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本編
No,115 【十年愛】 prologue
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―――……真唯…どこにいるんだ、真唯っ! 頼むから出て来てくれ…っ!! ―――
※ ※ ※
久し振りの海外出張から帰国って来て、休む間もなく本社の専務室に入り、この出張のうちに溜まってしまった仕事を片付け始める。以前はただの義務でしかなかった事が、家で待っていてくれる女性がいると思うだけで、仕事の進み具合がまったく違ってくるのだから我ながら現金なものだ。
英国では思った通り、手ぐすね引いて、奴が待ち構えていた。仕事の話はどうしたと言いたくなる程、根掘り葉掘り相手の女性の事を知りたがる。……無理もない。俺は昔から、アイツが心配するほど人間不信で、徹底した女性不信だったのだから。そんな俺の年貢を納める気を起こさせた女性の事を知りたいに違いない。俺はこれ幸いと、盛大にノロけて来てやった。……ただ、真唯の事と云うよりも、その友人関係まで知りたがるのには閉口してしまったが。
愛用のノートや彼女のスマホを盗聴している機械は、直接会う事が出来ない日々を埋めてくれた。途中、電波の調子が乱れたりする事は何度かあったが、画面に映る愛しい女性の姿を眼で追うだけで癒された。約一万キロの距離を隔てられていても、その姿を見て、声を聞く事が出来る事に幸福をおぼえ……その甘やかな肢体を抱く事が叶わぬ事に絶望をおぼえる。
英国は現在、サマータイムだ。時差は八時間。岩屋に会うと言っていた日、現地時間午後四時近くにあった『ただいま』のメールには、就寝直前だったろう真唯に即コールしてしまった。いくら何でも遅過ぎだ!! 彼女と岩屋の仲を邪推するわけではない。岩屋は類稀な愛妻家であり、他人の婚約者に手を出すような奴ではない事も良く理解っているからだ。勿論、真唯の事も信じている。
案の定、『岩屋さんとは話が弾みましたけど、婚約祝いにと奢ってもらっただけで、すぐに別れました。それよりも、一条さんと初めて会った時の事を思い出して、【アラウンド・ザ・ワールド】を楽しんでいたら遅くなってしまったんです。』などと言われてしまえば、怒るに怒れない。
……本当に、とんだ天然な小悪魔だ。
おまけに、『…ねえ、一条さん…愛してるって言って下さい…』などと珍しく甘えてくるのだから、堪らない。
……真唯も、少しは寂しいと思ってくれているのだろうか…? もうすぐ妻になる、愛しい女性の可愛いお願いを叶えないなど、愚かな男になれるはずもなく。真唯の気のすむまで、“愛している”の囁きを繰り返した。
……その間、会議が中断してしまったのは、ほんの余談だ。
しかし。
いつかは、本当の事を打ち明けなくてはならない。
……岩屋の事も……緋龍院の家の事も……
だが、もう少し。もう少しだけ、時間が欲しい。
……せめて、俺の誕生日までは……
緋龍院と云えば今抱えている案件がらみの、どうしても断れない不愉快な見合いを押し付けて来て以来、音沙汰がないのが却って不気味だ。俺の噂が広まっているのを、あの兄が放っておくとも思えないのだが……。だがまあ、念のため、カードは用意してある。自分に有利なカードは何枚あっても困る事はないからだ。
―――そうして俺は慢心してしまったのだ……。……あの兄が、英国出張などと云う好機を逃すはずがないのに…!! ―――
※ ※ ※
バンッ!
俺はノックもせずに、社長室のドアを乱暴に開けた。
二人在駐していた秘書がギョッとして俺を見ているが、構っていられるか!
「一条専務…今日、社長とのお約束はなかったはずですが…」
「…関係ありません。社長は来客中ですか?」
「いえ、それはありませんが…あの! 困ります!!」
慌てる秘書たちの声を背中に聞きながら、俺は敵の本丸のドアをノックして、こう言った。
「…兄上、貴志です。
…お話があります、入りますよ。」
応答の声も聞かずにドアを開けたが、今度は制止の声が掛からなかった。
二人の秘書たちが、今初めて知った事実に、呆然としてしまっているからだ。
中から、「ああ、大丈夫だ。 …ただの兄弟喧嘩だから。」と、落ち着いた中年の声が聞こえる。
……俺の兄…緋龍院京一郎の声だ。社長は秘書たちを落ち着かせると、珈琲を二つ頼んだが俺はそれを断った。
「三井君の珈琲は旨いんだぞ。お前だって知っているだろう?」
俺にソファーを勧めながら不満気に言う兄が、秘かにびくついているのをヒシヒシと感じる。……この俺が、自分を兄上と呼ぶ時の怖さを身にしみて知っているからだ。
……この男は、ビビリだ。そのくせ自己顕示欲は人一倍で、頂点を……緋龍院本家の当主の座を狙っているのだから笑わせてくれる。いくら、この建設会社の社長になれたからと云って……あの祖父が許すものか。……俺がその座を、あの祖父から打診された事があるなどと知ったら、一体どんな表情を見せてくれるだろうか…?
