IMprevu ―予期せぬ出来事―

天野斜己

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本編

No,142 夫婦で初めての観劇【くるみ割り人形】&クリスマスデート

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「こんな気楽な観劇は、生まれて初めてですよ。」
「…でも、貴志さん…いつも以上に注目を集めてる気がするんですが…」
「私が真唯さんに、デレデレなのが珍しいのでしょう。…愚かな夫をお許し下さい。」
「…貴志さん…」
……絶対、それだけじゃないと言いたいけど……我慢した真唯だった。



※ ※ ※



今日は、真唯のクリスマスのお楽しみ。
松山バレエ団の【くるみ割り人形】の最終日。
森下洋子さんのクララが観られる、年に一度の特別な日だ。
(この日の本で一番ロイヤルなお方の、おめでたい日でもある。)

『…この日がなかったら、まだバリでゆっくりしていたかったのに…残念です。』
などと恐ろしい事を呟いてくれた貴志さんに、正直、ゾッとした。


……この日の公演がなければ、アタシはまだあそこで貪られていたのっ!?


今回のクリスマス公演を、こんなに有り難く感じた事は、未だかつてなかった。





だが、しかし。
【IMprevu】をまとって、精一杯のおめかしをして出掛けた真唯は、会場の席に着く前から非常に微妙で複雑な心地を味わう事となる。


「…一条…、いえ、失礼致しました。緋龍院専務…お久し振りでございます。」
「…これは…誰かと思えば、中村取締役と中村専務ではありませんか。…貴方がたにバレエ鑑賞のご趣味があるとは存じませんでしたよ。」

……席に着こうとする前から、貴志さんは隣の席の人に喧嘩腰だ。……緋龍院建設の人なんだ……。……まあこの席は、緋龍院建設の特別席だから、仕方がないけど……

「…緋龍院専務…私は…」
「さっきから黙って聞いていれば…。私はもうあの建設会社の人間でもなければ、緋龍院と云う名前でもない。【上井貴志】と云う無職の人間である事をご承知頂こう。…もし、社長に命令されて、私の慰留の件でお越しになったのなら、私はこのまま帰ります。…真唯さん、申し訳ありませんが…」
「はい、理解りました。…残念ですが、仕方がありません…」
……席にも着かず立ったまま、貴志さんと、その中村と呼ばれた人たちはしばらく見つめ合っていたけど……お歳を召した方の中村さんは貴志さんに一つ深々とお辞儀をして……もう一人の若い中村さんを促して去って行った。




「…真唯さん、すみません…。…あんなに楽しみにしていた観劇を、こんな形でケチをつけてしまって…」
中村さんたちが会場から完全に姿を消すと、席に座るなり貴志さんはアタシに謝ってくれた(おまけに、あの2人が親子の関係である事も教えてくれた。…どうでもいい事のように)。

「…仕方がありませんよ。この席は、緋龍院建設の特別席スペシャルシートなんですから…」
アタシは笑って、首を左右に振った。
……思えば、今までが贅沢過ぎたのだ。
貴志さんが会社を辞めた今、こんな特別良い席で観るのも今回が最後になるだろう。
今日は、最後の最高の眺めを楽しまなければ…!

「…フム…松山バレエ団にも、NBSの“パトロン”のような制度があれば良いのに…」

……呟く貴志さんに、アタシはお口にチャックをした。……松山バレエ団には、『賛助会』と云うシステムがあるのだが、そんな事を言えばこの夫は今すぐ入会してしまうだろう。
……言わぬが花、沈黙は金……などと思っていると、徐にスマホをピコピコやり出した貴志さんに、アタシは慌てた。

「…貴志さん、非常識ですよ。もうすぐ舞台が始まるんですから、電源は切って下さい!」
「…そうですね…後で調べてみましょう。」


……南無三…!!


