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第八夜 揺れ動く気持ち(上)

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最初に見たのは、白銀の閃光。
そして、闇夜に浮かぶ、大きな、大きな満月だった。


「あっ、起きた?」


どこかホッとした安堵の吐息。うっすらと目を開けた先に、なぜか陸の気配がある。それがはっきり陸だと断言できないのは、その可愛い顔の識別がつきにくいせい。


「あれからずっと眠ったままだったから、ちょっと心配してたんだぁ」


にこりと、くったくのない笑顔で陸は顔をのぞかせてくる。が、優羽は無表情でそれを眺めるだけで、何の反応も示さなかった。
別にふざけているわけでも、わざとそうしているわけでもない。
頭にモヤがかかったみたいに、すべてが、うまく思い出せない。


「もうすぐ夕方だよ。夜には父さんも帰ってくるだろうけど、優羽ってば、ほとんど一日中眠ってて……っ、優羽?」


陸の表情が、少しつらそうなものに変わる。そんな陸の変化に気付かないのだろう。優羽は口を開こうとすらせず、寝転んだまま天井を見つめていた。


「優羽?」


陸が気遣うように、名前を呼んでくる。
それでも優羽からの返事はない。
返事をする気にはなれなかった。
何があったのか、よく思い出せない。
見覚えのある天井が真上にあり、くりぬかれた岩肌に、窓のない壁と簡素な敷物、柔らかく、落ち着く匂いが満ちている。そうした肌にまとわりつく独特の気配は、ここがイヌガミたちの住処だと伝えてくる。永遠のように長い一日を過ごした、愛欲の施設だと教えてくれている。


「優羽が目を覚ましたって知ったら、みんな喜ぶよ。僕なんか泣きそうだし」


まだ、ここは夢の中に違いない。
そうでなければ、浮遊した感覚の説明がつかない。目を閉じれば、今すぐにでも意識を閉じてしまう感覚。ただ、不思議と眠くはない。
なぜか、寝てはいけない気がした。
理由はない。よくわからない。優羽は、ふらつく頭を押さえながら、ゆっくりと身体を起こす。


「ちょっと、何やってるのッ!?」


陸の焦燥の声に、優羽は支えられていた。
当の本人は抱き留められたにも関わらず、相変わらずボーッと虚無の表情で眠りかけている。


「優羽、ダメだよ。お願いだから、いかないで」


起きた反動のまま横倒しになった身体は、今にも泣き出しそうな陸のおかげで、地面に叩きつけられずに済んだことを知る。
身体にまったく力が入らない。
指先ひとつ、自由に動かせない。
けれど、体勢を立て直した陸に支えられた両肩は、優羽の全身に激痛を走らせた。


「……ヒッ」


優羽は、咄嗟に声の出ない痛みを飲み込む。
意識がぐらつく。吐き気もする。三半規管が狂いでもしたのか、世界が回っているような錯覚もある。
うまく力が入らない上に、自分の身体が誰か別の人のモノのようだった。
指一本どころか、まばたきさえままならない。


「な…にが……」


額を押さえながらうめいた優羽は、陸にゆっくり寝かしつけられながら問いかける。
それをどう思ったのか。「覚えてないの?」と、そっと布をかけてくれた陸が、真上で困ったように笑っていた。いや、笑っているというのは正しくない。
無理矢理笑みを浮かべているような、そんな気配がにじみ出ている。
残念ながら、はっきりと表情を確認できない。考えることを放棄してしまった脳が、何も感じない頭が、優羽の瞳をうつろにさせていた。


「いま、晶と竜を呼んでくるから、待ってて」


陸の姿が視界から消える。
そしてすぐに、二人の男を引き連れて帰ってきた。


「優羽、おはよう」


場違いなほど綺麗な笑顔でほほ笑んできた晶に、優羽は無表情のまま青ざめた顔を向ける。


「気分はどう?」

「いいわけないじゃん!!」

「陸には聞いてないよ」

「なんでそんなに落ち着いてられるのさ、優羽の様子でわかるでしょ。ちゃんと見れば、ちょっと、竜」


優羽の横に膝をついた晶を引き留めようとした陸は、竜の腕に引き止められる。


「ええから。落ちつけ」


竜のその一言で、陸は唇を噛んで押し黙る。なんとも言えない顔で握り締めた拳が、震えているような気がした。


「なんか食いたいもんあるか?」


竜の問いかけにも、優羽は何の反応も返さない。グッタリと、全身から魂が抜き出てしまったように、かぼそい息だけを吐いている。


「なんか食えるか?」


質問の言葉を変えた竜に、優羽は晶越しに陸を見つめていた視線をゆらす。そして、小さく否定の言葉を口にした。


「……何も…いらない……」


相手に、きちんと言葉が伝わったのかはわからない。それでも、目の前の三人がそろって息を飲んだのだから、意味は伝わったのだろうと思う。脱力したまま、優羽はそっと瞳をふせた。
何もいらない。何も感じない。
出来ることなら、このままずっと眠ってしまいたかった。


