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第三夜 尋問の食事会(上)

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ダルイなんて言葉で言い表せない。
重たい。その表現が、一番しっくりくる。


「…っ…んっ…」


眉をしかめたことで、まだ生きているのだとなんとなく思った。フワフワの毛に包まれているようだが、涼と陸の匂いがするあたり、どうやら間違いではなさそうだ。
夢でもない。眠る前に起きた出来事は、いくら頭の中で否定しようにも全身を襲う倦怠感に、それは無理な相談だった。
生きている。息をしている。他の誰でもなく、鈍い重みを持つ自分の身体は、指一本、食べられていない。指先が脳の命令通りに動かせる以上、何の温情かはわからないが、命は無事らしい。


「…………はぁ」


いつまで続くかわからない恐怖を紛らせようと、優羽は毛並みの中で寝返りをうつ。
殺されるなら一気に奪ってほしいと願ったのに、彼らは叶えてくれなかった。メスとしての本能をもてあそばれはしたが、優羽の体には、今のところ傷ひとつついていない。しかも、こうして心地いい空間まで与えられている。


「涼…っ…陸」


無意識に呟いてしまったものの、せめてもの抵抗に、目をあけるのをためらう。
勘違いしてはいけないとわかっていながら、心安らぐ感覚を否定できない。食料として身を投じた以上、変な期待をすると、あとで悲しむことは容易に想像がつく。願いが二転三転して、心を乱されるのも怖い。
だからこそ、生きていることが夢であればと願う。もう、死んだと思いたかった。幸せだと感じることなんてありはしない。再び眠れば、生きている現実が今度こそ夢になるかも知れなかった。


「少しいいかな?」


聞いたことがあるような、ないような声に導かれて、優羽はうっすらと意識を起こし始める。
ここが本当に現実の世界で、今までの怒涛の出来事の全てが真実だったというのなら、今、真上から覗き込んでいる顔の持ち主は、遠吠えを森中に響き渡らせていた"あの"狼に違いない。温厚そうで、隙の無い、冷たい目をした白銀の狼。
優羽は、ぼんやりとした意識のまま、さかさまに見えるその狼を見つめる。


「起きてくれるかな?」


口調は優しいが、目は笑っていなかった。
敵か味方か。自分たちの領域に招かれた餌は毒を持っているのではないかと、疑心にあふれるまなざしだった。


「はっ…はい」


ふわふわの毛並みの中でまどろんでいた意識が呼び覚まされ、優羽は慌てて身体を起こす。


「……ぅ、ッ」


起きあがることが予想以上に辛かった。
重たいと思っていた全身はやはり重く。特に腰を中心としたダルさで、ひどくぎこちない動きしか出来ない。それは相手もわかっているのか。無理矢理立たせようとしてこないところが、せめてもの救いだった。


「っと……ふぅ……あっ」


顔をゆがめながらなんとか身体を起こし、自分を見つめる狼と向き合うように立って初めて、優羽は自分が一糸まとわぬ姿なことに気がついた。焦った優羽は、起き上がる時とは比べ物にならない速さで腰をおろす。
そのまま自身の身体を丸めるようにして身を隠すと、おずおずと周囲を見渡した。


「あ…あの…これは…その…っ」


ジッと見下ろしてくる狼相手に、寝起きの頭では言い訳もままならない。
どうして裸なのかとか、左右で無防備に眠っている二匹の狼と何をしていたのかとか、容易に答えられない質問をされたらどうしようと、優羽はそればかりを考えていた。
聞かれる前に、何か言えることはないかと模索する。でも、その必要はなかった。


「涼も、陸も、随分優しい食べ方をしたんだね」

「……えっ?」


いつのまに狼から人間の姿になっていたのか、珍しいとつぶやきながら目の前の男性は、くすくすと笑っている。その笑い方に、少しだけ悪寒が走ったのは、気のせいだと思いたい。笑いながら床で寝息を立てる二匹の狼を見つめるその顔が、あまりにも綺麗すぎて、優羽は顔を赤く染め、無意識に自分を抱きしめる腕に力を込めた。
尊顔のせいで忘れがちだが、全裸の男への耐性はないに等しい。
正直、目のやり場に困る。


