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序章:王と花魁
01:天命の初夜と花弁
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煌々とした提灯の明かりが連なり、幾重にも続く瓦屋根の合間を人が行き交う。前も、横も、後ろも、斜めも全て妓楼で埋め尽くされた色香の都市。女は男を誘い、男は女を買いに来る。逆もまた然り。何百、何千、何万人と、夜が更けるごとに数は増えて、帝都は眠らない街を形成していく。
その中心部。『黄宝館(きほうかん)』の看板がひときわ異彩を放つ。
豪華絢爛の言葉にふさわしく、すべてが金で彩られているのだから無理もない。その黄金色の妓楼の最上階に、『花魁:おいらん』と呼ばれる美しい娘がいるのは有名なはなし。
名前をアザミといい、左手首の内側に菊の模様を刻んでいる以外は特段他の妓女と違いはない。それでも、その紋自体が特別なのだから、この状況もたぶん、おそらく、きっと、特別なのだろう。
「……………」
「……………」
何分そうしていたのか。
アザミは真横で眠る男を座って見下ろしながら、いっそこのまま死んでくれないかなと思っていた。
眠る男は、地位と権力の最高点にいる。
艶めく金色の髪、きめ細かい肌、端正な顔立ちをした美しい男。それなのに、脱がせた体は鍛えられ、顔に似合わず、想像よりもずっと、申し分ないモノを持っている。
眠っているから勃起すればもっとだろう。この顔に、このオスであれば、世の女性が写し絵を欲しがるのもうなずける。が、いまはその肌の表面、左肩からヘソにかけて、長く深い爪痕がにじんでいた。
「アザミ、ジン陛下を頼む」
深夜、突然訪れた顔馴染みは、負傷した男をアザミの布団に寝かせるなり、そのまま置き去りにしてどこかへ行ってしまった。あまりに一瞬の出来事過ぎて、アザミは呆然とその背中を見送るしかなく、苦しそうに呻く「ジン」とかいう男の面倒を見る羽目になっている。
「――……陛下」
上半身を傾け、眠る耳に囁くように名前を呼んでみる。何度か呼びかけてみたが、起きる気配はない。いや、本当はもう死んでいるのかもしれない。
呼吸が静かすぎる。
部屋に置かれたたったひとつの行燈では、顔の造形美はわかっても、様子まではわからない。
「陛下……ああ……さすが、生きておりんすな」
気休め程度にしかならない薬を塗って放置した体は流血し、アザミの寝具を染めている。本当は傷口を縫合するべきなのだろうが、この部屋はそういう類いの持ち込みを一切禁じられているのだから仕方がない。
なんとか布を傷口に押し当て、ジンの呼吸を確認して、アザミはやっと肩の力を抜いたところだった。
「コウラ様もコウラ様よ。頼むっていわれたって、応急処置なんて、したこともないのに」
多方面に苛立ちが増す。
特に、この状況を放置して去っていった顔馴染みの男。今ごろどこで何をしているのか。窓の向こうに意識を向けてみても、戻ってくる気配はない。
「……この私の寝所に男を運ぶなんて……意味がわかっているのかしら」
男は気まぐれで信用ならないと、アザミはふんっと鼻を鳴らす。
「それでなくても、この男のせいで、私は」
そこでまた、アザミはジンに視線を落とす。
彼がひん死の状態でなければ、永遠に会うことはなかっただろう。ここに運ばれたことは、ジン本人も不本意だったに違いない。
「二十年も放置した女の寝所で手当を受けるなど、夢にも思わないでしょうね」
そこで左手首に刻まれた菊の文様が目に入って、それが血で汚れているのに気づいたアザミの瞳からスッと光が消えうせる。
「陛下が死ねば、私は自由……」
自分をこの黄宝館のてっぺんに閉じ込め続ける元凶の男。目の前にいる、今なら殺せる。
「………………はぁ」
美しくも元凶の男がいっそ死んでくれれば、自分が自由になれるという気持ちと、人として、怪我人を放置できないという葛藤に、なぜ深夜から悩まされなければならないのか。
「コウラ様を待つより、やはり医者を呼ぶべきじゃないかしら」
