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第一部

彼のあとさき

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 フラエが次に目を覚ましたとき、清潔なベッドの上にいた。個室で寝かされており、広々としたそこは、南向きの窓から光が差し込んでくる。恐らく病院だろう。明るい部屋だった。
 火傷した掌には、軟膏が塗られた上に包帯がされているようだった。入院用のガウンを着ていて、ベッドから降りてぺたぺたと裸足のままで歩く。部屋の中心に置かれた机の上には、ディールの置手紙があった。
 彼は明日、改めて見舞いに来るようだった。そして、そこで伝えたいことがあるらしい。
 ディールの手紙を一旦机の上に戻した。フラエはどっと疲れて、ベッドに戻って横になる。ディールの気持ちには気づいていたが、自分は、それにどう返せばいいのだろうか。何を返せるのだろうか。
 下腹部に手をやり、そっと撫でる。竜が入り、グノシスが種をつけたというこの胎。どうにもむずむずして、自分の身体を大事にしなければいけない、となぜか気負ってしまう。
 グノシスに意識がないまま抱かれたことも、孕まされたことも、不思議と嫌でも怖くもない。ただ現実味がなくて、奇妙な高揚感の中にフラエは漂っていた。
 そのとき、病室の扉が開く。飛び込んできたのはミスミだった。
「フラエ!」
 身体的接触を避けるきらいのある親友にしては珍しく、彼はフラエに腕を伸ばし、抱きしめた。そして背中をさすり、「生きていてよかったぁ」と涙声で言う。
「お前、大変だったんだってな」
 聞いたよ、と彼は言う。どこまで聞いているんだろうと思いながら抱きしめられていると、「大丈夫か?」と、彼は改まった口調で尋ねた。身体を離し、フラエとしっかり目を合わせる。
「すごく不躾なことを聞くぞ。殿下にされたことで、お前は、傷ついていないか」
「どのことなのか分からないね……」
 苦笑いすると、ミスミは「昨晩のやつだ」と、静かに言った。フラエは彼の言わんとすることを理解して、首を横に振る。
「あれは、僕を助けるために、仕方なかったんだ」
「……身体は、大丈夫か?」
 暗に心も案じる彼に、フラエは「心配性だな」と肩を竦めた。大丈夫だよ、という言葉が、自然と口をつく。
「ミスミは、僕が強姦されたと思ってるかもしれないけど」
 その直接的な物言いに、「言い方」とミスミが顔をしかめる。いつものやり取りに、フラエは花のように笑った。
「僕は、別にそう思っていないよ。殿下のことが好きだからね」
 ミスミはその言葉を聞いて「お前さ~……」と頭を抱えた。たっぷりとため息を吐いて、膝を叩いて顔を上げる。
「そういう問題じゃないんだが、ま、いいや」
 諦めたように、それでいてほっとしたように、ミスミはまたため息をついた。お前だもんなぁ、としみじみと言う彼に、「僕だからね」とフラエは胸を張る。
「僕でなければ、とてもじゃないけど、彼の相手は務まらないよ」
「それは同意できちゃうんだよな」
 ミスミは膝に肘を置き、「元気そうでよかった」と優しい顔で言った。フラエは頷き、ありがとう、と礼をする。
「心配してくれて、嬉しいよ」
「そりゃ心配するぞ。友達のことだからな」
 その言葉に、一瞬時が止まる。そして二人は同時に弾けるように笑いだして、だんだんとミスミの声が涙交じりになる。彼は頬を伝う涙を手の甲で拭う。
「本当に、つらいことがあったら、言ってくれよな……!」
「だから何もないんだって」
 おおよしよし、と大げさに背中を叩いてやる。彼は「フラエは俺と古本屋をするはずだったのに……」としくしく泣き始めた。
「初耳だけど」
「お互い定年まで独身だったら、二人で面白おかしく暮らしたかった……」
 それも悪くなかったねぇ、とフラエはのんびり言う。だけど今のフラエは、隣にいたい人がいた。
「古本屋、一人でやってね」
「俺が結婚とかする可能性を捨てるな!」
 噛みつくミスミに、また笑い声をあげた。
 それから彼はすぐに「じゃあ、俺は戻るわ」と立ち上がる。わざわざ業務を抜けてきていたらしい。あ、そうそう、と置き土産に、グノシスのことも教えてくれた。
「お前が治癒魔術を使ったからか、ほとんど無傷だったって。後遺症なんかはこれからの経過観察で見ていくそうだ」
 そっか、とフラエは頷いた。無意識に下腹部を摩り、「会いたいな」と呟く。ミスミは眩しそうに窓の外を見て、「ま、ゆっくり休んでくれや」と立ち上がった。
「また見舞いに来るよ。欲しいものはあるか?」
「フルーツ盛り合わせ、寮の近くのケーキ屋の一番高いケーキ、いつもの定食屋のプリン」
「図々しくてびっくりした」
 じゃあな、と手を振って彼は立ち去っていった。残されたフラエはまたベッドに寝そべり、目を閉じる。
