4 / 25
4. 「俺のこと、もっと意識してください」
しおりを挟む
彼が来店するようになって、平日が少し長くなった。週に五日程度シフトに入り、土日祝は必ず店に立つ。それが春斗の十年近い日常だったのに、毎日が過ぎるのが遅い気がする。
「春斗くんは、佐倉さんを待っているんだね」
店長は朗らかに言うが、そういう浮ついた話ではない。弁償は面倒で、鬱陶しくて、気が重たい話だ。待っているのは間違いないとしても、それはお金を渡すためだけにそうしているだけで、そこに春斗の気持ちは伴わない。
そのはずだ。
労働と休息の組み合わせで日々は過ぎる。あっという間にやってきた再びの土曜日の夜に、春斗は自ら、千紘の向かいの席に座った。
「これ、今週の支払いです」
千紘は驚いたように目を見張って、しかし平然とそれを受け取った。たしかに、と財布に納める。そしてテーブルに置かれたメニューを開き、当たり前のように、春斗に向かって差し出した。
「何か食べます?」
「……じゃあ、ボロネーゼ」
春斗はパスタセットのページを開いた。ドリンクセットで、と付け足すと、彼は快く頷く。
店長に注文を伝え、しばらく二人きりだ。ラストオーダー間近の喫茶店は穏やかな静かさで満たされている。
「春斗さん、休日って何してるんですか?」
先に口火を切ったのは、千紘だった。春斗は「料理、とか」と考え込む。
「作り置きをストックしておいて、しばらくぼーっとしてると、休みが終わっちゃうんですよね」
そうなんですね、と千紘が大げさに頷く。そのオーバーリアクションが居心地悪くて、春斗はそっぽを向いた。
「佐倉さんは?」
「俺も、ぼーっとしてると終わります」
彼は何の仕事をしているんだろう、と少し気になった。何と切り出せばいいのか分からず口ごもると、「何か聞きたいって顔、してる」と意地わるい声色で彼が言う。
「いや、その」
「いいですよ。なんでも聞いてください」
春斗は少しだけ口ごもり、「その」と言葉を選んだ。
「佐倉さんは、反社会勢力、では、ないですよね」
「なんで?」
千紘は笑顔のまま固まる。春斗が慌てて「いや、お仕事、何してるのかなって」と続けると、彼は机に突っ伏してしまった。
「すみません、俺、こういう言葉選びが下手で」
失言だった、と背筋に冷たいものが走った。しかし次第に彼の肩が震えだし、くつくつと喉が鳴る音が聞こえてくる。
「おもしろすぎる……」
どうやら彼は気分を害したのではなく、笑っているようだった。それはそれとして納得がいかなくて、「佐倉さん」と不服の声を上げる。彼は顔を上げ、薄い唇を噛んで笑いをこらえていた。
「はー、久しぶりにこんなに笑った」
恥ずかしくて、春斗の顔が真っ赤になる。すみませんね、とやけになって謝ったところで、注文の品が運ばれてくる。パスタのドリンクセットと、桜シフォンのコーヒーセットだ。
店長の「ごゆっくり」という声にからかいの色を感じて、軽く睨む。
「店長さんと、仲、いいんだ?」
千紘は頬杖をつき、春斗に尋ねた。その声色がいつもより少し低くて、首を傾げながら「まぁ?」と、春斗は頷く。
「高校の頃からお世話になってるし」
「ふうん」
彼はつまらなさそうに相槌を打って、フォークをシフォンケーキに突き刺した。春斗もフォークを手に取って、パスタをくるくると巻き付ける。
「いい人ですよ。こんな事情のおれも、雇ってくれるし。下心とか、感じたことないし」
「ふうん」
「奥さん一筋なんだって」
「へえ」
どうして、彼を相手に、こんな言い訳じみたことを言っているのか。不思議で首を傾げた。
千紘はつまらなさそうにケーキを口に運び、コーヒーを飲み、じっとりと春斗を見つめる。まるで値踏みされているかのような感覚に、掌が少し汗ばんだ。
「……なんですか」
「俺のことは、どう思っているんですか」
あくまでからかうような口調のそれに、少しの剣呑さがあった。春斗は慎重にフォークを置き、答える。
「お金を返さないといけない人……?」
いまいち自信のない回答になってしまった。千紘は黙ってコーヒーを啜り、「なるほど」と頷く。
「春斗さんは、あくまでビジネスライクだと」
「は、はい」
それ以外に、何があるのだろうか。息をのむ春斗の頬が、だんだん熱くなってくる。なぜだか恥ずかしくなって俯くと、「かわいい顔してもダメですよ」と咎められた。顎に指が伸ばされ、つい、と上向かせられる。
「うわ」
思わず色気のない声を出す春斗に、千紘が言った。
「俺のこと、もっと意識してください」
