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《第3章》九年前の記憶
第1話:二人きりのお出かけ
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《第3章》九年前の記憶
第1話:二人きりのお出かけ
グレイス伯爵家に引き取られて五年。十三歳になったリズはその日、薄い桃色のドレスを着て出かけていた。
晴れた初夏の陽射しは地面に馬車の影を描き、回る車輪の音を響かせて小道を走っている。林のなかを抜けるには数時間かかる退屈な距離でも、景色は美しい風と音を届けてくれるのだから心配はいらない。
馬車が走る窓の外は雄大な自然。
年中雪が積もる神台メテオの山岳を望みながら進む先は、隣国アルヴィドとシュゼンハイド王国の国境付近に存在する小さな村。
「今向かっているマーリア村はメテオ山脈の谷間にあるとても美しい場所でね。毎年初夏にはコイベリーの収穫祭が行われる」
「コイベリー?」
「リズは食べたことがない?」
馬車に同席するのは薄紅の髪を静かに揺らした十七歳のリヒド・マキナ。まだ薄茶色の優しい瞳をした両眼は健在で、じっとリズを見つめていた。
「それなら楽しみにしているといい。もとは野生していたものを品種改良した野イチゴで、収穫祭では採れたてが味わえるよ」
リヒドと初めて会ったのは、五年前。八歳のリズがグレイス伯爵の家に引き取られてから間もなくして。雪が降るほど寒い日。それはグレイス家と懇意にしているマキナ公爵が、被害を受けたフォンフェンの森への支援の際に屋敷に立ち寄った日のこと。
「こちらがフィオ・マキナ公爵とメアリ夫人だよ」
モーガンに呼ばれて顔を出した部屋には、初めてみるマキナ公爵夫妻の姿。絵本の挿絵に出てくる王子様とお姫様みたいに美しく、並んで笑顔を向けられるとまぶしくて直視できそうにない。生まれながらの貴族というのは、リャシュカの町で見てきた大人たちとは違う匂いがした。世界が交わるはずのない人種。そんな人たちに紹介される意味がわからないと、リズは警戒するようにモーガンの後ろに隠れながらその顔を盗みみていた。
「その子が例の娘かい?」
「まぁまぁまぁまぁ、女の子はやっぱり可愛いわ。わたくしも娘が欲しかったのよ」
今は三匹の兎もいない。頼れるのはモーガンだけだと、リズは二人に覗き込まれる視線に委縮する。それを初めからわかっていたのか、何も答えないリズを確認した公爵夫妻は顔を見合わせてからモーガンにひとつ頷いた。
モーガンが無言で「助かる」と息を吐いたのがわかる。
その息は何を意味するのか、リズは好奇心に負けてその顔を見上げた瞬間、マキナ公爵夫人の後ろに小さな子どもがいることを知った。
「・・・おんなのこ?」
薄紅の髪に薄茶色の瞳。唇の左下にあるほくろが印象的。線の細い儚さはメアリ婦人譲りだが、表情はどこかフィオ公爵に似ている。
「ふふ、可愛いでしょう。でも違うの、この子はリヒド。十二歳よ。どうか仲良くしてちょうだいね」
「リヒド・マキナです。初めまして」
四歳離れた年上の男の子は、令嬢と間違えるほど愛らしかったのだから無理もない。この時見たマキナ公爵家の次男、リヒド・マキナの笑顔はリズの警戒心を一瞬にして吹き飛ばすほどの破壊力を持っていた。
「やはり子どもは子ども同士がいいらしい」
ようやく自分の後ろから出てきたリズに安堵したのか、モーガンがフィオに目配せする。メアリもそれを察したのか、リヒドにリズを頼んで、大人たちは早々に部屋に引きこもってしまった。つまり、自分の屋敷でありながら他人に手を引かれてリズは屋敷を追い出されたことになる。
「ここでいいかな」
二人で手を繋いで訪れたのは屋敷内の温室。雪がちらつく冬の寒さをしのぐには十分な遊び場だった。
