IMprevu ―予期せぬ出来事―

天野斜己

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本編

No,134 歓喜の日 【貴志SIDE】

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……そわそわと落ち着かない。

……澤木様が嘘を吐くとは、思わない。
しかし真唯は、本当に現れてくれるのだろうか……

緋龍院建設の本社ビル、エントランスーフロアーの奥の一角、応接コーナーに陣取って、俺はひたすら玄関口を睨んでいた。堪らず腕時計を確認すれば、時計の針は二分と動いていなかった。
……今日は、時計が進むのがやけに遅い……。……理解っている……約束の時間まで、まだ二十分もある。出された珈琲は手を出す気にもなれずに、既に冷め始めていた。



※ ※ ※



『おはよう、貴志。今朝の目覚めはどうだ?』
朝、七時半に掛かって来た、突然の電話。
澤木様のお声に逆らう事など許されない。
俺は鬱々とした気分を辛うじて堪えて答えた。

「…最高です…などと申し上げられませんが、まずまずですよ。」
だが、次に続いた言葉に、いっぺんに眼が覚める心地を味わう事になる。



『それは良くないな。折角の、お前の誕生日だと云うのに…
 では、気分が最高になるニュースをやろう。
 お前の待ち人が、会社にお前を訪ねて行くそうだ。
 誕生日の祝いの言葉は、彼女に直接聞くと良い。』

……一瞬、呼吸いきが止まった。

……これで冗談だと言われようものなら、例え澤木様相手でも、俺は怒鳴り飛ばしていただろう自信がある。


「…ほ…本当ですか…?」
みっともなく、声が震えた。

『勿論だ。こんな冗談は言えない。』
「……っ!!」
『午前十一時。確かに伝えたぞ。』
「…っ、…お待ちしています、とお伝え下さい…」
『…フッ。…じゃあな。』
通話が切れてしまっても、しばらくは呆然としてしまっていた。


……真唯が……彼女が、俺の元に戻って来てくれる…?


叫び出したくなるような歓喜が、身体の奥から湧き上がって来るのを自覚する。

ズービン・メータ指揮、モーリス・ベジャール振付、東京バレエ団による公演「第九交響曲」
真唯と2人で観に行くはずだった11月9日。
カレンダーを見て、酷く遣る瀬無く感じていたのが嘘のようだ。
俺の頭の中ではベートーヴェンによる「歓喜の歌」が高らかに鳴り響いていたから。




定刻通り出社して、山中に真唯が訪ねて来る旨を伝えて、その後の予定をすべてキャンセルさせる。
山中は真唯が来てくれる事を、酷く喜んでくれた。
……思えばこの一ヶ月、彼には滅茶苦茶なスケジュール調整の仕事をさせてしまったが、彼は文句1つ言わなかった。ただ、唯々諾々と、俺の指示に従ってくれたのだ。

……特別ボーナスを出してやらないとな……俺のポケットマネーからでも……

そんな事を思いながら飲んだ、小林の淹れてくれた朝の珈琲は格別の味わいだった(恒例行事となっている誕生日のプレゼント攻撃を、山中と小林が水際で阻止してくれたのは、完全な余談である)。


……しかし。
九時に始業となったのだが、時計の針が進むのがやけにゆっくりで。
しかも、果たして真唯は、本当に来てくれるのだろうかと、段々不安になって来てしまったのだ。
おまけに、兄とあの女に散々な罵倒を受け、俺に裏切られたような気持ちになっているはずの彼女が、本当に自分を許してくれるのか。
……もしかして、今日は完全な決別の言葉を聞かされる事になるのではないかなどと、疑心暗鬼に陥ってしまったのだった。

……よくよく考えてみれば、心優しい彼女が別れを切り出すために、わざわざ今日と云う日を選ぶはずがない。

……だが、単に俺の元に戻って来てくれるだけなら、それこそ直接マンションに来てくれるはずではないかと、わざわざ社にアポを取るような真似をした意味が理解らないでいた。

グルグルと悪い考えだけが、次から次へと浮かんでは消えて行き。

午前十時半になると、俺は堪らずに一階のエントランスーフロアーへ駆け出してしまっていた。



※ ※ ※



「どうぞ。」
山中が珈琲を淹れてくれたが、手を付ける気になれない。玄関のガラスの自動ドアが見える場所に陣取る俺の向かいのソファーに、何を思ったのか、山中は腰を下ろしてしまった。

「…仕事は良いのか…?」
「…専務が、それをおっしゃいますか?」
「…………」
「…今日は仕事になりませんので。…真唯さんのお姿を見るまでは…」
「…真唯はやらんぞ。」
「…ですから、そんな命知らずじゃありませんてば。」