意識してるって、と叫びたくなる。どうしようもなく、お腹の奥が熱く疼いた。今すぐ彼の精がほしい、腹を満たしてほしい、ぐちゃぐちゃにしてほしい。一度も誰かと抱き合った経験もないくせに、ぐずぐずになっていく。ふ、と息を吐くと、彼の指がするりと頬を撫でた。
「真っ赤」
ふは、と彼が息を吐く。からかわれた、と彼を睨む春斗に、彼は笑いかけた。
「かぁわいい」
その声に、どきんと胸が跳ねた。これまで散々そう言われてきて、今更心も動かないと思っていたのに。
やめてほしいのにもっとしてほしくて、知りたくないけど覗きたくなる。相反する心の動きに唇を噛むと、「こら」と彼が指の腹で春斗の唇を撫でた。
「噛まないの」
その声に、春斗は思わず立ち上がった。がたんと大きな音が立ち、机の天板でしたたかに膝を打つ。思わず声を上げて悶絶する春斗に、千紘も慌てた様子で立ち上がった。
「大丈夫ですか」
「いたぁい……」
涙目で見上げると、ぴくり、と彼が動きを止めた。千紘はじっと春斗を見下ろし、ゆっくりと身体を近づけてくる。
「痛いの?」
「い、いたいです……膝の、骨のでっぱりを打って、じんじんします」
馬鹿正直に申告すると、彼の黒々とした視線が春斗を舐め回した。だんだん膝の痛みが熱になり、腿を伝って、身体全体が火照っていく。このままでは、まずい。うう、と唸って目をぎゅっとつむる。涙がほろりと頬を伝っていった。
「みないで」
しばらくそうして震えていると、顔の間近に気配を感じた。千紘のものだろう甘い香りと、「うん」という、気のない返事だけがあった。絶対、千紘は何も分かっていない。
春斗は膝を抱えてじっと、火照りに堪えた。もうとっくに痛くもない膝を抱えていないと、興奮がばれてしまう。その不安すら身体の熾火を煽って、どうしようもない。
「そろそろ閉店ですよー」
わざとらしく間延びした店長の声に、やっと気配が離れた。そろそろと目を開けると、彼はそっぽを向いて伝票を持っている。
「お会計、お願いします」
春斗は這う這うの体で立ち上がり、本日最後の会計をした。視線が合わせられない。千紘が甘い香りを纏っていたことが、どうしても、忘れられそうにない。
レシートを渡すとき、彼と指が触れ合った。指の腹が春斗の爪を撫でて、絶対わざとだと分かった。
だけどそれを咎める気には、どうしてかならなかったのだ。
「春斗くんは、佐倉さんを待っているんだね」
店長は朗らかに言うが、そういう浮ついた話ではない。弁償は面倒で、鬱陶しくて、気が重たい話だ。待っているのは間違いないとしても、それはお金を渡すためだけにそうしているだけで、そこに春斗の気持ちは伴わない。
そのはずだ。
労働と休息の組み合わせで日々は過ぎる。あっという間にやってきた再びの土曜日の夜に、春斗は自ら、千紘の向かいの席に座った。
「これ、今週の支払いです」
千紘は驚いたように目を見張って、しかし平然とそれを受け取った。たしかに、と財布に納める。そしてテーブルに置かれたメニューを開き、当たり前のように、春斗に向かって差し出した。
「何か食べます?」
「……じゃあ、ボロネーゼ」
春斗はパスタセットのページを開いた。ドリンクセットで、と付け足すと、彼は快く頷く。
店長に注文を伝え、しばらく二人きりだ。ラストオーダー間近の喫茶店は穏やかな静かさで満たされている。
「春斗さん、休日って何してるんですか?」
先に口火を切ったのは、千紘だった。春斗は「料理、とか」と考え込む。
「作り置きをストックしておいて、しばらくぼーっとしてると、休みが終わっちゃうんですよね」
そうなんですね、と千紘が大げさに頷く。そのオーバーリアクションが居心地悪くて、春斗はそっぽを向いた。
「佐倉さんは?」
「俺も、ぼーっとしてると終わります」
彼は何の仕事をしているんだろう、と少し気になった。何と切り出せばいいのか分からず口ごもると、「何か聞きたいって顔、してる」と意地わるい声色で彼が言う。
「いや、その」
「いいですよ。なんでも聞いてください」
春斗は少しだけ口ごもり、「その」と言葉を選んだ。
「佐倉さんは、反社会勢力、では、ないですよね」
「なんで?」
千紘は笑顔のまま固まる。春斗が慌てて「いや、お仕事、何してるのかなって」と続けると、彼は机に突っ伏してしまった。
「すみません、俺、こういう言葉選びが下手で」
失言だった、と背筋に冷たいものが走った。しかし次第に彼の肩が震えだし、くつくつと喉が鳴る音が聞こえてくる。
「おもしろすぎる……」
どうやら彼は気分を害したのではなく、笑っているようだった。それはそれとして納得がいかなくて、「佐倉さん」と不服の声を上げる。彼は顔を上げ、薄い唇を噛んで笑いをこらえていた。