「そのままだと話すこともできないだろうから、服を着てくれるかな」


突然、差し出された服に驚きはしたが、優羽は顔を上げることさえ出来ずに、床に視線を泳がせていた。けれど、今度は待つ気がないのか。男は笑みを深めて、静かに続ける。


「俺はあまり気が長くないから、早くしたほうがいいよ」

「あ…っ…はい。ありがとうございます」


優羽は戸惑いながらも、しゃがみこんだまま彼から服を受け取った。視線をうまくあげられないのは、涼や陸の時もそうだったが、狼から人間の姿になった彼らがそろって服を着ていないからに他ならない。
全身から変な汗が吹き出しそうなほど熱く感じるが、エサである身に「羞恥」の二文字は必要ないのかもしれない。今から食べられるかもしれないのに、服を着る方が変な気分さえしてくる。
しかし経緯はどうであれ、服を着ない状態で、まともに話すほうが難しい。ただでさえ、目のやりどころに困る容姿を持つ麗人相手に、意識は混乱している。


「あ、あの…っ…イヌガミ様たちは、服を着ないのですか?」


せめて全裸をやめてほしい。
目のやり場に困るからと、優羽は素直な意見を口にした。背を向けて、服の袖に腕を通しながら、優羽はその質問に対する答えを待つ。


「あの……イヌガミさ……ぅ」


長く感じる沈黙に耐えきれず、聞いてはいけない質問だっただろうかと、優羽は背後を盗み見て、すぐに後悔した。
ジッと見られている。無言で観察されていることに気づいて、優羽は慌てて視線を戻す。
赤い顔をしているだろうことは、誰に言われるまでもなく、わかっていた。それどころか、全身が沸騰するように熱い。バッと背後の麗人から元の向きに戻って、優羽はバクバクとなる心臓を落ち着けようと息を止めた。


「で、できまし…った」


ぎこちないながらもなんとか無事に服を着、意を決して振り返ってみると、彼はまた狼に戻っていた。
知らずに、ホッと息を吐く。
狼でよかった。あのままジッと見つめられていたら、心拍は今以上にあがっていただろうと思う。現実にしては衝撃的な目覚めすぎた。本当に夢の中じゃないのかと疑いたくもなる。
本当はまだ、森の中を彷徨い歩き、白昼夢の見せる幻覚にとらわれているのではないかと思えるほど、ここ数時間で体感することは、許容範囲を超えすぎている。


「ついてきてくれるかな?」

「あ…っ…はい」


歩き始めた彼のあとに優羽は続く。しかし部屋を出る寸で、優羽は眠る二匹を振り返るために立ち止まった。


「あの…っ…私、勝手に部屋を出ていいのでしょうか?」


心配になって、先を進む狼を引き止める。
一瞬、体の芯から凍りそうなほど冷たく感じた視線に驚いたが、その狼は何も言わずに優羽の言葉の意味を待っていた。


「その……私……」


視線だけで振り返られたら何も言えない。
涼と陸の存在にすがりたいのは自分の本位。危機管理を働かせた本能が、勝手に天秤にかけたのだろう。どちらが安全か。今度こそ、本当に命の保証はないかもしれない。


「別に、ここから追い出すわけじゃないから大丈夫だよ」

「……はい」


有無を言わせない物言いに、優羽は少したじろぎながらうなずくと、今度は反抗せずに部屋を抜けた。


「―――………っ」


案内された室内の明るさに、思わず顔に手をそえる。
差し込む日の光に、今が朝なのだと知った。
そして同時に、自分のおかれた現状を知る。


「はい、そこに座って」


立ち止まった狼にうながされて、優羽は広間の中心とも言える位置に腰をおろした。降ろしたくて降ろしたのではない。指定された場所に座らなければ、確実に首と胴体が離れると悟ってしまうほど、見えない圧力が身体以上に重たい。


