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本編
No,133 【十年愛】 epilogue
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「わざわざいらして頂いて、恐縮ですわ。
…良いお知らせと期待しても良いのでしょうか?」
「ええ、とても良いお知らせですよ。」
「まあ、嬉しいですわ! ではようやく、決心して頂けたのですね!!」
……十年だ。
……十年かけて築き上げて来た物を、滅茶苦茶にされてしまったのだ。
沼倉裕樺。
この代償は、高くつくぞ…っ!!
※ ※ ※
『よ~、一条。やぁ~っと、連絡して来たか。』
「…すまん。ちょっと、仕事が忙しくて…。…悪いが、用件は手短に頼む。」
まさか、真唯が行方不明だとは言えなくて。スマホに何回か岩屋からの着信があったのに気付いてはいたが、真唯を探す事に夢中になっていて、ずっと連絡を後回しにしていたのだ。しかし次に続いた言葉に、二の句が継げなくなるほど俺は驚愕する事となる。
『上井さんとの結婚、おめでとう!!
ずっと俺に内緒にしておくなんて…水臭いじゃないか!』
……その後の岩屋との会話は、正直、詳しくは覚えていない。
しかし、真唯から打ち明けてきた話である事だけは間違いないようだ。「アイ’s_Books」の利益のために近付いたなんて、万が一にも真唯に勘違いされたくなくて、慎重に隠していたのに一体誰が余計な事を…っ!!と思って、考えるまでもなく1人の人物に辿り着く。KY商事を辞めさせようとまで脅していたのだ。
兄だ。
時期的時間的にも間違いない。
……俺と岩屋との関係を知って、真唯はどんなにショックを受けただろうか…?
その時の真唯の心情を思いやって、俺の胸が軋みを上げる。
『彼女の電子書籍出版とは、話が別だもんな。』などと云う言葉には適当に相槌を打っていたが、『結婚式には、必ず呼べよ! いつ頃の予定だ?』との言葉には一瞬返事が出来なくて、お茶を濁そうとしたら、『まあ、簡単にはいかないよな。…悪かったな』などと、却って気遣われてしまった。とにかく式には必ず呼ぶ事を約束させられて、通話は終わった。
……さて……どうしてくれようか……
……いっそ、殿下との取引を中止してしまおうか……。総工事費数十億ドルにも及ぶ一大プロジェクトだ。社長は、さぞかし慌てるに違いない……
……先ずは、俺をハメようとしたお嬢様に、鉄槌を下さなければならない。
手持ちのコマを動かし、必要な書類などを取り寄せ作成するために、俺は真唯の捜索を一時中断して準備にかかった。
※ ※ ※
「…これは…これは一体、どう云う事ですの!?」
「どうもこうも、見たままの通りですが?」
にっこり
微笑んでやると、「ふざけないでっ!!」と癇癪を起して、裕樺嬢はその書類を破り捨ててしまった。
SPのインプレッサの後部座席で、彼女はハアハアと息を荒げている。
無理もない。俺が自分と結婚し、子供の父親になると思っていただろうところへ、自分が捨てた男との結婚を承認する、己の父親と俺の兄の念書などを見せられては怒るなと云うのが無理な話だろう。
「…貴女の行動は予測していました。今、お渡ししたのは、予備です。原本は、ちゃんと私の手元にありますので、念のため」
「…っ!!」
キッ!と、俺を睨んで来るが、そんな睨みなど何とも思わない。むしろ、俺の方が何百倍も怒っているのだと云う事を、その低脳に思い知らせてやる。
「…あんな書類、信じられませんわ…っ!!」
