隊が巡回し、立札に張り付けられた似顔絵が幾重にも連なる。懸賞金目当てに差し出された女の悲鳴は日常茶飯事で、物騒な事件を耳にするのも慣れたもの。


「辻斬りが出たらしい。やだねぇ、邪獣退治で足をやっちまったとかで、切りたい衝動を女子供に向けるなんて。警吏隊も巡回してるならそっちを先に捕まえてほしいもんだ」

「足抜けの女と比べりゃ、懸賞金が雲泥の差なんだ、仕方ないさ。それより、橋の前んとこの娘、人さらいに遭ったそうだよ。こんなことなら売っておけばよかったって、ほら、あそこ借金が多いから」

「あの娘なら高く売れただろうね。売り時が肝心だっていうのに、勿体ないことをしたよ。ああ、そういや裏手の娘さん、集団で男に襲われたそうじゃないか。婚約破談になって自害したって本当かね」

「ここらは夜でも暗い場所が多いからねぇ。人目を忍ぶにはちょうどいいんだろうさ」


毎日聞いていれば、そんなものかと気にも留めない。
物騒を物騒とも思わない。比較した今の地位が平和だと信じて疑わない。周囲はみんな同じ環境で生きているのだから、自分だけが特別になれるなんて考えもしない。
ただ、そんな場所でも花魁信仰は根付いていた。


「花魁が天女様を封じてくださっているから、今日も安心して働けるのだし、さあ、わっちらも稼げるときに稼がなきゃね」

「国を二つに分かつ災害に比べりゃ、平和なもんだ。花魁に感謝、感謝」


生まれた時から黄宝館は世界の中心みたいにそこに立っていて、キラキラと輝くてっぺんに花魁がいるのだと、大人たちは夢物語を口にしていた。
天女様を封じた花魁。
花魁は平和の象徴。
誰よりも美しくて、統王様や四獣様に愛された国一番の寵姫。


「金箔で飾られた黄宝館が輝いて、今夜も帝都は眩しいね。一度でいいから本物の花魁を拝んでみたいもんだ」

「あんな場所、一生縁のない場所だよ。わっちらが相手する客だって、あんな場所と縁のない連中なんだ。夢を見ないで働かなきゃ、今日の食い扶持にもありつけやしない」


あたしは、言葉を覚える前から近所の妓楼で洗濯や皿洗いなどを手伝い、賃金を受け取って生活を助けていた。質が落ちる妓楼でも客は溢れるほどやってくる。
仕事は、なくならない。


「綺麗に産んでやったんだからちっとは稼ぎな」


おかあちゃんは、そこらへんにある遊郭でそこそこ有名な妓女だった。でも、舞も踊りも、字の読み書きもできなかったから、たくさんの男の人を相手にするしかなかった。
孕めば格が落ちると知りながら、あたしを生んで、この端の区画で暮らしているのは、重なる年齢に長く働けるわけではないと知っているから。
客と寝る妓女の生涯は短い。
おかあちゃんだけじゃない。ほとんどが、一定の年齢で計画的に子どもを産む。
それは生活のためであり、金のためであることは誰もが知っている。


「わっちの代わりに、あんたが稼ぐんだよ」

「……はい」

「女じゃなけりゃ捨ててたさ。生涯の食い扶持をこさえる年齢になれば、お前もわかるだろうよ」


少しでも箔がつくようにと処女を守られているだけで、自分が守られているわけではない。
それが理解できるくらいには、男女の営みが当たり前にそこにある。
金をくれる男に股を開く。父親が誰かはわからない。関係もない。金になる女を生む。そうして生まれた女のひとりが、あたしなだけ。


「女はいい。この国は女だけが稼げるのさ」


おかあちゃんの口癖。その言葉通り、女でも稼げると、夢を見て人は集まり、遊郭街の門をくぐる人は後を絶たない。
見た目が良ければそれなりの店に上がれる。一方で、能力や才能がなければ客と寝る以外の道はない。身請けも出世も見込めず、ただ消費されていくだけの存在。
だから、十歳になって初潮が来て、売られた時も、あたしは全然驚かなかった。


「高く買っとくれ」


男に襲われることもなく、人さらいにあうこともなく、殺される恐怖を味わうことなく、健康体で売られたことを感謝するくらいには、予想通りの人生だった。
おかあちゃんが老後に困らない金を受け取ったのを見て、親孝行ができたと思った。
それが自分の借金になったことは、おかあちゃんに金を渡した男に教えられた。


「久しぶりの上玉だな。黄宝館に交渉してみるか」


これも運試しだと笑われて、あっさりと黄宝館に連れていかれた時が一番驚いたかもしれない。一生、縁のない場所だと思っていた黄宝館の門をくぐるときは、さすがにドキドキと心臓が痛かった。