「逃げたら殺すよ」

「ッは、い」


ジッと突き刺すような視線に、優羽は思わずごくりと息を飲み込んだ。
座って、改めて周囲に意識を向けてみる。
昨日見た時と同じように、台座の向こうには銀色の幕が垂れさがっている。違うことと言えば、見たことのない狼が三体増えていることだった。毛並みの良さが一目瞭然な一体と、目つきの悪さが目立つ巨大な二体が並ぶように優羽を見ている。


「随分と遅かったですね」

「文句があるなら涼と陸に言ってほしいな」

「そいつか?」

「なんや、想像より貧相やな」


遠吠えの持ち主であり、ここまでつれてきた狼を合わせると全部で四匹。そのすべてが、優羽を拒絶するように凝視していた。
なんとも言えない居心地の悪さに、優羽は小さくノドを鳴らす。正座した足の上にのせた両手を知らずと硬く握りしめていたことに気付いたのだろう。その内の一体が、面倒そうに口を開いた。


「名前は?」


たった一言だが、そのすべてから敵意がむき出しにされているのを感じる。


「……優羽です」


優羽は小さく答えた。
パッと見た所、涼と雰囲気は近い。だけど、無性に怖かった。
勘でしかないが、一番最初に森で会ったのがこの狼なら、優羽はとっくに切り裂かれ、あの泉に沈んでいただろう。赤く沈む太陽に溶けて、文字通り赤く染まっていたに違いない。こうして、数体の狼の前で正座する未来は、決してなかっただろう。


「俺は、輝(テル)だ」


耳に残る低い声が、体の重心に彼の名前を伝えてくる。
緊張が一周して、腕が震え始めていたが、優羽は輝を見つめながら確認するように首を数回上下に揺らした。


「怖いか?」

「え?」

「だろうなぁ」


クックっとノドを鳴らして笑う姿に、全身が鳥肌をたてて警告している。思わず逃げ出しそうになったが、先ほどの一言を思い出して、優羽は視線をそらせることでそれを回避した。
「逃げたら殺すよ」と言われている以上、それはこの場にとどまる呪縛にしかならない。
なぜ彼が名前を聞き、また名乗ってくれたのかはわからないが、その疑問が解決されないうちに、輝の隣で寝そべっていた狼がニッと口角をあげてくる。


「俺は、竜(リュウ)やで」


体格の良さが一目でわかる。
見た目だけで判断するのであれば、彼が一番眼光が鋭く、粗暴が悪く、乱暴そうだった。けれど見た目に反して落ち着いた性格なのだろう。大きなあくびをこぼすと、興味をなくしたようにふんっと鼻を鳴らしていた。


「なんや、涼が囲いたがる女ゆーから、どんなんかと思てたけど、まあ、もたんやろ」

「……かこ…ぃ?」


つまらないと全身が優羽を見つめて、そう告げている。
何か面白いことを提供しに来たわけではないのに、なぜか優羽の胸がチクリと痛んだ。


「竜の言うことは、気にしなくていいですよ」


礼儀正しく座っていた狼は、チラリと竜を睨むように見た後で、優羽に向けて「戒(カイ)」と名乗った。さらさらとした毛並みと、気品漂うたたずまいに、おもわず手を合わせてみたくなる。本来の信仰心を態度で示せば、何か恩恵を与えてくれそうな気位の高さだった。
それは相手にも伝わったのだろう。「ここに住んでいるのは、先の涼と陸をあわせてこれだけです」と、名前に続いて、丁寧に説明を付け加えてくれる。


「どうやら見分けはつくようですので、これ以上の紹介はいらないでしょう」


新たにのぞむ三体に、優羽は定まらない視線のまま、ここに案内されてきた意味を考える。
今度こそ、食べられるのだろうか。
胸の中にある唯一の疑問に、最後のひとりが答えてくれた。