それはそうだろう。自分の最高で最大の協力者2人を一気に失う事など、考えもしなかったに違いない。
……しかし、現実なのだ。
お前には、受け入れてもらわなければならない。
「…では、これを見て頂きましょうか。」
「…こ、これは…っ!?」
彼女に見せたのは、何枚もの写真。
男と女がラブホテルに入って、出て来るところを狙った写真。
女は、沼倉裕樺……お前だ。
「…わ、私の事をお調べになったのね…! …彼とは、遊びですわよ! ただの遊び…っ!!」
「…中田遼、21歳。貴女の通うS女子大に最も近いC大の三年生。貴女とはクラブの合コンで出会い、もう二年のお付き合いになるそうですね。」
「ですから、遊びだと申し上げているではありませんか…!」
「ただの遊びでしたら、私もここまで干渉は致しません。…問題は、この男との間に出来た子供を、私との子供として貴女の父親に報告していた事です。」
「…っ、…ぬ、濡れ衣ですわ…!! …た、貴志さん…このお腹の子供は、本当に貴方との子供なんです…!!」
「…裕樺さん。貴女とは、騙し打ちのように会社帰りに帝都ホテルのスイートで見合いさせられた後、私はすぐに帰りましたよね…? 一体、いつ子供ができたのか、私に教えて頂けませんか?」
「…っ! …それをお認めになりますの…? 私に恥をかかせた事を…っ!」
「恥? 貴女の言う恥とは、一体、どんな物なのか、理解に苦しみますね。…まあ、ホテルのスイートで2人きりで見合いをさせようとした、私の兄と貴女の父上にも伺ってみたいものですがね。」
「…とにかく、この子供は、貴方との子供なんです! …貴方のお兄様にも、認めて頂けましたわ!!」
「…裕樺さん…それは無理なんですよ。」
「なぜっ!?」
「それは、私が無精子症だからです。」
「…はっ!?」
「聞こえませんでしたか?
私はどんな女性との間にも、子供をもうける事が出来ない身体なんですよ。」
「!?」
……無精子症…と、ブツブツ呟いていた女の瞳に、俄かに狡賢い光が宿る。
「…貴志様…それは、お気の毒ですわね…。…でも、いけませんわ…貴方と結婚出来なくなってしまったら、うっかり誰かに喋ってしまいそうですわ。」
……ニヤリと笑う顔が醜悪だ。
「どうぞ。」
「…ハッ!?」
「どうぞと申し上げたんです。どなたにでも話して下さって結構ですよ。…どうやら貴女とは、恥の定義がとことん食い違いそうですからね。」
「…………」
呆然とした顔で、黙り込んでしまう女を追い詰める。
「…ところで裕樺さん…【CLUB NPOE】と云う組織をご存じですか…?」
「…え、ええ…まあ…社交界で噂だけは…」
「結構! …では、澤木様と云うお名前に、お心当たりは…?」
「…やはり噂だけ…。…【CLUB NPOE】の総支配人で、世界中のありとあらゆる組織に顔がきき、暗黒街でも恐れられている方だと云う事だけは…」
「…低脳でも、流石は沼倉国土交通審議官のご令嬢だ…。…では、良い事を教えて差し上げましょう。…牧野秀美さんは…私の恋人は、その澤木様のお名刺を頂く事の出来た特別なお気に入りで…澤木様は牧野さんを貴女に侮辱された事を、酷くお怒りなのですよ…」
……みるみる表情を失っていくのを見るのは、何度見ても快感だが、こんな事で俺の機嫌は直りはしない。
「…ご理解頂けたら、この書類に署名と判子を頂きましょうか…?」
そう言って見せたのは、二枚の書類だ。
一枚は、誓約書。
中田と云う男と結婚し、彼の子供を産む事。
