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第4章:躾

第2話:愛情の度合(2)

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「っ…だから…血…を…ちょうだ…ぃ」


血を飲めば、もう少しマシな状態に回復する。得体のしれない三織の薬を飲んでも、麻痺したまま鞭の味を覚えるような状況には決してならない自信がある。
そう訴えているのに、三人とは会話がまともに成立した試しがない。どうにか現状を打破しようと考えてみても、三織に飲まされた薬のせいで全身を倦怠感が襲い、乃亜はこうして彼らの理想の形を成す次の薬の完成を待つ間、斎磨と萌樹に見張られる形で身を横たえていた。
外はまだ雨が降っている。
急ぐことはないのかもしれない。
胸に、足に、不定期に叩いてくるムチの刺激も鈍く、不思議と眠気を誘ってくる。動かない体ではまともに抵抗することもできず、乃亜は斎磨のムチの音を聞きながら、静かにその意識を手放した。

* * * * * *

「…っ…んっ」


目を開けた先は静寂な闇。
薬の効力が切れた体は、すっかり雨が止んだ室内で目覚めたらしい。


「あれ…っ…みんなは?」


目をこすって、体を起こす。たしかに斎磨の足の上に頭を乗せていたはずだが、そこに斎磨の姿は見当たらない。同じく対面に座っていたはずの萌樹の姿もどこにもなく、薬を調合していた三織の背中も消えている。あまりに静かすぎる部屋。


「……夢?」


嵐のような雨が見せた悪夢だったのだろうか。窓の外に顔を向けてみれば、雲が漂う夜空には糸のように赤い三日月が昇っている。


「ッ!?」


無意識に首に手をあてた途端、乃亜は確実に脳を覚醒させた。
斎磨の言葉を借りるなら「体が覚えてしまったらしい」重力の違和感。麻痺した身体に取り付けられた首輪は、触れるまで乃亜の意識の中になかった。


「やっ、な…んで」


焦燥が込み上げてくる。
首輪をつけた記憶はどこにもない。つけられた記憶もない。認識した瞬間から、何もかも異常なことを把握し始めた心拍が慌てていく。誰もいない。服も着ていない。いつの間にか全裸で寝かされたソファーの上で首輪だけ。暗闇の自室で認識するにはあまりにも驚愕の事態に、乃亜は悲鳴をあげそうになる声をなんとかなだめてノドを鳴らした。
胸に手をあてても浮かぶ顔はみっつしかない。
ドキドキと早まる鼓動が変な汗を流させてくるが、現実を直視すればするほど悪寒が巡る。


「やっ…やだっ」


死を知らない。
一番遠いもので、縁のなかったもの。
それが漠然と目の前に突き付けられるような恐怖に体が震えていく。執事はどうしたのか。歯の根が合わない考えを払しょくするように、乃亜は今あるすべての力を振り絞って鎖を引きちぎった。


「違う…っ…違う」


そこからどうやって屋敷を飛び出してきたのか。
下着もつけずに薄い布一枚に袖を通し、目に入った簡素な靴を履いて、頭に浮かぶ場所を目指す。


「こんなの違う、こんなの望んでない」


今になって彼らが口々に言っていた言葉の意味がわかってくる。
甘い声と端整な顔に騙されていたが、望んだものはもっと違う未来を描いていたはずだった。


「早く元に戻さなきゃ」


昼間に降った雨は足元をぬかるみに変え、乃亜の行く手を阻んでくる。簡素な靴はすぐに水分を含んで重たく足をとり、すべる地面は走る乃亜の足をつまづかせる。


「キャッ」


細く浮き出た木の根に躓いて、前のめりに倒れ込むが間一髪。無事にケガをすることなくホッと胸をなでおろした乃亜は、刹那。三織の声が自分の名前を探すのを聞いた。
三織だけではない。
萌樹も斎磨の声も追いかけてくる。迷うことなく真っ直ぐと、自分のいる場所が分かっているかのように近付いてくる。捕まれば、その先は想像したくない。


「乃亜ちゃーん?」


脱走した飼い猫でも探すような声から乃亜は逃げる。糸のように赤い三日月が笑いながらどこまでも追いかけてくるように、彼らの声が追いかけてくる。
走って走って、彼らよりもなんとか先にたどり着いた泉の桟橋で、乃亜は深く泉を覗き込んだ。


「魔法の泉、願いを叶える泉、求める対価と引き換えに、ふたつの世界を入れ替えたまへ」


右手を前に突き出して、囁くように三度唱える。本当に言葉になっていたかは定かではない。自分でも驚くほどの早口で、詠唱を繰り返す唇は震え、指先から温度が失われていく。泉に飛び込むのは乃亜自身。彼らから逃げるには、もうそれ以外に道がない。たった一人でも手に負えない異端者が三人も相手では分が悪すぎる未来しか予想できない。
こんなはずじゃなかった。
まだ彼らを異常だと思えるうちに、彼らなしで生きられるうちに、そう本能が警鐘を鳴らし続けている。このままでは、声を聞くだけで胸が震える感覚を教えられてしまう。と、警告の声が頭の中で鳴り響いている。


『魔法の泉、願いを叶える泉、求める対価と引き換えに、ふたつの世界を入れ替えたまへ』

そうして唱えているうちに、三日前、世界が色を変えた日の記憶がよみがえってきた。

『私だけを見て、私だけを求めてくれる不死の存在であればよかったのに』

それは紛れもなく自分が吐き出した願い。

『盲目的に愛してくれる貴方たちが、私と共に生きてくれるなら、私のすべてをあげるわ』

それは純粋に言葉に変えた無垢な思い。

『狭い世界の中で他者を通過させていく虚しさから解放されるなら、たとえ相手が残虐な罪人であってもかまわない』


「乃亜ちゃん、みーっけ」

「ッ!?」


目の前に立つ人物に、乃亜は泉の魔法がこの世にあることを初めて信じた。


「あはは、その顔。すっごく可愛い」


歯の根の合わない音が聞こえてくる。


「みっ…ぁ…三織」

「キミは本当、愚かで浅はかですね。泉に願うだなんて、今更でしょう」

「ぁ…っ…萌樹」

「まさか本気で、俺たちから逃げ切れると思ったか?」

「ッさ…さい…まッぁ」


かたかたと合わない歯の音は、腰を抜かして涙を浮かべる乃亜の声を許さない。
燃えるように赤い閃光を宿した鋭利な瞳。暗い闇夜の中にあっても光を放つその目は、獰猛な獣に似た気配を宿してじっと乃亜を見つめていた。

To be continued...
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