しかしたった数分前、この兄はこの俺を敵に回した。
……しかも、それ以上の方を敵に回してしまった事を……とくと思い知らせてやる。
「兄上が正直に話して下されば、そんなに長居する心算はありませんので。」
「…正直に…? …何を話せば、良いのかな?」
「真唯に…私の婚約者に、何を吹き込んだのですか?」
「…吹き込んだとは、穏やかじゃないな…。…しかも婚約者とは…お前には裕樺さんがいらっしゃるだろう。」
「…成る程…まだ、諦めていなかったのですか…まさか、沼倉嬢もご一緒だったなどとは、おっしゃいませんよね?」
「…………」
「結構! 充分な肯定だ。 …それで大体の事は、察しがつきます。」
「…貴志…裕樺さんは妊娠していらっしゃる。お前の子供として認知すれば、末は事務次官の沼倉氏との縁故も出来る。 …さっきお前は、ここに入って来る時に、私と兄弟だと云う事を自らばらしてしまった。裕樺さんと結婚すれば、お前が副社長に就任する事を反対する者もいなくなるだろう。 …いい加減に家に帰って来て「兄上」」
俺はベラベラと下らない事を言う奴の言葉を遮った。
「…な、なんだ。失礼だろう…人の話しを…」
「…一つ、良い事を教えて差し上げましょう。」
「…真唯は、あのお方の…澤木様の【倶楽部 NPO】の支配人の御名刺を頂く事の出来た、世界でも十本の指の中に入る貴重な十人の内のお一人なのですよ。」
にっこり
「…な…何だとっ!?」
兄の顔色が面白いほど変わる。
「…しかも、澤木様の専用機に…“影のエアフォースワン”に搭乗を許されて、三年になります。」
顔面蒼白になった兄が、ブルブルと震え出す。
「…たかが一高級官僚の娘と、澤木様の意に適った者と…一体どちらが、緋龍院家の嫁に相応しいでしょうかね…?」
「…しゃ、謝罪を…っ! あの娘に…、いや、牧野様に謝罪を…っ!!」
「もう、遅いですよ。 …真唯は会社に辞表を提出したそうです。 …おそらくは、誰かさんに脅されてね。」
「…っ! …し、知らなかったんだ…っ!! 牧野様が、澤木様の御名刺を頂いていたなんて…っ!!」
「…知らなかったで済めば、警察も裁判所も要りませんよ。…まあ、そんな機関も、今は関係ない。…澤木様は、お気に入りの女性を粗略に扱われて、大層ご立腹のようですから……」
「…っ!! …た、貴志っ! と、取り成してくれ! お前の言う事なら、澤木様も…っ!!」
「兄上」
今までの優しいまでの穏やかな口調から一転、絶対零度の厳しい声を出せば、それだけで兄の身体がビクリと揺れる。
「…忘れて頂いては困ります。
…私は、澤木様以上に怒っているのです。」
……俺は怒れば怒るほど、言葉遣いが丁寧になる男だ。俺の『私』と云う一人称に、愚鈍な兄も、俺の怒りが頂点に達している事をようやく悟ったのか、「…ヒィ…ッ!」などと、情けない悲鳴を口中で上げる。……ワタクシなんて言葉は普段仕事でしか……ああ、そう云えば真唯の両親に挨拶に行った時も使ったが、純粋に怒りだけで使ったのは何年振りだろう……
……そんな明後日な事を考えながら、俺は腰を上げた。
「ま、待ってくれ…っ!」
「…そんな事が、私に言えた義理ですか…?」
「た、たった二人の兄弟じゃないか…っ!」
「…私でしたら、いつでも縁を切って下さって結構なのですよ…兄上。」
「た、貴志…っ! そんな事を言わないでくれ…っ!!」
「…これからしばらく、休みを頂く事が多くなりますが、ちゃんと届けに判子を押して下さいね。 …私の専務業に支障をきたすようになって参りましたら、容赦なく降格にするなり、首にするなりして下さって結構ですので。」
「……っ!!」
「それでは、失礼致します。」
追い縋る気力もなくしたような兄に九十度に腰を折り、にっこりと黒笑みで最後通牒を言い渡す。
「社長、どうなさいました!?」
「社長、しっかりなさって下さい! 社長!!」
社長秘書たちの慌てる声を背中に聞きながら、俺は社長室を後にした。
あの兄が……社長が、泡を吹いて倒れようが知った事か。
※ ※ ※
―――……この部屋は、こんなにも広かっただろうか……―――
俺は現在、自宅のマンションのリビングに立ち尽くしている。
ここ数日会社を休み、真唯の行方を探し求めているが、頭の中では、あの日一日に起こった出来事がリピートされている。
『専務! 真唯さんと連絡が取れません!!』
異変は、真唯を迎えに行った山中から齎された。