「はー、久しぶりにこんなに笑った」
恥ずかしくて、春斗の顔が真っ赤になる。すみませんね、とやけになって謝ったところで、注文の品が運ばれてくる。パスタのドリンクセットと、桜シフォンのコーヒーセットだ。
店長の「ごゆっくり」という声にからかいの色を感じて、軽く睨む。
「店長さんと、仲、いいんだ?」
千紘は頬杖をつき、春斗に尋ねた。その声色がいつもより少し低くて、首を傾げながら「まぁ?」と、春斗は頷く。
「高校の頃からお世話になってるし」
「ふうん」
彼はつまらなさそうに相槌を打って、フォークをシフォンケーキに突き刺した。春斗もフォークを手に取って、パスタをくるくると巻き付ける。
「いい人ですよ。こんな事情のおれも、雇ってくれるし。下心とか、感じたことないし」
「ふうん」
「奥さん一筋なんだって」
「へえ」
どうして、彼を相手に、こんな言い訳じみたことを言っているのか。不思議で首を傾げた。
千紘はつまらなさそうにケーキを口に運び、コーヒーを飲み、じっとりと春斗を見つめる。まるで値踏みされているかのような感覚に、掌が少し汗ばんだ。
「……なんですか」
「俺のことは、どう思っているんですか」
あくまでからかうような口調のそれに、少しの剣呑さがあった。春斗は慎重にフォークを置き、答える。
「お金を返さないといけない人……?」
いまいち自信のない回答になってしまった。千紘は黙ってコーヒーを啜り、「なるほど」と頷く。
「春斗さんは、あくまでビジネスライクだと」
「は、はい」
それ以外に、何があるのだろうか。息をのむ春斗の頬が、だんだん熱くなってくる。なぜだか恥ずかしくなって俯くと、「かわいい顔してもダメですよ」と咎められた。顎に指が伸ばされ、つい、と上向かせられる。
「うわ」
思わず色気のない声を出す春斗に、千紘が言った。
「俺のこと、もっと意識してください」
意識してるって、と叫びたくなる。どうしようもなく、お腹の奥が熱く疼いた。今すぐ彼の精がほしい、腹を満たしてほしい、ぐちゃぐちゃにしてほしい。一度も誰かと抱き合った経験もないくせに、ぐずぐずになっていく。ふ、と息を吐くと、彼の指がするりと頬を撫でた。
「真っ赤」
ふは、と彼が息を吐く。からかわれた、と彼を睨む春斗に、彼は笑いかけた。
「かぁわいい」
その声に、どきんと胸が跳ねた。これまで散々そう言われてきて、今更心も動かないと思っていたのに。
やめてほしいのにもっとしてほしくて、知りたくないけど覗きたくなる。相反する心の動きに唇を噛むと、「こら」と彼が指の腹で春斗の唇を撫でた。
「噛まないの」
その声に、春斗は思わず立ち上がった。がたんと大きな音が立ち、机の天板でしたたかに膝を打つ。思わず声を上げて悶絶する春斗に、千紘も慌てた様子で立ち上がった。
「大丈夫ですか」
「いたぁい……」
涙目で見上げると、ぴくり、と彼が動きを止めた。千紘はじっと春斗を見下ろし、ゆっくりと身体を近づけてくる。
「痛いの?」
「い、いたいです……膝の、骨のでっぱりを打って、じんじんします」
馬鹿正直に申告すると、彼の黒々とした視線が春斗を舐め回した。だんだん膝の痛みが熱になり、腿を伝って、身体全体が火照っていく。このままでは、まずい。うう、と唸って目をぎゅっとつむる。涙がほろりと頬を伝っていった。
「みないで」
しばらくそうして震えていると、顔の間近に気配を感じた。千紘のものだろう甘い香りと、「うん」という、気のない返事だけがあった。絶対、千紘は何も分かっていない。
春斗は膝を抱えてじっと、火照りに堪えた。もうとっくに痛くもない膝を抱えていないと、興奮がばれてしまう。その不安すら身体の熾火を煽って、どうしようもない。
「そろそろ閉店ですよー」
わざとらしく間延びした店長の声に、やっと気配が離れた。そろそろと目を開けると、彼はそっぽを向いて伝票を持っている。
「お会計、お願いします」
春斗は這う這うの体で立ち上がり、本日最後の会計をした。視線が合わせられない。千紘が甘い香りを纏っていたことが、どうしても、忘れられそうにない。
レシートを渡すとき、彼と指が触れ合った。指の腹が春斗の爪を撫でて、絶対わざとだと分かった。
だけどそれを咎める気には、どうしてかならなかったのだ。
20
お気に入りに追加
108
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。



【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる