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第一部

春嵐

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 ダンジョン発生まで残り二、三日だろうということで、騎士団内の緊張も高まってきていた。
 訓練に混ざり始めたフラエが見た限りでは、訓練により打ち込む者もいれば、気もそぞろになっている者もいるようだ。
「ダンジョンが発生するって分かっているなら、事前に魔力溜まりを解消できないのか?」
「霊脈が活発になっていて、常に火属性の魔力が噴き出しているから無理なんだそうだ」
「何かパスを繋いで外に出すとか」
「それができないくらい大量に魔力が噴き出ているらしい」
 騎士たちの雑談を聞きながら、フラエは一人走り込んでいた。今回、フラエに期待されているのは戦力になることではない。もしもの場合の交渉役として、その場に存在することを求められている。実際、フラエがどれだけ鍛えても、彼は大した戦力にはならないことは分かっていた。だからこそ、少しでも足手まといにならないための努力をしている。
 研究職になってから、騎士団時代と比べて体力が落ちてしまった。少しでもスタミナをつけようと走るフラエに、一部の騎士たちは好奇の目を向けている。
「あれがリンカー公爵家の」
「マジでかわいいな……」
「弱そう。あれで戦えるのか?」
 全部聞こえている。遠くで彼らの指導者が怒鳴る声が聞こえた。そのまま怒られていろ、と内心舌を出しながら、フラエは自分で定めた距離を走り終える。呼吸を落ち着かせていると、水筒が差し出された。腕を辿ると、ディールだ。
「お疲れ様」
 彼はやわらかい口調で言う。ありがとう、と礼を言って受け取れば、やはり彼は華やかな笑みを浮かべる。
 フラエはどっかりと地面に座り込み、空を見上げた。花の月の真ん中辺りにグノシスの誕生日があり、彼はもうすぐ二十五歳になる。その日にまつわる式典は、今回のダンジョン攻略で延期になっているようだった。フラエには、関係ないことなのだが。
「もうすぐだね。ダンジョン発生」
 ディールがそう言って、隣に座り込む。うん、と頷くと、彼が少しだけ距離を詰めた。
「不安?」
「まぁ、何が起こるか、分からないからね」
 やんわり認めると、ディールは熱くてやわらかい目でフラエを見つめた。強い風が吹き、フラエの髪が揺れる。木の葉がついてるよ、とディールが頭に手を伸ばし、そっと払った。気まずくなって視線を遠くへ向けると、グノシスがいる。
 彼は剣を構え、師範役と話していた。いつになく真面目な顔で話しているので、フラエは思わず、少し見惚れてしまった。彼のきんいろの髪が光を浴びて輝いていて、綺麗だ。
 フラエ? というディールの声で、はっと我に返った。慌てて立ち上がる。
「僕、これから剣の訓練に混じってこようかな」
 早口に言うと、「それなら僕が相手になろうか」とディールが立ちあがる。
「付き合うよ」
「ううん、大丈夫」
 首を横に振る。
「僕とディールじゃ実力差がありすぎる。僕の訓練にはなるだろうけど、ディールのためにはならない」
 そう言えば、彼は少し、虚をつかれた顔をした。そして黙り込む。ディール? とフラエが言うと、彼は。フラエの頬に、手を当てて。
「フラエ」
 ぱっ、とその手が離れる。気がつけばすぐそこにグノシスが立っていて、二人を強く睨みつけていた。
「浮気か?」
「そもそも僕たちは恋人ではないです」
 フラエが反射的に口答えをすると、グノシスは腕組みをした。それは、そうなんだが……と歯切れ悪く弁明する。
「誕生日に送った、俺の手紙は読んだだろう」
「読んでいません」
「そんなに忙しいのか」
 労わるような声色の彼に、無性に腹が立った。しらっとした目で見上げても、彼には効かない。
「僕が、あなたからの手紙を読まないとは、考えられないんですね」
 思わず口を突いたうかつな言葉に、ディールが目を剥いた。しかしグノシスは大して気にした風もなく、「お前は絶対に読む」と決めつけた。
「なぜなら、俺のことが好きだからな」
「そう、……」
 何故か、フラエは、その言葉に胸が痛くなった。腹の底がすっと抜けるような感じがして、俯く。先ほどまで噛みついていたフラエが急に静かになったのを不審に思ったグノシスが顔を覗き込むが、フラエは無言でそれを睨み返した。
「どうした?」
「あなたは今、僕の猫の尾を踏みました」
 低い声で告げると、「フラエ」と焦った彼が手を伸ばす。それをはたき落して、「僕はあなたが嫌いです」と冷たく言い放った。
「近づかないで」
 涙で歪んだ声に、グノシスは茫然とした顔をした。フラエはそのまま水筒を掴んで走り去る。泣き虫の自分が嫌で、嫌で、嫌で、訓練場の端まで走って、ようやく止まった。
 立ち止まった瞬間に涙が頬を滴り落ち、蹲って肩を震わせる。ひどい、と罵る声は掠れて、みじめだ。
「ひどい……」
 こんな些細なことで、どうしてこんなにつらいんだろう。だけどフラエの胸は痛むし、死にそうで、つらくて。
 グノシスへの気持ちというフラエのやわらかい部分を、彼本人に弄ばれて、つらい。彼は年の割に幼いところがあり、フラエもそうだ。だけど自分をふしだらと罵って、突き放して、拒絶した口で、あんなことを言われたくなかった。
 フラエの中ではまだ、あの日はまだ終わっていないから。
 泣きじゃくるフラエの肩に、誰かのジャケットがかけられる。花のような甘い香りがした。
「大丈夫?」
 ディールが、労わるように肩を撫でる。その手が優しくてますます泣けてきた。声を上げてわんわん泣くフラエに、ディールはおろおろと背中を摩った。
「ねぇ、フラエ」
 彼はゆっくり、静かにフラエに寄り添う。しゃくりあげるフラエの頬に手を当てて、濡れた頬を拭った。
「僕にしなよ」
 彼の熱っぽく上擦った声に、いやいやと首を横に振った。グノシスのことは嫌いだ。でも、ディールに隣にいてほしいわけでもなくて。
「いや……」
 頑是なく首を横に振るフラエに、ディールはちいさく笑った。いいよ、と、フラエの頭を撫でる。
「待ってる」
 彼はそう言って、フラエが泣き止むまで傍にいてくれた。申し訳なくて仕方なくて、フラエは頭が痛くて、苦しくて、くらくらした。
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