慌てて真唯のスマホにコールするが、やはり電源が切られているようで、GPSも作動しない。真唯に付けているSPに連絡すれば、こちらも応答がない。焦りと苛立ちで、どうなっているのかと怒鳴り声でSPの上部にかけあえば、間もなく長官自らが謝罪に訪れた。
聞けば、緋龍院京一郎が真唯の護衛チームに圧力を掛け、決して危害を加えないと云う事を条件に、約十分ほどの“間”を作ったと言うのだ。これだけだったら、よくある緋龍院家内の内紛だ。(それだけでも、充分、許しがたいと言うのに!!)
だが、それだけではなかった。
翌朝、山中に送られて出勤した真唯が一時間もしないうちに会社から出て来て、それを追跡したところ『…CLUB NPOEの【提督閣下】ご自身に邪魔をされ、しかもそれを貴志様にご連絡する事を禁じられてしまいました。…申し訳ございません…っ!!』職業意識の強い軍人のようなSP長官のその後の謝罪は、一切、記憶に残っていない。
思わぬ大物の登場に衝撃を受けたのだ。
【提督】…!
……少なからず、組織には陰の部分が出来る。
そしてそれをカバーするべく、秘密裏の護衛の意味を持つ組織が編成される。
緋龍院家の“SP”、一条家の御庭番と異名をとる“影”
当然、【CLUB NPOE】のような巨大組織にも、そのような存在は不可欠だ。そして彼らを纏めているトップが、通称【提督】と呼ばれる中性的な美貌で有名な壮年の白人男性である事は、闇の世界に生きる者にとっては周知の事実なのだ。
【提督】は、あのお方の……澤木様の意を受けてしか動かない。その彼が出てきたと云う事は……真唯は澤木様の庇護下にいる何よりの証拠だ…!
藁にも縋る想いで澤木様に連絡をとれば、
『…可哀想に…恋人の留守中に、その恋人の兄君から散々、脅されたらしくてね。会社に迷惑をかけないように、辞表を提出してきたそうだ。引き継ぎも出来ない事を、真面目な彼女は気に病んでいたが、辞表がすんなり受け入れられたところをみると、KY商事にも何らかの圧力を掛けていたのだろう。
…貴志…私は、怒っているのだよ…
…本来なら妹となるべき女性を脅した男にも…彼女を守れなかった恋人にもね…』
冷んやりとした黒笑みが見えるような口調に、ザッと血の気が下がる。震える声で真唯を返して欲しいと懇願すれば、答えはNOだった。
『…貴志…彼女は…真唯ちゃんはね。しばらく、一人になって、ゆっくり考えたいと言うんだ。…お前の下を離れたいと、私に救けを求めてきたんだよ。私は、その信頼に応えなければならない。…真唯ちゃんが欲しかったら、自分の足で探すんだ、貴志…世界中をね。』
呼吸を飲む俺を他所に、通話は切れてしまった。……しばらくは茫然と立ち尽くしてしまった。
……澤木様は、自分の足でとおっしゃった。これはつまり、自分自身の力でと云う意味だ。
……緋龍院の力を使う事は許されない。……いや、緋龍院の力を使っても、【CLUB NPOE】の権力には、敵わない……
……澤木様のお力によって隠されてしまった婚約者を探し当てる事など、この俺に出来るのだろうか……
押し寄せる絶望感に苛まれるままに、兄にあたり散らしてしまったが、後悔など少しも覚えない。本当は、もっと言ってやりたかったのだが、自分の口が止まらなくなりそうでやめておいたのだ。
出張中にたまった仕事を超特急ですべて片付けた俺が、最初に向かったのは奈良だった。奈良は真唯の一番好きな土地だ。土地勘もあるし、何より真唯が退屈しないだろうし、落ち着いて考え事が出来るだろうと思ったのだ。
ホテル、旅館、不動産屋を虱潰しに当たった。勿論、向こうも社会が敏感になっている現代、簡単に個人情報を漏らしはしない。そう云う輩は、緋龍院の名刺で抑え付けた。作り話をでっち上げ(と言っても、俺にとっては百%真実なのだが)、婚約者の行方を捜していると言い、必要とあれば金もバラまいた。
……偽名を使われていたり、【CLUB NPOE】所有の別邸にいたりすれば完全にアウトだが、『自分の足で探せ』と言った以上、そんな卑怯な事は澤木様はなさらないだろうと考えたのだ。
……すべてが、空振りだったが……
※ ※ ※
……もう、深夜だと言われる時間だと云うのに、空腹も感じない。
だがさすがに喉の渇きを覚えるが、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すのさえ億劫で、水道水をコップに満たしゴクゴクと飲み干す。
……途端に浮かぶのは、高級スーパー(真唯基準)で購入してくるミネラルウォーターは愚か、光熱費さえ払ってないからと言って水道水さえ遠慮がちに飲んでいた、愛しい女性の姿だ。
……ああ!