「今夜が峠だろうね」


すぐ近くで聞こえるはずの晶の言葉が、やけに遠く響いて聞こえる。言葉を飲み込んで視線をそらせた竜と陸の気配に、優羽はその言葉の意味を悟った。
死。
いつも見送る側だった自分が、ついに、見送られる立場にいる。病で失った両親、友達、親戚含め、懐かしい生まれ故郷を離れたのは、もうずっと前のような気がした。
ひとり取り残され、孤独に耐えきれずに村を棄てた。思い出のつまる場所から逃げるように飛びだしてきた。
家も、畑も、成長を見守ってくれた木も川も何もかも。目にうつる全ての風景が悲しくて、一人で過ごせなかった。
生きていけなかった。
たまらず飛び出して来たのは、あてもなく探し続けていたのは、自分を看取ってくれる誰かを求めていたのかもしれない。


「………」


やっと、見つけた。やっと、自分も苦しみから解放される。この身体の痛みも、もうすぐ消えるのだと思うと、不思議と怖くなかった。
自分のことをどう思っているのか定かではないにしろ、目の前に人がいる。見送ってくれる存在がいる。
一人でこの世を去らなくていいのだと、胸のどこかで嬉しく思っている自分がいた。


「ありが…と……ぅ……」


今、この場に一人じゃなくて本当によかった。カミ様に看取られるなんて、なんとも贅沢な最後だと、笑顔さえ浮かべられる。


「陸ッ!!」


竜の腕を振り払うようにして部屋を飛び出していった陸の背中を竜と晶の声が追いかける。それでも、あとに残るのは気配だけ。
わずかな匂いだけを残して、陸は部屋から飛び出していった。


「まったく」

「追いかけた方がええか?」

「陸のことだし、放っておいて問題ないよ」


二人は顔を見合わせるなり、眉を寄せて首を軽くふる。
一瞬、陸を追いかけるべきか迷っていたようだが、複雑な心境を顔面ににじませながら、晶の横に、竜も腰をおろすことに決めたらしい。


「……はぁ……」


竜が、頭をかきながら息を吐く。何か困ることでもあるのか。どうしようか迷っている。そんな雰囲気が、手に取るように伝わってきた。


「竜」


晶の声が冷たく響く。ピリピリとした殺気から察するに、どうやら竜の心情はよくない方向のものらしい。
結果、竜は、その視線をわざと無視した。


「優羽、生きたいか?」

「竜ッ!!」


音がたつほど勢いよく、晶が立ち上がる。優羽は竜の質問の内容よりも、怒って、声を荒げた晶の方に驚いた。
何をそんなに怒っているのかわからない。ただ、竜がこれからしようとしていることは、そう簡単に許されるモノではないのだと理解する。


「どうして、そんな質問をするの?」


「生きたい」の理由を見つけられない。口にして告げられれば良かったが、竜の質問に答える力さえ残っていないのか、優羽はわずかに顔をしかめただけだった。
その時だった。


「竜、やめとけ」


いつの間に部屋に入ってきていたのか、輝が晶を押しのけるようにして姿をみせた。


「許されることじゃねぇ」

「……ッ…せやけど」

「人間に入れ込むんじゃねぇよ」

「俺も輝の言葉に賛成だよ。竜。人間に恩を売ったところで、ロクなことにはならないよ。知っているとは思うけどね」


わざわざ言うまでもないと、晶は皮肉めいた口調でそう言ったが、竜はそれも無視して、顔をゆがませる。
その瞬間、今度は彼らの頭上を飛び越えて、優羽の脇に何かが落ちてきた。


