IMprevu ―予期せぬ出来事―

天野斜己

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本編

No,117 【十年愛】 No,2

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予想通り、俺はしばらくは休む間もない程、仕事に追い回される事になった。それでも少しでも時間が出来ると、足しげく茶水や神田に通っていた。あの喫茶店にも足を運んだ。

……今日こそは、会えるんじゃないか……

……あの慕わしい、懐かしい香りに再会出来るんじゃないか……


そんな望みを捨て切れなかったのだ。



気付けば季節は、いつしか秋から冬に変わっていた。



※ ※ ※



茶水には、俺が岩屋と云う友人と設立した電子書籍出版社「アイ’s_Books」のオフィスがある。
当初、登記上は、岩屋の自宅アパートを“本社”にしていた。その後、岩屋の尽力で数々のヒット作をコンスタントに出し続ける事が出来るようになり、今や中堅どころの出版社として立派に認知されるようになり。仕事の量が増える度にバイトを雇ってはいたのだが、それでも追い付かなくなってくると、いよいよ本格的にオフィスを構えようと云う事になったが、酷い話だが、その件は岩屋に丸投げしていた。どうせ通うのは岩屋なのだから、彼が通勤しやすい場所で良いと思ったし、事務の子も営業部員の子も、岩屋が面接をしたり、スカウトしてきた人材はそのまま受け入れた。……ハズレがないのだから、有能な岩屋が悪いと思う。
また、岩屋の奴が、一度食らいついたら離さない、スッポンみたいな営業で業界で有名になり、名前の通り岩のように固い意志を持つ男だと、【がんちゃん】などと云う二つ名を持つようになって来たのも、この頃だった。



そんな彼が、少し前から夢中になっている存在があった。


『ダイヤの原石を見つけたぞ!!』


こんなに興奮した岩屋は久し振りだと嬉しく思う一方で、呆れた表情かおが隠せないのは、今現在、自分がやさぐれている為だと理解っている。
一目惚れに近い状態で気に入った女性をあてもなく探し続け、もどかしい想いを抱え続けている状態で、宝物を見つけた少年のようなキラキラしたで憧れの女性を語るが如く、探し当てた“ダイヤの原石”とやらのブロガーの事を熱く語るのを聞くのは、正直ご免こうむりたい。

だがしかし、俺も一応、悪いと思ってはいるのだ。何もかもを岩屋に任せっきりにしているのは。以前に一度、社長の座を岩屋に譲って、自分はもう退任しようか?と申し出てみた事があるのだが、実に嫌そうな表情かおでその案は却下されてしまったのだ。岩屋曰く―――「社長なんてガラじゃないし、そんな重い責任を負うのはご免だ。俺は、モノになりそうな奴を口説くのが、何より楽しいんだ」と。


……そんな熱い奴を相棒に選んでしまったのは俺自身な訳で……今、“彼女”を探す行脚に出ている身としては、車を置いておけるスペースとして出版社の月極めの駐車場はとても魅力的だから、そこら辺の有料駐車場で妥協する気になれなくて……結局、出版社に顔を出しては、岩屋が社にいる時はその女性ブロガーの話を聞かされる事が義務になりつつあった。



※ ※ ※



「とにかく騙されたと思って、一度読んでみろよ! ホントに面白いんだから! 続々ファンも出来つつあるし!!」
今日も、岩屋のお決まりの台詞で迎えられた。


「…一条社長、どうぞ。」
「ありがとう。」

お茶を出してくれる事務員が男性おとこなのも嬉しい。これが女性おんなのこだったりしたら、俺の面に見惚れて仕事にならない。……自惚れなんかじゃない……残念ながら。現にいるのだ。そんな使えない女性部下が。


……ここは、居心地が良い。ここでは緋龍院の名前を完全に忘れ、ただの“一条貴志”と云う、一個人でいられるからだ。

……女性うるおいなんか要らない。
……野郎の城……上等だ。

メガネ君の淹れてくれた茶を飲みながら、俺は岩屋の話を適当に聞き流していて……引っ掛かる点を感じた。……神社仏閣、仏像巡りの旅行記だと…?

……ちょっと、待て。
この前は、バレエや歌舞伎鑑賞記だと言っていなかったか?