結婚後は沼倉家の援助を一切受けずに、自力で生活していく事。そして二度と、俺と真唯には関わらない事を約束させる念書だ。……中田とやらは北陸のある寒村の出身で、実家は小さなコンビニを営んでいる。昔は酒屋をやっていたそうだが、時代の波に逆らえずに転職したらしい。貧乏子沢山の典型で、仕送りは学費とわずかな生活費のみ。中田青年はカツカツの生活で、当然バイトをしている。住処は月四万円のアパートだ。……真唯が昔住んでいた、六畳一間のあのボロいアパートである。こちらの手ゴマにするために眼の届く処で飼っていたのだが、この女と結婚した暁には、もっと安い最低ランクの住処を用意してやろう。……俺の真唯が、長年愛着を持って住んでいた、あの俺にとっても思い出のあるアパートで、こいつらが新婚生活を送るなどとは虫唾が走る。
そうして、もう一枚は婚姻届。
中田青年と、証人の欄は署名、捺印済みだ。
証人は当然、兄とこの女の父親だ。
……それらの書類に眼を通している女の表情は、殆ど紙色で。
手も身体も震えている。
震える指にボールペンを握らせて。長い時間を掛けて、名前を書かせた。
捺印は、親切にも俺が代わりにしてやった。朱肉の色も鮮やかに。
……俺が助手席のSPにサインを送ると、しばらく走ってある処で車が停まった。
ぼんやりと、虚ろな表情をしている女に囁いてやった。
「…区役所に着きましたよ。
夜間窓口で、この婚姻届を提出してしまいましょうか…?」
言った瞬間、女の顔に生気が戻った。
「イヤァーーッ! それだけは、勘弁してぇーーーっ!!」泣き叫ぶ女を取り押さえて、「冗談ですよ。」と耳元に囁いてやると、ピタリと女の動きが止まった。「…冗談…?」「ええ、冗談です。…正直言えば、無理矢理ここで届けを済ませて、貴女を中田さんのアパートに送り届けて差し上げたいんですがね。そこまでして追い詰めて、万が一、自殺などされてはかなわない。…今夜は、これで引き下がりますよ。」そう言って、車を沼倉邸へ差し向けた。
沼倉氏には、直接、婚姻届を渡した。
届けは、この家の都合に任せる事にした。
まあ、孫の出産、育児が落ち着いた頃が妥当だろう。
その辺の裁量は任せたが……念書に偽るような行為をすれば、容赦はしない。
娘以上に、【CLUB NPOE】の……澤木様の権力を思い知っているはずなのだから。
応接室を辞する時、去り際、すっかり萎れてしまっている女の手を引き、別れの言葉を耳元に囁いてやると。
泣き出して、応接室を飛び出してしまった。自分の部屋へでも逃げ込んだのだろう。娘の無礼を詫びる沼倉氏に、構わないと告げて、俺は沼倉邸を後にした。
……不愉快な親娘とは、もう二度と顔を合わせる事のないよう願いながら。
『裕樺さん、さようなら。…ああ、もし、S女子大をご卒業されて、就職先に困られたら、遠慮なく訪ねて来て下さい。 良い勤め先をご紹介しますよ。…場末のソープあたりへね。』
……ソープなんぞ生温い。
……本当ならどこぞのSMクラブか、秘密クラブにでも送りこんでやりたい位だ。
……しかしまあ、当面の問題は片が付いた。
兄への制裁は、後回しだ。
……今は一刻も早く、真唯を迎えに行きたい。
あの女の件で身動きが取れない間は、真面目に働いていたのだ。
また、しばらく休みを取って、真唯を探しに行こう。
……奈良は調べ尽くした。
京都も鎌倉も調べた。
日本全国……もしくは、海外へも探索の手を伸ばさなければならないかも知れない。
……パリ、ロンドン。
そして、ローマ。
真唯が訪れた事のある土地を思い浮かべて……その時々のブログの記事を脳裏に蘇らせて、俺は苦く微笑った。
……十年だ。
……十年もの間、俺は真唯を……真唯だけを、想い続けて来たのだ……
こんな事で失ってたまるか…っ!!