……そんな軽口を叩いていなければ、冷静ではいられなかった。
空気を読まずに、プレゼントを持って突撃して来た女がいたが、「必要ないと云う通達を聞いていないのか?」と言って、受け取った物をそのまま受付横のゴミ箱に突っ込んでしまった。ザワリとその場の空気が揺れて、「酷い…! …あんまりですわ!!」とその女は泣きながら去って行った。

「…あ~あ、専務の株、大暴落ですよ。」
「構わん。君の仕事も楽になるだろう」
「…まあ、確かに。」


……腕時計を見れば、丁度、十分少し前。
……そろそろだ。


……ドクン。
……ドクン。



突然、鼓動の音を意識する。
耳の中で…ドクン! …ドクン!と、音が木霊して響く。
自分の心臓の音がうるさい。

……こんなに緊張し……自分のを意識するのは、初めての経験だった。

……ああ、こんなにも鼓動の音がうるさいのは、俺が、現在いま、生きている証だ。



―――ならば。



この音が止まる、その瞬間まで、彼女と共に在りたい…!



※ ※ ※



彼女・・の姿が、に飛び込んで来た瞬間とき

俺の周りの一切の音が消えて……俺は無意識に眼鏡を投げ捨てると、走り出していた。

緊張した面持ちの彼女が受付嬢に向かって何事か話しているが、俺が彼女の名を叫んだので俺に気付いて……ふんわりと微笑ってくれた。


―――……それは、あの日。困った老女を安心させるための…俺が魅かれた、あの微笑みだった……―――


気付けば公衆の面前で、彼女を思いっ切り抱き締めていた……


―――彼女から、【IMprevuアンプレヴー】の薫りがする事に、たまらない幸福を感じながら。





「…真唯さん! …真唯さん…っ! …もう、絶対に、離さない…っ!!」
「…一条さん…」
「…ああ、夢じゃない…っ! …本物の…本当の真唯さんだ…っ!!」
「…一条さん…ご心配をお掛けしました…」
「…良いんですよ、そんな事…。…こうして貴女は、ちゃんと戻って来て下さったのですから…」
「…一条さん…その事なんですけど…」

大人しく俺の胸に抱かれていてくれた彼女が、急に顔を上げると、俺の瞳を見つめ……そして再び俺の胸に顔を埋めてしまい……俺だけに聞こえるような囁き声で話し出したのだ。

……それはそれは、重大な話を。




「一条さん。実は、私…牧野の家から分籍したんです。」

「…真唯さん…」

「…そしたら澤木さんから、養女にならないかって誘われたんです。」

「…っ!! 澤木様の御養女に…!?」

「でも、お断りしました。」

「………………」

「そうしたら何と、【上井】と云う戸籍を買って下さっちゃったんです。」

「………………」

「ですからここに居るのは、本名が【上井 真唯】と云う、天涯孤独の人間です。」

「…真唯さん…」

「こんなアタシで良かったら…お婿に来て下さい、いち…いえ、……貴志さん。」

「…!」



「…緋龍院の名前も…勿論、一条の名前も捨てて…ただの貴志さんになって。
 …そして、【上井 貴志】さんになって、アタシと生涯を共にして下さい…っ!!」



「…っ!!」
「…嫌ですか…?」
「…貴女こそ、お嫌ではないんですか…? …緋龍院の家名も、一条の家名もない私なんて…」
「…なんて・・・って云う言葉を、いち…じゃなかった! 貴志さんが嫌がる理由が、良く理解りました。」
「…真唯さん…」
「…貴志さんを…この世で一番大切な、アタシの大事な男性ひとを侮辱しないで下さい…!!」
「…ま…真唯…」
彼女は徐に、バッグの中から小さなビロードの箱を取り出した。その箱を開けると中には、拘りのデザインと作りの良さを感じさせる指環リングが入っていて…この宝石いしは、もしかしてトパーズ…? …俺の誕生石のリングをその小さな手におさめると、箱をバッグの中に仕舞った。
「…さっきの返事を聞かせて下さい。もし、イエスだったら…左手を出して下さい…」
俺は迷わず自分の無骨な左手を、彼女に差し出した。すると彼女は、俺の手の薬指にリングを、それはそれは丁寧に嵌めてくれたのだ。

……一筋だけの涙が流れる……

俺はスッと膝を折り、彼女の前に跪いていた。慌てる彼女の左手を取り、月長石ムーンストーン婚約指環エンゲージリングに唇を落として囁いた。



「…上井真唯さん。…どうか俺と結婚して、俺を【上井貴志】にして下さい。」


「…はい…っ!!」



彼女の返事を聞いた瞬間、俺は立ち上がると、再び力いっぱい抱き締めた…っ!





