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本編
No,116 【十年愛】 No,1
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二00三年、もうすぐ三十三歳になろうと云う秋、俺は昇進の階段をまた一歩昇った。
英国にいた頃の【CLUB NPOE】の人脈を使って、各国要人の許可を取り付け、バブル崩壊後の起死回生のプロジェクトを始動させる事に成功したのだ。
土木管理本部部長補佐と云う役職がその見返りだったが……もう将来が見えてしまった虚しさも、同時に感じていた。
※ ※ ※
……とにかく、今までが忙し過ぎた。プロジェクトが本格的に動き出せば、また馬車馬のように働かされる事になる。
久し振りにとれた完全なオフだ。
家でのんびりする事も出来たのだが、残暑も落ち着いて過ごし易くなった平日。俺は、本当に久し振りに神田の古書店街を周ってみる気になったのだ。
折角なのでたまにはと、車には乗らずJRを使った。
昔懐かしい茶水の駅から、のんびりと歩く。
岩屋と出入りしていた本屋も、まだまだ健在で嬉しくなる。
古書店は独特の雰囲気と匂いがして、居心地が良い。
古本とは、一度は人の所有物となった物であり、魅力的な内容が数多い。人の手から手へと渡って来た年月を考えると、悠久の浪漫を感じる。……現在、自分が造っている建造物の儚さとは大違いだと、苦く自嘲いが漏れる。
……そこは、何軒目の店だったか……専門的な店ではなく、各種、様々な種類の本が置かれている店だった。
最初、隣にいた立ち読みの人間など気にも留めなかった。
それが、丁度、俺の前に並べられていた仏像関係のエッセイを、学生らしき若い女性が手に取ろうとして、横から必死になっているのを見て、思わず手を貸してやって……
……この香りは…っ!?
その女性からほのかに薫ってくる、懐かしい香りに一時、呆然となってしまうと、「ご親切に、ありがとうございます。」にっこり俺の瞳を見て笑うと、すぐにその本に眼を通し始めた女性に興味を覚えた。
自慢ではないが、俺のこの容貌は、女性にとって強力な磁力のようなものを感じるらしく、俺と眼があうと女性は必ずと言っていいほど顔を赤らめるか、ボウッとした表情になってしまうものなので、ここまで綺麗に無視されたのは初めての経験だったのだ。
……それに、懐かしいこの香り……
隣の女性…と云うより、まだ少女のような幼さで……下手をすれば高校生に間違われかねない。しかし、イマドキの高校生がメイクばっちりなのに反して、スッピンなのがまた俺の興味を煽った。
写真が多用されているその本をすぐに読んでしまった彼女が、元の棚に戻そうとするのに、また薫ってくるこの香りは……
……間違いない……【IMprevu】だ……
「どうぞ、お嬢さん。」
俺は意識してにっこりと微笑って、元の棚に戻してやった。
すると赤くなるどころか、眉をハの字に曲げ心底申し訳なさそうに……それでも、微笑ってくれたのだ。
「…重ね重ね、申し訳ありません。本当に、ありがとうございます。」
と。
次に彼女が手に取ったのは、東洋の歴史の本だった。
……大学で専攻しているのだろうか……だったら、平日のこんな真昼間から、こんな店にいるのも納得がゆく……
横に立っている俺の事など、もう忘れてしまったかのように読書に没頭している彼女を感じていると、随分昔に自分が亡くしてしまった何かを思い出させてくれるようで……
「…ア…ッ!」
どのくらい時間が経ったのか、急に彼女が俺がいる棚とは逆の棚に何か見つけたようで、飛んで行ってしまった。そして嬉しそうな表情をし、少し読んではクスクスと可笑しそうに笑っている。
つい興味を引かれて、何気なさを装って目当ての本を探し求めるように、再び彼女の隣に立ち。彼女が読んでいる本が何の本か理解った瞬間、俺は本気で度肝を抜かれた。
……ク・リトル・リトル神話…!!
H・P・ラヴクラフトの“古きものども”の恐怖神話体系小説。
これのどこに、笑う要素があると云うのか…!?
確かに一部のラノベでは、徐々にメジャーなジャンルになりつつあるが……この本は、本家本元の想像を絶する狂気と絶望に満ちた、おどろおどろしいまでの怪奇小説なのに…!