※ ※ ※
……しかし、その後。
北は北海道からローラー作戦を開始したが、真唯の行方は杳として知れなかった。
そして、度々休暇を取り、仕事を滞らせるようになった俺に、一部の役員たちからは不満の声が上がったが、社長は何とか彼らを宥めていたようだが…知った事か。兄にはそれくらいの苦労をしてもらわなければ、割に合わない。俺のやる事に不満があれば、とっととクビにでもしてくれれば良いのだ。
仕事に完全にやる気をなくしてしまった俺は、不安と寂しさと苛立ちで、気が違いそうな想いで彼女の姿を探し求め……
気が付けば、真唯が俺の前から姿を消して、一ヶ月が経とうとしていたのだった―――
…良いお知らせと期待しても良いのでしょうか?」
「ええ、とても良いお知らせですよ。」
「まあ、嬉しいですわ! ではようやく、決心して頂けたのですね!!」
……十年だ。
……十年かけて築き上げて来た物を、滅茶苦茶にされてしまったのだ。
沼倉裕樺。
この代償は、高くつくぞ…っ!!
※ ※ ※
『よ~、一条。やぁ~っと、連絡して来たか。』
「…すまん。ちょっと、仕事が忙しくて…。…悪いが、用件は手短に頼む。」
まさか、真唯が行方不明だとは言えなくて。スマホに何回か岩屋からの着信があったのに気付いてはいたが、真唯を探す事に夢中になっていて、ずっと連絡を後回しにしていたのだ。しかし次に続いた言葉に、二の句が継げなくなるほど俺は驚愕する事となる。
『上井さんとの結婚、おめでとう!!
ずっと俺に内緒にしておくなんて…水臭いじゃないか!』
……その後の岩屋との会話は、正直、詳しくは覚えていない。
しかし、真唯から打ち明けてきた話である事だけは間違いないようだ。「アイ’s_Books」の利益のために近付いたなんて、万が一にも真唯に勘違いされたくなくて、慎重に隠していたのに一体誰が余計な事を…っ!!と思って、考えるまでもなく1人の人物に辿り着く。KY商事を辞めさせようとまで脅していたのだ。
兄だ。
時期的時間的にも間違いない。
……俺と岩屋との関係を知って、真唯はどんなにショックを受けただろうか…?
その時の真唯の心情を思いやって、俺の胸が軋みを上げる。
『彼女の電子書籍出版とは、話が別だもんな。』などと云う言葉には適当に相槌を打っていたが、『結婚式には、必ず呼べよ! いつ頃の予定だ?』との言葉には一瞬返事が出来なくて、お茶を濁そうとしたら、『まあ、簡単にはいかないよな。…悪かったな』などと、却って気遣われてしまった。とにかく式には必ず呼ぶ事を約束させられて、通話は終わった。
……さて……どうしてくれようか……
……いっそ、殿下との取引を中止してしまおうか……。総工事費数十億ドルにも及ぶ一大プロジェクトだ。社長は、さぞかし慌てるに違いない……
……先ずは、俺をハメようとしたお嬢様に、鉄槌を下さなければならない。
手持ちのコマを動かし、必要な書類などを取り寄せ作成するために、俺は真唯の捜索を一時中断して準備にかかった。
※ ※ ※
「…これは…これは一体、どう云う事ですの!?」
「どうもこうも、見たままの通りですが?」
にっこり
微笑んでやると、「ふざけないでっ!!」と癇癪を起して、裕樺嬢はその書類を破り捨ててしまった。
SPのインプレッサの後部座席で、彼女はハアハアと息を荒げている。
無理もない。俺が自分と結婚し、子供の父親になると思っていただろうところへ、自分が捨てた男との結婚を承認する、己の父親と俺の兄の念書などを見せられては怒るなと云うのが無理な話だろう。
「…貴女の行動は予測していました。今、お渡ししたのは、予備です。原本は、ちゃんと私の手元にありますので、念のため」
「…っ!!」
キッ!と、俺を睨んで来るが、そんな睨みなど何とも思わない。むしろ、俺の方が何百倍も怒っているのだと云う事を、その低脳に思い知らせてやる。
「…あんな書類、信じられませんわ…っ!!」
