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第五夜 逃げない娘(上)
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一日の間に、寝たり起きたりを繰り返したせいで、優羽の時間感覚は見事なまでに狂っていた。現に、窓のない洞窟の居城内では、時間だけでなく、昼か夜かもわからない。
薄暗い室内。この場所に招かれて、どれほどが過ぎたのだろう。きっとそう、長くないだろう。一日か二日。それなのに優羽はもう、何日もここで過ごしているような気がしていた。
広間に行けば、太陽の光がみせる影の長さで、もう少し正確な時間がわかるかもしれないが、その勇気はわいてこない。身体もひどくダルかったし、何もかもがどうでもいいと感じていた。つまるところ、優羽は誰もいない部屋でひとり、天井を眺め続けていた。
「……んっ…」
寝転んだまま顔を動かしてみる。
身体の上にかぶせられている一枚の薄い布のほかに、身に着けられるものは近くに見当たらない。涼に連れてこられた時の服もなければ、必要以上の布もない。もちろん、新しく服が用意されているはずもなかった。
エサ
それ以上でも以下でもない存在だと宣告されたばかり。けれど、どこかで期待していたことも否定しない。
彼らが得体のしれない異形のモノでも、重ね合わせた肌の温もりに何かを感じてくれていれば嬉しいと、儚い夢を心のどこかで感じていた。少しは何かしらの情を感じ、見せかけだけでも、ここでの生活に希望を持ちたかった。
それなのに、現実はどこまでも残酷なんだと、知らずに優羽の口からため息がこぼれおちた。
「はぁ」
途方に暮れる。
これからどうしようかと、まったく先の見えない未来に頭を悩ませるほかない。
「おいしくたって…っ…そんな方法わからないし」
エサとして美味しくあるべきだと言われた。
人間としても、女としても、食べられる以上「マズイ」とは言われたくない。当然だが、エサとして生きてきたことがないだけに、どうすれば「おいしい」と言ってもらえるのか見当もつかなかった。
きっと、彼らがいらないと感じれば、容赦なく捨てられるのだろうし、自分がいなくなったところで、彼らは何も感じないのだろうとも思う。
「………」
それが少し、寂しかった。
あれだけ身体に匂いを刻み付けておきながら、たくさんいるエサの一人として思い出されもしないのかと思うと、なぜか胸が苦しくなる。
忘れられないのは多分、自分の方。
「せめて、味の好みくらい言ってもらえたらなぁ」
そこで優羽は自分の吐いた言葉にハッと気づく。
どうして、おいしく食べられようとしているのだろう。
ふいに、頭の中で冷静な自分が話しかけてきた。
こんな危険な場所から今すぐにでも逃げ出して、もっと自由な人生を楽しむべきだと訴えてくる。あの村に何かしらの思い入れがあるわけでも、未練があるわけでもない。助ける義理もなければ、身代わりになる必要だってどこにもないじゃないか、と。
未来ある人間として、狼のエサで一生を終えるなんて馬鹿げている。
「うんうん」
そうして一人うなずく優羽のもとに、また別の自分が話しかけてきた。
本当に逃げたいと思っているのか。そもそも、逃げ切れると思っているのか。逃げ出してしまえばそれで終わり。何かが始まる前に、何もかもが終わってしまう。
本当は、傍にいたいと望んでいるのだろう、と。
「……ッ…」
逃げだして、後悔しないのかと聞かれれば、胸の中にわずかな戸惑いが生じる。たしかに悪い人たちばかりじゃない。傍にいるのを心地よく感じる瞬間だってある。
そして、約束をしている。
「もう少し、彼らの傍にいてもいいんじゃない?」頭の中から聞こえてくる声が、見ないようにしていた本心を刺激してくる。わずかに心に巣食っている期待。かすかな希望は打ち砕かれたはずなのに、まだ性懲りもなく、胸の中に残っているみたいだった。
「うーん」
優羽は、また頭を悩ませる。
もうこうして幾度となく自問自答を繰り返し、頭の中で葛藤を繰り広げていた。
今なら、まだ引き返せる。今ならまだ、彼らを知らなかった頃の自分に戻れるはずに違いない。逃げられる保証はどこにもないが、もしかしたら逃げられるかもしれない。隙を見つけるまでエサのふりを続ければ。しかし、そうしているうちに彼らの輪の中から抜け出せなくなる。
あの快楽は、忘れられない。
「やっぱり、無理よね」
逃げだしてどこへ行こうというのか。
身寄りもない貧相な女を受け入れてくれる場所なんかどこにもなかった。今の状況になった過程を考えてみればわかること。結局、どこに身を置いても訪れる末路は、同じなのかもしれない。
「それなら、エサとして食べられるほうがまし?」
自分でもよくわからない。一思いに散らせてくれるならともかく、ここの狼たちはそろって願いをかなえてくれるつもりはないらしい。
「……う~ん……」
優羽はついに腕組みをしながらうなっていた。寝ていた場所で半身を起こし、薄い布を胸から下に置いたまま、腕を組んで頭を悩ませる。誰も来ないことをいいことに、目覚めてから何十分もこうして時間を費やしていた。
いや、正確な時間などわからないので、勘でしかないが、無駄に頭を働かせているせいで時間がたっているのか、たっていないのかさえわからないのだから仕方がない。
「………あ」
こんな時なのに、お腹が鳴った。
「そういえば、何も食べてないんだっけ」
