サキュバスくんが執着御曹司に溺愛されるまで

鳥羽ミワ

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4. 「俺のこと、もっと意識してください」

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 彼が来店するようになって、平日が少し長くなった。週に五日程度シフトに入り、土日祝は必ず店に立つ。それが春斗の十年近い日常だったのに、毎日が過ぎるのが遅い気がする。

「春斗くんは、佐倉さんを待っているんだね」

 店長は朗らかに言うが、そういう浮ついた話ではない。弁償は面倒で、鬱陶しくて、気が重たい話だ。待っているのは間違いないとしても、それはお金を渡すためだけにそうしているだけで、そこに春斗の気持ちは伴わない。
 そのはずだ。

 労働と休息の組み合わせで日々は過ぎる。あっという間にやってきた再びの土曜日の夜に、春斗は自ら、千紘の向かいの席に座った。

「これ、今週の支払いです」

 千紘は驚いたように目を見張って、しかし平然とそれを受け取った。たしかに、と財布に納める。そしてテーブルに置かれたメニューを開き、当たり前のように、春斗に向かって差し出した。

「何か食べます?」
「……じゃあ、ボロネーゼ」

 春斗はパスタセットのページを開いた。ドリンクセットで、と付け足すと、彼は快く頷く。
 店長に注文を伝え、しばらく二人きりだ。ラストオーダー間近の喫茶店は穏やかな静かさで満たされている。

「春斗さん、休日って何してるんですか?」

 先に口火を切ったのは、千紘だった。春斗は「料理、とか」と考え込む。

「作り置きをストックしておいて、しばらくぼーっとしてると、休みが終わっちゃうんですよね」

 そうなんですね、と千紘が大げさに頷く。そのオーバーリアクションが居心地悪くて、春斗はそっぽを向いた。

「佐倉さんは?」
「俺も、ぼーっとしてると終わります」

 彼は何の仕事をしているんだろう、と少し気になった。何と切り出せばいいのか分からず口ごもると、「何か聞きたいって顔、してる」と意地わるい声色で彼が言う。

「いや、その」
「いいですよ。なんでも聞いてください」

 春斗は少しだけ口ごもり、「その」と言葉を選んだ。

「佐倉さんは、反社会勢力、では、ないですよね」
「なんで?」

 千紘は笑顔のまま固まる。春斗が慌てて「いや、お仕事、何してるのかなって」と続けると、彼は机に突っ伏してしまった。

「すみません、俺、こういう言葉選びが下手で」

 失言だった、と背筋に冷たいものが走った。しかし次第に彼の肩が震えだし、くつくつと喉が鳴る音が聞こえてくる。

「おもしろすぎる……」

 どうやら彼は気分を害したのではなく、笑っているようだった。それはそれとして納得がいかなくて、「佐倉さん」と不服の声を上げる。彼は顔を上げ、薄い唇を噛んで笑いをこらえていた。

「はー、久しぶりにこんなに笑った」

 恥ずかしくて、春斗の顔が真っ赤になる。すみませんね、とやけになって謝ったところで、注文の品が運ばれてくる。パスタのドリンクセットと、桜シフォンのコーヒーセットだ。
 店長の「ごゆっくり」という声にからかいの色を感じて、軽く睨む。

「店長さんと、仲、いいんだ?」

 千紘は頬杖をつき、春斗に尋ねた。その声色がいつもより少し低くて、首を傾げながら「まぁ?」と、春斗は頷く。

「高校の頃からお世話になってるし」
「ふうん」

 彼はつまらなさそうに相槌を打って、フォークをシフォンケーキに突き刺した。春斗もフォークを手に取って、パスタをくるくると巻き付ける。

「いい人ですよ。こんな事情のおれも、雇ってくれるし。下心とか、感じたことないし」
「ふうん」
「奥さん一筋なんだって」
「へえ」

 どうして、彼を相手に、こんな言い訳じみたことを言っているのか。不思議で首を傾げた。
 千紘はつまらなさそうにケーキを口に運び、コーヒーを飲み、じっとりと春斗を見つめる。まるで値踏みされているかのような感覚に、掌が少し汗ばんだ。

「……なんですか」
「俺のことは、どう思っているんですか」

 あくまでからかうような口調のそれに、少しの剣呑さがあった。春斗は慎重にフォークを置き、答える。

「お金を返さないといけない人……?」

 いまいち自信のない回答になってしまった。千紘は黙ってコーヒーを啜り、「なるほど」と頷く。

「春斗さんは、あくまでビジネスライクだと」
「は、はい」

 それ以外に、何があるのだろうか。息をのむ春斗の頬が、だんだん熱くなってくる。なぜだか恥ずかしくなって俯くと、「かわいい顔してもダメですよ」と咎められた。顎に指が伸ばされ、つい、と上向かせられる。

「うわ」

 思わず色気のない声を出す春斗に、千紘が言った。

「俺のこと、もっと意識してください」

 意識してるって、と叫びたくなる。どうしようもなく、お腹の奥が熱く疼いた。今すぐ彼の精がほしい、腹を満たしてほしい、ぐちゃぐちゃにしてほしい。一度も誰かと抱き合った経験もないくせに、ぐずぐずになっていく。ふ、と息を吐くと、彼の指がするりと頬を撫でた。

「真っ赤」

 ふは、と彼が息を吐く。からかわれた、と彼を睨む春斗に、彼は笑いかけた。

「かぁわいい」

 その声に、どきんと胸が跳ねた。これまで散々そう言われてきて、今更心も動かないと思っていたのに。
 やめてほしいのにもっとしてほしくて、知りたくないけど覗きたくなる。相反する心の動きに唇を噛むと、「こら」と彼が指の腹で春斗の唇を撫でた。

「噛まないの」

 その声に、春斗は思わず立ち上がった。がたんと大きな音が立ち、机の天板でしたたかに膝を打つ。思わず声を上げて悶絶する春斗に、千紘も慌てた様子で立ち上がった。

「大丈夫ですか」
「いたぁい……」

 涙目で見上げると、ぴくり、と彼が動きを止めた。千紘はじっと春斗を見下ろし、ゆっくりと身体を近づけてくる。

「痛いの?」
「い、いたいです……膝の、骨のでっぱりを打って、じんじんします」

 馬鹿正直に申告すると、彼の黒々とした視線が春斗を舐め回した。だんだん膝の痛みが熱になり、腿を伝って、身体全体が火照っていく。このままでは、まずい。うう、と唸って目をぎゅっとつむる。涙がほろりと頬を伝っていった。

「みないで」

 しばらくそうして震えていると、顔の間近に気配を感じた。千紘のものだろう甘い香りと、「うん」という、気のない返事だけがあった。絶対、千紘は何も分かっていない。
 春斗は膝を抱えてじっと、火照りに堪えた。もうとっくに痛くもない膝を抱えていないと、興奮がばれてしまう。その不安すら身体の熾火を煽って、どうしようもない。

「そろそろ閉店ですよー」

 わざとらしく間延びした店長の声に、やっと気配が離れた。そろそろと目を開けると、彼はそっぽを向いて伝票を持っている。

「お会計、お願いします」

 春斗は這う這うの体で立ち上がり、本日最後の会計をした。視線が合わせられない。千紘が甘い香りを纏っていたことが、どうしても、忘れられそうにない。
 レシートを渡すとき、彼と指が触れ合った。指の腹が春斗の爪を撫でて、絶対わざとだと分かった。

 だけどそれを咎める気には、どうしてかならなかったのだ。
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