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序章:王と花魁

03:帝都に栄える花園

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幾重にも連なる遊郭に染まる街。それが帝都にある麒麟(キリン)であり、黄宝館はその中央にそびえ立つ。三百年以上も昔に建設されたという館の天守には、花魁だけが住むことの許された部屋があり、代々、皇帝陛下である統王と四獣だけが入室を許可されていた。
いや、例外はある。
花魁の世話をする禿(カムロ)と、館の女主人。


「して、うまくやったか?」


処女を喪失したばかりの娘に対する発言とは思えないが、これがゴマ婆なのだから仕方がない。


「なにをうまくやったのですか?」


湯に浸かるアザミの髪をとかしながら、今年十一歳になる小さなニガナが首をかしげている。
それに対して「さあ、何でありんすかねぇ」とアザミはまぶたを閉じながら、体を沈めたお湯の温もりを感じていた。


「あねさんでも、わからないのですか?」

「わかりんせんなぁ」

「ゴマ婆さま。何をうまくやるのですか?」


アザミでは答えが得られないと理解したのか、ニガナは髪を梳かす手を止めて、ゴマ婆に声をかける。ゴマ婆はあれから、湯を沸かしたアベニの呼び掛けに首をかしげながらも嬉々としてニガナの手を引いて現れた。


「ゴマ婆、花魁は腰が抜けている」


アベニの余計な一言で、ゴマ婆は悟ったに違いないが、やはり本人の口から真実を聞きたいのだろう。ニコニコと浮かべた笑みが気色悪い。


「アベニ様はどうぞ監視のお座敷へ。本日の監視役であるコウラ様は不在ですので問題ないでしょう」

「いや、俺はジンからアザミに湯を沸かしてやれとだな」

「順番も待てぬと噂されてもよろしいので?」

「………………」


無言で部屋を出ていった。いや、アベニを部屋から追い出したゴマ婆の笑顔がそこにあり、それからずっと、こうしてアザミにジンとの交わりはどうだったかと尋ねている。
迷惑な話だ。
ジンが、誰よりも偉い帝が「忘れろ」と言ったのだから、先ほどのことは「なかったこと」として処理しなければならない。とはいえ、アザミはもう処女ではないのだから、黄宝館を指揮するゴマ婆には、その事実を伝えなくてはならない。
射るように見つめてくるゴマ婆の視線が痛い。


「蕾ではなくなりんしたが、花は咲かず、このまま枯れるやも」


はぁっと、仕方なしに告げたアザミは、閉じていた目を開けてチラリとゴマ婆を盗み見る。ゴマ婆はギョッとした顔をしていたが、代わりに、ニガナが「あねさんは花でも育てているのですか?」と聞いてきた。


「ニガナは、ういのぉ」


無垢で無知な姿が愛おしい。
ニガナは客をとる妓女の付き人経験がなく、アザミの接客しか知らないのだからそうなるのも無理はないのかもしれない。とはいえ、ずっと無知のままではいられない。
ここは遊郭。それも帝都一といわれる高級遊郭「黄宝館」であり、それ相応の地位の客人に対して、それ相応の技量を提供する必要がある。自分が学んできたように、ニガナも避けては通れない道であることはアザミも理解している。


「あれ、あねさんの菊、濃くなりんしたか?」

「そう?」


お湯を肌に滑らせていたアザミの左手首をみたニガナが髪をとかす手を休めて問いかけてくる。問われて、アザミも自分の左手首を見たが、さほど変わったようには見えなかった。


「……お湯に溶けて消えて無くなる花であれば良いのにねぇ。この封花印(フウカイン)がある限り、永遠に花魁でなければならないなんて……」


そこから先の言葉は続かず、アザミは首をかしげるニガナに髪をとかす手を休めないよう言いつける。ニガナは思い出したように髪をとかし始めたが、湯気のこもる視界で目を閉じたアザミの心情を察することは難しいだろう。
左手首に花が刻まれた娘は、問答無用で花魁となる。
ある日突然、左手首に花が浮き出ただけで生涯監禁される身の上になることは、名誉であり、羨望の的であると人々は口をそろえる。それは、花魁が帝国を治める統王の寵姫として、庇護を受ける対象であることを意味するからに他ならない。
花魁は、生涯で五人の男と交わる義務があり、そして五人以外とは指先ひとつ触れることは叶わない。
そう定められている。
先代も、先々代も、その前も。
しかし、アザミは交わりを義務付けるジンに二十年間も放置されたため、その役目を全うすることなく今日に至っていた。
そして、ようやく交わりを得たと思ったら「忘れろ」と言われたのだ。
どういう意味か、説明されなければならないほどバカではないが、どういう意味か、説明してほしいほどには惨めだった。