ハッキリ言って、俺の歌舞伎に対する偏見は、過去のトラウマによるものだ。
……歌舞伎好きにロクな奴はいないと思って、その女性ブロガーの印象も最悪なものになってしまっていたのだが。



「真唯ちゃん、江ノ島に行ったらしくてな。普通の観光客は素通りする弁天堂の弁天像や、江の島大師まで丁寧に拝観して、一番奥の岩屋の中にも入ってるんだ。ホント、面白いぜ? …こっちまで、江ノ島に行ってみたくなっちまう。」

岩屋こいつがここまで言うと云う事は、本当に面白い旅行記エッセイなのだろう。
……だが、彼女に興味を持った事は知られたくはなかった。


「…ま、そのの事は、お前に任せるわ。
 …本当に金の卵だったら、他社に出し抜かれるなよ?」
「…相も変わらず、冷めてー奴。」
「…お前がホットだから、バランスがとれて、丁度良いんじゃないか?」
「…あー言えば、こー言う…」
「…お互い様だ。」

誰かがプッと噴き出して。……それは、クスクス笑いへと変化していき……アッと云う間に、笑われた俺たちまで含む爆笑に変わって行った。
こんなに笑うのは、いつ以来かなんて事を考えながら皆と一緒に笑い……帰宅したら、早速、検索してみようと思っていた。

岩屋がしつこいくらい繰り返すので覚えてしまった、HN・上井真唯のブログ、【強引g 真唯道ゴーイング・マイウェイ】を。



※ ※ ※



緋龍院建設 関東支店が、さいたま市にあったため、俺は市内に緋龍院警備保障の管轄のセキュリティーがしっかりしたマンションを見つけて、本社に転勤になった後も、そこに住んでいた。独身用の手頃なマンションでも良かったのだが、英国にいた頃、勘違い女ストーカーに追い掛け回された経験を持っていたので、念のための用心だ。
俺が留学前は確か、大宮市と言ったはずだが……県庁所在地は、いつの間にかその名前を変えていた。

帰宅する前に既に夕飯は済ませていた。朝は珈琲だけ。昼食は社食で栄養をとっているし、夕飯はすべて外食だ。自炊なんて面倒くさい事、やってられるか。掃除も洗濯も業者任せだ。嫁なんて、絶対に必要ない。性欲処理なら、間に合っている。緋龍院家じっかでしきりに見合いを持ち込んでくるが……冗談じゃない。




……徹底的に女を避けていた俺が、唯一、興味を持った、名も知らぬ“彼女”。


俺は直感の命じるままに、PCを立ち上げて検索し、一発で目当てのブログに辿り着いた。

ブログ運営会社のテンプレだと分かる画面に、ブログのタイトルと簡単な自己紹介が書かれていた。素っ気なく気取りのない文章は、スッピンの“彼女”を簡単に連想させる。

カテゴリーを見て驚いた。『仏像』『神社仏閣』から始まって、『舞台鑑賞記』『上井の書庫』と云う名の読書記録、『ちょっと気になるお店』『栞』と続いて、最後の『香り』に眼が吸い寄せられた。
迷わず『香り』をクリックする。

可愛いお線香や、味のある香立ての紹介の説明文などは、その画像がまるで見えてくるような描写力で。そして……



……見つけた…っ!!



そこには、あの【IMprevuアンプレヴー】の記事があったのだ。


『“予期せぬ出来事”と云う意味を持つ、仏蘭西フランスの香水会社「Coty」の傑作です。フローラルのトップから、ウッディのラストノートまでの変化が、何ともドラマティックなのです。
日本に輸入総代理店がなくなってしまい、事実上手に入れる事が不可能になってしまったため、これが正真正銘、最後の一本です。私に香りの美しさ、優雅さ、繊細さ。そして、それを実際に楽しむ事を教えてくれた香水なので、何とも残念です。』





……そうなのだ。

従兄の緋龍院京牙けいがや私を膝に抱きながら、優しく儚く微笑んでいた叔母・万葉かずは様が、好んでまとっていらした少女のような優しい香りが…この【IMprevu】なのだ。