ふんっと苛立ちのまま言葉が口を突いて出ていくのも仕方がない。去っていった男が残した薬を塗り、傷口に布をあてて、何度も生死を確認してしまう現状に泣きたくなってくる。
手も服も血だらけで、正直、怖くて怖くて今すぐにでも逃げ出したくてたまらなかった。
「……ぐ……ぅ…ッ」
「陛下…ッ…ジン陛下!?」
ピクリと動いた指先と一緒に、眠っていた男のまぶたが揺れる。アザミは複雑な思いのままジンの名前を繰り返し、顔を寄せ、瞬間、布ごと押さえた肌が呻いて、それからジンは盛大に吐血した。
「…………ッ」
キャーっという甲高い悲鳴はアザミのものだが、その尋常じゃない動揺ぶりに、さすがに異変を感じ取ったのだろう。ドタバタと廊下を走る音が聞こえて、アザミの寝所の前でそれが止まった。
「あねさん、あねさん、いかがされましたか?」
幼い少女の声。聞きなれたその声に、アザミの瞳に浮かんでいた涙は引っ込んだ。
自分の立場を思い出す。自分は花魁。そして、けが人はこの国の王。ここで騒動を起こすわけにはいかない。多くの男女が入り乱れる夜の街で、噂は格好の餌食となる。
状況が深刻であればあるほど、内密に処理しなければならない。
「なんでもありんせん。それよりニガナ、今宵の当番はどこに行きんした?」
「すぐ近くに邪獣(ジャジュウ)が出たそうで、コウラ様が直に出向いておられます。しばし席を空けるが、すぐに戻ると仰せでした」
コウラ。
この状態を生んだ顔馴染みの男の名前に、アザミの顔がわずかに歪む。
「四獣の王が出向かねばならんとはなにゆえ。他にも適任者がおるであろう?」
「さあ、わっちにもなんとも」
それはそうだとアザミは思う。自分が知らないもの、小さな付き人が知るはずもない。今夜の当番は、先ほどアザミにジンを託した人物と同一なのだから不在なのは合点がいく。
「ニガナ。ちと、すまぬがゴマ婆を呼んできてくれるか?」
「はい、あねさん」
小さな足音は来たとき同様、慌ただしい足音を残して去っていった。まもなく、この黄宝館を仕切る老齢の女がやってくるだろう。
自分の姿を見下ろしてみても、到底隠しようがないのだから、さっさと報告しておくに限るとアザミが息を吐いたとき、颯爽と寝所の入り口が開いて、それから閉じた。
「花魁、何用で?」
「ゴマ婆。何も聞かないで助けてちょうだい」
「人でも殺されましたか?」
行燈だけの室内に香る鉄の匂いで判断したのか。それとも窓辺から差し込む提灯と月光に照らされたアザミと、その隣に横たわる男の影に何かの想像が膨らんだのか。
百歳を超えるともいわれる老婆には、この状況は知った光景のひとつだったのかもしれない。
「人聞き悪いこと言わないで、殺してないわよ」
憤慨するアザミの横で、またひとつ呻く声があがる。ゴマ婆は、その小さな体を俊敏に動かして、アザミのもとへやってくるなり「ヒョエッ」とよくわからない悲鳴を上げた。
「と、ととととととと、とう、とう」
「統王のジン陛下よ」
「でかした、アザミ。ようやく統王様のお渡りじゃ」
ガシッと肩を掴んでくる握力は、およそ老婆とは思えない。アザミは興奮して鼻息が荒くなっているゴマ婆を落ち着かせるように息を吐くと、両手を顔の横にあげて「私は全身血まみれである」という現実をつきつけた。
「ゴマ婆。陛下の血が止まらないの。コウラ様は陛下をここに寝かせるなり行ってしまったし、どうしたらいい?」
「邪獣にやられたんじゃろ。邪獣は尊い方々を好む。食われかけたのか、傷口から陰禍(オンカ)の気配を感じるの。いくら神力の高い統王様とはいえ、このままでは死んでしまう」
「医者を呼ぶべきではないかしら?」
「それはならん。華族なんぞに弱みを握らせるものか。アザミ、お主がやるしかない」
「なにを?」
「このたわけ。何年花魁をやっとるんじゃ。交わりに決まっとろうが」
パシンっと低い位置から頭を叩かれて、アザミはジンの横に舞い戻る。医者を呼ぼうとごく当たり前の提案をしただけなのに、それなのにこれはいったいどういう仕打ちだろうか。
「ま、まままま交わり!?」
アザミの声は裏返り、信じられないものを見る目でゴマ婆を見つめた。
「なに言ってるの。彼、怪我人なのよ。傷の手当てが先でしょ?」
