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本編
No,141 バリ旅行、その後 【貴志SIDE】
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「貴志さん。洗濯機、買って良いですか?」
……帰国後、新婚旅行から帰って来てからの第一声が、これってどうかと思うぞ、真唯……
※ ※ ※
俺の妻になった女性は、良く言えば倹約家。
悪く言えば、吝嗇家だ。
しかし、ただのケチではない。
普通の結婚したばかりの女なら、『洗濯機、買って。』だろう。
洗濯を業者に頼むのが、勿体ないと思ったのは良い(いや、本当は良くないが)。
だが、洗濯機を自分で買う心算でいる事が問題だ。
普通は、旦那(男)が金を出すものだろう。
俺の総資産額をバカ正直に告げたのは、何のためだと思っているのだ。
……俺たちは、よくよく話し合う必要がありそうだ。
そう確信……いや、決意したのは、翌朝だった。
キスで起こしてくれたのは、まあ、良しとしよう。
食卓には実に見事な、日本の朝ご飯が並んでいたのだ。
焼いた鮭。卵焼きが少し焦げているのは、ご愛敬だ。納豆に海苔。そして梅干し。
勿論、炊き立ての白米に、キャベツと油揚げの味噌汁。
「…食べられるものにはなってると思うんですけど…」
……不安そうな真唯に「…頂きます」と挨拶して味噌汁を啜り、「うん、大丈夫。美味しいです。」と言えば、「良かった! 私も、頂きます!」と彼女も笑顔で食べ始める。
……新婚家庭の見本のような和やかな風景のはずが、不安が拭えないのは何故だろう…?
真唯の作ってくれた美味い朝食にケチをつけたら罰が当たるが、正直言えば昨夜はSEXを四、五回し、昼までのんびり惰眠を貪り、俺がブランチを作りたかった。
……まさか、一週間もおあずけを喰らうハメになるとは……いや、しかし、一ヶ月を免除してもらったのだ。あのケチャを手配しておいて本当に良かったと、あの時は冷や汗をかいてしまった。
やがて。
真唯が俺に贈ってくれた、ヴァレンタイン・プレゼントのペアマグカップで、食後の珈琲を楽しんでいた時、その爆弾は落とされた。
「…貴志さん。お願いがあります。今後もこのマンションに住み続けるお心算なら、私にひと月五十万円の家賃を払わせて下さい。」
と。
「…真唯さん…怒りますよ。私は妻から家賃を取ろうなんて思ってはいません。…何の為に、私が総資産額をバカ正直に教えたと思ってるんです? 貴女に、今後の金の心配をして欲しくなかったからです。…それに五十万なんて…これから働くにしたって、そんな事は不可能でしょう。」
すると真唯は一旦、部屋に引っこんで、銀行の預金通帳を持ってきた。
「…見て下さい。私、実は、もう一つ別のブログを持っていて、そっちで毎月百万前後、コンスタントに稼いでいるんです。」
正直、驚いた。
……金額にじゃない。秘密にしていた収入源を明かされた事に。
……俺は嬉しくなった。
……真唯は俺に、誠実であろうとしてくれている……
だったら、その信頼に応えるためにも、ここは引く訳にはいかない。
「…良く理解りました。貴女がお金を持っていらっしゃる事は。
…ですが、だからと言って、受け取る心算はありません。」
「貴志さん!」
「そのお金は、貴女ご自身のために使って下さい。
趣味でも、習い事でも、旅行でも。
…私たちには子供ができません。その将来のために貯金しておく必要もない。
使わなければ損でしょう?」
「…払わせて頂けないなら、せめてもっと普通のマンションに引っ越しませんか?