……こうして今年の【くるみ割り】は、波乱の幕開けを迎えたのだった。





幕間。

少し前までなら、我先にと貴志さんに挨拶に来た人たちが、今年は誰も来ない。
(【ボレロ】を観に行った時の“通達”が、効いていると云う訳でもないだろう。)

……しかし、異様なまでの視線を感じるのは、気のせいではないに違いない。


……きっとみんな、貴志さんの動向が気になっているのだろう。
……無理もない。
……急に辞めたと言われても、信じられるはずがない。



「…真唯さん。」
「…ハ、ハイッ!」
「…衆目を集めているのは、自覚しています。しかし、事の真偽を問いただそうと、本人に直撃出来る勇気のある人間などいませんよ。噂話に花を咲かせるのが精々です。…居心地が悪い思いをさせてしまっているのは、申し訳なく思いますが…今日は、折角の…そして、久し振りの外出です。何もかも忘れて、と云うのは無理かも知れませんが、楽しんで下さい。」
「…貴志さん…」

……そうなのだ。
新婚旅行バリから帰って来て、衝撃の事実を知らされて以来、アタシは一歩も外に出てはいないのだ。……帰国当日の午後、スーパーに寄って食材を買いだめしておいて、ホント良かったと思ったものだ。
……ストーカーが怖くないと言えば、嘘になる。でも、アタシが気にしているのは、SPさんたちだ。……貴志さんを守ってもらうならともかく、アタシを護ってもらうのは、ホント申し訳ないと云う気分になってしまうのは……貴志さんにも言えないでいる秘密だ。


……ホントは今日も、直前まで悩んだ。
他人の身を危険にさらして、呑気に遊びに出掛けて良いのかと。

でも単に、ストーカーを怖がっていると信じている旦那さまに、説得されてしまったのだ。たまには気分転換も必要だと。ましてやこの公演は、毎年楽しみにしているクリスマスの風物詩なのだから。
それに夕方の公演だから、夜は外食して帰ろうと云う事になっている。


……こうしている間にも、SPさんたちがどこからか守ってくれているのだと思うと非常に申し訳ないと云う気持ちになるけれど……年に一回の事なんで許して下さい…!と、心の中で手を合わせて。アタシは森下さんの踊りに集中しようと決心して、景気づけに眼の前の白ワインをグイッ!と飲み干した。



※ ※ ※



「やっぱり来て良かった! 貴志さん、ありがとうございました…っ!!」
真唯はさっきから興奮状態だ。頭の中ではまだオーケストラが鳴り響き、クララが王子様と夢の国で舞っている。普通に舞台を楽しめる事が、こんなに有り難い事だとは気付けずにいた。
最高の舞台を魅せて下さった森下さんに、今まで最高の席を用意してくれた夫に、そして陰ながら守ってくれているSPさんたちに感謝の気持ちで一杯だ。


「真唯さんに喜んで頂けて良かった。私も安心しました。」
「…ご心配お掛けしました…」
「なんの、当然の反応ですよ。」
現在いま、アタシたちは、貴志さんが予約してくれた、銀座の老舗フレンチレストランにいる。今年は2人で明日の聖なる夜クリスマス・イヴを過ごせないので、一足早いクリスマスデートを兼ねているのだ。

食前酒アペリティフのキールを飲みながら、アタシはご機嫌……の振りを必死でする。
ホントはSPさんたちの夕飯の事が気に掛かる(今日の足はトランザムでもレクサスでもない。アルコールを飲む予定でいたため、SPさんたちの車で来ていた)。でもそんな心配をしてしまうのは、却って失礼にあたると思って口を閉じていた。
……彼らはプロの護衛ガードなのだ。余計な心配をしたら、却って仕事の邪魔になってしまうだろう。それに護衛対象に心配されるなんて、その方が彼らの心の負担になるだろうから。


なるべく開き直ろうとして……夫がオーダーしたワインに、目が点になる。

【ロマネ・コンティ1945】

言わずと知れた、ワインの王様である。
思わず咎めるような声を出してしまう。


「…貴志さん…」
「…正式な夫婦になって、初めてのディナーなんですよ…? …私に見栄ぐらい張らせて下さい。」

……貴志さんの見栄なんか、怖くて張って欲しくありません…っ!

そう叫びたいのを必死で堪えた。……優雅なクラシックのBGMを……他のお客様のお食事の邪魔をしてはいけない……。その一心だった。
ソムリエさんがコルク栓を開けてくれて、貴志さんがテイスティングをする。
……そんな仕草さえ、キマって見える男性ひとに……ホントにこの人がアタシの旦那さまなのかと、今更に恐くなってしまう真唯だった。



「夫婦で過ごす、少し早い初めてのクリスマスに。」
貴志さんがグラスを掲げれば。

「…カッコ良過ぎる、私の旦那さまに。」
真唯の言葉を聞いた貴志さんは、一瞬、瞳を見開いたが。……それはそれは見事な微笑みを見せて、応えてくれて……折角のワインを飲む前から、真っ赤になってしまった真唯だった。