「花魁は統王様方を癒す力がある」
「いや、でも、だって」
「知らんとは言わせん」
ゴマ婆の発言に、アザミはぐっと口を閉ざす。言い負かされるのは、ゴマ婆が育ての親であり、先代の花魁に長く仕えていたことを知っているから。
たしかに、花魁は不思議な力を持つとされている。知らないとは言わない。ただ、出来ないと言いたい。
「無理よ、やりかたなんか」
「手練手管の姐さんから教わっただろうて」
「あっ、あんなこと出来ないわよ」
顔を真っ赤にして狼狽える姿は、はっきり言って人々が憧れる花魁とはほど遠い。姿を拝むだけで腰が砕けると、噂ばかりが一人歩きをしているのも悪いことだが、本人に耐性がないのだから無理もない。
「これは天命が与えられた千載一遇の機会じゃ、アザミ。その左手首に現統王様であらせられるジン陛下の封花印(フウカイン)が刻まれて早二十年。お渡りのないまま二十四を迎え、いつまで男を知らぬ花魁でいるつもりだ。既成事実を作れ」
「………そんな」
「人払いはしておく、簡単だ。たたせて、いれる。それでしまいだ」
ポンポンと肩を叩いてゴマ婆は来たとき同様、年齢を感じさせない俊敏な動きで部屋を出ていった。
ぽつんと暗い室内に残されたのは、傷に苦しむ王と処女の花魁だけ。
どうしてこうなったのか。
助けを求めたいのに、誰も助けてくれない。いつもそうだと、損な役割を背負わされる身の上に、アザミは沸き立つ悔しさを噛みしめながら立ち上がった。
「…………なんで、私が」
頭には先ほど部屋を出ていく際に、ゴマ婆が放った言葉が鳴り響いている。
「お主がやらねば、どのみち統王様は助からん。見殺しにして自由になる道を選ぶなら、それもまた天命だろう」
人殺しになるか、乙女を失うか。
「頼む」とジンを運んできたコウラは戻らず、アザミにしか助けられないとゴマ婆は去った。
「…………」
深い意味はない。築き上げた名誉と自尊心だけでアザミは着ていた服を脱ぎ始める。
スルスルと衣擦れの音の隙間にゼーゼーとした荒い呼吸の音が混じる。気にしたくないのに、時間がない。猶予はないのだと、無言の圧力が告げてくる。
「たたせて…っ……いれる」
全裸になったアザミは、横たわるジンにまたがり、そして視線を徐々に下げていった。
「…………無理、かも」
絶対に無理だと全身が訴えている。まだ男として主張してもいないのに、想像していたよりもずっと大きい。
「きゃっ」
試しに指先で触れてみたら、まるで芋虫のようにぐにゃりと動いて、それ単体で意思をもった生き物みたいに感じられるのだから恐ろしい。
悲鳴と一緒に心臓も飛び出たのか、自分の鼓動がすぐそこで聞こえている気がする。
「そ、そういえば、姐さんが」
もしものときのためにと言って、随分前に渡してくれた薬瓶を思い出す。とろりとした液体が入っていて、不能な男でも勃起させ、不感症な女でも濡れるという。
黄宝館で働く妓女は、優秀で技量がいい。様々な知識や工夫があってしかるべきだと、アザミは瓶の中身をジンのオスに垂らしていった。
「どれくらい塗ればいいのかしら」
適量がわからない。
わからないうちに瓶の中身はみるみる減って、気付けば一本あけてしまった。
「ひっ……なんか、ぬるっとする」
指先に残る感覚から再び触るのが怖くて、思いきって腰をおろしてみたが、股の間を陣取る質量に身震いするしかない。
「こ、これで……っ…あってるの、よね?」
アザミは誰にでもなく呟いて、ぬるぬると滑る肌の感触を確かめながら、腰を前後に揺すり始めた。すると、徐々に刺激を受けた雄が立ち上がり、入り口らしいところに引っ掛かり始める。
「んっ…ッ…い……いくわよ」
女は度胸だと、アザミは意を決して位置を定めると、腰を深く落としていく。
「…………くっ」
無理。その二文字はいつまでもちらついて離れない。
これ以上はダメな気がすると、今さら理性と恐怖がやってくる。
「……ぁ…」
瀕死の怪我人相手にまたがって、自分は何をやっているのかと顔が引きつるのがわかる。
処女のままでも、乙女を失っても、この男は死ぬのではないか。
一番浮かべてはいけない懸念が、アザミの行為を中断させた。
「…………え?」