…ここは私には、敷居が高過ぎます…」
「…真唯さん…」
「…元の私のアパートみたいな処までランクを落とす必要はありません。
…でも、もっと安い地価の、普通のマンションに…」
「…………」
……仕方がない……こうなったら、奥の手を出すか……
今度は俺が部屋に引っこんで、あるモノを持ってきた。
……捨ててしまっても良かったのだが、こんな事もあろうかと取っておいて良かった。
「…本当は、貴女には見せたくなかったんですが…」
「…っ!!」
俺宛の封書の束を不思議そうに受け取り、その中から出て来た数十枚の写真を見て、真唯は凍りついた。
………無理もない。
写真の被写体は、真唯だ。一目で素人の隠し撮りと理解るソレには、赤いマジックで大きく×印が書かれていたり、『ブス!』『死んじゃえ!!』などと、許し難い暴言が書かれているのだ。
手紙の内容は、埒もない妄想の世迷言ばかり。曰く……『間違えてしまった事は許してあげるから、お願いだから目を覚まして。』『あんな女と早く別れて、私と結婚して。』
……冗談ではなかった。
この手紙の差出人とは、会った事さえないのだ。
……差出人に言いたい。
……お前に許してもらう事など何もない。
目を覚ますのはお前の方だ、と。
「…た、…貴志さん…、こ、これって…」
「…私のストーカーの仕業です。」
「…ストーカー…」
「…貴女と付き合い始めてから、届くようになったものです。婚約が決まってから、特に多くなったんですが…結婚してしまったんです。これからも続くでしょう。警察に相談に行ったら、この手紙だけで他に被害はないのだから今の段階では何も出来ないと言われてしまったんです。身体的危険にでも晒されるようになったら、法的手段に訴えようと思って証拠にとってあったんです。…こんな形でお見せしたくなかったんですが…貴女に危機意識を持って頂きたかったんです。」
「………………」
「…私がセキュリティーに拘る理由が、これでお理解りでしょう? 普通のマンションに引っ越してしまったら、ストーカーは確実に玄関先まで押し掛けて来るでしょう。…最悪、家に忍び込んで来るかも知れない。」
「………………」
「安心して下さい。このマンションにいる限り安全です。…以前、私のSPをご紹介しましたが、実は以前から貴女にも付けていたんです。…貴女には指一本触れさせない。」
真唯が俺に抱きついて来た。
……身体が小刻みに震えている……。……真唯は今まで、ストーカーなどとは縁のない世界で暮らしていたのだ。いきなりこんな現実を知らされれば、精神的ショックもひとしおだろう。
「…ごめんなさい…っ!
…何にも知らずに我儘言って、ホントにごめんなさいっ!!」
「…真唯さん…、このままここに住んで下さいますね?」
「…ハイッ! …今まで何にも知らずに、のんびりしていた自分が許せない!
…貴志さんは、ずっとアタシを守ってくれていたのに…っ!!」
「…真唯さん…それ以上言うのは止めて下さい。
…私は貴女に、罪悪感を持って欲しい訳ではないんですから…」
「…でも…貴志さん…!」
「…お願いですから…」
「…っ!!」
遂には、泣き出してしまった。
実は、その写真を送って来た女たちの始末は、既についている。
……ストーカーには、ストーカーを……。……いつの世にも、悪趣味な男たちは存在するものだ。俺の真唯に仇をなしそうな輩は今頃俺の事どころじゃないだろう。
……大丈夫……
……君には俺と云う、最凶の夫がついてるのだから……
すっかり怯えてしまった可愛い妻を慰めて、午後の時間をのんびり過ごした。勿論、昼食も夕飯も、俺が作った。真唯が手伝いたがったのだが、『裸エプロンをねだりますよ。』と言ったら、大人しく諦めてくれた。2人でキッチンに立つのも楽しそうだが……真唯のエプロン姿は、色っぽくて可愛い過ぎて……イタズラしたくなってしまって……困る。
……SEXは出来なかったけれど、風呂も一緒に入れてイチャイチャ出来て。
甘々な新婚夫婦の夜は更けて行った。
※ ※ ※
しかし、話はこれで終わりではなかった。
翌日、真唯が話を蒸し返してきたのだ。家賃五十万円を払わせて欲しいと。
そうでなければ、家事はすべて自分がやると。
……まったく真唯のこの頑固さは、一体誰に似たんだか……
……少なくとも、父親の遺伝ではないだろう。
報告では、あの政秀氏は今では素直に、あの水を飲んでいるのだそうだから……
ちなみに真唯の両親には、一応、結婚の報告はしてある。……分籍の報告と共に……。……どっちがショックだったか、是非とも聞いてみたいものだ。
緋龍院の家には何も言っていない。……何を知らせずとも、自然に耳に入ってしまう。それが、緋龍院と云う家だから。
「しつこいですよ、兄上…いえ、京一郎さん。そんなに私を怒らせたいんですか。」
『…しかし、貴志…!』
「馴れ馴れしく呼ばないで頂きましょう。もう貴方とは、赤の他人なのですから。とにかく、辞表を撤回する心算はありません。」
『…しかし、お前に辞められてしまったら、我が社は…っ!!』
「ご心配には及びませんよ。私が戻らなくとも貴方はもう充分に、澤木様のお怒りにふれていらっしゃるのですから。」
『…っ!!』
「来年の緋龍院建設の業績が楽しみですね。赤字転落しないよう、お祈りでもしているんですね。それでは御機嫌よう。」
『…貴志…待ってくれ…っ!!』
ピッ!