厳密にいえば、もう何日もまともな食事をとった記憶がない。水で誤魔化すとか、木の実でしのぐとか、故郷の保存食も持ち出せるものは残っておらず、着の身着のまま優羽はこの地へ流れてきた。ようやく見つけた村で男たちに追いかけられ、森へ逃げ込み、さまよって、涼に連れられて、今に至る。
なんとも、数奇な人生だと思った。
でも、生きている。お腹の音が鳴るというのは、そういうことで、生きていくための欲求は、生きている限り無限に続いていく。
彼らと同じように。よく知っていた。
飢えがどういうものかを。
「………はぁ」
病に苦しむ村でも満足に食べられなかった。作物は育たない、働き手も死んでいく。たくわえるだけの食料もなく、看病に明け暮れて、まともに寝た記憶さえ少ない。
希望は断たれ、諦めを覚え、憔悴して生きる力を失っていく。優しさや善意は、余裕のある人間には当然のものでも、極限に追い込まれたものにとっては本性がどちらかということでしかない、ということさえ教えてくれた。
「たぶん、久しぶりに眠ったからだ……」
何かが満たされれば、欠けたものが芽吹いてくる。
睡眠が得られれば、空腹を感じる。
お腹がすいたら動植物を食べる。生きているモノを殺して自分の糧にし、そうして生きながらえる。彼らの生き方と何も変わらない。ただ、自分が食う立場か、食われる立場か、という違いがあるだけで、主観的、客観的、の違いしか存在しない。
命とはそうして巡っているもの。息をするように、摂取するのは自然のこと。
「とは、いってもなぁ」
がっくりと肩の力をぬいて、優羽はもう一度寝転がった。
飢えを紛らわす方法は、たった一つしか知らない。
「……寝よっと」
誰に告げるでもなく、優羽はそうして目を閉じた。
「………」
お腹が勝手になる。気のせいだと言い聞かせても、無意味なことはわかっていた。
お腹がすきすぎて眠れない。
その前に、寝すぎて眠れなかった。
「……ッ…」
頭の中に浮かんだ美麗な男たちを片手で追い払う。
眠る原因となった行為が鮮明に蘇り、イヤでも思い出す身体に羞恥がつのった。
「私は…エサ…っ…エサ」
呪文をとなえ、優羽は自分に言い聞かせる。そうしないと、どうにかなってしまいそうだった。疲れているはずなのに、妙に頭が冴え渡って落ち着かない。
せめて水を飲んで気持ちを紛らわせようと、再び身体を起こして優羽は室内を見渡す。
やはり、どこにも何もなかった。
あるのは自分と、自分が座っている布団と呼べるのかどうかさえわからない敷物一式だけ。ますます途方に暮れかけた、その時だった。
「目ぇ覚めてるやん」
晶とは違う男が、ことわりもなく部屋に入ってくる。
一度しか見ない顔だったが、その言葉遣いと荒々しい雰囲気が彼が誰かを伝えていた。
「……竜、さん」
ギュッと、布をつかむ手に力がこもった。
「お。なんや、ちゃんと名前覚えとったんやな」
手に何かを持っているが、近づいてくる竜の笑顔の方が気になって優羽は布を握りしめたままジッと警戒していた。記憶がたしかなら、輝とかいう狼に首をしめられたときに、笑いながら横で暴言を吐いていた人物だ。
何をされるかわからない。
どんどん近づいてくる竜から距離をとることも出来ずに、優羽は薄い敷物の上で震える身体を必死になだめ続けていた。何かの拍子に飛び出してしまいそうなほど警戒心が増していく。もしもそうなれば、今度こそ死は目前だということも、痛いほど早まる心臓が教えてくれている。
「そない警戒せんでもええんちゃう?」
困ったような、当然といったような、なんとも言えない表情を竜は向けてくる。彼が何を企んでいるのかはわからないが、狼がここに来る理由はたった一つしか思い浮かばない。
「……食事の時間ですか?」
「ようわかったな。せやで」
彼らが全裸なことは、もうどうしようもない。
いちいち気にしていたらこちら側が参ってしまうと、優羽は一度だけ深呼吸してから竜を見上げた。座る目の高さからして、立ったままの竜のモノはイヤでも目に入ってくるが、優羽はそれに気付かないふりをする。
「っ、わかりました」
承諾した声は、バクバクとうるさい心臓に比べて、静かなものだった。
優羽は掴んでいた布をバッと取り払って、竜に身体をさらす。
「どうぞ」
竜の方に身体を向けて、優羽はきっちり正座をした。背筋をぴんと伸ばして軽く目を閉じる。
どこからでもかかってこい。
内心は、虚像の戦士が鋭い刀を振り回していた。が、いっこうに何も起こらない。
押し倒されるとか、最悪なら八つ裂きにされるとか、わが身に降りかかる災厄を予想していたのに、優羽にかけられたのは爆笑という名の竜の笑い声だった。
「……え?」
目の前でしゃがみながら大笑いしている姿に、優羽の方があっけにとられる。
「あの……」
ひいひいと、苦しそうにお腹を抱えている姿は最初に見た時の印象とはだいぶ違っていた。
逆に心配になってくるほど、竜は目に涙をためて笑っている。自分の行為が何かおかしかったのだろうかと、思い返してみても、今までの流れからして特別おかしい部分は何も見当たらなかった。
「………」
笑われるなんて、思いもしていなかっただけに、優羽は竜を見つめることしか出来ない。
そこで気がついた。竜と自分の間に、葉っぱにくるまれた何かがあることに。途端に優羽は布を引き寄せて、のぼせそうなほど熱くなった全身を勢いよく隠す。
穴があったら入りたい。
竜は、"優羽の食事"を持ってきてくれていた。
「まさか、そうくるとは、おもてへんかったわ」
