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《第3章》九年前の記憶

第4話:マーリア村

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第4話:マーリア村

太陽が真上に昇る昼前に、小さな教会を中心としたマーリア村に到着した。
のどかな果樹園が広がる周囲一帯には甘い匂いが立ち込め、遠目にも赤いコイベリーの実をつけているのがわかる。今からこれを収穫し、村人たちとともに祭りを執り行えると思うと胸の鼓動が収まらない。
群青兎でなくても浮ついた気分が手に取れるほど、リズの瞳は初夏の青空の下にその足を降ろしていた。


「見て、絵本のなかみたい」

「リズ様、馬車のなかでも同じこと言ってたんだけど」

「ルオラ。見て、教会、可愛い」

「だからっ、うわ。ちょ、リズ様、はしゃぎすぎ」


すぐ後ろに続いて馬車から降りてきたルオラの手を引いて走り出す。
正直、ルオラじゃなくてもシシオラでもゼオラでも、リヒドでも誰でもよかった。初めて訪れる村を一緒に楽しんでほしいと、リズはルオラを引き連れながら目についたものすべてに指をさして進んでいく。


「音がうるさいったらないな」

「ええ、聞いているこちらまで調子が狂います」

「マーリア村ねぇ。果実の匂いが充満して、鼻まで狂いそうだけどな」

「人間のすることですから」

『だけど、なんだ。イヤな臭いが混ざってる』

『ええ、嵐が来る前のよう』


リズとルオラの後ろ姿を見つめながらゼオラとシシオラが話している。群青色をした長い兎の耳に毛量の多い尻尾を左右に揺らし、普段感じることのない未知の場所を警戒しているようだった。


「あの山の向こうはアルヴィド国だが、今は条約が結ばれているからそこまで警戒をしなくてもいい」


風に煽られる薄紅色の髪を耳にかけたリヒドが馬車から降りてその横に並ぶ。その美しさが群青兎に並んでも引けを取らないのは毎度のことだが、突如として村に現れた美麗な集団に視線が集まらないわけがない。
ひそひそと囁き合う村人たちの声は波紋を帯びて広がり、リズ達一行の到着はすぐに村中に知れ渡ることとなった。


『殺してくれるなよ』


にこりと仮面の笑みを貼り付けたリヒドが横に並ぶシシオラとゼオラに忠告する。
靴音に紛れるほど小さな声だったが、耳のいい二人に聞こえないわけはない。何なら、リズに振り回されているはずのルオラまでイヤそうな視線を送ってくる。


『努力いたします』

「その顔に説得力がないのはなぜかな?」

「申し訳ございません。生まれつき、リズ様が好まれる顔をしているもので」

「貴様、本当に性格が悪いな」

「リヒド様には及びません」


どこへ行っても聞こえてくるのは同じ台詞。面と向かって戯言を吐き出してくれればいいものを影を隠れ蓑にして人間は互いの耳に囁き合うのが好きらしい。内心の言葉を皮肉にこめるシシオラに、リヒドも負けじと鼻息で吹き飛ばす。


「好まれる見目で良かったじゃないか」

「リヒド様も多くのメスを引き寄せる造形美で何よりです」

「怖がられるより好まれたほうが都合がいい。軽率な行動でグレイス家の名を汚せば、どうなるかわかっているだろう」

「・・・言われなくても」


わかっていると三匹の視線がリヒドに突き刺さる。リズが大人になるまでと我慢しながら過ごしている年月分、少なからず人間社会との関係を保ってきた意地もある。獣亜人の掟だけを通すなら誰も近寄れない高い木のうえで過ごせばいい。本能はそう言っている。けれど、リズには人間としての生活が大事なことも知っている。こうして様々な経験をさせることで得られる副産物もある。
たくさんの葛藤を胸に秘めているのだと、リヒドは突き刺す瞳たちが語る無言の訴えに肩をすかせて見ないふりをする。
その空気に飽きたのか、今度はシシオラの代わりにゼオラが周囲を見渡して息を吐いた。


「にしても、この村は女が多いな」

「ああ。ここはアルヴィド国との国境に近い村だからね、ほとんどの働き手が軍に入っている。だからこそ残された者でも生計が成り立つように、コイベリーの育成に力を注いできたんだろう。この収穫祭は村の未来を願うと同時に、遠い場所にいる家族や恋人たちの無事を祝う意味もあるそうだ」

「ふぅん。で、あの団体は?」

「あれは」


ゼオラが示す先に視線を送ったリヒドは、ひとり静かにその団体に向かって歩き出す。それに気付いたルオラが観光を楽しむリズを呼び止め、シシオラとゼオラの輪に加わるように後に続く。


「クリス様、お久しぶりです」

「これはリヒド公、あなたの噂はどこへ行っても耳に入りますね」

「恐れ入ります。本日はジェイン大臣の代役で?」

「そう。田舎の収穫祭だと誰も行きたがらなくて、僕は城で公務に追われるよりよっぽど好きなんですけど。ところで、後ろの群青兎を連れているのがリヒド公の婚約者ですか。たしか、グレイス伯爵令嬢」