スマホの通話を切った俺は、ついでに着信拒否をしてやった。
「…お兄さんからですか…」
完全防音にしてある仕事部屋から出て来た俺を、真唯が心配そうに迎えてくれた。
「…もう、兄でも弟でもありません。」
「…でも…仕方がありませんよ。貴志さんに辞められてしまっては、大きな痛手でしょう。…せめて引き継ぎだけでも、キチンとして差し上げたらいかがですか?」
「…優しい方ですね…貴女は、無理矢理辞めさせられてしまったのに…」
「…一応、辞職なんですけど…」
「…兄の…あいつのせいじゃありませんか…」
「…良いんですよ…半ば意地で通ってた処ですから…」
「…真唯さん…」
「…室井さんにだけは結婚報告もしましたし、お土産も送りましたし…おめでとうって言ってもらえましたから…」
「………………」
……真唯は本当に優しい娘だ。
あの兄を許してしまっているんだから……
KY商事に未練がない事が、唯一の救いだ。
……新婚旅行の時の、ホロ苦くも、誇らしい会話が蘇る。
※ ※ ※
……あの時、お兄さんに話を聞いた時……私は一条さんに……あえて、一条さんって、呼ばせてもらいますね。
……一条さんに……騙されてたと思ったんです。
だって、そうでしょう? 偽名を使われて、身分を……緋龍院の家の事も、「アイ’s_Books」の社長である事も、隠されてたんですから……
……でも……岩屋さんにお話しを伺って……そうじゃないんだって気付かされたんです……
……え? 岩屋さんに、何を聞いたかって…? ……フフ…ナ・イ・ショ♪
悪いお話じゃありませんから。……どうしても知りたかったら、岩屋さんに聞いて下さい。
とにかく、あのお兄さんと、あのお嬢さまには凄く腹が立ちました。
……一条さんは、あんたたちの都合の良い道具なんかじゃないのよ!! って。
だから、緋龍院の家と戦おうって決めたんです。
そして、その戦いに勝つ為には、澤木さんのお力を借りる事が一番良いって思ったんです。
……それに、一条さんと少し距離を置いて、色々考えたかったから……
スマホを使わずに自分のテレカで連絡をしたのは、一条さんにお金を出して頂いているあのスマホを使いたくなかったんです。僅かな通話料ですが、自分のお金でお話ししてお願いしたかったから……つまらない、ただの意地です。
……正直、不安でした。
少しお話した事のあるだけの小娘を、相手にしてもらえるかって。
でも、そんな心配、全然要らなかった……
こっちが驚くくらい、親切にして頂きました。
身一つですべてを捨てて飛び込んで来なさいって、背中を押して頂けたんです。
……話を全部聞いて頂いて、“私”を全肯定して頂けた時は、本当に嬉しかった……
全部任せなさいって言われて、【上井真唯】の戸籍を用意して頂いた時は流石に驚きましたけどね。
……え? …養女の話ですか…?