終わりにしようと思う気持ちと、でも本当に終わっていいのかと悩んだ一瞬の隙に、アザミは知りもしない衝撃に襲われて、声を失う。
間違いでなければ、入っている。
たたせた陰茎が膜を貫通して、入っていた。
その中心部。『黄宝館(きほうかん)』の看板がひときわ異彩を放つ。
豪華絢爛の言葉にふさわしく、すべてが金で彩られているのだから無理もない。その黄金色の妓楼の最上階に、『花魁:おいらん』と呼ばれる美しい娘がいるのは有名なはなし。
名前をアザミといい、左手首の内側に菊の模様を刻んでいる以外は特段他の妓女と違いはない。それでも、その紋自体が特別なのだから、この状況もたぶん、おそらく、きっと、特別なのだろう。
「……………」
「……………」
何分そうしていたのか。
アザミは真横で眠る男を座って見下ろしながら、いっそこのまま死んでくれないかなと思っていた。
眠る男は、地位と権力の最高点にいる。
艶めく金色の髪、きめ細かい肌、端正な顔立ちをした美しい男。それなのに、脱がせた体は鍛えられ、顔に似合わず、想像よりもずっと、申し分ないモノを持っている。
眠っているから勃起すればもっとだろう。この顔に、このオスであれば、世の女性が写し絵を欲しがるのもうなずける。が、いまはその肌の表面、左肩からヘソにかけて、長く深い爪痕がにじんでいた。
「アザミ、ジン陛下を頼む」
深夜、突然訪れた顔馴染みは、負傷した男をアザミの布団に寝かせるなり、そのまま置き去りにしてどこかへ行ってしまった。あまりに一瞬の出来事過ぎて、アザミは呆然とその背中を見送るしかなく、苦しそうに呻く「ジン」とかいう男の面倒を見る羽目になっている。
「――……陛下」
上半身を傾け、眠る耳に囁くように名前を呼んでみる。何度か呼びかけてみたが、起きる気配はない。いや、本当はもう死んでいるのかもしれない。
呼吸が静かすぎる。
部屋に置かれたたったひとつの行燈では、顔の造形美はわかっても、様子まではわからない。
「陛下……ああ……さすが、生きておりんすな」
気休め程度にしかならない薬を塗って放置した体は流血し、アザミの寝具を染めている。本当は傷口を縫合するべきなのだろうが、この部屋はそういう類いの持ち込みを一切禁じられているのだから仕方がない。
なんとか布を傷口に押し当て、ジンの呼吸を確認して、アザミはやっと肩の力を抜いたところだった。
「コウラ様もコウラ様よ。頼むっていわれたって、応急処置なんて、したこともないのに」
多方面に苛立ちが増す。
特に、この状況を放置して去っていった顔馴染みの男。今ごろどこで何をしているのか。窓の向こうに意識を向けてみても、戻ってくる気配はない。
「……この私の寝所に男を運ぶなんて……意味がわかっているのかしら」
男は気まぐれで信用ならないと、アザミはふんっと鼻を鳴らす。
「それでなくても、この男のせいで、私は」
そこでまた、アザミはジンに視線を落とす。
彼がひん死の状態でなければ、永遠に会うことはなかっただろう。ここに運ばれたことは、ジン本人も不本意だったに違いない。
「二十年も放置した女の寝所で手当を受けるなど、夢にも思わないでしょうね」
そこで左手首に刻まれた菊の文様が目に入って、それが血で汚れているのに気づいたアザミの瞳からスッと光が消えうせる。
「陛下が死ねば、私は自由……」
自分をこの黄宝館のてっぺんに閉じ込め続ける元凶の男。目の前にいる、今なら殺せる。
「………………はぁ」
美しくも元凶の男がいっそ死んでくれれば、自分が自由になれるという気持ちと、人として、怪我人を放置できないという葛藤に、なぜ深夜から悩まされなければならないのか。
「コウラ様を待つより、やはり医者を呼ぶべきじゃないかしら」
ふんっと苛立ちのまま言葉が口を突いて出ていくのも仕方がない。去っていった男が残した薬を塗り、傷口に布をあてて、何度も生死を確認してしまう現状に泣きたくなってくる。
手も服も血だらけで、正直、怖くて怖くて今すぐにでも逃げ出したくてたまらなかった。
「……ぐ……ぅ…ッ」
「陛下…ッ…ジン陛下!?」