ひとしきり笑った後で、竜はまだ顔をにやつかせながら優羽の前に食事らしきソレを差し出してくる。
「だ、だって」
真っ赤な顔のまま、優羽は口ごもった。
仮にもエサである自分に食事を与えてもらえるとは思っていなかっただけに、どう反応すればいいのかわからない。エサとは、食べて糧になるための存在ではないのだろうか。
「食事は俺が担当やねん。人間かて、何か食わな生きていかれへんやろ?」
さも当然のように言われて、ますます虚をつかれる。
「飢え死にされると俺らが困るしやな、第一、抱きがいのない女に興味はわかへん」
よく考えればたしかにそうなのだが、かといって素直に受け入れることに戸惑いは隠せない。エサとしてエサを食べる。「抱きがいのある女」とは貧相な体ではなく、それなりにふくよかな女性を意味するのだろう。やはり、淫らな行為が食事なわけではないのだと、わずかな確信が優羽の中に生まれた。
彼らは丸々太らせてから自分を味わうつもりなのだ。それまでの間、暇潰しとして自分の体をもてあそんでいるのだ。
どうりでおかしいと思った。
そちらの方が、まだ納得がいく。
「太らせてから食べるんやー、とか思てんのやろ?」
本心を突かれたことに優羽は驚いた。
竜は読心術でも持っているのか、なぜ、考えていたことがわかったのかは優羽にはわからない。それに「やっぱりな」と前置きしたあとで、竜は優羽の想像を否定した。
「大抵のやつは、そう思て何も口にせんようになるんやわ。せやけど、勘違いしたらアカン。俺らが喰うんは、性や。八つ裂きにしたりせーへんから、はよ食べ」
そうは言われても初対面の印象が悪すぎる。
「毒も入ってへんから」
警戒心を竜から食べ物に移した優羽の視線に、苦笑の息が吹きかけられる。裸で向き合う者同士、別に嘘をついていると疑っているわけではないが、態度の違いには若干の疑心を沸かせずにはいられない。
「食べさせたろか?」
「え?」
「無理矢理口に突っ込まれたなかったら、はよ食べ」
銀色の双眼が拒否を許さない。
理由はただひとつ、より美味しく味わえる身体になるために。
でも差し出されたもので、それが実現できるとは到底思えなかった。
「あの」
「なんや、遠慮はいらへん」
「そうではなくて」
言ってしまってもいいのだろうかと、優羽は迷う。ここは気がつかないふりをして、ありがたく頂戴しておくべきなのだろうとも思うが、これから先、ずっと"これ"を食事だと与え続けられても困る。
彼らが所望する「抱きがいのある女」を実現するのもきっと不可能だろう。
不安定に視線を彷徨わせる優羽に、竜はいぶかしげに眉をしかめた。
「言いたいことあるんやったら、ちゃんと言わなアカンで?」
「そう、ですか?」
「せや、我慢はよくない」
だったら、その言葉に素直に甘えることにした。
優羽は、目の前であぐらをかく竜の眼前に葉っぱの器ごと持ち上げて見せる。
「調理をしてもらえないと、食べられません」
生のキノコ、泥のついた根菜、卵らしきものはあるが、これもたぶん生に違いなかった。
食材をそのまま持ってこられても、このままでは食べられない。いや、食べられないことはないが、どうせなら食事くらい夢を持ちたい。
ここにいる間は、きっと食事が唯一の楽しみになるだろうことはあきらかだった。それが毎回こうでは、とてもじゃないけどやっていけない。
エサじゃなくても、早死にする。
「せめて洗うとか、切るとか、火を通すとか」
無言のまま見つめ返してくる竜に、優羽はやはり無理なお願いだっただろうかと落ち込み始めていた。持ち上げていた葉っぱをおろし、床に置いた食事をジッと見つめる。
そこで、それまで無反応だった竜が口を開いた。
「調理ってなに?」
「えっ?」
驚いたなんてものじゃない。
聞かれたことが理解できずに、優羽は思わず顔をあげた。
竜の目が真剣というか、純粋なことから、ふざけているのではないとわかる。
「あの……お料理のこと……」
「料理?」
「お味噌汁とか、煮物とか、焼き魚とか……のことです」
聞いたことのない名前を聞くように首をかしげる竜の姿に、優羽は顔からサーっと血の気が引いていくのを感じていた。相手は狼なのだから料理をする必要はないのだろうが、晶がああだから、てっきり竜もそうだと思っていた。仕事に対して、真面目、不真面目はけっこう個人差があるらしい。
「今まで、どうしていたんですか?」
たぶん、ここにきた"エサ"は、自分だけじゃないはずだ。それは、彼らが"仕事"として役割分担されていることでも、容易に想像がつく。案の定、竜はその質問には普通に答えてくれた。
「食事与える前に、おらんようになる」
「………」
「その前んときは、戒が熱心に面倒見とったから、俺は何もせんでよかったし……そうか……間違ったやり方なん、気がつかへんかったわ。すまんかったな」
「……えっ?」
「ああ、せや。たしか、果物やったら生で食えるんやったか?」
「えっ…はい…まぁ」
「まっとき。今、持ってきたる」
そういって出ていった竜の背中を優羽は、ただ茫然と見つめる。聞き間違いじゃなければ、竜は否を認めて謝ってくれた。
それだけじゃない。
不本意にも、「これ以外はない」と無理矢理食べさせられることを覚悟していたのに、口に出来るものに変えてくれるという。夢でも見てるんじゃないだろうかと、思わず顔がひきつった。
仕事と名目される義務的な役割の中に優しさを感じる。彼らは自分をエサとしてしか見ていない獣のはずなのに、温もりを感じるのはおかしな話なのだろうか。不思議な感覚に、ますます気持ちは複雑になってしまった。