「えっと、改めて自己紹介をしよう。マキシオ領を統治するフィオ・マキナ公爵家の次男で、僕の名前はリヒド・マキナ」
そう言って手の甲に口付ける仕草にリズは困惑する。まだ読むことも、書くこともできない絵本の中に出てくる王子様のようだと、知らずと顔も赤く染まる。
「私はリズ・・・リズ・グレイス」
手の甲に触れた唇の柔らかさを思い出しながら、リズは自分の名前を小さく告げる。
静かな冬の温室はどこか白く、透明の窓の向こうには樹齢千年を軽く超える木々が茂ったフォンフェンの森が見えている。こんな場所で次に何を口にすればいいのかと戸惑っているうちに、リズは再び手を引いて歩き出したリヒドにつられて足を踏み出した。
「僕は十二歳になって、今日が初めての視察同行なんだ。だけど、ここにはお父様に連れられて何度も遊びに来ているから、屋敷のことはリズよりもちょっとだけ知っているかな。ああ。フォンフェンの森はすごいね、リズは行ったことある?」
「ない、です」
「そっか。いつか一緒に行けたらいいな」
手を繋いだまま散策していても、リズの視線はずっと森を眺めている。
温室に珍しい植物や花はたくさんあるのに、リズの興味をひくものが外にあると知って、リヒドも話題を森に変えたようだった。
「フォンフェンの森には群青兎っていう獣亜人が住んでいるのは知ってる?」
「・・・うん」
外を見つめたまま小さく首を縦に振ったリズは、そこでようやくリヒドに顔を向ける。
群青兎と聞いて思い浮かぶ顔は決まっている。フォンフェンの森に行ってきたというリヒドなら知っていることがあるかもしれないと、リズは期待を込めた瞳でリヒドに問いかけていた。
「シシオラとゼオラとルオラに会った?」
「それは誰、リズのともだち?」
少し困ったリヒドの顔に、リズの表情も少し曇る。
「だれ」と聞かれても「シシオラはシシオラ」「ゼオラはゼオラ」「ルオラはルオラ」としか答えようがない。
「あ、つがいっていうのなの」
「つがいって、婚約者ってこと?」
「こんやくしゃ?」
「結婚を約束しているってこと。でもそれならどうして傍にいないの?」
「えっと、カイオスが修行だって、太陽が出ている時間は森に連れていっちゃうの。でも、リズはまだ子どもだから、お屋敷にいなきゃいけないの」
なんとか言葉を選び出したリズに、リヒドは「ん-」としばらく考え込んだあとで「寂しいね」と頭を撫でてくる。
「・・・さみしい?」
「心許せる人と離れるのは寂しいと思うよ。だからこれからは太陽が出ている時間は僕が一緒にいてあげる」
よしよしと頭頂部を撫でられる感覚は知っている。
三匹の兎が傍にいるときの温かさと同じ。不思議と心が落ち着く魔法の手。
「ありがとう、リヒドさま」
その手の下からリヒドを見上げたリズは、ようやく年相応の女の子の顔をした。
「・・・リヒドさま?」
なぜか頭を撫でるのをやめてしまったリヒドにリズは首をかしげる。
もっと撫でていてほしいのに、どうしてやめてしまうのか。歩き出したリヒドを追いかけながら、リズはその手を今度は自分から握りしめていた。
「ねぇ、リヒドさまはリズの音がわかる?」
「音?」
「シシオラたちは、リズの音が好きだっていうの。体のなかから音が聞こえるんですって、リヒドさまはリズの音をどう思う?」
「聞くってどうやっ・・・て」
言葉よりも態度で示した方が早い話もある。リズは振り返ったリヒドの心臓に耳をあてて、じっと目を閉じてその音を聞いた。
「リヒドさまは少し早い音がするのね。踊っているみたい」
想像よりも力強い音がしている。可愛い顔をしているからといって、体の中まで可愛い音がするわけではないらしい。シシオラやゼオラ、ルオラに個人差があるように、リヒドの音も今まで聞いたことがない鼓動を奏でている気がした。
「群青兎は傍にいるだけで聞こえる耳を持っているけど、私はこうしないと聞こえないの。リヒドさまもリズの音を聞いてみて」