ピクリと動いた指先と一緒に、眠っていた男のまぶたが揺れる。アザミは複雑な思いのままジンの名前を繰り返し、顔を寄せ、瞬間、布ごと押さえた肌が呻いて、それからジンは盛大に吐血した。
「…………ッ」
キャーっという甲高い悲鳴はアザミのものだが、その尋常じゃない動揺ぶりに、さすがに異変を感じ取ったのだろう。ドタバタと廊下を走る音が聞こえて、アザミの寝所の前でそれが止まった。
「あねさん、あねさん、いかがされましたか?」
幼い少女の声。聞きなれたその声に、アザミの瞳に浮かんでいた涙は引っ込んだ。
自分の立場を思い出す。自分は花魁。そして、けが人はこの国の王。ここで騒動を起こすわけにはいかない。多くの男女が入り乱れる夜の街で、噂は格好の餌食となる。
状況が深刻であればあるほど、内密に処理しなければならない。
「なんでもありんせん。それよりニガナ、今宵の当番はどこに行きんした?」
「すぐ近くに邪獣(ジャジュウ)が出たそうで、コウラ様が直に出向いておられます。しばし席を空けるが、すぐに戻ると仰せでした」
コウラ。
この状態を生んだ顔馴染みの男の名前に、アザミの顔がわずかに歪む。
「四獣の王が出向かねばならんとはなにゆえ。他にも適任者がおるであろう?」
「さあ、わっちにもなんとも」
それはそうだとアザミは思う。自分が知らないもの、小さな付き人が知るはずもない。今夜の当番は、先ほどアザミにジンを託した人物と同一なのだから不在なのは合点がいく。
「ニガナ。ちと、すまぬがゴマ婆を呼んできてくれるか?」
「はい、あねさん」
小さな足音は来たとき同様、慌ただしい足音を残して去っていった。まもなく、この黄宝館を仕切る老齢の女がやってくるだろう。
自分の姿を見下ろしてみても、到底隠しようがないのだから、さっさと報告しておくに限るとアザミが息を吐いたとき、颯爽と寝所の入り口が開いて、それから閉じた。
「花魁、何用で?」
「ゴマ婆。何も聞かないで助けてちょうだい」
「人でも殺されましたか?」
行燈だけの室内に香る鉄の匂いで判断したのか。それとも窓辺から差し込む提灯と月光に照らされたアザミと、その隣に横たわる男の影に何かの想像が膨らんだのか。
百歳を超えるともいわれる老婆には、この状況は知った光景のひとつだったのかもしれない。
「人聞き悪いこと言わないで、殺してないわよ」
憤慨するアザミの横で、またひとつ呻く声があがる。ゴマ婆は、その小さな体を俊敏に動かして、アザミのもとへやってくるなり「ヒョエッ」とよくわからない悲鳴を上げた。
「と、ととととととと、とう、とう」
「統王のジン陛下よ」
「でかした、アザミ。ようやく統王様のお渡りじゃ」
ガシッと肩を掴んでくる握力は、およそ老婆とは思えない。アザミは興奮して鼻息が荒くなっているゴマ婆を落ち着かせるように息を吐くと、両手を顔の横にあげて「私は全身血まみれである」という現実をつきつけた。
「ゴマ婆。陛下の血が止まらないの。コウラ様は陛下をここに寝かせるなり行ってしまったし、どうしたらいい?」
「邪獣にやられたんじゃろ。邪獣は尊い方々を好む。食われかけたのか、傷口から陰禍(オンカ)の気配を感じるの。いくら神力の高い統王様とはいえ、このままでは死んでしまう」
「医者を呼ぶべきではないかしら?」
「それはならん。華族なんぞに弱みを握らせるものか。アザミ、お主がやるしかない」
「なにを?」
「このたわけ。何年花魁をやっとるんじゃ。交わりに決まっとろうが」
パシンっと低い位置から頭を叩かれて、アザミはジンの横に舞い戻る。医者を呼ぼうとごく当たり前の提案をしただけなのに、それなのにこれはいったいどういう仕打ちだろうか。
「ま、まままま交わり!?」
アザミの声は裏返り、信じられないものを見る目でゴマ婆を見つめた。
「なに言ってるの。彼、怪我人なのよ。傷の手当てが先でしょ?」
「花魁は統王様方を癒す力がある」
「いや、でも、だって」
「知らんとは言わせん」
ゴマ婆の発言に、アザミはぐっと口を閉ざす。言い負かされるのは、ゴマ婆が育ての親であり、先代の花魁に長く仕えていたことを知っているから。
たしかに、花魁は不思議な力を持つとされている。知らないとは言わない。ただ、出来ないと言いたい。