どうしてもっと早く、緋龍院の家の事を打ち明けておかなかったのだろう…!!
後悔してもし切れない…っ!!!
……あの恥ずかしがり屋の彼女が、俺に『愛してる』なんて言葉をねだる時点で、おかしいと気付くべきだった…っ!!
……十年間、我慢出来たのに…あの、甘い肢体を知ってしまった現在では、恋しくて恋しくて……呼吸さえ、止まってしまいそうだ……
―――……真唯…どこにいるんだ、真唯っ! 頼むから出て来てくれ…っ!! ―――
※ ※ ※
久し振りの海外出張から帰国って来て、休む間もなく本社の専務室に入り、この出張のうちに溜まってしまった仕事を片付け始める。以前はただの義務でしかなかった事が、家で待っていてくれる女性がいると思うだけで、仕事の進み具合がまったく違ってくるのだから我ながら現金なものだ。
英国では思った通り、手ぐすね引いて、奴が待ち構えていた。仕事の話はどうしたと言いたくなる程、根掘り葉掘り相手の女性の事を知りたがる。……無理もない。俺は昔から、アイツが心配するほど人間不信で、徹底した女性不信だったのだから。そんな俺の年貢を納める気を起こさせた女性の事を知りたいに違いない。俺はこれ幸いと、盛大にノロけて来てやった。……ただ、真唯の事と云うよりも、その友人関係まで知りたがるのには閉口してしまったが。
愛用のノートや彼女のスマホを盗聴している機械は、直接会う事が出来ない日々を埋めてくれた。途中、電波の調子が乱れたりする事は何度かあったが、画面に映る愛しい女性の姿を眼で追うだけで癒された。約一万キロの距離を隔てられていても、その姿を見て、声を聞く事が出来る事に幸福をおぼえ……その甘やかな肢体を抱く事が叶わぬ事に絶望をおぼえる。
英国は現在、サマータイムだ。時差は八時間。岩屋に会うと言っていた日、現地時間午後四時近くにあった『ただいま』のメールには、就寝直前だったろう真唯に即コールしてしまった。いくら何でも遅過ぎだ!! 彼女と岩屋の仲を邪推するわけではない。岩屋は類稀な愛妻家であり、他人の婚約者に手を出すような奴ではない事も良く理解っているからだ。勿論、真唯の事も信じている。
案の定、『岩屋さんとは話が弾みましたけど、婚約祝いにと奢ってもらっただけで、すぐに別れました。それよりも、一条さんと初めて会った時の事を思い出して、【アラウンド・ザ・ワールド】を楽しんでいたら遅くなってしまったんです。』などと言われてしまえば、怒るに怒れない。
……本当に、とんだ天然な小悪魔だ。
おまけに、『…ねえ、一条さん…愛してるって言って下さい…』などと珍しく甘えてくるのだから、堪らない。
……真唯も、少しは寂しいと思ってくれているのだろうか…? もうすぐ妻になる、愛しい女性の可愛いお願いを叶えないなど、愚かな男になれるはずもなく。真唯の気のすむまで、“愛している”の囁きを繰り返した。
……その間、会議が中断してしまったのは、ほんの余談だ。
しかし。
いつかは、本当の事を打ち明けなくてはならない。
……岩屋の事も……緋龍院の家の事も……
だが、もう少し。もう少しだけ、時間が欲しい。
……せめて、俺の誕生日までは……
緋龍院と云えば今抱えている案件がらみの、どうしても断れない不愉快な見合いを押し付けて来て以来、音沙汰がないのが却って不気味だ。俺の噂が広まっているのを、あの兄が放っておくとも思えないのだが……。だがまあ、念のため、カードは用意してある。自分に有利なカードは何枚あっても困る事はないからだ。
―――そうして俺は慢心してしまったのだ……。……あの兄が、英国出張などと云う好機を逃すはずがないのに…!! ―――
※ ※ ※
バンッ!