前菜のエスカルゴをにこやかに突いている、向かい側に座る男性を見ながら、真唯は一年前の事を思い出していた。

……あの時はお昼の公演で、ホールの近くのまずいサテンに入った。そして、【一条さん】と名字で呼んでいたのを、【貴志さん】と名前で呼ぶ事に抵抗し……忙しいこの人は休日出勤していったのだった。

オニオングラタンスープを飲みながら、初めて過ごしたクリスマス・イヴの夜を思い出す。
お台場の街を歩き、あの観覧車に乗った日の事を。そして“永遠の愛”の意味を持つ、月長石ムーンストーン婚約指環エンゲージリングを渡されて……求婚プロポーズをされたのだった。



クスッ



思わず笑みがこぼれてしまう。あの時は、【インティ・ライミ】まで待っててもらったのに、結局一年後には結婚しているなんて……あの時の自分に教えてやったら、一体、どんな表情かおをするだろう…?



現在いま、真唯の左の薬指に嵌っているのは―――結婚指環マリッジリングだ。



「…どうなさったんですか? …急に、にこにこなさって…」
「…ん? …なんでもありません。…ただ、幸せだなァ~♡ と思って。」
「…っ! …そんなに私を煽って…私のママキーヤは、一体、私をどうするお心算なんでしょうねぇ。」
「…貴志さんも、口の上手さは結婚してもまったく変わりませんねェ~。私を煽てたって、何にも出ませんよ?」
「おや。ベッドでサーヴィスしては頂けないんですか…?」
「…っ!!」
……この男性ひとには、一生、口では勝てないと思い知った真唯だった。

メインの国産牛ステーキとフォワグラのソテー、トリュフソースを堪能して。
デセールに、真唯はムースショコラを。貴志さんは、クレームブリュレを頼んだ。

「…セーヴルですね。 …良いですか?」「勿論です。」「やったァ! 当たったァ~♪」「…本当に、百発百中ですね、私の奥様は。」
【ゲゲル】を成功させて。
食後のひと時を楽しんだ。





「…貴志さん…少し早いですけど…メリークリスマス。
 …今は必要ない物ですけれど…いつか、使って下さい。」
真唯からのプレゼントは、インペリアル・トパーズのネクタイピンと、カフスボタンだった。貴志さんのリングを作った時、カットして余った分を加工しておいてもらったのだ。

彼は勿論、喜んでくれた。
「…澤木様から提供して頂いた宝石いしと聞いて、冷や汗が出ましたけど…
 …ありがとうございます…大切に使いますよ。」


ちなみに。
真唯が贈ったサンドラさんのデザインリングは、貴志さんの右の薬指に嵌ってる。

……右の薬指に嵌める事には、ちゃんとした意味があるのだ。


“創造性やインスピレーションを高める”、“精神の安定”、“感性を高める”


勿論、真唯の右の薬指にも、【インティ・ライミ】の日に貰った婚約指環エンゲージリングが輝いている。


……お互い、相手の気持ちが嬉しくて……指から外す事が出来なかったのだ。


(クリスマス・イヴの夜に貰った指環は勿体なくて、いつもはケースに大事に仕舞われている。)



……そして、貴志さんからは……


「…貴志さん…これ…っ!」
「…もう、残り少ないのでしょう? 足りなくなったら、また輸入しますから、これからは気軽に普段使いなさって下さいね。」





―――それは、【IMprevuアンプレヴー】だった。




真新しいパルファムと、オードトワレとオーデコロン。


「…貴志さん…!」


堪えようと思っても……涙が溢れてきてしまう。






……今まで、残り少ない【IMprevu】を少しずつ、少しずつ大事に使っていた。



……それが、いつしか、貴志さんと過ごす事の出来る、残された日々を表す砂時計のように感じるようになってしまい……


……切なく哀しい想いで、残り僅かな【IMprevu】を見つめては、ため息を零すようになってしまったのだが……



貴志さんの想いが、真唯から離れる日なんて、もう、きっと、来ない。

真唯には、それが信じられる。


あり得ない日の訪れを怖がる必要は、もうないのだ。




……【IMprevu】を見て残りに怯える日々に……さよならを言おう。






……真唯が、匂い袋を身につける日は、もう、来ない―――







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