 気がつくと日がすっかり落ちており、夕食が運ばれてくる時間だった。薄味の粥を啜り、空になった食器を戻す。病院の人々は時折フラエを奇異の目で見るものの、概ね平穏に過ごせそうだ。食べて、寝る。それ以外にやることがなくて、退屈ではある。
「僕は後、何日くらいここに入院しないといけないんですか?」
 医者に尋ねると「経過観察次第」という返事が返ってきたので、一日でも早く回復しよう、とフラエは誓った。
 その日はすぐに眠り、翌朝は早くに起きだした。食事をとってから病院内を軽く散歩し、花壇を見て回る。ぶらぶらと歩きまわるフラエに、看護師が声をかけた。
「面会の方がいらっしゃっていますよ。ディール=ヘイリーさんとおっしゃるそうです」
 そうですか、とフラエは頷いた。
「今、行きます。彼はどこにいますか?」
「面会室にご案内しています」
 重たい息を吐き、フラエは面会室に向かって歩き出した。燦燦と午前の光が差し込む廊下を行き、面会室の木製の扉を開く。
「フラエ」
 ディールはフラエを見て、蕩けるように微笑む。フラエは頷いて、机を挟んで彼の正面に座る。彼は迷うように指を組み、俯いた。
「……話したいことがあるんだ」
「うん。置手紙で見た」
 フラエが肯定すると、彼は照れたように笑った。首の後ろを掻き、また頷く。面会室の窓から差し込む光は、白い部屋をますます清潔に見せていた。ディールは迷うように視線をさ迷わせ、目を瞑る。
 そして決心したように目を開け、姿勢を正した。真っすぐフラエを見つめ、「フラエ=リンカー」と、改まった呼び方をする。
「好きです。僕は、あなたを愛しています」
「ごめんなさい」
 フラエは、深々と頭を下げた。ディールは「悩んですらくれないか」と苦笑して、椅子の背もたれに体重を預ける。フラエは頭をあげて、「ごめんね」と重ねて言った。
「君の気持ちに、たくさん甘えさせてもらったと思う。それには感謝しているし、申し訳ないと思っているよ」
「いいんだよ、そんなの。好きでやってたんだから」
 あぁでも、やばいな。彼は呟いて、目元をそっと拭った。泣かせてしまった気まずさと申し訳なさで、フラエは口をつむぐ。
「僕は、君のことを友達として、親愛の情を抱いているよ」
「ああ、……そうだね」
 ディールは何かを耐えるように微笑んだ。ずっと、好きだったんだ。彼は言う。
「騎士団にいた頃から、好きだった」
「僕のこと好きだったのに、あんな態度だったの……?」
 フラエが思わず漏らした言葉に、ディールはぎくりと動作を止めた。さすがに失言だったとフラエはひやりとしたが、この言葉に悪意はない。言葉に困っていると、彼は「そうだね」と静かにうなだれた。少し赤くなった目元でフラエを見て、へらりと笑う。その青い瞳からは、ほろほろと涙が流れていた。
「ごめんね。……ごめんなさい。好きな人に、するような態度じゃ、なかった。先に、こっちをちゃんと謝るべきだった、ね」
「そうかも。でも僕も僕で、君には酷かったよ」
 絶対にディールを許すことはない、と、本当のことは言わない。フラエは包帯の巻かれた右手を差し出した。ぼんやりとしているディールに、「和解の握手」とフラエは言った。
「僕は、グノシスが好きなんだ。中級学校で同級生だったときから、ずっと」
 がん、と殴られたように彼がショックを受けたのが、手に取るように分かった。それに構わず、だからね、とフラエは続ける。
「君は、再会してからはずっと、僕に誠実でいてくれたと思う。好意も分かりやすく示してくれた。……だけどずっと前から、僕にはグノシスがいたんだ」
 僕の方こそごめんね、とフラエは言う。ディールは目元の涙を掌で拭い、「ううん」と首を横に振った。そしてフラエの手を取り、礼儀正しい強さで握る。
「ありがとう、フラエ」
 ディールはそう言って、花のように微笑んだ。フラエも微笑んで、礼儀正しい強さで握り返す。
「君のことを友達と思う気持ちは、本当だよ」
「やめてよ、みじめになる」
 ディールはそう笑って、手荷物の中から箱を取り出した。王都でも人気の菓子店の焼き菓子だ。
「もしよければ、君が食べて」
 ディールはそれを渡して、手早く荷物をまとめはじめた。フラエはそれを呼び止めず、じっと箱を見つめていた。
「フラエ」
 ディールは扉に手をかけ、フラエを振り返った。彼は申し訳なさそうな、それでも少しだけスッキリした顔で微笑む。
「ありがとう。……幸せでいてね」
 そう言って、ディールは去っていった。フラエは残された箱菓子を手に取り、しげしげと眺めた。この価格帯は、フラエの今の給料では手を出しにくいものだ。
 ありがたくいただくことにした。封を開けると、クッキーやマドレーヌといった菓子がたっぷり入っていた。
 ディールがどんな気持ちでこれを買ったかなんて、フラエは知る由もない。知ろうとも思わない。口に入れたその焼き菓子は甘くて、美味しくて、重苦しかった。
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