……緋龍院の家だって面倒だって思ってたのに、【CLUB NPOE】なんて凄い組織を指揮してらっしゃる方の養女だなんて、とてもじゃないけどご免です。
……ハイ。そのクラブの事は、概略だけは伺いました。
でも、何だか壮大過ぎて……私の頭では、理解が追い付きませんでした。
……その総裁のような方の養女なんて、死んでもご免です。
……上井の名前を頂けただけで充分です。
ええ、どこに行くか、随分悩みました。
……澤木さんは、とにかくスケールが大きくて参りました。北極でも南極でも、好きな処へ行かせてあげるよとか、『一生に一度は、インカ帝国のあった処へ行ってみたいと、ブログに書いていたじゃないか。丁度、良い機会だ。なんだったら、クスコに住んでみるかい?』なんて、簡単に言ってくれて。
……悩んで悩んで……結局は、銀座のウィークリーマンションに落ち着きました。
……灯台もと暗しって云うでしょう…?
……そんな表情しないで下さい。
……実は最初は、奈良の仏像を拝観して精神を落ち着けて、鎌倉のお寺で座禅でもしてみようかなんて考えてたんですから。一条さんのヨミは当たっていたんですよ。
……良く日比谷公園を散歩しました。
秋薔薇が綺麗で……黒薔薇を贈ってくれた一条さんを、良く思い出しました……
……だから絶対、一条さんの誕生日までに、気持ちの決着をつけようと思えたの……
……リザさんのお店のお手伝いをしながら、相談に乗ってもらって……
リザさんのアパルトマンにも泊まらせて頂いて、何回も何回も納得のゆくまで話し合えて……リザさんには本当に感謝しています。
……それで、ね。
怒らないで聞いて頂けますか?
実は、拓也君や小出君にも会いに行って来たんです。
……怒らないって言ったじゃありませんかっ!!
彼らとも納得のいくまで話し合って……結局は、諦めてもらえたんですから。
……ええ、今では良いお友達です。
拓也君のお店、なかなか素敵になりそうですよ。……オープンしたら、一緒に行きましょうね?
……でも、2人の男性の真剣な想いを受け止めて……ますます、一条さんへの“想いの違い”を自覚出来たんですから……ある意味、拓也君と小出君には感謝ですよ。
正直、あのお兄さんだけは、許せないって思っていました。
でも、澤木さんの仲介でお会いした時、いきなり土下座されて面食らいました。私なんかに『申し訳ございませんでした! お許し下さいっ!!』の一点張りで拍子抜けしましたけど……何の事はない、澤木さんに怯えていただけなんです。『…許さないって言ったら、どうするんですか…?』って聞いたら、『何でも致しますっ!!』って恥も外聞もないって感じで……
……もう良いって思ったんです。
……こんな男に関わってるだけ、時間が勿体ないって。
……何でもしてくれるって言うから、お言葉通り、一条さんとの結婚を許して頂きました。
緋龍院の家は勿論、一条の家とも、生涯、関わる事はないから安心して下さいって言ったら、途端に狼狽して……聞けば、結婚して緋龍院の家に入って欲しいって言うから、冗談じゃないってお断りしました。これ以上、一条さんを束縛するような真似は止めて下さいって、怒ったんです。
……“澤木さん”と云う背景に怯えて、私自身を見てくれない人間なんて、こっちからお断りです。
……それで初めて、一条さんの気持ちの一端を……本当に理解出来たんです。
……“緋龍院”や“一条”と云う背景に怯える人を相手にしていた、一条さんの……貴志さんの虚しさの一端が。
※ ※ ※
―――……嬉しかった。
―――真唯の気持ちの何もかもが。
―――そして同時に、この上もなく誇らしかった。
―――この【上井 真唯】と云う最高の女性を、生涯の伴侶としている事が。