「そんな顔をしなくても」


それ以上続かない言葉に、明確な答えと思っていいのか、疑問はぬぐえない。
彼は、柔らかな雰囲気を一番持っていながら、何を考えているのかわからない怖さがある。優しいのか、意地悪なのか、周囲を回るように歩き始めた狼に、優羽はまた息をのんで成り行きを見守る他ない。


「俺の名前は晶(アキラ)。昨日、入り口で顔を合わせたのが俺だよ」

「……はい」


この森に入った時から聞こえていた遠吠えの主は、心地いい声の響きを持ってるのか、優羽の震えがぴたりと止まる。けれど気の抜けない独特の緊張感に、優羽の姿勢は保ったまま崩れないでいた。


「早速なんだけど、少し質問に答えてもらってもいいかな?」


聞かれているはずなのに、拒否を許されない。ここで否定を口にすれば、即座に八つ裂きにされるだろうと、漂う空気でわかってしまった。刺すような拒絶。この場に、人間がいては許されない。それほどまでに崇高なカミの住処(スミカ)に優羽はいる。
その広間の中心で、眼前に座る輝、竜、戒の三匹と、真横、いや、ほぼ真後ろに近い位置にいる一匹に見つめられながら、優羽はぎこちなく首をたてにふった。


「ここには、何をしにきたのかな?」

「えっ?」


最初の質問から面食らう。
自分から来たのではなく、涼に連れられてきたのだが、すべてを涼の責任にするには良心が痛んだ。少なからず、優羽は自分から身を差し出している。
黄金色に染まる泉が湧き出ていたあの森の幻想郷で、白銀の狼が襲われそうになったところを助け、村を襲うという彼の脅迫に歯止めをかけるために、村の身代わりとなったことは真実であり事実でもある。
だからといって、ここに目的をもって、何かをしにきたわけではない。


「…………なに、を?」


あらためて聞かれると言葉が見つからない。
思い返してみた記憶のまま、うまく処理しきれなかった質問が、つい口からでてきてしまった。何をしにきたのかと聞かれてもわからない。明確な答えが、思い浮かんでこなかった。


「食べられ、に?」


優羽は、唯一頭に浮かんだ言葉を口にする。その片言の台詞に、ひきつった顔のまま首をかしげてみたが、もちろんその場の空気はますます冷えた。


「食べられに?」


他にもっと言葉を選べばよかったと思っても、優羽にその余裕はない。
晶がそっくりそのまま繰り返し、尋ねてきた。第三者の口から聞いたその言葉の響きが、どれほど間抜けなことか。


「はい」


他人の口から聞くと陳腐に聞こえるのだから、相当場違いな回答をしているのだろうということは理解していた。もちろん、周囲からは「もっとマシな言い訳は思い付かなかったのか?」と、バカにしたように見つめられている気がしてならない。
それとも、生きてるじゃないかと、そう言いたいのだろうか。
現に、優羽は生きている。食料として涼に連れられてきたことは事実だが、一晩過ぎた今になっても、彼の胃袋におさまっていないことが動かぬ証拠だった。


「獲物が言い逃れする常套句ですね」


案の定、戒があきれたような息を吐いて、場の空気を濁す。
反抗や反論は元より、他の言葉も見つからずに、言葉に詰まった優羽は床に視線を落とす。


「騙されませんよ。人間どもが浅はかな知恵を出しあって、おおかた、我らイヌガミ一族のほころびを作ろうとしているに決まっています」


それ以外は考えられないと、戒は優羽に向かって、その鋭い牙をむき出しにする。
断言出来るだけの裏があるのか。他の意見には、耳を傾けるつもりすらないらしい。


「潜伏させて、わたしたちを出し抜ける術(スベ)がないかと模索しているんでしょう?」

「………え?」


意味が分からない。
戒がなぜそんなに怒った顔をしているのかも、この場にいる全員が、なぜ殺意をこめた目で自分をみつめているのかも、優羽にはわからなかった。だますつもりも、模索する理由も何もない。それでも、この室内に充満する雰囲気は、優羽の存在を拒絶する空気で満ちている。