今度はリヒドの順番だと、リズはじっと動かないリヒドの顔を自分の胸に押し当てる。
「ねぇ、他の人と違う音がする?」
「そう・・・なのか、な」
自分よりも少しだけ背の高いリヒドの頭は、群青兎のように耳が長くないぶん顔の距離が近く感じる。自分で自分の音が聞けない以上、リヒドがいまどういう音を聞いているのかはわからないが、息の音さえ馴染む静寂な温室の端で二人。じっと耳を澄ませて溶けあう体温が心地よく混ざっていく。
「ふふ、リヒドさまの髪がくすぐった・・・っ」
ようやく手を離したリズに解放されたはずのリヒドの顔が、予想に反して胸から離れていかない。むしろ顔をその場に残したまま抱きしめてきたリヒドにリズは固まっていた。
いったい、どう反応するのが正解だろう。
心臓が変な音を出している気がするが、やはり自分ではよくわからない。急激に熱くなってきた気もするが、原因は考えなくてもリヒド以外にはないだろう。
「ごめん。音はわからないけど、リズの声は好き、だと思う」
そう言って胸元から赤い顔で紡がれた告白に、リズも赤い顔で息をのむ。
「私もリヒドさまの、声、好き」
片言になった言葉はうまく伝わっただろうか。リヒドは言葉の代わりに頭を撫でて額にキスをくれた。
その温かさは全身に広がって、恥ずかしさと照れくささを連れてくる。無言で目を合わせて小さく軽く笑った二人は、大人たちが心配するまでもなく数時間でその距離を縮めていた。
そんなわけで、リズの時間はシシオラたちと同じくらいリヒドにも占領されているといっても過言ではない。
出会いから五年。
十七歳のリヒドと十三歳になったリズが、二人で馬車に揺られて出かけるのも珍しいことではなかった。いや、訂正しよう。二人きりというのは、これが初めてと言える。
「わたしと二人では心もとないだろうが、今日は同席してくれて助かるよ」
「いえ。まさか誘っていただけると思っていませんでした」
「どうして?」
「だって今日は大事な仕事として足を運ばれるんでしょう。遊びに行くのではないのに、私も一緒でよかったんですか?」
「遊びではないから、一緒にいく意味があるんだよ」
リズは意味を含んだ笑みを浮かべるリヒドの真意がわからずに首をかしげる。
そもそも窓の外を流れる景色ではなく、じっと見つめられたまま過ぎていく時間が異常に長い。思わず出会いの回想をしてしまうほど、リズはその瞳に自分の顔を映していた。
「まあ、わたしは嫡子ではないからそこまで深刻にとらえなくて大丈夫だよ。マーリア村はマキシオ領ではなく大臣のコカック・ジェイン侯爵が治めるジェイナス領にあるからね。隣接している領と友好的であると村の人々にわかってもらう程度の意味しかない」
「でしたら、大臣もお見えになるのですか?」
「いや、代役が顔を出すと思うよ。国境付近にしては治安がましとはいえ、利便も悪いし、地元名産品の収穫を祈るだけの祭に色々とお忙しいコカック大臣はこないだろう」
その言葉に少しだけホッと肩の荷が下りる。
まだ伯爵令嬢として引き取られて五年。生まれながらの伯爵令嬢であれば、リズが引き取られた年齢にはある程度の教養が身についているというものだが、リズはようやくそれに追いついた程度でしかない。八年間の育ちはそう簡単に埋まるものではなく、人前で失敗せずに振る舞えるかと問われても自信はない。
「ところで、リズ。堅苦しい喋り方をいつまで続けるつもりかな?」
マーリア村の言葉はアルヴィド語が混ざると言われていたことを思い出して、挨拶の言葉は何だったかと呟いていたリズは、リヒドに名前を呼ばれて顔をあげる。
美しい顔に見つめられて、心臓が跳ねた気がした。
「そっ、外では令嬢らしくあれと、お義父様が」
「ここにモーガン様はいないし、わたしが許そう」
圧力のある気配に熱が上ってくる。馬車の揺れのせいにしてリヒドに触れたい。そう願ってしまった自分の意図を知りたい。