“緋龍院”の名前や、澤木様の御力を背景に持っていない……【上井 貴志】と云う何の力もない、一個人を欲してもらえる事が―――たまらなく誇らしかった。
真唯。
俺は、37回目の誕生日に、自分に誓った。
金も権力も拒むような女性のためになら、すべてを捨てようと。
そして、俺の望みは、叶えられた。
だから、真唯。
いつか俺は、真唯のために、すべてを捨てよう。
俺の血の最後の一滴まで、真唯―――君だけのものだ。
……帰国後、新婚旅行から帰って来てからの第一声が、これってどうかと思うぞ、真唯……
※ ※ ※
俺の妻になった女性は、良く言えば倹約家。
悪く言えば、吝嗇家だ。
しかし、ただのケチではない。
普通の結婚したばかりの女なら、『洗濯機、買って。』だろう。
洗濯を業者に頼むのが、勿体ないと思ったのは良い(いや、本当は良くないが)。
だが、洗濯機を自分で買う心算でいる事が問題だ。
普通は、旦那(男)が金を出すものだろう。
俺の総資産額をバカ正直に告げたのは、何のためだと思っているのだ。
……俺たちは、よくよく話し合う必要がありそうだ。
そう確信……いや、決意したのは、翌朝だった。
キスで起こしてくれたのは、まあ、良しとしよう。
食卓には実に見事な、日本の朝ご飯が並んでいたのだ。
焼いた鮭。卵焼きが少し焦げているのは、ご愛敬だ。納豆に海苔。そして梅干し。
勿論、炊き立ての白米に、キャベツと油揚げの味噌汁。
「…食べられるものにはなってると思うんですけど…」
……不安そうな真唯に「…頂きます」と挨拶して味噌汁を啜り、「うん、大丈夫。美味しいです。」と言えば、「良かった! 私も、頂きます!」と彼女も笑顔で食べ始める。
……新婚家庭の見本のような和やかな風景のはずが、不安が拭えないのは何故だろう…?
真唯の作ってくれた美味い朝食にケチをつけたら罰が当たるが、正直言えば昨夜はSEXを四、五回し、昼までのんびり惰眠を貪り、俺がブランチを作りたかった。
……まさか、一週間もおあずけを喰らうハメになるとは……いや、しかし、一ヶ月を免除してもらったのだ。あのケチャを手配しておいて本当に良かったと、あの時は冷や汗をかいてしまった。
やがて。
真唯が俺に贈ってくれた、ヴァレンタイン・プレゼントのペアマグカップで、食後の珈琲を楽しんでいた時、その爆弾は落とされた。
「…貴志さん。お願いがあります。今後もこのマンションに住み続けるお心算なら、私にひと月五十万円の家賃を払わせて下さい。」
と。
「…真唯さん…怒りますよ。私は妻から家賃を取ろうなんて思ってはいません。…何の為に、私が総資産額をバカ正直に教えたと思ってるんです? 貴女に、今後の金の心配をして欲しくなかったからです。…それに五十万なんて…これから働くにしたって、そんな事は不可能でしょう。」
すると真唯は一旦、部屋に引っこんで、銀行の預金通帳を持ってきた。
「…見て下さい。私、実は、もう一つ別のブログを持っていて、そっちで毎月百万前後、コンスタントに稼いでいるんです。」
正直、驚いた。
……金額にじゃない。秘密にしていた収入源を明かされた事に。
……俺は嬉しくなった。
……真唯は俺に、誠実であろうとしてくれている……
だったら、その信頼に応えるためにも、ここは引く訳にはいかない。
「…良く理解りました。貴女がお金を持っていらっしゃる事は。
…ですが、だからと言って、受け取る心算はありません。」
「貴志さん!」
「そのお金は、貴女ご自身のために使って下さい。
趣味でも、習い事でも、旅行でも。
…私たちには子供ができません。その将来のために貯金しておく必要もない。
使わなければ損でしょう?」
「…払わせて頂けないなら、せめてもっと普通のマンションに引っ越しませんか?
