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《第1章》リャシュカの港町

第2話:クレイジーバニー

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第2話:クレイジーバニー


切れた口の中が痛い。
そもそも痛くない場所がどこもない。水仕事で手足の指先は細かい切れ目が出来ているし、簡素な服は雪が降る夜の気温を一身に受けて凍りついている。正直、感覚がない。それでもなぜか、名前のない幼いリズはあてもなく歩き続けていた。


「ねぇ、聞いた。群青兎=ブルーラビットを展示しているんですって」

「展示っていうか、あれは軍の輸送車が休憩しているだけだろ」

「ええ、でも見てみたい。群青兎の子どもなんて滅多にお目にかかれないもの」

「さっき見てきたけど眠っているだけだったぞ。あ、でも三匹のうち一匹は真っ白の毛をしていたな」

「それってアルビノ種じゃない。珍しい、触りたい」

「やめとけって。獣亜人の近くによって、噛みつかれでもしたらどうするんだよ」

「あら意気地なし」


腕を組んで歩く男女が建物の中に消えていく。この町では自然なこと。森と海の境に位置するリャシュカの町は、定期的に貿易船が荷物を運び入れ、行商人たちが憩う場所。男たちが町を訪れた際に女を買うのは必然な流れであり、その恩恵をうけて町の経済は回っている。


「スキンベリーに行こうぜ」

「あそこは金のあるやつが行くところだ、俺たちには縁がないって」


酔った男たちが口々に吐き出すのは「スキンベリー」という店の名前。今しがたそこから這い出してきた汚い少女がすぐそこを横切ったことなど、視界に入っていないだろう。


「それにいい噂は聞かない。金が払える限りは問題ないだろうが、手練手管の虜になって高利貸しに借金し始めたらもう終わりだ。表向きは高級娼館だが、裏で人身売買や臓器売買なんかもやってるらしい」

「けど、それこそ俺たち一般客には関係ない話だろ。ああ、一度でいいからスキンベリーの娼婦を抱いてみてぇ」

「じゃあ、ブルーラビットの毛皮で出来たコートを持っていけよ」

「なんでそこで群青兎のコート?」

「娼館を経営するロワイト婦人が欲しいんだとよ。なんでもつい先日起こったクレイジーバニー事件、噂によるとあれはイザハ帝国の海賊が関与してるらしい。何か癒着でもあんだろ。群青兎の毛皮で出来たコートなんて、王様でも手に入らねぇってのに」

「まじかよ。まともじゃないぜ」


酒で饒舌に回る声は上機嫌に会話を楽しんでいる。だけどそれがなんだというのだろう。世間が見えている世界と自分が見ている世界は違う。これだけ煌びやかなもので溢れた夜の町でも、少女の視界にはモノクロの寂しさしか映らない。どこへ行けばいいのか、どこへ向かっているのか。
そもそも、自分はどうして歩き続けているのか。その答えさえわからないというのに。


「はぁ」


吐き出した息が白く染まる。
人ごみの喧騒がひしめき合う広場の中心から見上げた空は、星さえ見えないほど仄暗い。静かに降り積もる雪が溶けて踏みならされて行くが、冷たく凍えさせるその泥にさえ何も感じない。
腐り落ちても気付かないかもしれない。


「・・・っ?」


何かが呼ぶ声が聞こえた気がした。


「・・・だ、れ?」


裸足で歩き続けた足は血が滲み、雪と泥が混じった地面の上を歩きだす。


「っ!?」


暗闇に誘い込まれるように訪れた場所で、リズはそれを見た。一寸先もわからない暗闇に浮かぶ六つの逆さ三日月。それが三匹の獣亜人が持つ瞳だとわかるほど近づいた時には、冷たい鉄の檻がリズのおでこを打ち付けていた。