……この女性、面白い…! 面白過ぎる…っ!!
肩を揺らして笑う女性の横で、俺も小さく肩を揺らしていた。
……彼女の表情を盗み見ながら。
一時間近くを、その神話の世界に没頭していた彼女は、それに満足すると店を出て行ってしまった。迷ったのは一瞬だった。俺はすぐに、彼女の後を追った。
古書版画の店では、その世界に遊び。
ノンフィクションでは、涙さえ浮かべながら。
時代小説では、ワクワクしている様子が身体全体から伝わって来て。
気付けば夕方になってしまっていたのには、本当に驚いた。
……ずっと、一人の女性の表情を追っていて、飽きる事がなかった自分自身に。
秋の陽は釣瓶落としで、すぐに暗くなってしまう。
思わず彼女の帰りを心配してしまうと、彼女は何かに気付いたように駆け寄って行ってしまった。……小さな風呂敷包みを抱え、重そうな紙袋を提げた着物姿の老女だった。その老人が、困った様子で地図らしき物を見ながらキョロキョロしていたのには俺も気付いていたのだが、そのうち誰かが助けるだろうと思っていたのだ。
……他ならぬ誰かには、彼女が自ら志願したようだ。
遠目にも、彼女が老女に丁寧に対応しているのが理解る。老女が持っていた紙片を一緒に覗き込んでいた彼女が、老女を安心させるように、にっこりと微笑み。先導するように歩き出す。さり気なく、紙袋を持ってやりながら。
……繁華街で、光が溢れ出して来た場所で、彼女と、しきりにお辞儀を繰り返すその老女だけが、何か温かな光に包まれているような錯覚を感じる。二人は、大通りからどんどん離れた住宅街に入って行く。
とある一軒の家の前に辿り着いた時には、三十分近くが経っていて、思わず(タクシー使えよ…っ)と思ったものだが、考えてみれば老女が最初からタクシーを拾っていたら、彼女のこんな優しい一面を見る事は叶わなかったのだ。
小さな門の前で、何だか二人が賑やかになった。何をしているのかと思ったら、「…了解りました! ここから動きませんから!」と彼女の大きな声が聞こえて。門の中に消えていく老女を見送っていた彼女が、いきなりダッシュをかました時には驚いた。
動かないと言っていたのに、まさか俺のストーカーまがいの行為に気付かれていたか…!?
疾しさが生み出した心配は、三十秒後には解消された。先ほどの家から充分離れると、彼女は走るのをやめて、またゆっくり歩き出したのだ。
……察するに、何かお礼がしたいから門の処で待つように言い置いて、老女は家人を呼びに行ったのだろう。
……彼女らしい……
……彼女の事など何一つ知らないくせに、その時俺はごく自然にそう思い温かな気持ちに包まれていた。
しばらく歩くと、「よーし、今日は自分にご褒美だー!」と可愛い声が聞こえて来た。……彼女の“自分ご褒美”……一体、何だろうとワクワクしていると、神田駿河台まで歩いた彼女は【レ○ン パートツー】と云う喫茶店に入って行った。
洒落たブランコの置いてあるエントランスで、少しの間、迷った。明らかに女子大生の好みそうな店だ。自分が入店ったら、確実に浮くだろう。もしくは、肉食系(この時代には存在していないはずの言葉です/笑)女子大生の餌食になるかだ。
しかし、そう悩む一方で、自分はすっかり、この中に入る心算でいる事を自覚する。……このままでは、終わらせたくはない。……まだ、もう少しだけ、“彼女”のクルクルと良く変わる表情を眺めていたい……。……意を決して、俺はその喫茶店に入った。
俺が入った瞬間、空気がザワリと揺れるが、そんなものはもう慣れきってしまった感覚だ。席を案内にやって来たはずの店員も俺の面を見て、頬を赤らめている。……学生とは云えバイトに雇うなら、もっとしっかりした人材を選びなさい、店長。
彼女が座っている二人掛けのテーブルに、『相席、よろしいですか?』と聞いてみたい衝動を必死に堪えた。そんなナンパな真似は、彼女は断固、拒否するだろう。……そんな予想が簡単についてしまった。