…ここは私には、敷居が高過ぎます…」
「…真唯さん…」
「…元の私のアパートみたいな処までランクを落とす必要はありません。
…でも、もっと安い地価の、普通のマンションに…」
「…………」
……仕方がない……こうなったら、奥の手を出すか……
今度は俺が部屋に引っこんで、あるモノを持ってきた。
……捨ててしまっても良かったのだが、こんな事もあろうかと取っておいて良かった。
「…本当は、貴女には見せたくなかったんですが…」
「…っ!!」
俺宛の封書の束を不思議そうに受け取り、その中から出て来た数十枚の写真を見て、真唯は凍りついた。
………無理もない。
写真の被写体は、真唯だ。一目で素人の隠し撮りと理解るソレには、赤いマジックで大きく×印が書かれていたり、『ブス!』『死んじゃえ!!』などと、許し難い暴言が書かれているのだ。
手紙の内容は、埒もない妄想の世迷言ばかり。曰く……『間違えてしまった事は許してあげるから、お願いだから目を覚まして。』『あんな女と早く別れて、私と結婚して。』
……冗談ではなかった。
この手紙の差出人とは、会った事さえないのだ。
……差出人に言いたい。
……お前に許してもらう事など何もない。
目を覚ますのはお前の方だ、と。
「…た、…貴志さん…、こ、これって…」
「…私のストーカーの仕業です。」
「…ストーカー…」
「…貴女と付き合い始めてから、届くようになったものです。婚約が決まってから、特に多くなったんですが…結婚してしまったんです。これからも続くでしょう。警察に相談に行ったら、この手紙だけで他に被害はないのだから今の段階では何も出来ないと言われてしまったんです。身体的危険にでも晒されるようになったら、法的手段に訴えようと思って証拠にとってあったんです。…こんな形でお見せしたくなかったんですが…貴女に危機意識を持って頂きたかったんです。」
「………………」
「…私がセキュリティーに拘る理由が、これでお理解りでしょう? 普通のマンションに引っ越してしまったら、ストーカーは確実に玄関先まで押し掛けて来るでしょう。…最悪、家に忍び込んで来るかも知れない。」
「………………」
「安心して下さい。このマンションにいる限り安全です。…以前、私のSPをご紹介しましたが、実は以前から貴女にも付けていたんです。…貴女には指一本触れさせない。」
真唯が俺に抱きついて来た。
……身体が小刻みに震えている……。……真唯は今まで、ストーカーなどとは縁のない世界で暮らしていたのだ。いきなりこんな現実を知らされれば、精神的ショックもひとしおだろう。
「…ごめんなさい…っ!
…何にも知らずに我儘言って、ホントにごめんなさいっ!!」
「…真唯さん…、このままここに住んで下さいますね?」
「…ハイッ! …今まで何にも知らずに、のんびりしていた自分が許せない!
…貴志さんは、ずっとアタシを守ってくれていたのに…っ!!」
「…真唯さん…それ以上言うのは止めて下さい。
…私は貴女に、罪悪感を持って欲しい訳ではないんですから…」
「…でも…貴志さん…!」
「…お願いですから…」
「…っ!!」
遂には、泣き出してしまった。
実は、その写真を送って来た女たちの始末は、既についている。
……ストーカーには、ストーカーを……。……いつの世にも、悪趣味な男たちは存在するものだ。俺の真唯に仇をなしそうな輩は今頃俺の事どころじゃないだろう。
……大丈夫……
……君には俺と云う、最凶の夫がついてるのだから……
すっかり怯えてしまった可愛い妻を慰めて、午後の時間をのんびり過ごした。勿論、昼食も夕飯も、俺が作った。真唯が手伝いたがったのだが、『裸エプロンをねだりますよ。』と言ったら、大人しく諦めてくれた。2人でキッチンに立つのも楽しそうだが……真唯のエプロン姿は、色っぽくて可愛い過ぎて……イタズラしたくなってしまって……困る。
……SEXは出来なかったけれど、風呂も一緒に入れてイチャイチャ出来て。
甘々な新婚夫婦の夜は更けて行った。
※ ※ ※
しかし、話はこれで終わりではなかった。
翌日、真唯が話を蒸し返してきたのだ。家賃五十万円を払わせて欲しいと。