「リズ」
「はっ、はい」
その指が差した窓の外。リズは見慣れた長い耳がそこにあるのを見つけた。
第1話:二人きりのお出かけ
グレイス伯爵家に引き取られて五年。十三歳になったリズはその日、薄い桃色のドレスを着て出かけていた。
晴れた初夏の陽射しは地面に馬車の影を描き、回る車輪の音を響かせて小道を走っている。林のなかを抜けるには数時間かかる退屈な距離でも、景色は美しい風と音を届けてくれるのだから心配はいらない。
馬車が走る窓の外は雄大な自然。
年中雪が積もる神台メテオの山岳を望みながら進む先は、隣国アルヴィドとシュゼンハイド王国の国境付近に存在する小さな村。
「今向かっているマーリア村はメテオ山脈の谷間にあるとても美しい場所でね。毎年初夏にはコイベリーの収穫祭が行われる」
「コイベリー?」
「リズは食べたことがない?」
馬車に同席するのは薄紅の髪を静かに揺らした十七歳のリヒド・マキナ。まだ薄茶色の優しい瞳をした両眼は健在で、じっとリズを見つめていた。
「それなら楽しみにしているといい。もとは野生していたものを品種改良した野イチゴで、収穫祭では採れたてが味わえるよ」
リヒドと初めて会ったのは、五年前。八歳のリズがグレイス伯爵の家に引き取られてから間もなくして。雪が降るほど寒い日。それはグレイス家と懇意にしているマキナ公爵が、被害を受けたフォンフェンの森への支援の際に屋敷に立ち寄った日のこと。
「こちらがフィオ・マキナ公爵とメアリ夫人だよ」
モーガンに呼ばれて顔を出した部屋には、初めてみるマキナ公爵夫妻の姿。絵本の挿絵に出てくる王子様とお姫様みたいに美しく、並んで笑顔を向けられるとまぶしくて直視できそうにない。生まれながらの貴族というのは、リャシュカの町で見てきた大人たちとは違う匂いがした。世界が交わるはずのない人種。そんな人たちに紹介される意味がわからないと、リズは警戒するようにモーガンの後ろに隠れながらその顔を盗みみていた。
「その子が例の娘かい?」
「まぁまぁまぁまぁ、女の子はやっぱり可愛いわ。わたくしも娘が欲しかったのよ」
今は三匹の兎もいない。頼れるのはモーガンだけだと、リズは二人に覗き込まれる視線に委縮する。それを初めからわかっていたのか、何も答えないリズを確認した公爵夫妻は顔を見合わせてからモーガンにひとつ頷いた。
モーガンが無言で「助かる」と息を吐いたのがわかる。
その息は何を意味するのか、リズは好奇心に負けてその顔を見上げた瞬間、マキナ公爵夫人の後ろに小さな子どもがいることを知った。
「・・・おんなのこ?」
薄紅の髪に薄茶色の瞳。唇の左下にあるほくろが印象的。線の細い儚さはメアリ婦人譲りだが、表情はどこかフィオ公爵に似ている。
「ふふ、可愛いでしょう。でも違うの、この子はリヒド。十二歳よ。どうか仲良くしてちょうだいね」
「リヒド・マキナです。初めまして」
四歳離れた年上の男の子は、令嬢と間違えるほど愛らしかったのだから無理もない。この時見たマキナ公爵家の次男、リヒド・マキナの笑顔はリズの警戒心を一瞬にして吹き飛ばすほどの破壊力を持っていた。
「やはり子どもは子ども同士がいいらしい」
ようやく自分の後ろから出てきたリズに安堵したのか、モーガンがフィオに目配せする。メアリもそれを察したのか、リヒドにリズを頼んで、大人たちは早々に部屋に引きこもってしまった。つまり、自分の屋敷でありながら他人に手を引かれてリズは屋敷を追い出されたことになる。
「ここでいいかな」
二人で手を繋いで訪れたのは屋敷内の温室。雪がちらつく冬の寒さをしのぐには十分な遊び場だった。
「えっと、改めて自己紹介をしよう。マキシオ領を統治するフィオ・マキナ公爵家の次男で、僕の名前はリヒド・マキナ」
そう言って手の甲に口付ける仕草にリズは困惑する。まだ読むことも、書くこともできない絵本の中に出てくる王子様のようだと、知らずと顔も赤く染まる。