気を許してもいいのだろうか。
是(ゼ)か、非かは、まだ決められそうにない。
「……う、ん」
彼らの罠かも知れないうちは気丈に振る舞おうと心に決めた。油断していると、酷い目に合うかも知れない。逃走心を抱かせないために、警戒心を解かせることが目的なのであれば、まんまと騙されてしまうところだった。
竜が危険人物だということを忘れてはいない。
「でも」「だけど」否定の声が頭の中にまた渦を巻いていく。
本当は、いい人なのかもしれない。その感覚が心に種を植えた以上、芽吹くのは時間の問題なのかもしれないが、今はまだその種を成長させるわけにはいかない。
優羽はまだ、ここで、エサのまま人生を終えることを決めていない。
「待たせてしもたな」
それからすぐに、竜は盛りに盛った果物を持ってきてくれた。それも、ちゃんと綺麗に洗ってくれている。思いやりがどうとか感じる間もなく、優羽はあいた口がふさがらない現実にただ、ただ混乱していた。
こんなに食べると思われているのか、食べさせようとしているのかはわからないが。竜には、限度がないらしい。
「今は、作物がよーさんとれる時期やろ?」
全裸の男は、屈託のない笑顔で話してくれる。
人型ではなく狼の姿であれば、間違いなく尻尾が左右に動いているだろう。
「優羽が何を食べるんかわからへんから、手当たりしだいに盛ってみたんやけど」
「あ…っ、ありがとうございます」
「料理って言うん、戒に聞いて作ってみるから、それまでこれで我慢してな」
「えっ!?」
優羽は、たったいま手に乗せられたばかりのリンゴを落としそうになる。
ここまで優しいと何か裏があるんじゃないかと疑心しか湧いてこないが、くつろぐように目の前に座る男からは邪心も何も感じ取ることは出来なかった。
相手が狼であることを忘れそうになる。
勘違いしてしまいそうになる。
より美味しくなるために。そのためだけに、優しくしてくれているのだと言い聞かせながら優羽はリンゴを一口かじった。
「あれ、おいしい」
「やろ?」
「え、知ってるんですか?」
「当たり前やん」
肉食の彼が、どうしてリンゴの味を知っているのだろうか。
これはリンゴの味に似た人外の生物たちの食べ物で、別の正式名称を持っている果物なのかもしれない。見た目は赤く色づいたリンゴで、味もリンゴだが。肉食獣にも「おいしい」といわせる果物に、リンゴが該当するかは知らない。
口の中に広がるリンゴの味を確認していた優羽の気分は、ますます複雑になっていく。
それがそのまま顔に出ていたのだろう。困ったような呆れたような、何とも言えない表情で竜が笑う。
「俺らかて味覚はある。この姿ん時は人間と大差あらへん。人間と同じで、雑食になるしな。せやけど、必要以上にこの状態は疲れるんやわ」
「狼の姿の方が楽ってことですか?」
「そらそうや。そっちがホンマの姿なんやから」
「だったら、どうして今…ッ……」
今度こそ、確実に優羽の手からリンゴは転がり落ちていった。
どうして人間の姿かなど聞かなくてもわかるはずなのに、こうして唇を奪われるまで、そのことを忘れてしまっていた。
彼らが本来の姿から人間の姿になっている理由は、ひとつしかない。
「~~っ…んぁ」
リンゴの甘さが残る口内を生温かな舌に舐めまわされる。少し前のめりになった竜にアゴを持ち上げられて、濃厚な口づけをかわしていると、今までとは少し違った気持ちが湧き出てくるのを感じた。
うまく表現できないが、拒絶する意思がまったくおこらない。
この人になら食べられてもいいかなという、偽善でも無理矢理でもない感情が全身を襲っていた。
「…っん…あ……っ~……はぁ…っ……」
困る。
こんな感情が出てきたら困るのに、戸惑いは口づけに吸いとられていく。
抑えられそうにない心情に溺れてしまいそうだった。
「ぁ…あ…ッ…ん…はぁ…」
自分から竜の舌に答えるように、舌をからませていく。
目を閉じ、心地よいしびれに、知らずと竜の肩に手を伸ばして引き寄せていた。角度を変え、吐息さえ味わう舌の弾力が心地いい。時折触れる柔らかな髪、長いまつげ、酸素を共有しながら息苦しさを覚えていく不思議な感覚。
「んっ…ぁ…ッン」
ゆっくりと、大切なものでも扱うように竜は押し倒してくる。頭をぶつけないように手を添え、一気に倒れないように背中にも腕をまわしてくれた。
それが妙に嬉しくて、くすぐったい。
竜に組み敷かれながら交わす口づけに、初めて意識が性に向く。心の抵抗を捨て、拒絶することなく、与えられる全てに、身をゆだねようとしていた。
「……ん……」
口づけが、こんなに気持ちイイものだとは知らなかった。お互いの舌を絡ませあい、吐息を飲み込みながら、柔らかな髪の毛に指をすべらせる。
大切にされていると感じることの出来る瞬間が、今ここにあった。
触れあう肌の温かさに、欲情が刺激される。ゆっくりと早くなっていく心音の中で交わす、竜との口付けが心地いい。
「りゅ…っ…ぁん……はぁ」
酸素不足で、うまく機能しない頭のまま、優羽は唇をはなした竜を見上げた。
「優羽は、なんで逃げへんかったん?」
銀色に光る竜の瞳が、ジッと見下ろしてくる。
質問の意味がわからずに、優羽はゆるりと首をかしげてみせた。
「わざと逃げやすい環境を作ったってるのもあるけどな。一切逃げるそぶりを見せんかったんは、優羽が初めてや。逃げる理由は人それぞれやろーけど。優羽は、自分の意志でここにおる。少し意外やった。まあ、なんていうか。ただ、臆病なんかもしれへんけどな」