そうでなければ、家事はすべて自分がやると。
……まったく真唯のこの頑固さは、一体誰に似たんだか……
……少なくとも、父親の遺伝ではないだろう。
報告では、あの政秀氏は今では素直に、あの水を飲んでいるのだそうだから……
ちなみに真唯の両親には、一応、結婚の報告はしてある。……分籍の報告と共に……。……どっちがショックだったか、是非とも聞いてみたいものだ。
緋龍院の家には何も言っていない。……何を知らせずとも、自然に耳に入ってしまう。それが、緋龍院と云う家だから。
「しつこいですよ、兄上…いえ、京一郎さん。そんなに私を怒らせたいんですか。」
『…しかし、貴志…!』
「馴れ馴れしく呼ばないで頂きましょう。もう貴方とは、赤の他人なのですから。とにかく、辞表を撤回する心算はありません。」
『…しかし、お前に辞められてしまったら、我が社は…っ!!』
「ご心配には及びませんよ。私が戻らなくとも貴方はもう充分に、澤木様のお怒りにふれていらっしゃるのですから。」
『…っ!!』
「来年の緋龍院建設の業績が楽しみですね。赤字転落しないよう、お祈りでもしているんですね。それでは御機嫌よう。」
『…貴志…待ってくれ…っ!!』
ピッ!
スマホの通話を切った俺は、ついでに着信拒否をしてやった。
「…お兄さんからですか…」
完全防音にしてある仕事部屋から出て来た俺を、真唯が心配そうに迎えてくれた。
「…もう、兄でも弟でもありません。」
「…でも…仕方がありませんよ。貴志さんに辞められてしまっては、大きな痛手でしょう。…せめて引き継ぎだけでも、キチンとして差し上げたらいかがですか?」
「…優しい方ですね…貴女は、無理矢理辞めさせられてしまったのに…」
「…一応、辞職なんですけど…」
「…兄の…あいつのせいじゃありませんか…」
「…良いんですよ…半ば意地で通ってた処ですから…」
「…真唯さん…」
「…室井さんにだけは結婚報告もしましたし、お土産も送りましたし…おめでとうって言ってもらえましたから…」
「………………」
……真唯は本当に優しい娘だ。
あの兄を許してしまっているんだから……
KY商事に未練がない事が、唯一の救いだ。
……新婚旅行の時の、ホロ苦くも、誇らしい会話が蘇る。
※ ※ ※
……あの時、お兄さんに話を聞いた時……私は一条さんに……あえて、一条さんって、呼ばせてもらいますね。
……一条さんに……騙されてたと思ったんです。
だって、そうでしょう? 偽名を使われて、身分を……緋龍院の家の事も、「アイ’s_Books」の社長である事も、隠されてたんですから……
……でも……岩屋さんにお話しを伺って……そうじゃないんだって気付かされたんです……
……え? 岩屋さんに、何を聞いたかって…? ……フフ…ナ・イ・ショ♪
悪いお話じゃありませんから。……どうしても知りたかったら、岩屋さんに聞いて下さい。
とにかく、あのお兄さんと、あのお嬢さまには凄く腹が立ちました。
……一条さんは、あんたたちの都合の良い道具なんかじゃないのよ!! って。
だから、緋龍院の家と戦おうって決めたんです。
そして、その戦いに勝つ為には、澤木さんのお力を借りる事が一番良いって思ったんです。
……それに、一条さんと少し距離を置いて、色々考えたかったから……
スマホを使わずに自分のテレカで連絡をしたのは、一条さんにお金を出して頂いているあのスマホを使いたくなかったんです。僅かな通話料ですが、自分のお金でお話ししてお願いしたかったから……つまらない、ただの意地です。
……正直、不安でした。
少しお話した事のあるだけの小娘を、相手にしてもらえるかって。
でも、そんな心配、全然要らなかった……
こっちが驚くくらい、親切にして頂きました。
身一つですべてを捨てて飛び込んで来なさいって、背中を押して頂けたんです。
……話を全部聞いて頂いて、“私”を全肯定して頂けた時は、本当に嬉しかった……
全部任せなさいって言われて、【上井真唯】の戸籍を用意して頂いた時は流石に驚きましたけどね。
……え? …養女の話ですか…?