柔らかな茶色の髪に、リヒドと同じ薄い茶色の瞳が愛らしい。声は穏やかで、周囲の成人男性に比べて小さな声量でも十分に聞き取ることが出来た。実際、十三歳のリズと背丈はそう変わらない。


「リズ、挨拶なさい。こちらはシュゼンハイド王国第二王子クリス・ヴァンルーシュ様だよ」


真っ直ぐに瞳を覗き込んでくるクリス王子は、何も言わなくても思考をくみ取ろうとしているように見えた。その目はリズが心を許せる人たちと同じ。ちゃんと個人の声に耳を傾けてくれる目に似ている。


「あっ。リズ・グレイスと申します」

「初めまして、クリス・ヴァンルーシュです。デビュタントのときはぜひ僕とも踊ってください」


あとで同じ年だと聞いて驚愕したが、さすが社交辞令が板についた生まれながらの王子は何もかも自然にこなすらしい。「ではまた後ほど」と颯爽と後を濁さずに去っていく様子は、コイベリーの甘い匂いが引き立つような気がした。


「お嬢様っ、リズお嬢様ではありませんか?」


呆然とクリス王子の背中を眺めていたリズに、懐かしい声がかかる。振り返ったその姿は、グレイス家にいた唯一のメイドと同じ顔をしている。表情豊かなそばかすの女性。


「キャシー!?」

「ああ、お嬢様。このような場所でお会いできるとは」

「本当、どうしてここに?」

「ここはわたくしの生まれ故郷なのです。昨年奥様が亡くなられて、お暇を頂戴したあとはずっと母の看病をしております」

「そう・・・キャシーは元気だった?」

「ええ、わたくしはこの通りピンピンしております。お嬢様はリヒド様とシシオラ様たちとご一緒なのですね」

「そうなの。収穫祭を見に来たのよ」

「まあ。では、これから収穫を行いますので、ぜひご一緒にいかがですか?」

「いいの?」


シシオラたちが何も言わないということは好きにしていいのだろう。
リヒドも村の人たちへの挨拶が忙しいらしく、好きにしていいと言うので、リズはキャシーの申し出を素直に受けることにした。


「キャシーは相変わらず信仰熱心ね」

「ああ、これですか?」


キャシーがコイベリーの収穫の前にポケットから取り出した一冊の本をみて、リズは苦笑する。


「王国神書」


神話の時代、神台メテオへ降り立った神々の末裔が今の王家だと信じられている国によくある話。教典ともいえる分厚い書物は、シュゼンハイド王国で見ないほうが珍しい。


「そうですね。信仰心もありますが、わたくしどもは、この本で育っていますから。先ほど遠目ですけど、クリス王子にお目にかかれたときは舞い上がりましたわ」

「よかったね、キャシー」

「でもそれ以上に、わたくし、お嬢様が笑っていらしているのをみて、とても安心いたしました」

「え?」


収穫の前に書物の一説を読み上げたあと、指先で摘まめるほどの赤いコイベリーの実を樹からもぎ取り、小さなかごに放り込みながらキャシーが話しかけてくる。


「実の娘でないにしろ、キキ様はリズ様をとても可愛がっておられましたし、リズ様もキキ様には懐いていらしたでしょう。わたくしが母の看病で屋敷を離れることになり、そんなときに奥様が亡くなられて、お嬢様の笑顔を奪ってしまったのではないかと」


コイベリーばかり見つめていたリズは、最後の声が震えていることに気付いてキャシーに顔を向ける。そこで、キャシーが手を止めたままうつむいて動いていないことに気が付いた。


「キャシー、泣かないで。私にはシシオラも、ゼオラも、ルオラも、リヒド様もいるから大丈夫。寂しくないと言えば嘘になるし、あまりうまく笑えていなかったような気もするけど、それでも今はキャシーに会えて嬉しいし、一緒にコイベリーを収穫できてとても楽しいの、だから、ね?」

「お嬢様・・っ・・ご立派になられて」


その後泣き終えたキャシーとは、収穫を終えたばかりの実を食べ、ジャムにしたり、バターや小麦粉と練り込んでお菓子などを一緒に作った。八歳から三年と少し。字の読み書きすらできなかったリズが絵本を読めるようになり、手紙を書けるようになり、お菓子のおいしさを知り、料理が出来るようになったのは、グレイス家の亡き夫人とキャシーのおかげといっても過言ではない。
何度も肩を並べて過ごした日々は、離れたからといって無くなるものではないのだと、リズは初めて経験していた。


「お嬢様、ご存じですか」


収穫祭も終わり、シシオラたちに連れられて宿屋へと向かうリズをキャシーが呼び止める。


「コイベリーの花言葉は遠いあなたを思う。マーリア村の収穫祭は遠い場所にいる家族や恋人たちを思う祭りでもあるのです。こうして再び出会うことが叶いましたが、わたくしはいつでもリズお嬢様が笑顔であるように願っております」


その笑顔にリズも願う。どうか温かな気持ちを与えてくれるキャシーがずっと笑顔であるように、と。
けれど残酷な現実はその日の深夜、キャシーと共にマーリア村を地図のうえから消してしまった。
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