竜は、そこで柔らかな笑みをむけてくる。
薄暗い室内。この場所に招かれて、どれほどが過ぎたのだろう。きっとそう、長くないだろう。一日か二日。それなのに優羽はもう、何日もここで過ごしているような気がしていた。
広間に行けば、太陽の光がみせる影の長さで、もう少し正確な時間がわかるかもしれないが、その勇気はわいてこない。身体もひどくダルかったし、何もかもがどうでもいいと感じていた。つまるところ、優羽は誰もいない部屋でひとり、天井を眺め続けていた。
「……んっ…」
寝転んだまま顔を動かしてみる。
身体の上にかぶせられている一枚の薄い布のほかに、身に着けられるものは近くに見当たらない。涼に連れてこられた時の服もなければ、必要以上の布もない。もちろん、新しく服が用意されているはずもなかった。
エサ
それ以上でも以下でもない存在だと宣告されたばかり。けれど、どこかで期待していたことも否定しない。
彼らが得体のしれない異形のモノでも、重ね合わせた肌の温もりに何かを感じてくれていれば嬉しいと、儚い夢を心のどこかで感じていた。少しは何かしらの情を感じ、見せかけだけでも、ここでの生活に希望を持ちたかった。
それなのに、現実はどこまでも残酷なんだと、知らずに優羽の口からため息がこぼれおちた。
「はぁ」
途方に暮れる。
これからどうしようかと、まったく先の見えない未来に頭を悩ませるほかない。
「おいしくたって…っ…そんな方法わからないし」
エサとして美味しくあるべきだと言われた。
人間としても、女としても、食べられる以上「マズイ」とは言われたくない。当然だが、エサとして生きてきたことがないだけに、どうすれば「おいしい」と言ってもらえるのか見当もつかなかった。
きっと、彼らがいらないと感じれば、容赦なく捨てられるのだろうし、自分がいなくなったところで、彼らは何も感じないのだろうとも思う。
「………」
それが少し、寂しかった。
あれだけ身体に匂いを刻み付けておきながら、たくさんいるエサの一人として思い出されもしないのかと思うと、なぜか胸が苦しくなる。
忘れられないのは多分、自分の方。
「せめて、味の好みくらい言ってもらえたらなぁ」
そこで優羽は自分の吐いた言葉にハッと気づく。
どうして、おいしく食べられようとしているのだろう。
ふいに、頭の中で冷静な自分が話しかけてきた。
こんな危険な場所から今すぐにでも逃げ出して、もっと自由な人生を楽しむべきだと訴えてくる。あの村に何かしらの思い入れがあるわけでも、未練があるわけでもない。助ける義理もなければ、身代わりになる必要だってどこにもないじゃないか、と。
未来ある人間として、狼のエサで一生を終えるなんて馬鹿げている。
「うんうん」
そうして一人うなずく優羽のもとに、また別の自分が話しかけてきた。
本当に逃げたいと思っているのか。そもそも、逃げ切れると思っているのか。逃げ出してしまえばそれで終わり。何かが始まる前に、何もかもが終わってしまう。
本当は、傍にいたいと望んでいるのだろう、と。
「……ッ…」
逃げだして、後悔しないのかと聞かれれば、胸の中にわずかな戸惑いが生じる。たしかに悪い人たちばかりじゃない。傍にいるのを心地よく感じる瞬間だってある。
そして、約束をしている。
「もう少し、彼らの傍にいてもいいんじゃない?」頭の中から聞こえてくる声が、見ないようにしていた本心を刺激してくる。わずかに心に巣食っている期待。かすかな希望は打ち砕かれたはずなのに、まだ性懲りもなく、胸の中に残っているみたいだった。
「うーん」
優羽は、また頭を悩ませる。
もうこうして幾度となく自問自答を繰り返し、頭の中で葛藤を繰り広げていた。
今なら、まだ引き返せる。今ならまだ、彼らを知らなかった頃の自分に戻れるはずに違いない。逃げられる保証はどこにもないが、もしかしたら逃げられるかもしれない。隙を見つけるまでエサのふりを続ければ。しかし、そうしているうちに彼らの輪の中から抜け出せなくなる。
あの快楽は、忘れられない。
「やっぱり、無理よね」
逃げだしてどこへ行こうというのか。
身寄りもない貧相な女を受け入れてくれる場所なんかどこにもなかった。今の状況になった過程を考えてみればわかること。結局、どこに身を置いても訪れる末路は、同じなのかもしれない。
「それなら、エサとして食べられるほうがまし?」
自分でもよくわからない。一思いに散らせてくれるならともかく、ここの狼たちはそろって願いをかなえてくれるつもりはないらしい。
「……う~ん……」
優羽はついに腕組みをしながらうなっていた。寝ていた場所で半身を起こし、薄い布を胸から下に置いたまま、腕を組んで頭を悩ませる。誰も来ないことをいいことに、目覚めてから何十分もこうして時間を費やしていた。
いや、正確な時間などわからないので、勘でしかないが、無駄に頭を働かせているせいで時間がたっているのか、たっていないのかさえわからないのだから仕方がない。
「………あ」
こんな時なのに、お腹が鳴った。
「そういえば、何も食べてないんだっけ」
厳密にいえば、もう何日もまともな食事をとった記憶がない。水で誤魔化すとか、木の実でしのぐとか、故郷の保存食も持ち出せるものは残っておらず、着の身着のまま優羽はこの地へ流れてきた。ようやく見つけた村で男たちに追いかけられ、森へ逃げ込み、さまよって、涼に連れられて、今に至る。