それはそうだろう。自分の最高で最大の協力者2人を一気に失う事など、考えもしなかったに違いない。
……しかし、現実なのだ。
お前には、受け入れてもらわなければならない。
「…では、これを見て頂きましょうか。」
「…こ、これは…っ!?」
彼女に見せたのは、何枚もの写真。
男と女がラブホテルに入って、出て来るところを狙った写真。
女は、沼倉裕樺……お前だ。
「…わ、私の事をお調べになったのね…! …彼とは、遊びですわよ! ただの遊び…っ!!」
「…中田遼、21歳。貴女の通うS女子大に最も近いC大の三年生。貴女とはクラブの合コンで出会い、もう二年のお付き合いになるそうですね。」
「ですから、遊びだと申し上げているではありませんか…!」
「ただの遊びでしたら、私もここまで干渉は致しません。…問題は、この男との間に出来た子供を、私との子供として貴女の父親に報告していた事です。」
「…っ、…ぬ、濡れ衣ですわ…!! …た、貴志さん…このお腹の子供は、本当に貴方との子供なんです…!!」
「…裕樺さん。貴女とは、騙し打ちのように会社帰りに帝都ホテルのスイートで見合いさせられた後、私はすぐに帰りましたよね…? 一体、いつ子供ができたのか、私に教えて頂けませんか?」
「…っ! …それをお認めになりますの…? 私に恥をかかせた事を…っ!」
「恥? 貴女の言う恥とは、一体、どんな物なのか、理解に苦しみますね。…まあ、ホテルのスイートで2人きりで見合いをさせようとした、私の兄と貴女の父上にも伺ってみたいものですがね。」
「…とにかく、この子供は、貴方との子供なんです! …貴方のお兄様にも、認めて頂けましたわ!!」
「…裕樺さん…それは無理なんですよ。」
「なぜっ!?」
「それは、私が無精子症だからです。」
「…はっ!?」
「聞こえませんでしたか?
私はどんな女性との間にも、子供をもうける事が出来ない身体なんですよ。」
「!?」
……無精子症…と、ブツブツ呟いていた女の瞳に、俄かに狡賢い光が宿る。
「…貴志様…それは、お気の毒ですわね…。…でも、いけませんわ…貴方と結婚出来なくなってしまったら、うっかり誰かに喋ってしまいそうですわ。」
……ニヤリと笑う顔が醜悪だ。
「どうぞ。」
「…ハッ!?」
「どうぞと申し上げたんです。どなたにでも話して下さって結構ですよ。…どうやら貴女とは、恥の定義がとことん食い違いそうですからね。」
「…………」
呆然とした顔で、黙り込んでしまう女を追い詰める。
「…ところで裕樺さん…【CLUB NPOE】と云う組織をご存じですか…?」
「…え、ええ…まあ…社交界で噂だけは…」
「結構! …では、澤木様と云うお名前に、お心当たりは…?」
「…やはり噂だけ…。…【CLUB NPOE】の総支配人で、世界中のありとあらゆる組織に顔がきき、暗黒街でも恐れられている方だと云う事だけは…」
「…低脳でも、流石は沼倉国土交通審議官のご令嬢だ…。…では、良い事を教えて差し上げましょう。…牧野秀美さんは…私の恋人は、その澤木様のお名刺を頂く事の出来た特別なお気に入りで…澤木様は牧野さんを貴女に侮辱された事を、酷くお怒りなのですよ…」
……みるみる表情を失っていくのを見るのは、何度見ても快感だが、こんな事で俺の機嫌は直りはしない。
「…ご理解頂けたら、この書類に署名と判子を頂きましょうか…?」
そう言って見せたのは、二枚の書類だ。
一枚は、誓約書。
中田と云う男と結婚し、彼の子供を産む事。
結婚後は沼倉家の援助を一切受けずに、自力で生活していく事。そして二度と、俺と真唯には関わらない事を約束させる念書だ。……中田とやらは北陸のある寒村の出身で、実家は小さなコンビニを営んでいる。昔は酒屋をやっていたそうだが、時代の波に逆らえずに転職したらしい。貧乏子沢山の典型で、仕送りは学費とわずかな生活費のみ。中田青年はカツカツの生活で、当然バイトをしている。住処は月四万円のアパートだ。……真唯が昔住んでいた、六畳一間のあのボロいアパートである。こちらの手ゴマにするために眼の届く処で飼っていたのだが、この女と結婚した暁には、もっと安い最低ランクの住処を用意してやろう。……俺の真唯が、長年愛着を持って住んでいた、あの俺にとっても思い出のあるアパートで、こいつらが新婚生活を送るなどとは虫唾が走る。