「残念ですが、あなたがここに身を投じた時点で、あなたの運命は終わりなのです」


話しは以上だと言わんばかりに、戒がひとりで話を締め括ってしまった。
言い訳の余地はない。
議論するつもりは毛頭なかったのだろう。困惑の表情で顔をあげる優羽の目の前で、判決はくだされたように見えた。
戒の言っていることが、優羽には理解できない。それでも広間の賛同は得られたようで、戒の横に座っていた輝と竜がそろって立ち上がる。


「───ッ!?」


均整のとれた体つきと、鋭利な銀色の瞳。獰猛な本性を隠しもせずに、彼らは優羽に歩み寄ってくる。狼の姿を消し、目のやり場に困る人間の姿で、彼らはゆっくりと優羽に近づいてくる。
この目で実際に見なければ信じられない現象。
狼と人間。どちらが本当の姿なのか、わからなくなる。


「……っ……」


目をそらすこともできないまま、優羽は身体を萎縮させていた。
逃げるとか逃げないとか以前に、彼らの持つ雰囲気に圧倒されて体が動いてくれない。それなのに、無意識に後退した背中が、晶のもつ銀色の毛並みに軽く当たった。


「逃げる?」

「ち、ちが……ッ、ぁ」

「口では何とでも言えるんやわぁ」

「食われに来たんだったら、その覚悟は出来てんだろ?」


目線をあわせるように、しゃがみこんだ輝のかくばった指先に、アゴが持ち上げられる。
その瞳は、奥に吸い込まれそうなほど、キレイだった。その瞳だけが唯一、彼ら本来の姿を残しているようで神々しくもある。
白さの混ざる銀色の瞳が、見つめるほどに色を変えて、吸い込むように誘ってくる。


「本当にキレイ」

「……は?」


また口に出してからしまったと思う。
彼らの持つ独特な瞳の妖しさを綺麗だと感じるのは仕方のないことで、毎回思わず口に出してしまうほど、妖艶な視線に胸がドキリと音を立ててしまう。眺めることが許されるなら、ずっと眺めていたい。
おそらく、その承諾を得られることは一生ないだろう。


「すっ、すみません」


モノ言わぬ異様な雰囲気に、優羽はゴクリとノドを鳴らして頭を下げる。今度こそ命運は尽きたと、早鐘を打ちはじめた心臓の音に、余命を悟った。


「食われる覚悟はあるんだろ?」


再度、輝が質問を繰り返す。


「………はい」


今度は優羽も、小さいながらもハッキリとうなずいた。


「私を食べるかわりに村を襲わないと、涼さんが約束してくれまし───」


持ち上げられたアゴに、突然重力がかかった。
何が起こったのか理解するよりも早く、優羽の身体は輝の片手に持ち上げられて宙に浮く。


「───ッな…ん、で…っ」


どこでそうなる要因があったのかがわからない。
軽々と輝に持ち上げられた体は、その体重のすべてを首に集中させていた。
苦しい。思わず両手で輝の手首に爪を立てているのに、彼の手首はおろか、指先すら微動だにしない。その姿は人間のはずなのに、やはり彼らの本性は狼だと告げられる。
同じ人間であれば、こんなにも簡単に、片手ひとつで持ち上げられるわけがない。


「人間が俺にかなうと思ってんのか?」


地面から浮くほど高く持ち上げられた体は、足先をばたつかせる優羽に、眼下の視線を集中させる。ひとつ、ふたつ、影は増え、輝の横に並ぶように、竜の気配がクスリと笑った。