なんとも、数奇な人生だと思った。
でも、生きている。お腹の音が鳴るというのは、そういうことで、生きていくための欲求は、生きている限り無限に続いていく。
彼らと同じように。よく知っていた。
飢えがどういうものかを。
「………はぁ」
病に苦しむ村でも満足に食べられなかった。作物は育たない、働き手も死んでいく。たくわえるだけの食料もなく、看病に明け暮れて、まともに寝た記憶さえ少ない。
希望は断たれ、諦めを覚え、憔悴して生きる力を失っていく。優しさや善意は、余裕のある人間には当然のものでも、極限に追い込まれたものにとっては本性がどちらかということでしかない、ということさえ教えてくれた。
「たぶん、久しぶりに眠ったからだ……」
何かが満たされれば、欠けたものが芽吹いてくる。
睡眠が得られれば、空腹を感じる。
お腹がすいたら動植物を食べる。生きているモノを殺して自分の糧にし、そうして生きながらえる。彼らの生き方と何も変わらない。ただ、自分が食う立場か、食われる立場か、という違いがあるだけで、主観的、客観的、の違いしか存在しない。
命とはそうして巡っているもの。息をするように、摂取するのは自然のこと。
「とは、いってもなぁ」
がっくりと肩の力をぬいて、優羽はもう一度寝転がった。
飢えを紛らわす方法は、たった一つしか知らない。
「……寝よっと」
誰に告げるでもなく、優羽はそうして目を閉じた。
「………」
お腹が勝手になる。気のせいだと言い聞かせても、無意味なことはわかっていた。
お腹がすきすぎて眠れない。
その前に、寝すぎて眠れなかった。
「……ッ…」
頭の中に浮かんだ美麗な男たちを片手で追い払う。
眠る原因となった行為が鮮明に蘇り、イヤでも思い出す身体に羞恥がつのった。
「私は…エサ…っ…エサ」
呪文をとなえ、優羽は自分に言い聞かせる。そうしないと、どうにかなってしまいそうだった。疲れているはずなのに、妙に頭が冴え渡って落ち着かない。
せめて水を飲んで気持ちを紛らわせようと、再び身体を起こして優羽は室内を見渡す。
やはり、どこにも何もなかった。
あるのは自分と、自分が座っている布団と呼べるのかどうかさえわからない敷物一式だけ。ますます途方に暮れかけた、その時だった。
「目ぇ覚めてるやん」
晶とは違う男が、ことわりもなく部屋に入ってくる。
一度しか見ない顔だったが、その言葉遣いと荒々しい雰囲気が彼が誰かを伝えていた。
「……竜、さん」
ギュッと、布をつかむ手に力がこもった。
「お。なんや、ちゃんと名前覚えとったんやな」
手に何かを持っているが、近づいてくる竜の笑顔の方が気になって優羽は布を握りしめたままジッと警戒していた。記憶がたしかなら、輝とかいう狼に首をしめられたときに、笑いながら横で暴言を吐いていた人物だ。
何をされるかわからない。
どんどん近づいてくる竜から距離をとることも出来ずに、優羽は薄い敷物の上で震える身体を必死になだめ続けていた。何かの拍子に飛び出してしまいそうなほど警戒心が増していく。もしもそうなれば、今度こそ死は目前だということも、痛いほど早まる心臓が教えてくれている。
「そない警戒せんでもええんちゃう?」
困ったような、当然といったような、なんとも言えない表情を竜は向けてくる。彼が何を企んでいるのかはわからないが、狼がここに来る理由はたった一つしか思い浮かばない。
「……食事の時間ですか?」
「ようわかったな。せやで」
彼らが全裸なことは、もうどうしようもない。
いちいち気にしていたらこちら側が参ってしまうと、優羽は一度だけ深呼吸してから竜を見上げた。座る目の高さからして、立ったままの竜のモノはイヤでも目に入ってくるが、優羽はそれに気付かないふりをする。
「っ、わかりました」
承諾した声は、バクバクとうるさい心臓に比べて、静かなものだった。
優羽は掴んでいた布をバッと取り払って、竜に身体をさらす。
「どうぞ」
竜の方に身体を向けて、優羽はきっちり正座をした。背筋をぴんと伸ばして軽く目を閉じる。
どこからでもかかってこい。
内心は、虚像の戦士が鋭い刀を振り回していた。が、いっこうに何も起こらない。
押し倒されるとか、最悪なら八つ裂きにされるとか、わが身に降りかかる災厄を予想していたのに、優羽にかけられたのは爆笑という名の竜の笑い声だった。
「……え?」
目の前でしゃがみながら大笑いしている姿に、優羽の方があっけにとられる。
「あの……」
ひいひいと、苦しそうにお腹を抱えている姿は最初に見た時の印象とはだいぶ違っていた。
逆に心配になってくるほど、竜は目に涙をためて笑っている。自分の行為が何かおかしかったのだろうかと、思い返してみても、今までの流れからして特別おかしい部分は何も見当たらなかった。
「………」
笑われるなんて、思いもしていなかっただけに、優羽は竜を見つめることしか出来ない。
そこで気がついた。竜と自分の間に、葉っぱにくるまれた何かがあることに。途端に優羽は布を引き寄せて、のぼせそうなほど熱くなった全身を勢いよく隠す。
穴があったら入りたい。
竜は、"優羽の食事"を持ってきてくれていた。
「まさか、そうくるとは、おもてへんかったわ」
ひとしきり笑った後で、竜はまだ顔をにやつかせながら優羽の前に食事らしきソレを差し出してくる。
「だ、だって」
真っ赤な顔のまま、優羽は口ごもった。
仮にもエサである自分に食事を与えてもらえるとは思っていなかっただけに、どう反応すればいいのかわからない。エサとは、食べて糧になるための存在ではないのだろうか。
