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第一部

憎らしい人の夢

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 上級学校時代の制服を着ていた。フラエの結い上げた黒髪や肩に、雪がはらはらと降りしきる。吐く息は白いのに、不思議と寒さは感じなかった。講堂からは校歌が聴こえてきて、胸元を見れば、卒業生であることを示す白いリボン徽章を着けていた。
「フラエは卒業式、出なくてよかったのか?」
 振り向けば、同じく徽章をつけたグノシスが、ベンチに座っていた。僕は、と口を開きかけて、閉じた。グノシスは脚を組み、フラエに向かって微笑みかけ、悪だくみをするときの顔をする。
「俺とお前がいなくて、今頃あっちは大騒ぎだろうな」
「……今更、みんな驚かないよ」
 学内では身分の平等が取り決められており、同級生であるグノシスに、フラエは敬語を使わない。もっとも規則における身分の平等は有名無実と化しており、王子であるグノシスに敬語を使わないのはフラエくらいだった。こっちに来い、とグノシスが優しい声で言うので、フラエは誘われるままに隣に座った。
「今日で終わりか」
 グノシスがぽつりと漏らした言葉に、胸が苦しくなった。フラエの実家であるリンカー公爵家は、国境地帯に領地を持っている。明日からフラエは、国境警備に当たるリンカー家の一員として、騎士団に入ることになる。武の道より、研究の道へ進みたかった気持ちを押し殺して。加えてフラエは貴族としての振る舞いが得意ではなく、未来に向けての気持ちは暗い。
 なにより。
「あなたにこうして会えるのも、話せるのも、今日が最後だ」
 ぽつりと呟くと、「そうだな」とグノシスは静かに頷いた。なんだかたまらない気持ちになって、俯いて指を組む。ずっと言いたいことがあった。それは今を逃せば、一生言えないことだった。グノシスは胸の徽章を弄りつつ、「でも、また機会はあるだろ」と言う。楽観的で、傲岸不遜な彼らしくて、笑えてしまった。
「何を笑っている」
 顔を顰める彼に「ごめんって」と平謝りすれば、グノシスはフラエの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。一応きっちりまとめ上げた髪の毛が乱れて、頬にはらはらと落ちる。やめてよ、と笑い混じりに言うと、グノシスは手を止めた。見上げると強く唇を噛んでいて、痛々しかった。どうかしたの、と問えば、彼はくしゃりと笑う。
「いや、……」
 彼は両手でフラエの頬を挟み、そっと二人を向き合わせた。フラエは、この手をよく覚えている。彼の大きな手は悴んで、冷たくて、だけど自分の頬は火照っていた。
「ねぇ、グノシス」
 頬に当てられた手に、自分の手を重ねる。少しでも自分の体温を分け与えるように。彼はじっと、フラエを見つめていた。フラエは、人の感情を推し量るのは苦手だ。だけどどうしても、今、彼にどう思われてもいいから、言いたいことがあった。
「好きだよ」
 その瞬間、フラエの目から燃えるようにあたたかい涙があふれた。「すき」と告げて、彼を見るのもつらくなって目を閉じる。
「一晩だけ、僕にください。一生忘れないから」
 グノシスの手がぴくりと震え、フラエは逃がさないとばかりに握りしめる。しかし彼の強い力で手は引き剥がされ、どうして、と目を開けると、グノシスは険しい顔でフラエを睨んでいた。これまで見たことのない、怖い顔だった。彼は強い感情で肩を震わせ、「ふざけるな!」と怒鳴りつける。
「俺を馬鹿にするのも大概にしろ。そんなふしだらな真似をすると思うのか!」
 自分の必死な求愛を、彼はふしだらだと罵った。十九歳のフラエは、必死に彼に縋りついた。
「いいだろ、それくらいくれよ……! 僕らに婚約者はまだいない、それなら一晩、一生だいじにするから、」
「聞きたくない!」
 それを彼は手酷く拒絶して、雪の中に突き飛ばして。濡れた石畳は冷たくて、痛くて、身体がすくんで蹲る。グノシス、と彼を見上げれば、彼はベンチから立ち上がって、どこかへと走り去ってしまった。追いかけることもできなくて、フラエは校歌を聴きながら、そこでただ、涙を流していた。