「村は、襲うで。こっちは一年に一人ていう約束を守ってんのに、そっちがそういう手段に出るんやったらしゃーないやろ?」


輝の真横に立つ竜が、輝の肩に腕をのせながら優羽を見上げる。


「俺らを満足させる姫巫女のひとりも用意せんと、姑息な手に出たんや。当然の報いやろ」

「俺らを出し抜けるなんざ、人間ごときが考えてんじゃねぇよ。俺らをこっから追い出したきゃ、てめぇらが勝手に出ていきやがれ」


竜の言葉を引き継いだ輝にさえ、何かを言い返したくても、息をすることさえままならない状態では、何も言えない。それどころか、酸素を求めて足はバタつき、首を締める輝の腕に爪をたてるだけで精一杯だった。
それも徐々に力が抜けていくのを感じる。涙で視界が滲んでいく。怖い、苦しい。だけどそれ以上に、彼らの言っている意味がわからない。
一年に一度の約束も、姫巫女も、用意も、彼らが望む答えが何かわからない。


「―――――ッ…ごほっ…ごほっ……」


つかまれた時同様、突然解放された体は床に落ちるなり、強く優羽をせきこませた。
求めていた酸素が急激に肺に入ろうとしているからか、息苦しくて涙が零れ落ちそうになる。


「はぁ…っ…はぁ……はぁ……ぅ、ゴホゴホっ」


首を守るように手をあてながら、優羽は垣間見た死に恐怖を示していた。
彼らに食べられるのであればまだいい。その鋭い牙と爪で、一瞬にして切り裂いてくれるなら、こんな苦しみも恐怖も味わうことはない。無残に殺されるのであれば、一思いにやってほしい。
こんなやり方は、恐怖以外の何物でもない。
優羽が涙をにじませた顔をあげようとしたその時、ふいに地面がゆれる。


「………ッ」


地震だと、優羽はとっさに床に伏せ、体を硬直させた。地震にしては長すぎる。わずかに地面が揺れているが、地震ではない規則正しい響きに、優羽はゆっくりと体を起こす。
これ以上、自分の身にどんな災厄が訪れるのか想像したくもなかったのに、意識を現実にむけた優羽は、目の前に起こる出来事に息をのんだ。


「なに…っ…これ」


たしかに地震と勘違いするはずだと、優羽はその大きな足から視線を徐々にあげていく。
銀色の垂れ幕だとばかり思っていたのは、今までみた狼たちとは比べ物にならないほど大きな大きな、本当に大きな狼だった。柔らかな毛を銀色になびかせ、七つもの尾ひれをもち、崇高な雰囲気を全身にまとっている。
この狼こそが"イヌガミ"だと、ひとめで理解できた。


「なんて綺麗な神様…っ…これが、イヌガミさ…ま?」


無意識に手が伸びていた。
触れるか、触れないかの距離で立ち止まったその気配は、筆舌に尽くしがたい白い輝きを放っている。


「ほぉ」


心に直接語りかけてくる息に、優羽はハッと意識を現実に戻した。周囲を見渡してみると誰もがイヌガミに道を譲るように立ち控えている。別格の存在。たしかに、これは現世に生存する最古の神かもしれないと、優羽はその中心で呆然とそれを眺めていた。


「あ、も、っ、申し訳ありません」


場違いな行動をしてしまったがために、優羽は慌てて居住まいを正す。
それをどう思ったのかはわからないが、頭上高くにあるイヌガミ様は、優しい笑みを浮かべたように見えた。


「随分と純粋なモノを持っているね」


イヌガミが、静かに話しかけてくる。


「涼と陸が気に入る気持ちもわからなくはないが、なるほど。息子たちが騒がしいはずだ」


誰も何も話さないのに、彼には今までのすべてが手に取るようにわかるのか、優羽の瞳を見つめるように見下ろしたまま一人で勝手に話を進めていく。そして唐突に訪ねてきた。


「名は?」

「優羽…っ…です」

「優羽。わたしの名前は、幸彦(ユキヒコ)だ」


頭に直接響く声に、優羽の意識は思考を中断させる。
ゆっくりと人間になるその様子は、まさに天から神が舞い降りてきたみたいに神々しかった。そのせいで、言葉が何も浮かんでこない。ただ、ただ、見惚れることしかできない変身ぶりに、優羽は縫い付けられたようにジッと幸彦の姿を見つめていた。
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