数少ない二人掛けのテーブルは既に埋まってしまっている。仕方なく、カウンターに座った。これでは彼女の表情が見えない……と残念に思ったのも束の間、狭いテラスガーデンが見える壁一面のガラスが夜の闇で鏡の役割をしてくれている。お陰で彼女の顔が、バッチリ見える。……横顔だけだが。
早速のように、古書店巡りの戦利品らしき本を読んでいる彼女の姿は、一幅の絵画のように……愛らしい。彼女が“自分へのご褒美”に選んだものは、何かのパスタのようだった。本に栞を挟んで、いそいそとスプーンとフォークを手に取る彼女の表情は、本当に嬉しそうに輝いていて微笑みを誘われる。だが、その両方を使いパスタを食べるのに慣れていないようだ。不器用なのか、あまりパスタを食べ慣れていないのか……そんなぎこちなささえ、可愛いらしいと思うのだから……もう、末期かも知れない。
俺は自分の注文した、鮭としめじのレモン醤油パスタをスプーンに取りフォークで巻きながら、彼女に手取り足取りコツを教えてやりたい、などと思ってしまった。……こんなものは、慣れの問題なのだ。
パスタを食べ終わって、デザートのケーキを頬張る様子は、本当に幸福そうで……色んな店に彼女を連れて行ってやりたくなってしまう。
寄せられる幼い秋波を鬱陶しく感じながらも、ただひたすらに、今は食後の珈琲を飲みながらまた読書に埋没してしまっている“彼女”を見つめ続けた。
……万が一に賭けてみたいのだ。
……もし彼女が、ここの近くの大学生だったら、この喫茶店で友人とバッタリ会うかも知れない。その時、友人は彼女の名前を呼ぶだろう。……“彼女”の名前が知りたい……
……溢れる欲求は、結局、叶う事はなかった。
腕時計を確認した彼女は、残念そうに顔を歪め、伝票をとりレジへ向かった。
……どうやら、タイムアウトのようだ。
JRお茶の水駅の改札に入った彼女は、俺と同じ方向の電車に乗ったものの、俺は京浜東北線に乗り換えるために秋葉原で降りなければならず、彼女は総武線に乗ったまま人波に紛れて……アッと云う間に、その姿は見えなくなってしまった。
―――……俺の胸に鮮烈過ぎる爽やかな印象と、【IMprevu】の甘い残り香を残して……―――
英国にいた頃の【CLUB NPOE】の人脈を使って、各国要人の許可を取り付け、バブル崩壊後の起死回生のプロジェクトを始動させる事に成功したのだ。
土木管理本部部長補佐と云う役職がその見返りだったが……もう将来が見えてしまった虚しさも、同時に感じていた。
※ ※ ※
……とにかく、今までが忙し過ぎた。プロジェクトが本格的に動き出せば、また馬車馬のように働かされる事になる。
久し振りにとれた完全なオフだ。
家でのんびりする事も出来たのだが、残暑も落ち着いて過ごし易くなった平日。俺は、本当に久し振りに神田の古書店街を周ってみる気になったのだ。
折角なのでたまにはと、車には乗らずJRを使った。
昔懐かしい茶水の駅から、のんびりと歩く。
岩屋と出入りしていた本屋も、まだまだ健在で嬉しくなる。
古書店は独特の雰囲気と匂いがして、居心地が良い。
古本とは、一度は人の所有物となった物であり、魅力的な内容が数多い。人の手から手へと渡って来た年月を考えると、悠久の浪漫を感じる。……現在、自分が造っている建造物の儚さとは大違いだと、苦く自嘲いが漏れる。
……そこは、何軒目の店だったか……専門的な店ではなく、各種、様々な種類の本が置かれている店だった。
最初、隣にいた立ち読みの人間など気にも留めなかった。
それが、丁度、俺の前に並べられていた仏像関係のエッセイを、学生らしき若い女性が手に取ろうとして、横から必死になっているのを見て、思わず手を貸してやって……
……この香りは…っ!?