この香りは……悲母観音さながらに、幼い私や従兄弟を包んでくれた慈愛深い、真実まことの母のような眼差しと……従兄弟と遊んだ、温かな思い出に直結する香りなのだ。





……色んな女性おんなたちと付き合って来た。

しかし、彼女たちがまとっていた香水はどれも、シャネルやディオールの女臭い毒婦のような香りで、俺を辟易させてきたのだが……






……“彼女”は…上井真唯嬢は違う。

律儀でユニークで、親切で、穏やかで……礼儀正しく、男に媚びる事がまったくない。



……正直に言おう。
真唯嬢よりも、万葉様の方が、はるかに清楚な美人だ。

……しかし、容貌かおの美醜など問題ではない。

……あの彼女が醸し出す、誠実で温かな雰囲気ムードだ。




……そこに、俺はかれてしまったのだ……




それから俺は徐に珈琲を淹れて、ブログを熟読する態勢に入った。

先ずは岩屋の言っていた、江ノ島散策記を読んだ。……奴の言っていた通り、夢中になって読んでしまって、何だか俺も一緒に同行させられた気分になってしまった。

仏像は、彼女が中学の修学旅行で行った京都で拝観した、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に一目惚れして、仏像好きになったとある。……中学生で国宝第一号に恋するなど、随分渋い早熟な中学生だったものだと微笑ましくなる。
だが奈良では一転、その観察眼に驚嘆する事となる。……他の生徒が大仏や金剛力士像に圧倒されている間に、東大寺中門東側に安置されている、兜跋毘沙門天とばつびしゃもんてんを両手で支える地天女に見惚れていたと言うのだから。……中学生で、あの像に気付くとは大したものだ。

読書感想文では、先ずは彼女の読書量に圧倒され。
その視点のユニークさに、益々、かれる。

舞台鑑賞記は、その後に読んだ。
先ずはバレエだった。
二00一年三月、松山バレエ団、森下洋子氏の“舞踊歴五十周年記念公演”【白鳥の湖】を観て、本物・・に触れ、舞台芸術に開眼したとある。そして同年十一月、シルヴィ・ギエムの【ボレロ】を観て、感動のあまり、涙してしまったと。
……高校生ならではの感受性の豊かさに、わずかばかりの憧憬の念を覚える。

面白いと感じたのは、ミュージシャン、ジョアン・ジルベルトの初来日のコンサートを『舞台』と捉えている点だ。
……本来なら……と云うか、普通の女の子だったら、同じミュージシャンでもアイドルに夢中になっていてもおかしくない年齢なのに、よりにもよってボサ・ノヴァの創始者のファンだったとは……。遅刻やドタキャンで有名な彼が開演時刻になっても姿を現さず、『ただ今、会場に向かっておりますので、もう少々お待ち下さい。』とのアナウンスには会場中が笑いに包まれた事、残暑も残る時期にも関わらず“演者の都合”でエアコンが止められてしまった事には正直参ってしまったが、約四十分の遅刻でジョアンが舞台に現れ「コンバンハ」と日本語で挨拶してくれた時。そして、彼が爪弾くギターの最初の一音で、(ああ、高いお金を払って来た甲斐があった…!)と、既に七十歳代に入っての初来日に感激した様子が事細かに描写されていた。しかも九月……。……俺に会う事になる、わずかひと月前である。……七十を過ぎている老人に、本気で嫉妬している自分に驚いた。

そして、いよいよ歌舞伎である。
筆者の歌舞伎座初体験が“歌舞伎四百年寿初春大歌舞伎”で良かったと、【京鹿子娘道成寺】で坂東玉三郎演じる白拍子・花子の可憐さ、妖しいまでの艶やかさに大感激した様子が、手に取るように理解るよう描写されていた。瀬戸内寂聴による 新作舞踊劇【出雲の阿国】の感想は、その視点のユニークさに舌を巻いた。


……彼女となら、歌舞伎鑑賞も楽しいかも知れない……




……そんな事を思えた、自分に自分で驚き……




気が付けば、一年分のブログの全記事を読破していた。
勿論、完徹である。

今まで、ネットサーフィンをしてて完徹しちまった~~、なんて言っていた同僚や部下などの事を秘かに見下していたのだが……それに近い事をしてしまったと気付いた時、呆然とし……その後はなぜか笑ってしまった。


……だって、笑うしかないではないか。

恋した女性ひとの書いた物だと思うと、『もう時間も遅いから、明日のために寝よう』なんて、理性が働かなくなってしまったのだ。
『…あと少し。…あと、もう少し…』などと、未練が後を引いて、気が付けば夜が明けていたのだから。



※ ※ ※



……この時、俺の中で、“彼女”イコール【上井 真唯】と云う図式が出来上がっていて……ひょっとして、別人なのかも知れないなんて可能性は、これっぽっちも思い浮かばなかった。



何故なら、俺の中での“彼女”のイメージが、文章の醸し出す人格とピタリとハマったからだ。






その時の俺はネット上とは云え、“彼女”と再会出来た事が、ただただ嬉しかった。






―――……それが、長く苦しい片恋の始まりになるとも知らずに……―――







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