「花は愛でられて咲くものよ」


アザミは湯桶から腕を上げてニガナの頬を撫でる。ニガナは朗らかに笑って、それからアザミの身体を拭く布を取りに行った。


「愛でられない花が、どうして咲きんしょう」


アザミは湯桶の中でうなだれながら、言葉だけをゴマ婆にとばす。
ゴマ婆はずっと難しい顔をしていたが、アザミの問いかけには肯定も否定もしなかった。


「統王様がお渡りになった事実は変わらぬ」


そう、事実は変わらない。
アザミの処女は失われ、ジンはアザミの処女を奪った。それが何を意味するかは、左手首に刻まれた菊の紋が告げている。
愛のない客をとる日々が始まる。
五人の男と交わる日々が始まる。
花魁として、本来の役割を果たす日々が来る。黄宝館で暮らす他の妓女と同じように、アザミも愛想で笑い、男を喜ばす嘘を吐かなければならない。
これまで、うわべで追いやってきた言葉ではなく。現実に触れあって。昨日の夜のような、筆舌に尽くしがたい時間を迎えなければならない。


「………アベニ様は?」


アザミは、大きな手拭いを持ってきたニガナに身を隠されながら湯桶からあがる。その際、不運にも他人の事後処理を言い渡された赤い髪の男の存在を思い出した。


「なにやら、統王様より召集がかかったようで、しばらく席を空けるとのことです」


頭ふたつ小さいニガナが、せっせと身体を拭きながら教えてくれる。
男たちは今ごろ、誰がどの順番で自分を抱くのか決めているのかもしれない。そんな場面を幾度となく見てきた。
ジンは「忘れろ」というが、ゴマ婆のいうように事実は変わらず、事象は勝手に進んでいく。それとも「何もなかった」ことにされるのだろうか。また、何十年も訪れることない誰かを待つ日々を無情に送れというのだろうか。
そんな寂しい姿は、この花街の至るところで聞くはなし。
珍しくも何ともない。
女の意思は脇へ追いやり、自分の欲望を誇示する男たちの姿は見たくなくても勝手に視界に映っている。


「ニガナ」

「はい、花魁」

「これで、何か美味しいものでも買っておいで」


アザミは部屋着ともなる衣に袖を通し、髪を結うことなく、窓辺の椅子に腰かける。慌てて髪を結いにきたニガナに駄賃ともなる金子をわたし、早々に部屋を追い出した理由はひとつしかない。


「ニガナもいずれは客をとる。それに、聞かせたところでどうにかなるほど無知でもないぞ」

「私が聞かせたくないだけよ」


アザミはゴマ婆と二人きりになった空間で、ようやく口調を元に戻し、窓際の椅子に足を崩して、だらりと背をあずけた。
その様子は威厳のある花魁とは程遠い。年頃の娘の怠惰な姿ともいえる。


「妙薬を使って勃起した陰茎を膣に入れたわ。自分でも驚くほど呆気なく済んで、拍子抜けしちゃった。二十四年も処女だったとは思えないくらい、それはもう順調に進んで、陛下の子種を腹で受け取った」

「統王様が邪獣より受けた傷は」

「跡形もなく癒えたと思う。だけど、陛下は、もう二度と来ないわ」


視線を落としたアザミの姿に、ゴマ婆も力を抜いて声を静める。
自分の禿にしたニガナに聞かせたくないはなしというのだから、相応の話なのだろうと思っていたが、思いつめたその顔にかける言葉は多くない。


「なぜそう思う?」

「忘れろと言われたのだから、そういうことでしょう。後宮に素敵な女性でもいらっしゃるのか、心に決められた人がいるのか。理由が何であれ、何もなかった。双方の合意でそういうことになったの。花魁の名が聞いてあきれるでしょ」


花魁は世界でただひとり、封花印を持つ娘だけに与えられる称号。
王の寵姫だと人々は羨むが、実際は二十年も放置された哀れな娘でしかない。王の渡りがないことを隠すため、アザミは毎夜一人で暗い部屋にこもり、形だけの花魁を演じ続けている。「忘れろ」ということは、これからも、死ぬまでずっと「そうしていろ」とジンがそう命じたのと同じこと。


「お渡りのない、お飾りの花魁であり続けるのよ、これからもずっと」


小さな丸になろうと足の間に顔をうずめたアザミに、ゴマ婆は容赦なく質問を続けてくる。


「左手首の封花印は?」

「何ともない。少し痛んだけど、何もなく前と同じ」


交わったところで変化はなにもない。
アザミを孤独から救ってくれるわけでも、嘘をつく日常が終わるわけでも、まして、飽きるほど過ごした部屋から自由にしてくれるわけでもない。
試しに、アザミは窓を開けて手を出そうとしたが、その指先が外の空気に触れる寸前で火花のような雷光が散り、全身に鋭い痛みが走っていた。


「今は四獣様がおられぬ。外気にあてられ、体調を崩しても厄介だ。窓は閉めておくにかぎる」

「……そうね」


全身を抱きしめて痛みが引くのを待つアザミの代わりに、ゴマ婆は窓を閉めて嘆息する。
窓から望む景色は地平線まで広がる遊郭街。石壁と瓦屋根が積み重なり、提灯が煌々と色めく不夜城は、世界屈指の都市として栄華を極めている。


「ごめんなさい、ゴマ婆。私は花魁失格ね」


誰もが憧れる至高の存在でありながら、年頃の娘らしく泣き言を口にするアザミの声をゴマ婆は聞こえないふりをして、その肩に無言の手だけを添えていた。
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