「「「戒ッ!?」」」


驚きに声をあげる気力もない優羽のかわりに、晶と輝と竜が叫ぶ。


「ゴホッ…ッ…」


晶たちとは反対側で咳き込んだ持ち主を探して、優羽は音がするほどゆっくりと顔を向けた。


「ッ!?」


その姿に、言葉を失う。狼の姿のまま全身傷だらけで血をしたたらせ、瞳に獣の怒りをにじませながら、戒がうずくまっていた。


「そいつにやらせろ」

「「「涼ッ!?」」」


また、三人が同時にさけぶ。戒を見つめていた優羽も、向けたばかりの顔を戻して涼の姿を見つけた。
狼の姿のまま、涼は寝ころぶ優羽を挟んで、戒と対峙するように悠然と立ちはだかっている。当事者じゃなくてもわかるほど、その毛は怒りに満ちて逆立っていた。


「戒、二度は言わない」


涼はすぐ下の優羽には目もくれず、真っ直ぐに戒を見つめていた。その牙が赤く染まっているあたり、戒を痛めつけた原因がありありと伝わってくる。


「イヤですよ」


戒が反論した刹那、白銀の閃光が空に線を描く。
そのとき、なぜか身体が勝手に動いた。
あれだけ動かなかった身体が無意識に動き、両手を大きく広げながら半身を起こしていた。
そして、直後に感じた鈍い振動に、優羽は意識を停止させる。


「………っ…」


空気が止まっている。誰もが予想もしていなかったと、驚愕に目を見開いたまま立ち尽くしている。


「どうかしたの?」


ふらふらと戻ってきたばかりの陸の声だけが空気を動かして、泣いてでもいたのか、赤くなった銀色の瞳が見開かれていく。
疲れたようにゆっくりと部屋に入ってきた陸だったが、兄たちの異様な雰囲気を察したのだろう。かき分けるようにして優羽の傍へと近付くなり、陸は、目の前にうつる光景に立ち尽くした。


「な…に…ッ…これ……」


陸の顔から一瞬にして、血の気が失せる。現状が夢でないのなら、優羽は両手をひろげて、戒を背中にかばいながら、涼の爪を受け止めていた。
無防備なその身体は確実に死の前に立っているのに、優羽は笑顔さえ浮かべている。放心状態の涼はもとより、その場にいる全員が固まったように動けないでいた。


「なんで…っ…ねぇ、なんで、優羽がこんなことになってるの!?」


誰にも答えられるわけがない。
優羽自身ですらそうなのだから、いくらカミ様でも理解不能だろう。
勝手に身体が動いてしまったと言えば、それだけだが、放ってはおけない衝動にかられたのは確かだった。


「優羽、優羽…ッ…やだよ、優羽」


ひとり抱き締めてくる陸の叫びに、答えられる言葉を優羽は持っていない。
涼が戒を殺すのを見過ごせなかったのか、戒が涼に殺されるのを見過ごせなかったのか。そのどちらにもなのか。
自分のことなのに、よくわからない。
それでも、自分の死が早まったことだけは、理解していた。


「ゴホッ…ごほ…っ…、ぁ」

「優羽ッ!?」


前に控える晶、竜、輝の三人と、後ろに感じる一匹の気配が同時に動き、優羽を受け止めていた陸に至っては、慌てて身体を離して心配そうに見つめてくる。まさに虫の息ともとれる優羽の顔が、陸の腕の中で口から血を流していた。


「涼のバカッ…なんで…ッ…優羽だけは……優羽だけは」


それ以上言葉が続かないのか、優羽を抱き寄せながら陸は涼に振り返る。一匹、微動だにしなかった涼が、ようやく事に気付いたのだろう。わずかに後ずさる素振りをみせた。


「早くなんとかしてよッ!!」


早鐘を打つ陸の鼓動だけが聞こえていた。混乱したように呆(ホウ)けた涼を陸の罵声が責め立てているが、実際はよく聞こえない。
優羽には無音の世界。
景色さえ、無色だった。


「え、涼!?」


陸の驚いた声が、すぐ真上で弾む。刹那、優羽の身体は、淡い光に包まれていた。


「……あ…たか……ぃ……」


心の奥まで温かさが染みわたってくる。
何も感じない身体に神経が巡っていくように、音も、匂いも、景色までもが色づいていく。浮遊感よりも多幸感。まるで、暖かな腕に抱き締められ、心地よい夢に誘われているようだった。


「…ッ……」


微弱な痛みに眉をしかめたものの、今まで感じていたすべての疲労が抜けていく。そうして光の渦が消える頃には、優羽は完全な健康体で陸の腕の中にいた。
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