「食事は俺が担当やねん。人間かて、何か食わな生きていかれへんやろ?」
さも当然のように言われて、ますます虚をつかれる。
「飢え死にされると俺らが困るしやな、第一、抱きがいのない女に興味はわかへん」
よく考えればたしかにそうなのだが、かといって素直に受け入れることに戸惑いは隠せない。エサとしてエサを食べる。「抱きがいのある女」とは貧相な体ではなく、それなりにふくよかな女性を意味するのだろう。やはり、淫らな行為が食事なわけではないのだと、わずかな確信が優羽の中に生まれた。
彼らは丸々太らせてから自分を味わうつもりなのだ。それまでの間、暇潰しとして自分の体をもてあそんでいるのだ。
どうりでおかしいと思った。
そちらの方が、まだ納得がいく。
「太らせてから食べるんやー、とか思てんのやろ?」
本心を突かれたことに優羽は驚いた。
竜は読心術でも持っているのか、なぜ、考えていたことがわかったのかは優羽にはわからない。それに「やっぱりな」と前置きしたあとで、竜は優羽の想像を否定した。
「大抵のやつは、そう思て何も口にせんようになるんやわ。せやけど、勘違いしたらアカン。俺らが喰うんは、性や。八つ裂きにしたりせーへんから、はよ食べ」
そうは言われても初対面の印象が悪すぎる。
「毒も入ってへんから」
警戒心を竜から食べ物に移した優羽の視線に、苦笑の息が吹きかけられる。裸で向き合う者同士、別に嘘をついていると疑っているわけではないが、態度の違いには若干の疑心を沸かせずにはいられない。
「食べさせたろか?」
「え?」
「無理矢理口に突っ込まれたなかったら、はよ食べ」
銀色の双眼が拒否を許さない。
理由はただひとつ、より美味しく味わえる身体になるために。
でも差し出されたもので、それが実現できるとは到底思えなかった。
「あの」
「なんや、遠慮はいらへん」
「そうではなくて」
言ってしまってもいいのだろうかと、優羽は迷う。ここは気がつかないふりをして、ありがたく頂戴しておくべきなのだろうとも思うが、これから先、ずっと"これ"を食事だと与え続けられても困る。
彼らが所望する「抱きがいのある女」を実現するのもきっと不可能だろう。
不安定に視線を彷徨わせる優羽に、竜はいぶかしげに眉をしかめた。
「言いたいことあるんやったら、ちゃんと言わなアカンで?」
「そう、ですか?」
「せや、我慢はよくない」
だったら、その言葉に素直に甘えることにした。
優羽は、目の前であぐらをかく竜の眼前に葉っぱの器ごと持ち上げて見せる。
「調理をしてもらえないと、食べられません」
生のキノコ、泥のついた根菜、卵らしきものはあるが、これもたぶん生に違いなかった。
食材をそのまま持ってこられても、このままでは食べられない。いや、食べられないことはないが、どうせなら食事くらい夢を持ちたい。
ここにいる間は、きっと食事が唯一の楽しみになるだろうことはあきらかだった。それが毎回こうでは、とてもじゃないけどやっていけない。
エサじゃなくても、早死にする。
「せめて洗うとか、切るとか、火を通すとか」
無言のまま見つめ返してくる竜に、優羽はやはり無理なお願いだっただろうかと落ち込み始めていた。持ち上げていた葉っぱをおろし、床に置いた食事をジッと見つめる。
そこで、それまで無反応だった竜が口を開いた。
「調理ってなに?」
「えっ?」
驚いたなんてものじゃない。
聞かれたことが理解できずに、優羽は思わず顔をあげた。
竜の目が真剣というか、純粋なことから、ふざけているのではないとわかる。
「あの……お料理のこと……」
「料理?」
「お味噌汁とか、煮物とか、焼き魚とか……のことです」
聞いたことのない名前を聞くように首をかしげる竜の姿に、優羽は顔からサーっと血の気が引いていくのを感じていた。相手は狼なのだから料理をする必要はないのだろうが、晶がああだから、てっきり竜もそうだと思っていた。仕事に対して、真面目、不真面目はけっこう個人差があるらしい。
「今まで、どうしていたんですか?」
たぶん、ここにきた"エサ"は、自分だけじゃないはずだ。それは、彼らが"仕事"として役割分担されていることでも、容易に想像がつく。案の定、竜はその質問には普通に答えてくれた。
「食事与える前に、おらんようになる」
「………」
「その前んときは、戒が熱心に面倒見とったから、俺は何もせんでよかったし……そうか……間違ったやり方なん、気がつかへんかったわ。すまんかったな」
「……えっ?」
「ああ、せや。たしか、果物やったら生で食えるんやったか?」
「えっ…はい…まぁ」
「まっとき。今、持ってきたる」
そういって出ていった竜の背中を優羽は、ただ茫然と見つめる。聞き間違いじゃなければ、竜は否を認めて謝ってくれた。
それだけじゃない。
不本意にも、「これ以外はない」と無理矢理食べさせられることを覚悟していたのに、口に出来るものに変えてくれるという。夢でも見てるんじゃないだろうかと、思わず顔がひきつった。
仕事と名目される義務的な役割の中に優しさを感じる。彼らは自分をエサとしてしか見ていない獣のはずなのに、温もりを感じるのはおかしな話なのだろうか。不思議な感覚に、ますます気持ちは複雑になってしまった。
気を許してもいいのだろうか。
是(ゼ)か、非かは、まだ決められそうにない。
「……う、ん」
