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第一部

夢の終わり2

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「……もういいや」
 不貞腐れて再び横になる。フラエはとても疲れていたし、彼がこの程度で不敬だと騒ぐ人間でもないことは知っていた。グノシスはフラエの顔を見て、「落ち込んでいるな」と静かに言う。
「……そう見えるのなら、そうでしょうね」
 さすがに背中を向けるのは気が引けて、ベッドの上から彼を見上げた。彼は黙って腕を組み、頷く。
「話してみろ」
 その言葉で、フラエはどっと脱力した。この男、基本的に無神経なくせに、フラエの相談に乗るつもりらしい。
 誰に相談したところで、根本的に解決できる悩みでもない。だったらグノシスに相談しても、同じだろう。フラエはもう一度上体を起こし、ゆっくり口を開いた。
「……僕が生殖補助魔術を研究していたのは、従姉妹のためだったんです」
 その言葉に、グノシスは静かに頷いた。フラエは彼の目を見る。彼は学生時代、フラエの前でだけ見せていた、凪いだ目をしていた。
「従姉妹は、結婚して十年以上経っても子を授からなくて。僕は全部放り捨てて研究者になったとき、研究に打ち込む理由がほしかった。彼女のためにがんばろうと、心のどこかで甘えていたんです」
 滔々と話すフラエを、グノシスはじっと見つめていた。
「その従姉妹が、先日子を授かったようなんです。彼女の悲願がやっと叶って、僕は嬉しい。嬉しいけど、」
 フラエは小さく息を吸った。
「僕の研究の意味は、……なかったのかな。彼女を祝えない自分が、小さくて、嫌だ」
 自分は何を話しているんだろう、とフラエは思った。グノシスは腕組みをして、「それの何が、お前や、お前の研究の価値を損なうのだ」と言い放った。反射的に反論しようとしたフラエを、グノシスは有無を言わさず抱きしめる。彼の清涼感のある甘い香りが、フラエを包んだ。
「お前が努力したことは分かる。お前が従姉妹殿を思う気持ちが強いことも、分かる。それが報われなくて、悲しかったな」
 背中を叩かれる。彼の火属性持ち特有の温かい体温が、身体にじんわりと沁みた。かなしい、と反芻すると、彼はフラエの頭を撫でた。
「だけどお前の価値は、何があっても損なわれることはない」
 あの日自分をふしだらと言ったくせに、何を。腕から抜け出そうともがくフラエを、逃がさないとばかりに彼は強く強く抱きしめた。
「あり方の美しさや、尊い努力が、消えることはない。お前が努力したことは、レポートを読めば誰もが理解する。お前が優しいから、その女性のために頑張れたんだ」
 少し抱きしめる腕の力が弱まる。グノシスは、労わるようにフラエを撫でた。
「今は疲れているだけで、あと三日も経てば、心から祝えるようになるさ。お前は強い。強くなければ、お前はここにいない」
 フラエの目に涙があふれる。彼は今更、何を言っているのだろう。自分を拒絶して、何年も放っておいて、都合よく求婚して。都合がよすぎる。こんな人、大嫌いだ。
 なのにフラエは恐る恐る、彼の広い背中へ腕を回していた。
「俺が九年間見てきたフラエより、今のお前は、強い」
 ぽつりと呟く彼に、ずっと堰き止めていたものが決壊した。ぼろぼろ涙をこぼしながら「ちがう」とむずがるフラエに、グノシスは黙って背中を叩く。
「ぼくは、つよくない……」
 譫言のように繰り返す彼に、「弱い奴が、お前のような人生を歩めるもんか」と小さく笑った。
「公爵家に生まれて、魔力が少なくて、それでも努力して、国の中でも厳しい騎士団の騎士になった。自分の意思でそこを抜けた後も、一生懸命勉強して、今こうして研究者になっている」
「ぼくが、がんばったところ、みてないくせに」
 八つ当たりのように言えば、「見なくても分かるさ」と、彼は優しい声で言う。
「俺が見ていた学生のフラエはかわいかったが、お前を久しぶりに見た時、かっこよくなったと思ったんだぞ?」
 適当を言うな、と抗議の意を込めてまた背中を叩く。「本当だ」と彼は笑った。
「あの頃より、ずっと強くなった。お前は、立派だ」
 情けなくて涙が出る。グノシスの胸へあたたかな水滴が吸い込まれ、彼の腕の中が世界一安全であるかのような錯覚をフラエに起こした。僕のことをふしだらと罵ったくせに、拒絶したくせに。その言葉が出てこなくて、獣のようにうなる。
 グノシスはしばらく黙って、フラエを胸の中に囲っていた。しばらく経ってフラエの様子が落ち着いてくると、彼は再び口を開く。
「今はつらいだろうが、お前は絶対立ち上がってくる」
 確信を持った声で、彼は言った。だけど、とフラエを優しく撫でる。
「今は俺に、弱ったかわいいフラエを見せてくれ」
 愛玩するような言葉。でもそれは、彼なりの気遣いだと、長い付き合いのフラエには分かった。彼は傲岸不遜だが、認めた人間には寛大で、優しい。
 彼の体温で身体がじんわり熱を帯びてくる。泣き疲れたのもあって、なんだか眠くなってきた。うとうとするフラエをベッドに寝かせて、彼は額にかかった前髪を払う。
「グノシス……」
 そう呼べば、彼はひどく切なそうな顔で笑った。フラエの瞼が重くなり、目を閉じる。額に温かくて柔らかいものが当たり、「おやすみ」と低く優しい声が聞こえた。
「二十五歳の誕生日、おめでとう」
 目をうっすら開ければ、グノシスはフラエを優しい目で見つめていて、慌てて目を閉じる。しばらく経って侍従が彼を呼ぶ声が聞こえて、彼は立ち去った。フラエは少し軽くなった胸で寝返りをうって、意識を手放した。
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