俺はノックもせずに、社長室のドアを乱暴に開けた。
二人在駐していた秘書がギョッとして俺を見ているが、構っていられるか!
「一条専務…今日、社長とのお約束はなかったはずですが…」
「…関係ありません。社長は来客中ですか?」
「いえ、それはありませんが…あの! 困ります!!」
慌てる秘書たちの声を背中に聞きながら、俺は敵の本丸のドアをノックして、こう言った。
「…兄上、貴志です。
…お話があります、入りますよ。」
応答の声も聞かずにドアを開けたが、今度は制止の声が掛からなかった。
二人の秘書たちが、今初めて知った事実に、呆然としてしまっているからだ。
中から、「ああ、大丈夫だ。 …ただの兄弟喧嘩だから。」と、落ち着いた中年の声が聞こえる。
……俺の兄…緋龍院京一郎の声だ。社長は秘書たちを落ち着かせると、珈琲を二つ頼んだが俺はそれを断った。
「三井君の珈琲は旨いんだぞ。お前だって知っているだろう?」
俺にソファーを勧めながら不満気に言う兄が、秘かにびくついているのをヒシヒシと感じる。……この俺が、自分を兄上と呼ぶ時の怖さを身にしみて知っているからだ。
……この男は、ビビリだ。そのくせ自己顕示欲は人一倍で、頂点を……緋龍院本家の当主の座を狙っているのだから笑わせてくれる。いくら、この建設会社の社長になれたからと云って……あの祖父が許すものか。……俺がその座を、あの祖父から打診された事があるなどと知ったら、一体どんな表情を見せてくれるだろうか…?
しかしたった数分前、この兄はこの俺を敵に回した。
……しかも、それ以上の方を敵に回してしまった事を……とくと思い知らせてやる。
「兄上が正直に話して下されば、そんなに長居する心算はありませんので。」
「…正直に…? …何を話せば、良いのかな?」
「真唯に…私の婚約者に、何を吹き込んだのですか?」
「…吹き込んだとは、穏やかじゃないな…。…しかも婚約者とは…お前には裕樺さんがいらっしゃるだろう。」
「…成る程…まだ、諦めていなかったのですか…まさか、沼倉嬢もご一緒だったなどとは、おっしゃいませんよね?」
「…………」
「結構! 充分な肯定だ。 …それで大体の事は、察しがつきます。」
「…貴志…裕樺さんは妊娠していらっしゃる。お前の子供として認知すれば、末は事務次官の沼倉氏との縁故も出来る。 …さっきお前は、ここに入って来る時に、私と兄弟だと云う事を自らばらしてしまった。裕樺さんと結婚すれば、お前が副社長に就任する事を反対する者もいなくなるだろう。 …いい加減に家に帰って来て「兄上」」
俺はベラベラと下らない事を言う奴の言葉を遮った。
「…な、なんだ。失礼だろう…人の話しを…」
「…一つ、良い事を教えて差し上げましょう。」
「…真唯は、あのお方の…澤木様の【倶楽部 NPO】の支配人の御名刺を頂く事の出来た、世界でも十本の指の中に入る貴重な十人の内のお一人なのですよ。」
にっこり
「…な…何だとっ!?」
兄の顔色が面白いほど変わる。
「…しかも、澤木様の専用機に…“影のエアフォースワン”に搭乗を許されて、三年になります。」
顔面蒼白になった兄が、ブルブルと震え出す。
「…たかが一高級官僚の娘と、澤木様の意に適った者と…一体どちらが、緋龍院家の嫁に相応しいでしょうかね…?」
「…しゃ、謝罪を…っ! あの娘に…、いや、牧野様に謝罪を…っ!!」
「もう、遅いですよ。 …真唯は会社に辞表を提出したそうです。 …おそらくは、誰かさんに脅されてね。」
「…っ! …し、知らなかったんだ…っ!! 牧野様が、澤木様の御名刺を頂いていたなんて…っ!!」
「…知らなかったで済めば、警察も裁判所も要りませんよ。…まあ、そんな機関も、今は関係ない。…澤木様は、お気に入りの女性を粗略に扱われて、大層ご立腹のようですから……」