「私はリズ・・・リズ・グレイス」
手の甲に触れた唇の柔らかさを思い出しながら、リズは自分の名前を小さく告げる。
静かな冬の温室はどこか白く、透明の窓の向こうには樹齢千年を軽く超える木々が茂ったフォンフェンの森が見えている。こんな場所で次に何を口にすればいいのかと戸惑っているうちに、リズは再び手を引いて歩き出したリヒドにつられて足を踏み出した。
「僕は十二歳になって、今日が初めての視察同行なんだ。だけど、ここにはお父様に連れられて何度も遊びに来ているから、屋敷のことはリズよりもちょっとだけ知っているかな。ああ。フォンフェンの森はすごいね、リズは行ったことある?」
「ない、です」
「そっか。いつか一緒に行けたらいいな」
手を繋いだまま散策していても、リズの視線はずっと森を眺めている。
温室に珍しい植物や花はたくさんあるのに、リズの興味をひくものが外にあると知って、リヒドも話題を森に変えたようだった。
「フォンフェンの森には群青兎っていう獣亜人が住んでいるのは知ってる?」
「・・・うん」
外を見つめたまま小さく首を縦に振ったリズは、そこでようやくリヒドに顔を向ける。
群青兎と聞いて思い浮かぶ顔は決まっている。フォンフェンの森に行ってきたというリヒドなら知っていることがあるかもしれないと、リズは期待を込めた瞳でリヒドに問いかけていた。
「シシオラとゼオラとルオラに会った?」
「それは誰、リズのともだち?」
少し困ったリヒドの顔に、リズの表情も少し曇る。
「だれ」と聞かれても「シシオラはシシオラ」「ゼオラはゼオラ」「ルオラはルオラ」としか答えようがない。
「あ、つがいっていうのなの」
「つがいって、婚約者ってこと?」
「こんやくしゃ?」
「結婚を約束しているってこと。でもそれならどうして傍にいないの?」
「えっと、カイオスが修行だって、太陽が出ている時間は森に連れていっちゃうの。でも、リズはまだ子どもだから、お屋敷にいなきゃいけないの」
なんとか言葉を選び出したリズに、リヒドは「ん-」としばらく考え込んだあとで「寂しいね」と頭を撫でてくる。
「・・・さみしい?」
「心許せる人と離れるのは寂しいと思うよ。だからこれからは太陽が出ている時間は僕が一緒にいてあげる」
よしよしと頭頂部を撫でられる感覚は知っている。
三匹の兎が傍にいるときの温かさと同じ。不思議と心が落ち着く魔法の手。
「ありがとう、リヒドさま」
その手の下からリヒドを見上げたリズは、ようやく年相応の女の子の顔をした。
「・・・リヒドさま?」
なぜか頭を撫でるのをやめてしまったリヒドにリズは首をかしげる。
もっと撫でていてほしいのに、どうしてやめてしまうのか。歩き出したリヒドを追いかけながら、リズはその手を今度は自分から握りしめていた。
「ねぇ、リヒドさまはリズの音がわかる?」
「音?」
「シシオラたちは、リズの音が好きだっていうの。体のなかから音が聞こえるんですって、リヒドさまはリズの音をどう思う?」
「聞くってどうやっ・・・て」
言葉よりも態度で示した方が早い話もある。リズは振り返ったリヒドの心臓に耳をあてて、じっと目を閉じてその音を聞いた。
「リヒドさまは少し早い音がするのね。踊っているみたい」
想像よりも力強い音がしている。可愛い顔をしているからといって、体の中まで可愛い音がするわけではないらしい。シシオラやゼオラ、ルオラに個人差があるように、リヒドの音も今まで聞いたことがない鼓動を奏でている気がした。
「群青兎は傍にいるだけで聞こえる耳を持っているけど、私はこうしないと聞こえないの。リヒドさまもリズの音を聞いてみて」
今度はリヒドの順番だと、リズはじっと動かないリヒドの顔を自分の胸に押し当てる。
「ねぇ、他の人と違う音がする?」
「そう・・・なのか、な」