そうして、もう一枚は婚姻届。
中田青年と、証人の欄は署名、捺印済みだ。
証人は当然、兄とこの女の父親だ。
……それらの書類に眼を通している女の表情は、殆ど紙色で。
手も身体も震えている。
震える指にボールペンを握らせて。長い時間を掛けて、名前を書かせた。
捺印は、親切にも俺が代わりにしてやった。朱肉の色も鮮やかに。
……俺が助手席のSPにサインを送ると、しばらく走ってある処で車が停まった。
ぼんやりと、虚ろな表情をしている女に囁いてやった。
「…区役所に着きましたよ。
夜間窓口で、この婚姻届を提出してしまいましょうか…?」
言った瞬間、女の顔に生気が戻った。
「イヤァーーッ! それだけは、勘弁してぇーーーっ!!」泣き叫ぶ女を取り押さえて、「冗談ですよ。」と耳元に囁いてやると、ピタリと女の動きが止まった。「…冗談…?」「ええ、冗談です。…正直言えば、無理矢理ここで届けを済ませて、貴女を中田さんのアパートに送り届けて差し上げたいんですがね。そこまでして追い詰めて、万が一、自殺などされてはかなわない。…今夜は、これで引き下がりますよ。」そう言って、車を沼倉邸へ差し向けた。
沼倉氏には、直接、婚姻届を渡した。
届けは、この家の都合に任せる事にした。
まあ、孫の出産、育児が落ち着いた頃が妥当だろう。
その辺の裁量は任せたが……念書に偽るような行為をすれば、容赦はしない。
娘以上に、【CLUB NPOE】の……澤木様の権力を思い知っているはずなのだから。
応接室を辞する時、去り際、すっかり萎れてしまっている女の手を引き、別れの言葉を耳元に囁いてやると。
泣き出して、応接室を飛び出してしまった。自分の部屋へでも逃げ込んだのだろう。娘の無礼を詫びる沼倉氏に、構わないと告げて、俺は沼倉邸を後にした。
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『裕樺さん、さようなら。…ああ、もし、S女子大をご卒業されて、就職先に困られたら、遠慮なく訪ねて来て下さい。 良い勤め先をご紹介しますよ。…場末のソープあたりへね。』
……ソープなんぞ生温い。
……本当ならどこぞのSMクラブか、秘密クラブにでも送りこんでやりたい位だ。
……しかしまあ、当面の問題は片が付いた。
兄への制裁は、後回しだ。
……今は一刻も早く、真唯を迎えに行きたい。
あの女の件で身動きが取れない間は、真面目に働いていたのだ。
また、しばらく休みを取って、真唯を探しに行こう。
……奈良は調べ尽くした。
京都も鎌倉も調べた。
日本全国……もしくは、海外へも探索の手を伸ばさなければならないかも知れない。
……パリ、ロンドン。
そして、ローマ。
真唯が訪れた事のある土地を思い浮かべて……その時々のブログの記事を脳裏に蘇らせて、俺は苦く微笑った。
……十年だ。
……十年もの間、俺は真唯を……真唯だけを、想い続けて来たのだ……
こんな事で失ってたまるか…っ!!
※ ※ ※
……しかし、その後。
北は北海道からローラー作戦を開始したが、真唯の行方は杳として知れなかった。
そして、度々休暇を取り、仕事を滞らせるようになった俺に、一部の役員たちからは不満の声が上がったが、社長は何とか彼らを宥めていたようだが…知った事か。兄にはそれくらいの苦労をしてもらわなければ、割に合わない。俺のやる事に不満があれば、とっととクビにでもしてくれれば良いのだ。
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