……緋龍院の家だって面倒だって思ってたのに、【CLUB NPOE】なんて凄い組織を指揮してらっしゃる方の養女だなんて、とてもじゃないけどご免です。
……ハイ。そのクラブの事は、概略だけは伺いました。
でも、何だか壮大過ぎて……私の頭では、理解が追い付きませんでした。
……その総裁のような方の養女なんて、死んでもご免です。
……上井の名前を頂けただけで充分です。
ええ、どこに行くか、随分悩みました。
……澤木さんは、とにかくスケールが大きくて参りました。北極でも南極でも、好きな処へ行かせてあげるよとか、『一生に一度は、インカ帝国のあった処へ行ってみたいと、ブログに書いていたじゃないか。丁度、良い機会だ。なんだったら、クスコに住んでみるかい?』なんて、簡単に言ってくれて。
……悩んで悩んで……結局は、銀座のウィークリーマンションに落ち着きました。
……灯台もと暗しって云うでしょう…?
……そんな表情しないで下さい。
……実は最初は、奈良の仏像を拝観して精神を落ち着けて、鎌倉のお寺で座禅でもしてみようかなんて考えてたんですから。一条さんのヨミは当たっていたんですよ。
……良く日比谷公園を散歩しました。
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……それで、ね。
怒らないで聞いて頂けますか?
実は、拓也君や小出君にも会いに行って来たんです。
……怒らないって言ったじゃありませんかっ!!
彼らとも納得のいくまで話し合って……結局は、諦めてもらえたんですから。
……ええ、今では良いお友達です。
拓也君のお店、なかなか素敵になりそうですよ。……オープンしたら、一緒に行きましょうね?
……でも、2人の男性の真剣な想いを受け止めて……ますます、一条さんへの“想いの違い”を自覚出来たんですから……ある意味、拓也君と小出君には感謝ですよ。
正直、あのお兄さんだけは、許せないって思っていました。
でも、澤木さんの仲介でお会いした時、いきなり土下座されて面食らいました。私なんかに『申し訳ございませんでした! お許し下さいっ!!』の一点張りで拍子抜けしましたけど……何の事はない、澤木さんに怯えていただけなんです。『…許さないって言ったら、どうするんですか…?』って聞いたら、『何でも致しますっ!!』って恥も外聞もないって感じで……
……もう良いって思ったんです。
……こんな男に関わってるだけ、時間が勿体ないって。
……何でもしてくれるって言うから、お言葉通り、一条さんとの結婚を許して頂きました。
緋龍院の家は勿論、一条の家とも、生涯、関わる事はないから安心して下さいって言ったら、途端に狼狽して……聞けば、結婚して緋龍院の家に入って欲しいって言うから、冗談じゃないってお断りしました。これ以上、一条さんを束縛するような真似は止めて下さいって、怒ったんです。
……“澤木さん”と云う背景に怯えて、私自身を見てくれない人間なんて、こっちからお断りです。
……それで初めて、一条さんの気持ちの一端を……本当に理解出来たんです。
……“緋龍院”や“一条”と云う背景に怯える人を相手にしていた、一条さんの……貴志さんの虚しさの一端が。
※ ※ ※
―――……嬉しかった。
―――真唯の気持ちの何もかもが。
―――そして同時に、この上もなく誇らしかった。
―――この【上井 真唯】と云う最高の女性を、生涯の伴侶としている事が。
“緋龍院”の名前や、澤木様の御力を背景に持っていない……【上井 貴志】と云う何の力もない、一個人を欲してもらえる事が―――たまらなく誇らしかった。
真唯。
俺は、37回目の誕生日に、自分に誓った。
金も権力も拒むような女性のためになら、すべてを捨てようと。
そして、俺の望みは、叶えられた。
だから、真唯。
いつか俺は、真唯のために、すべてを捨てよう。
俺の血の最後の一滴まで、真唯―――君だけのものだ。
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葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
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2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
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