「いいよ。うちで買ってやる」


しわくちゃの顔をした背の低いおばあさんが、足の先から頭の先まで三往復した後、じっとあたしの目を見つめてから承諾した。ゴマ婆と呼ばれたそのおばあさんは、おかあちゃんに渡した以上のお金を男に渡していた。嬉しそうに受け取った男が去っていく背中を見て、あたしの借金が増えたのだと、なんとなく察する。
でも、どうしようもない。


「お前さん、名前は?」

「……ニガナ」

「うちには今いない名前だからそのままでいい。みんなへの挨拶の後、部屋を決めるから呼ぶまで好きに過ごしな」


そこで初めて放置されて、呆然としてしまったのは仕方がない。
まるで世界に取り残されたみたいに、突然しんとした静寂が身体を包んで怖くなった。自分が生まれ育ってきた場所より全然綺麗で、何もかもがキラキラして見えるのに、夢みたいに実感がない。
好きに過ごしていいと言われても、何をして過ごせばいいのかわからない。
気付いたら階段を登っていたのは、無意識に身に付いた花魁への信仰心かもしれない。そこに行けば、何か助けてくれる気がしていたのかもしれない。
本当は、そのときのことはあまり覚えてない。
でも、息が切れて、花魁なんていないんじゃないかと思って、諦めかけたそのとき、ぶつかったのがアザミ花魁だったことは覚えている。


「ニガナは、今からわっちの禿よ。わっちのことは姐さんと思い、仲良くしてね」


その日から、あたしのすべてはアザミ花魁で回っている。
大好きな花魁。選ばれた誇り。天にも昇る気持ちで、傍にいられる毎日が幸せでたまらなかった。芸事を覚えるのも、黄宝館の決まり事を守るのも大変だったけど、アザミ花魁がいるから頑張ってこれた。
だから、そんなアザミ花魁にお渡りがないことを知った時は悲しかった。悔しかった。信じられなかった。
あたしはひどく怒っていた。


「統王様は噂ほどよい王ではないですね。お会いできるなら、あねさんがどれほど素敵かを一晩でも二晩でも語って、強制的にお連れするのに」

「でも統王様が来るようになれば、四獣様との交わりも始まるし、ニガナとこうした時間を過ごすのは難しくなるわね」

「それは困ります。あねさんと本を読んだり、字を書いたり、演奏したりできる時間はわっちの幸せでありんすから」


だけど、最近は格別に幸せだと思う。
一緒に過ごす時間は減ったけど、統王様や四獣様のお渡りはないからといつも寂しそうだったアザミ花魁が、恥ずかしそうに照れたり、不安そうに着飾ったりするのを間近で見られるのが楽しくてたまらない。
コウラ様から「アザミがゴマ婆を呼ぶまで決して何もするな」と脅されたときは何事かと思い、四獣様方が来るたびにアザミ花魁の体中に痣ができた時は心配で眠れない日ばかりだったのは懐かしい話。
乱れた布や衣を片づけるのも、食事を運ぶのも下げるのも、お湯を用意するのも、全部慣れたものだったはずなのに、実際にアザミ花魁が統王様や四獣様と過ごされる時間は、すごく不安で、緊張した。呼ばれればいつでも突撃しようと護身用の棒を用意していたっけ。
今では、天女様でも花魁でもなく、アザミ花魁をアザミ様として愛してくださっているのだとわかるから、そっと見守ることにしている。


「……ぅ、わ……わ」


十日間続く花魁道中。
統王様と四獣様の部屋とアザミ花魁の部屋は別々に用意した。そういわれたから、そうした。あたしも忙しい花魁道中の間は、アザミ様を極力休ませてあげたいと思っていたから、それがいいと思っていた。それなのに、だ。


「ごめんなさい、ニガナ。ジンさまのお食事もこちらにお願いできる?」


昨日はコウラ様とヒスイ様の分、今日はジン陛下の分をアザミ花魁の部屋に運ぶ羽目になっていた。何をしていたかなんて、遊郭では聞くだけ野暮だけど、ジン陛下が丸一晩アザミ花魁と過ごされたのは初めてだったから、ちょっと驚いた。
アザミ花魁が「ジンさま」と照れたように呼ぶようになったのは花魁道中の前だけど、この数日で、より関係が濃くなったことはあたしにもわかる。
これからは、ジン陛下が帰られた後もアザミ花魁に薬を飲ませなきゃいけないのかと、乱れた布や衣を回収しながら漠然と思う。
だけど、アザミ花魁が幸せそうな顔で笑っているから、それが何よりも嬉しい。
あたし……わっちの自慢のあねさん。大好きなあねさん。あねさんの幸せをこれからも、一番近くで知っていきたい。
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