 こうして五年前の光の月、フラエとグノシスは決別したのだ。

 フラエがゆっくり目を開けると、白い天井が目に入る。瞬きをすれば、視界がもっと鮮明になる。
「目、覚めた?」
 ミスミがフラエの目の前で手を振っていた。その手を鬱陶しそうにはたいてどかす。「覚めた……」とフラエは起き上がり、額に手を当てて前髪を掻き上げた。結い上げていた髪は降ろされており、紐で束ねていた跡が残っていた。見渡せば、王宮内の騎士団が使用する救護室にいるようだ。今は自分たち以外に誰もいないが、外からは騎士団の訓練する声が聞こえてくる。
「さいあく」
 吐き捨てるように言うと、ミスミは呆れたように「発言には気をつけろよ」と釘を刺す。分かってるよ、と毒づくフラエに、ミスミは自分の太腿を叩いて「さて」と言った。
「大変なことになってきたなぁ」
「あのッ……」
 馬鹿野郎が、という言葉をなんとか飲み下す。実家を出て研究者になるために、それなりの苦労をしたのだ。今更、足元をすくわれるようなことはしたくない。長い長い溜息をついて、「ずっとここにいてくれたの」とミスミに尋ねる。彼は首を横に振った。
「ずっと側にいて欲しかった?」
「あのバ……いや、……」
 あの馬鹿王子以外だったら誰でもいい、という言葉を、なんとか噛み砕いて一般化する。
「ミスミだったら大丈夫」
「本当に、発言には気をつけろよ」
 言い含めるような彼の言葉に、フラエは不服と言わんばかりに口元を歪ませたが、しぶしぶ頷いた。ミスミは同情を込めた声で「お前も大変だなぁ」と労わりの言葉をかける。その優しさに、フラエの肩の力が抜けた。彼は貴族として致命的な欠陥をいくつか抱えているが、感情を隠せないことはその最たるものの一つだ。素直な気質は研究所の仲間からの信頼を勝ち取るために役立ったが、権謀術数渦巻く政治の世界では何ら役立たない。
「グノシス殿下は」
 低い声で尋ねると、「陛下に呼び出されて、今二人きりで話してるってさ」と軽い調子でミスミは言う。フラエは頭を抱えて唸りはじめ、ミスミも彼を慰めるように背中を叩いた。
「今日は疲れたろ。発表会は終わったし、早く帰って休めよ」
「うん」
 ベッドから降りると、ミスミは「これ、俺が持つよ」とフラエの荷物類を指さした。資料の入った革の大きな鞄に、発表のために準備した植木鉢。
「重たいし。ただでさえ回復しきってないんだから」
「ありがと」
 おう、と彼は気安く返事をして、片手に鞄を持つ。植木鉢は小脇に抱えて歩き出し、二人で救護室を出た。
 王宮内は広く、途中騎士や文官たちと廊下ですれ違う。彼らは皆それとなくフラエに視線を向けてくるが、いつものことだ。公爵家の次男が早々に騎士団から退団し、勘当された上に研究所へと転がり込んだことは、噂好きなら必ず知っていることだ。
 さらに今は、公爵家次男の噂に、自ら得体のしれない植物の子種で孕んで出産したことも加わった。全て事実であり、フラエは特に訂正しないし止めもしない。歩きながら髪は適当に束ね、ひとつにまとめる。ミスミがそれを見て、揺れる髪を顎でしゃくった。
「そういえば、それ、なんで伸ばしてるんだ?」
「願掛け」
 フラエは髪の一房を指先に絡め、親指の腹で撫でる。
「魔力は髪に宿る、っていう迷信を、うちの家は信じてたみたいだからさ」
 フラエは魔力量が少ない。平民であればそれは何らハンディキャップにならないが、フラエが産まれたのは、将来騎士団で武人として働くことを義務付けられた家だった。
「少しでも魔力を増やして、できるだけ多くの攻撃魔法を使えるようになってほしかったみたい。切ったら切ったで周りから理由聞かれそうで面倒だし、切ってない」
 ちらりとミスミの様子を伺うと、彼はこちらを見ずに「そっか」と小さく頷いた。
「お前が研究者になってよかった」
 その言葉に、フラエは確かに友情を感じた。思わず照れて「君は、僕のことが好きなのか?」と茶化してしまう。ミスミはその言葉に、いやらしくにやりと笑った。
「好きじゃなかったら荷物なんか持ってやらないよ」
「いひ……」
 笑い方! とミスミがフラエを肘で小突く。フラエは思い切り彼の背中を叩いた。
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