人の賑わうお昼時。
天下のスーパーゼネコン・緋龍院建設のエントランスーフロアーで繰り広げられた、このラヴシーンは、蜂の巣を突いたような騒ぎの中、急速に終息に向かった。


「山中!」
「ハイッ!」
打てば響くように応えるこの声を聞くのも、これが最後だ。

「俺は今日付けをもって、この会社を辞める!
 辞表は、後日郵送する。

 “一条専務”の秘書としての、君の最後の仕事だ!
 しっかり頼んだぞ!!」

「了解です!
 後処理は、任せて下さいっ!!」



頼もしい秘書の返事を聞いて、俺は彼女の手を握り締め走り出し……長年、俺を束縛していた会社を後にする。



……律儀な真唯が、振り返って山中に会釈したのは、見なかった振りをして。

……騒ぎを聞いて降りて来たのだろう社長あにの、「許さん! 貴志…許さんぞ!!」との声は聞かなかった振りをした。



※ ※ ※



「…貴志さん…ひょっとしなくても、この車、お台場のマンションに向かってるんですよね…?」
「ハ? …何を今更、当然の事を…」

「…実はアタシ、婚姻届を持ってまして…アタシの欄も、証人の欄も、記入済みなんです。
 …おまけに、貴志さんが望んだ場合に必要になる、養子縁組届も、分籍届もあったりするんです。
 …出来れば、今日中に…貴志さんのお誕生日に入籍したいんですが…ダメですか…?」

「…………」


……まったく……やっぱり彼女は、天然の小悪魔だ。

……さっきは人目もあって、キスも出来なかった。
……一刻も早くベッドに飛び込みたい俺を、最後の最後まで焦らす。


「…理解りました。マンションに着いたら、車の中で待っていて下さい。
 …貴女を部屋の中に入れてしまったら、理性を保つ自信がありませんから。
 必要書類に署名、捺印して、今日中に手続きを済ませてしまいましょう。」


「…すみません…」
「…嫌ですね。謝ったりなんかしないで下さい。この日に入籍したいのは、私も同じなんですから。」
「…何でしたら、貴志さんは、分籍までする必要はないんですよ…?」
「…止めて下さい。やっと、緋龍院の家と縁を切る事が出来ると、喜んでいるんですから…」
「…貴志さん…」
「…ちなみに、婚姻届の証人のお名前をお伺いしてもよろしいですか…?」
「はい。リザさんと、澤木さんです。」
「…やっぱり…」
「…あの…いけませんでしたか…?」
「いえ、とんでもない!」

ある意味、最強で、最恐の舅と姑を持つ事になってしまった俺は、ホロ苦くも甘酸っぱい想いをする事になってしまって。

1人で部屋のリビングに戻っても、昨日までの広さも空虚さも感じる事はなくなっていた。

書斎で必要書類をチェックする。
俺たちの結婚は、少し複雑だ。
先ずは、俺の戸籍を抜ける「分籍届」を出して。
次は澤木様の用意して下さった上井姓の親の元に、「養子縁組届」を出す。
晴れて上井姓になれて初めて、「婚姻届」を提出する事が出来るのだ。

……俺の両親・・となってくれる、養父母の名前を無感動に見る。
澤木様が選んで下さった、金で買った戸籍なのだろう。
感慨は何もない。
上井姓になれるのなら、何でも良い。

書類に署名していき、緋龍院の判子と、帰宅途中に購入した【上井】姓の判子を淡々と捺印してゆく。


……ただ、やはり。婚姻届に署名する時だけ、書き慣れない【上井 貴志】の名前に、少しの羞恥と抑え切れない喜びを感じた。



面倒な手続きを順番に済ませて。
婚姻届を提出する事が出来た俺は、この上もない達成感を感じる事となった。
「おめでとうございます。」儀礼的に職員から掛けられる祝福の言葉にも、笑って「ありがとうございます。」と答える事が出来た。
……しかし、何よりも嬉しい祝福の言葉は……





すっかり遅くなってしまった昼食を、彼女と共にとった時。
食後のデザートと珈琲を楽しんでいると。





―――そう云えば、大事な言葉を、まだ言ってませんでしたね―――


―――貴志さん……お誕生日、おめでとうございます―――


―――この世に産まれて下さって…アタシと出逢って下さって、本当にありがとうございます―――






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