彼らの罠かも知れないうちは気丈に振る舞おうと心に決めた。油断していると、酷い目に合うかも知れない。逃走心を抱かせないために、警戒心を解かせることが目的なのであれば、まんまと騙されてしまうところだった。
竜が危険人物だということを忘れてはいない。
「でも」「だけど」否定の声が頭の中にまた渦を巻いていく。
本当は、いい人なのかもしれない。その感覚が心に種を植えた以上、芽吹くのは時間の問題なのかもしれないが、今はまだその種を成長させるわけにはいかない。
優羽はまだ、ここで、エサのまま人生を終えることを決めていない。
「待たせてしもたな」
それからすぐに、竜は盛りに盛った果物を持ってきてくれた。それも、ちゃんと綺麗に洗ってくれている。思いやりがどうとか感じる間もなく、優羽はあいた口がふさがらない現実にただ、ただ混乱していた。
こんなに食べると思われているのか、食べさせようとしているのかはわからないが。竜には、限度がないらしい。
「今は、作物がよーさんとれる時期やろ?」
全裸の男は、屈託のない笑顔で話してくれる。
人型ではなく狼の姿であれば、間違いなく尻尾が左右に動いているだろう。
「優羽が何を食べるんかわからへんから、手当たりしだいに盛ってみたんやけど」
「あ…っ、ありがとうございます」
「料理って言うん、戒に聞いて作ってみるから、それまでこれで我慢してな」
「えっ!?」
優羽は、たったいま手に乗せられたばかりのリンゴを落としそうになる。
ここまで優しいと何か裏があるんじゃないかと疑心しか湧いてこないが、くつろぐように目の前に座る男からは邪心も何も感じ取ることは出来なかった。
相手が狼であることを忘れそうになる。
勘違いしてしまいそうになる。
より美味しくなるために。そのためだけに、優しくしてくれているのだと言い聞かせながら優羽はリンゴを一口かじった。
「あれ、おいしい」
「やろ?」
「え、知ってるんですか?」
「当たり前やん」
肉食の彼が、どうしてリンゴの味を知っているのだろうか。
これはリンゴの味に似た人外の生物たちの食べ物で、別の正式名称を持っている果物なのかもしれない。見た目は赤く色づいたリンゴで、味もリンゴだが。肉食獣にも「おいしい」といわせる果物に、リンゴが該当するかは知らない。
口の中に広がるリンゴの味を確認していた優羽の気分は、ますます複雑になっていく。
それがそのまま顔に出ていたのだろう。困ったような呆れたような、何とも言えない表情で竜が笑う。
「俺らかて味覚はある。この姿ん時は人間と大差あらへん。人間と同じで、雑食になるしな。せやけど、必要以上にこの状態は疲れるんやわ」
「狼の姿の方が楽ってことですか?」
「そらそうや。そっちがホンマの姿なんやから」
「だったら、どうして今…ッ……」
今度こそ、確実に優羽の手からリンゴは転がり落ちていった。
どうして人間の姿かなど聞かなくてもわかるはずなのに、こうして唇を奪われるまで、そのことを忘れてしまっていた。
彼らが本来の姿から人間の姿になっている理由は、ひとつしかない。
「~~っ…んぁ」
リンゴの甘さが残る口内を生温かな舌に舐めまわされる。少し前のめりになった竜にアゴを持ち上げられて、濃厚な口づけをかわしていると、今までとは少し違った気持ちが湧き出てくるのを感じた。
うまく表現できないが、拒絶する意思がまったくおこらない。
この人になら食べられてもいいかなという、偽善でも無理矢理でもない感情が全身を襲っていた。
「…っん…あ……っ~……はぁ…っ……」
困る。
こんな感情が出てきたら困るのに、戸惑いは口づけに吸いとられていく。
抑えられそうにない心情に溺れてしまいそうだった。
「ぁ…あ…ッ…ん…はぁ…」
自分から竜の舌に答えるように、舌をからませていく。
目を閉じ、心地よいしびれに、知らずと竜の肩に手を伸ばして引き寄せていた。角度を変え、吐息さえ味わう舌の弾力が心地いい。時折触れる柔らかな髪、長いまつげ、酸素を共有しながら息苦しさを覚えていく不思議な感覚。
「んっ…ぁ…ッン」
ゆっくりと、大切なものでも扱うように竜は押し倒してくる。頭をぶつけないように手を添え、一気に倒れないように背中にも腕をまわしてくれた。
それが妙に嬉しくて、くすぐったい。
竜に組み敷かれながら交わす口づけに、初めて意識が性に向く。心の抵抗を捨て、拒絶することなく、与えられる全てに、身をゆだねようとしていた。
「……ん……」
口づけが、こんなに気持ちイイものだとは知らなかった。お互いの舌を絡ませあい、吐息を飲み込みながら、柔らかな髪の毛に指をすべらせる。
大切にされていると感じることの出来る瞬間が、今ここにあった。
触れあう肌の温かさに、欲情が刺激される。ゆっくりと早くなっていく心音の中で交わす、竜との口付けが心地いい。
「りゅ…っ…ぁん……はぁ」
酸素不足で、うまく機能しない頭のまま、優羽は唇をはなした竜を見上げた。
「優羽は、なんで逃げへんかったん?」
銀色に光る竜の瞳が、ジッと見下ろしてくる。
質問の意味がわからずに、優羽はゆるりと首をかしげてみせた。
「わざと逃げやすい環境を作ったってるのもあるけどな。一切逃げるそぶりを見せんかったんは、優羽が初めてや。逃げる理由は人それぞれやろーけど。優羽は、自分の意志でここにおる。少し意外やった。まあ、なんていうか。ただ、臆病なんかもしれへんけどな」
竜は、そこで柔らかな笑みをむけてくる。
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