「・・・ぅぅ」


鉄の檻で強打した頭が痛い。
額を抑えてうずくまったリズは、それでもすぐに気を取り直して、再度その不思議な瞳に顔を向けた。


「・・・・・・」


無意識に手を伸ばす。怖くはなかった。
唸り声をあげ、鋭い牙と爪で威嚇する三匹の姿は暗闇のなかではよく見えない。ただ魅せられたように、月に手を伸ばすだけ。


「そこにいるのは誰だ!?」

「キャッ!?」


声と同時に捕まれた髪が痛い。檻から引きはがそうと後方に加わった力で、リズは尻餅をつくようにその場に投げ捨てられた。


「なんだ、おい。どこのガキだ」

「っぅ・・ぁ」


なぜ大人は無抵抗の人間を蹴るのだろう。その答えはリズにはわからない。
見たところ町の人でなさそうだった。軍服を着ているが、なぜこんな場所にいるのかもわからない。


「やめろ、女のガキだ。売り物なら弁償だぞ。その辺にしておけ」

「けど、こいつ群青兎の檻に近づきやがった。みろ、こいつら起きてやがる」

「だからって別に逃がそうとしてたわけじゃないだろ?」

「いくら檻のなかに入れて隠しているからって、本物の軍に見つかりでもしたら俺らがヤベェんだぞ?」

「こんな貧相なガキひとりに何もできゃしねぇよ。物珍しくて近寄っただけだろ、それでなくてもこの逆さ三日月の瞳には魔力が宿ってるって話じゃねえか。ま、お前が蹴らなきゃこいつは、こいつら獣の餌になってただろうがな」

「じゃあ、俺はさしずめ命の恩人ってところか?」

「まあ、そんなところだろうな」

「じゃあ、ちゃんと礼をしてもらわなきゃならねぇな」

「おいおい、こんなガキ。使いもんになんのか?」

「穴がありゃどうとでもなんだろ。こんだけボロボロなんだ、なにがどこでどうなったかなんて今さらだろ」

「ふはは、やべぇのはどっちだよ」


蹴られた場所が、変に熱を帯びてじんじんと痺れた感覚を連れてくる。寒さにかじかんだ手足は感覚を失って、体を起こすことすらままならないというのに、目の前の大人たちはまだ暴力を与え足りないらしい。


「さて、お嬢ちゃん。どこのガキか知らねぇが、元の場所に帰す前に俺たちの相手をしてくれや」


鼻を摘ままれた顔が無意識に口を開ける。荷台に背中を預けるように抑え込まれて逃げられる場所はどこにもない。
すぐ真後ろでは三匹の獣が狂ったように暴れているが、その爪や牙は檻の中で音を鳴らすだけで周囲の喧騒は目もくれない。そもそも小さな少女が、そこにいるとは誰も思わないだろう。
軍人のふりをした男がズボンの隙間からみせたそれで、今から犯されそうになっていることなど夢にも思わないだろう。
二人はどちらが先に犯すかを決めた後、ひとりを見張り役に見立てて、ひとりずつやることにしたらしい。最初にリズを蹴った男が先陣を切って、無表情に固まるリズの口にそれを押し込んだ。