自分よりも少しだけ背の高いリヒドの頭は、群青兎のように耳が長くないぶん顔の距離が近く感じる。自分で自分の音が聞けない以上、リヒドがいまどういう音を聞いているのかはわからないが、息の音さえ馴染む静寂な温室の端で二人。じっと耳を澄ませて溶けあう体温が心地よく混ざっていく。
「ふふ、リヒドさまの髪がくすぐった・・・っ」
ようやく手を離したリズに解放されたはずのリヒドの顔が、予想に反して胸から離れていかない。むしろ顔をその場に残したまま抱きしめてきたリヒドにリズは固まっていた。
いったい、どう反応するのが正解だろう。
心臓が変な音を出している気がするが、やはり自分ではよくわからない。急激に熱くなってきた気もするが、原因は考えなくてもリヒド以外にはないだろう。
「ごめん。音はわからないけど、リズの声は好き、だと思う」
そう言って胸元から赤い顔で紡がれた告白に、リズも赤い顔で息をのむ。
「私もリヒドさまの、声、好き」
片言になった言葉はうまく伝わっただろうか。リヒドは言葉の代わりに頭を撫でて額にキスをくれた。
その温かさは全身に広がって、恥ずかしさと照れくささを連れてくる。無言で目を合わせて小さく軽く笑った二人は、大人たちが心配するまでもなく数時間でその距離を縮めていた。
そんなわけで、リズの時間はシシオラたちと同じくらいリヒドにも占領されているといっても過言ではない。
出会いから五年。
十七歳のリヒドと十三歳になったリズが、二人で馬車に揺られて出かけるのも珍しいことではなかった。いや、訂正しよう。二人きりというのは、これが初めてと言える。
「わたしと二人では心もとないだろうが、今日は同席してくれて助かるよ」
「いえ。まさか誘っていただけると思っていませんでした」
「どうして?」
「だって今日は大事な仕事として足を運ばれるんでしょう。遊びに行くのではないのに、私も一緒でよかったんですか?」
「遊びではないから、一緒にいく意味があるんだよ」
リズは意味を含んだ笑みを浮かべるリヒドの真意がわからずに首をかしげる。
そもそも窓の外を流れる景色ではなく、じっと見つめられたまま過ぎていく時間が異常に長い。思わず出会いの回想をしてしまうほど、リズはその瞳に自分の顔を映していた。
「まあ、わたしは嫡子ではないからそこまで深刻にとらえなくて大丈夫だよ。マーリア村はマキシオ領ではなく大臣のコカック・ジェイン侯爵が治めるジェイナス領にあるからね。隣接している領と友好的であると村の人々にわかってもらう程度の意味しかない」
「でしたら、大臣もお見えになるのですか?」
「いや、代役が顔を出すと思うよ。国境付近にしては治安がましとはいえ、利便も悪いし、地元名産品の収穫を祈るだけの祭に色々とお忙しいコカック大臣はこないだろう」
その言葉に少しだけホッと肩の荷が下りる。
まだ伯爵令嬢として引き取られて五年。生まれながらの伯爵令嬢であれば、リズが引き取られた年齢にはある程度の教養が身についているというものだが、リズはようやくそれに追いついた程度でしかない。八年間の育ちはそう簡単に埋まるものではなく、人前で失敗せずに振る舞えるかと問われても自信はない。
「ところで、リズ。堅苦しい喋り方をいつまで続けるつもりかな?」
マーリア村の言葉はアルヴィド語が混ざると言われていたことを思い出して、挨拶の言葉は何だったかと呟いていたリズは、リヒドに名前を呼ばれて顔をあげる。
美しい顔に見つめられて、心臓が跳ねた気がした。
「そっ、外では令嬢らしくあれと、お義父様が」
「ここにモーガン様はいないし、わたしが許そう」
圧力のある気配に熱が上ってくる。馬車の揺れのせいにしてリヒドに触れたい。そう願ってしまった自分の意図を知りたい。
「リズ」
「はっ、はい」
その指が差した窓の外。リズは見慣れた長い耳がそこにあるのを見つけた。
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