その女性からほのかに薫ってくる、懐かしい香りに一時、呆然となってしまうと、「ご親切に、ありがとうございます。」にっこり俺の瞳を見て笑うと、すぐにその本に眼を通し始めた女性に興味を覚えた。
自慢ではないが、俺のこの容貌は、女性にとって強力な磁力のようなものを感じるらしく、俺と眼があうと女性は必ずと言っていいほど顔を赤らめるか、ボウッとした表情になってしまうものなので、ここまで綺麗に無視されたのは初めての経験だったのだ。
……それに、懐かしいこの香り……
隣の女性…と云うより、まだ少女のような幼さで……下手をすれば高校生に間違われかねない。しかし、イマドキの高校生がメイクばっちりなのに反して、スッピンなのがまた俺の興味を煽った。
写真が多用されているその本をすぐに読んでしまった彼女が、元の棚に戻そうとするのに、また薫ってくるこの香りは……
……間違いない……【IMprevu】だ……
「どうぞ、お嬢さん。」
俺は意識してにっこりと微笑って、元の棚に戻してやった。
すると赤くなるどころか、眉をハの字に曲げ心底申し訳なさそうに……それでも、微笑ってくれたのだ。
「…重ね重ね、申し訳ありません。本当に、ありがとうございます。」
と。
次に彼女が手に取ったのは、東洋の歴史の本だった。
……大学で専攻しているのだろうか……だったら、平日のこんな真昼間から、こんな店にいるのも納得がゆく……
横に立っている俺の事など、もう忘れてしまったかのように読書に没頭している彼女を感じていると、随分昔に自分が亡くしてしまった何かを思い出させてくれるようで……
「…ア…ッ!」
どのくらい時間が経ったのか、急に彼女が俺がいる棚とは逆の棚に何か見つけたようで、飛んで行ってしまった。そして嬉しそうな表情をし、少し読んではクスクスと可笑しそうに笑っている。
つい興味を引かれて、何気なさを装って目当ての本を探し求めるように、再び彼女の隣に立ち。彼女が読んでいる本が何の本か理解った瞬間、俺は本気で度肝を抜かれた。
……ク・リトル・リトル神話…!!
H・P・ラヴクラフトの“古きものども”の恐怖神話体系小説。
これのどこに、笑う要素があると云うのか…!?
確かに一部のラノベでは、徐々にメジャーなジャンルになりつつあるが……この本は、本家本元の想像を絶する狂気と絶望に満ちた、おどろおどろしいまでの怪奇小説なのに…!
……この女性、面白い…! 面白過ぎる…っ!!
肩を揺らして笑う女性の横で、俺も小さく肩を揺らしていた。
……彼女の表情を盗み見ながら。
一時間近くを、その神話の世界に没頭していた彼女は、それに満足すると店を出て行ってしまった。迷ったのは一瞬だった。俺はすぐに、彼女の後を追った。
古書版画の店では、その世界に遊び。
ノンフィクションでは、涙さえ浮かべながら。
時代小説では、ワクワクしている様子が身体全体から伝わって来て。
気付けば夕方になってしまっていたのには、本当に驚いた。
……ずっと、一人の女性の表情を追っていて、飽きる事がなかった自分自身に。
秋の陽は釣瓶落としで、すぐに暗くなってしまう。
思わず彼女の帰りを心配してしまうと、彼女は何かに気付いたように駆け寄って行ってしまった。……小さな風呂敷包みを抱え、重そうな紙袋を提げた着物姿の老女だった。その老人が、困った様子で地図らしき物を見ながらキョロキョロしていたのには俺も気付いていたのだが、そのうち誰かが助けるだろうと思っていたのだ。
……他ならぬ誰かには、彼女が自ら志願したようだ。
遠目にも、彼女が老女に丁寧に対応しているのが理解る。老女が持っていた紙片を一緒に覗き込んでいた彼女が、老女を安心させるように、にっこりと微笑み。先導するように歩き出す。さり気なく、紙袋を持ってやりながら。
……繁華街で、光が溢れ出して来た場所で、彼女と、しきりにお辞儀を繰り返すその老女だけが、何か温かな光に包まれているような錯覚を感じる。二人は、大通りからどんどん離れた住宅街に入って行く。
とある一軒の家の前に辿り着いた時には、三十分近くが経っていて、思わず(タクシー使えよ…っ)と思ったものだが、考えてみれば老女が最初からタクシーを拾っていたら、彼女のこんな優しい一面を見る事は叶わなかったのだ。
小さな門の前で、何だか二人が賑やかになった。何をしているのかと思ったら、「…了解りました! ここから動きませんから!」と彼女の大きな声が聞こえて。門の中に消えていく老女を見送っていた彼女が、いきなりダッシュをかました時には驚いた。
動かないと言っていたのに、まさか俺のストーカーまがいの行為に気付かれていたか…!?