「ん?」


無抵抗のリズの様子に、自身を突っ込んだ男は首をひねる。


「なんだ、慣れてんのか?」

「どうした?」

「いや、反応がなさすぎてちょっと拍子抜けっつうか」

「どうでもいいけど早くしろよ。どのみちあと一時間でロワントの旦那と落ち合う予定になってんだ」

「あ、ああ。いけね、そうだった」


そこから先は知っている苦しみの繰り返し。頭を両手で掴まれ、喉の奥まで腫れた異物を差し込まれる。歯を当てれば殴られることは知っていた。逆に言えばそれ以外知らない。


「っ、やべ。なんだこのガキ、そんな目で見られるとこっちが悪いことしてるみてぇじゃねぇか」

「てかお前、よく口に突っ込めるな。噛みきられでもしたらどうするよ?」

「押し返そうと必死な舌がキモチイイから心配いらね・・っ・・こいつ本当に鳴かねぇな」


客をじっと見上げる。歯をたてない。それさえ守ればいいのなら、リズに出来ることは限られている。


「・・っ・・くそっ。出る、これはお前が俺に尽くす礼を手伝ってやってんだ・・クッ・・わかってんのか?」

「ッ・・・っん」

「ほら、飲め。一滴もこぼすんじゃねぇぞ」


激しい抜き差しを繰り返していた男の腰が深く密着して止まると同時に、リズの口内には今まで味わったことのない粘着質の液体が広がっていた。こぼさないように飲めといわれても、おびただしい量を送り込まれて吐き出さない方がどうかしている。ただ殴られたくない一心で、リズは異物が引き抜かれたばかりの口を両手でおさえてそれを防いでいた。


「いやぁ、よかったよかった。すでに娼館で客とってんのかもしれねぇぜ?」

「だったら話は早いぜ。ってか、さっきからこいつらすっげぇ暴れてんだけど」

「檻の中じゃどうせ何も出来ないだろ。いいからお前も早くやっとけ」

「それもそうだな。時間もないしってッうわぁ」

「なんだよ、でかいこ、え・・・」


口に両手をあてて必死に飲み込む奮闘をしていたリズには、その音の意味がすぐには理解できなかった。
高い金属の音と鈍い音、そして生暖かい雨が降り注ぐ。六つの逆さ三日月が自分を守るように半円を描き、その瞳が見つめる先で、無残に切り刻まれた仲間をみて腰を抜かした男が何かを叫んでいる。


「やりやがった、ちくしょう、やりやがったな」


軍人に似せた服から細長い剣を取り出した男が、発狂しながら取り乱している。恐怖と向き合っていると表現した方がいいのだろう。それでもリズにはそれがわからない。
何が起こっているのかわからない。
トラックを隠していた暗幕が切り裂かれ、雪の舞う空に躍り出た三匹の兎は、頭に長い耳を生やし、ふさふさとした長い尻尾を持ち、黒い眼球に輝く金色の逆さ三日月を浮かべている。
そして、なぜか発狂していた男がばらばらに砕け、吹き出した血が雨のように舞う。先ほど浴びた生温かな雨もきっとそれだろう。


「キャァァアアァァアァ」


異常事態を目の当たりにした自分じゃない誰かの悲鳴を聞きながら、リズは驚きに開いた口から白濁の液体を垂れ流していた。


「クレイジーバニーよ、誰か、誰かぁ」

「おい、軍を呼んでくれ。クレイジーバニーが出た」

「子どもでも油断するな、近づくなよ、殺されるぞ」


夜の情事を楽しんでいた大人たちが喧騒に混乱と警鐘を叫んでいる。我先に逃げ出す人、戦うかまえを見せる人、この騒ぎを聞いて駆けつけてきたのは、本物の軍人と、リズを探していたあのロワイト夫妻の手下たち。


「あのガキ、あんなところにいやがった」

「おい、さっさとこっちに来い」


一定の距離から叫ぶ声にリズの体が無意識に反応する。大人の命令に逆らうことは出来ないと、なぜか自分から離れない三匹の兎の中心で立ち上がっていた。が、その体はその場から一歩も動けない。
観衆に牙をむく兎たちのほうが、大人たちよりも怖くない。
この三匹から離れたくない。そう思った瞬間、リズは無意識に三匹のうちの一匹の腕を掴んでいた。
「だいじょうぶ」たしかにそう言われた気がする。その真意が曖昧になったのは、周囲の喧騒を切り裂くように人々がひとりの大人に道を譲ったからに他ならない。人垣に出来た道を進むように静かに近づいてきた栗色の髪をした大人は、取り巻く空気が他とは少し違うような気がした。


「・・・これは、いったい」


辺り一帯に視線をはしらせて、次いでリズと三匹の逆さ三日月を持つ兎を見つめる。


「群青兎が人間の少女を守っているのか?」


誰にでもなく呟かれたその言葉がのちの運命を左右することなど、まだ誰も知らない。それでもこの夜、たしかに物語は今までの道と異なる道を歩み始めていた。
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