「無理よ、やりかたなんか」
「手練手管の姐さんから教わっただろうて」
「あっ、あんなこと出来ないわよ」
顔を真っ赤にして狼狽える姿は、はっきり言って人々が憧れる花魁とはほど遠い。姿を拝むだけで腰が砕けると、噂ばかりが一人歩きをしているのも悪いことだが、本人に耐性がないのだから無理もない。
「これは天命が与えられた千載一遇の機会じゃ、アザミ。その左手首に現統王様であらせられるジン陛下の封花印(フウカイン)が刻まれて早二十年。お渡りのないまま二十四を迎え、いつまで男を知らぬ花魁でいるつもりだ。既成事実を作れ」
「………そんな」
「人払いはしておく、簡単だ。たたせて、いれる。それでしまいだ」
ポンポンと肩を叩いてゴマ婆は来たとき同様、年齢を感じさせない俊敏な動きで部屋を出ていった。
ぽつんと暗い室内に残されたのは、傷に苦しむ王と処女の花魁だけ。
どうしてこうなったのか。
助けを求めたいのに、誰も助けてくれない。いつもそうだと、損な役割を背負わされる身の上に、アザミは沸き立つ悔しさを噛みしめながら立ち上がった。
「…………なんで、私が」
頭には先ほど部屋を出ていく際に、ゴマ婆が放った言葉が鳴り響いている。
「お主がやらねば、どのみち統王様は助からん。見殺しにして自由になる道を選ぶなら、それもまた天命だろう」
人殺しになるか、乙女を失うか。
「頼む」とジンを運んできたコウラは戻らず、アザミにしか助けられないとゴマ婆は去った。
「…………」
深い意味はない。築き上げた名誉と自尊心だけでアザミは着ていた服を脱ぎ始める。
スルスルと衣擦れの音の隙間にゼーゼーとした荒い呼吸の音が混じる。気にしたくないのに、時間がない。猶予はないのだと、無言の圧力が告げてくる。
「たたせて…っ……いれる」
全裸になったアザミは、横たわるジンにまたがり、そして視線を徐々に下げていった。
「…………無理、かも」
絶対に無理だと全身が訴えている。まだ男として主張してもいないのに、想像していたよりもずっと大きい。
「きゃっ」
試しに指先で触れてみたら、まるで芋虫のようにぐにゃりと動いて、それ単体で意思をもった生き物みたいに感じられるのだから恐ろしい。
悲鳴と一緒に心臓も飛び出たのか、自分の鼓動がすぐそこで聞こえている気がする。
「そ、そういえば、姐さんが」
もしものときのためにと言って、随分前に渡してくれた薬瓶を思い出す。とろりとした液体が入っていて、不能な男でも勃起させ、不感症な女でも濡れるという。
黄宝館で働く妓女は、優秀で技量がいい。様々な知識や工夫があってしかるべきだと、アザミは瓶の中身をジンのオスに垂らしていった。
「どれくらい塗ればいいのかしら」
適量がわからない。
わからないうちに瓶の中身はみるみる減って、気付けば一本あけてしまった。
「ひっ……なんか、ぬるっとする」
指先に残る感覚から再び触るのが怖くて、思いきって腰をおろしてみたが、股の間を陣取る質量に身震いするしかない。
「こ、これで……っ…あってるの、よね?」
アザミは誰にでもなく呟いて、ぬるぬると滑る肌の感触を確かめながら、腰を前後に揺すり始めた。すると、徐々に刺激を受けた雄が立ち上がり、入り口らしいところに引っ掛かり始める。
「んっ…ッ…い……いくわよ」
女は度胸だと、アザミは意を決して位置を定めると、腰を深く落としていく。
「…………くっ」
無理。その二文字はいつまでもちらついて離れない。
これ以上はダメな気がすると、今さら理性と恐怖がやってくる。
「……ぁ…」
瀕死の怪我人相手にまたがって、自分は何をやっているのかと顔が引きつるのがわかる。
処女のままでも、乙女を失っても、この男は死ぬのではないか。
一番浮かべてはいけない懸念が、アザミの行為を中断させた。
「…………え?」
終わりにしようと思う気持ちと、でも本当に終わっていいのかと悩んだ一瞬の隙に、アザミは知りもしない衝撃に襲われて、声を失う。
間違いでなければ、入っている。
たたせた陰茎が膜を貫通して、入っていた。
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