疾しさが生み出した心配は、三十秒後には解消された。先ほどの家から充分離れると、彼女は走るのをやめて、またゆっくり歩き出したのだ。
……察するに、何かお礼がしたいから門の処で待つように言い置いて、老女は家人を呼びに行ったのだろう。
……彼女らしい……
……彼女の事など何一つ知らないくせに、その時俺はごく自然にそう思い温かな気持ちに包まれていた。
しばらく歩くと、「よーし、今日は自分にご褒美だー!」と可愛い声が聞こえて来た。……彼女の“自分ご褒美”……一体、何だろうとワクワクしていると、神田駿河台まで歩いた彼女は【レ○ン パートツー】と云う喫茶店に入って行った。
洒落たブランコの置いてあるエントランスで、少しの間、迷った。明らかに女子大生の好みそうな店だ。自分が入店ったら、確実に浮くだろう。もしくは、肉食系(この時代には存在していないはずの言葉です/笑)女子大生の餌食になるかだ。
しかし、そう悩む一方で、自分はすっかり、この中に入る心算でいる事を自覚する。……このままでは、終わらせたくはない。……まだ、もう少しだけ、“彼女”のクルクルと良く変わる表情を眺めていたい……。……意を決して、俺はその喫茶店に入った。
俺が入った瞬間、空気がザワリと揺れるが、そんなものはもう慣れきってしまった感覚だ。席を案内にやって来たはずの店員も俺の面を見て、頬を赤らめている。……学生とは云えバイトに雇うなら、もっとしっかりした人材を選びなさい、店長。
彼女が座っている二人掛けのテーブルに、『相席、よろしいですか?』と聞いてみたい衝動を必死に堪えた。そんなナンパな真似は、彼女は断固、拒否するだろう。……そんな予想が簡単についてしまった。
数少ない二人掛けのテーブルは既に埋まってしまっている。仕方なく、カウンターに座った。これでは彼女の表情が見えない……と残念に思ったのも束の間、狭いテラスガーデンが見える壁一面のガラスが夜の闇で鏡の役割をしてくれている。お陰で彼女の顔が、バッチリ見える。……横顔だけだが。
早速のように、古書店巡りの戦利品らしき本を読んでいる彼女の姿は、一幅の絵画のように……愛らしい。彼女が“自分へのご褒美”に選んだものは、何かのパスタのようだった。本に栞を挟んで、いそいそとスプーンとフォークを手に取る彼女の表情は、本当に嬉しそうに輝いていて微笑みを誘われる。だが、その両方を使いパスタを食べるのに慣れていないようだ。不器用なのか、あまりパスタを食べ慣れていないのか……そんなぎこちなささえ、可愛いらしいと思うのだから……もう、末期かも知れない。
俺は自分の注文した、鮭としめじのレモン醤油パスタをスプーンに取りフォークで巻きながら、彼女に手取り足取りコツを教えてやりたい、などと思ってしまった。……こんなものは、慣れの問題なのだ。
パスタを食べ終わって、デザートのケーキを頬張る様子は、本当に幸福そうで……色んな店に彼女を連れて行ってやりたくなってしまう。
寄せられる幼い秋波を鬱陶しく感じながらも、ただひたすらに、今は食後の珈琲を飲みながらまた読書に埋没してしまっている“彼女”を見つめ続けた。
……万が一に賭けてみたいのだ。
……もし彼女が、ここの近くの大学生だったら、この喫茶店で友人とバッタリ会うかも知れない。その時、友人は彼女の名前を呼ぶだろう。……“彼女”の名前が知りたい……
……溢れる欲求は、結局、叶う事はなかった。
腕時計を確認した彼女は、残念そうに顔を歪め、伝票をとりレジへ向かった。
……どうやら、タイムアウトのようだ。
JRお茶の水駅の改札に入った彼女は、俺と同じ方向の電車に乗ったものの、俺は京浜東北線に乗り換えるために秋葉原で降りなければならず、彼女は総武線に乗ったまま人波に紛れて……アッと云う間に、その姿は見えなくなってしまった。
―――……俺の胸に鮮烈過ぎる爽やかな印象と、【IMprevu】の甘い残り香を残して……―――
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