「…っ!! …た、貴志っ! と、取り成してくれ! お前の言う事なら、澤木様も…っ!!」
「兄上」
今までの優しいまでの穏やかな口調から一転、絶対零度の厳しい声を出せば、それだけで兄の身体がビクリと揺れる。
「…忘れて頂いては困ります。
…私は、澤木様以上に怒っているのです。」
……俺は怒れば怒るほど、言葉遣いが丁寧になる男だ。俺の『私』と云う一人称に、愚鈍な兄も、俺の怒りが頂点に達している事をようやく悟ったのか、「…ヒィ…ッ!」などと、情けない悲鳴を口中で上げる。……ワタクシなんて言葉は普段仕事でしか……ああ、そう云えば真唯の両親に挨拶に行った時も使ったが、純粋に怒りだけで使ったのは何年振りだろう……
……そんな明後日な事を考えながら、俺は腰を上げた。
「ま、待ってくれ…っ!」
「…そんな事が、私に言えた義理ですか…?」
「た、たった二人の兄弟じゃないか…っ!」
「…私でしたら、いつでも縁を切って下さって結構なのですよ…兄上。」
「た、貴志…っ! そんな事を言わないでくれ…っ!!」
「…これからしばらく、休みを頂く事が多くなりますが、ちゃんと届けに判子を押して下さいね。 …私の専務業に支障をきたすようになって参りましたら、容赦なく降格にするなり、首にするなりして下さって結構ですので。」
「……っ!!」
「それでは、失礼致します。」
追い縋る気力もなくしたような兄に九十度に腰を折り、にっこりと黒笑みで最後通牒を言い渡す。
「社長、どうなさいました!?」
「社長、しっかりなさって下さい! 社長!!」
社長秘書たちの慌てる声を背中に聞きながら、俺は社長室を後にした。
あの兄が……社長が、泡を吹いて倒れようが知った事か。
※ ※ ※
―――……この部屋は、こんなにも広かっただろうか……―――
俺は現在、自宅のマンションのリビングに立ち尽くしている。
ここ数日会社を休み、真唯の行方を探し求めているが、頭の中では、あの日一日に起こった出来事がリピートされている。
『専務! 真唯さんと連絡が取れません!!』
異変は、真唯を迎えに行った山中から齎された。
慌てて真唯のスマホにコールするが、やはり電源が切られているようで、GPSも作動しない。真唯に付けているSPに連絡すれば、こちらも応答がない。焦りと苛立ちで、どうなっているのかと怒鳴り声でSPの上部にかけあえば、間もなく長官自らが謝罪に訪れた。
聞けば、緋龍院京一郎が真唯の護衛チームに圧力を掛け、決して危害を加えないと云う事を条件に、約十分ほどの“間”を作ったと言うのだ。これだけだったら、よくある緋龍院家内の内紛だ。(それだけでも、充分、許しがたいと言うのに!!)
だが、それだけではなかった。
翌朝、山中に送られて出勤した真唯が一時間もしないうちに会社から出て来て、それを追跡したところ『…CLUB NPOEの【提督閣下】ご自身に邪魔をされ、しかもそれを貴志様にご連絡する事を禁じられてしまいました。…申し訳ございません…っ!!』職業意識の強い軍人のようなSP長官のその後の謝罪は、一切、記憶に残っていない。
思わぬ大物の登場に衝撃を受けたのだ。
【提督】…!
……少なからず、組織には陰の部分が出来る。
そしてそれをカバーするべく、秘密裏の護衛の意味を持つ組織が編成される。
緋龍院家の“SP”、一条家の御庭番と異名をとる“影”
当然、【CLUB NPOE】のような巨大組織にも、そのような存在は不可欠だ。そして彼らを纏めているトップが、通称【提督】と呼ばれる中性的な美貌で有名な壮年の白人男性である事は、闇の世界に生きる者にとっては周知の事実なのだ。
【提督】は、あのお方の……澤木様の意を受けてしか動かない。その彼が出てきたと云う事は……真唯は澤木様の庇護下にいる何よりの証拠だ…!
藁にも縋る想いで澤木様に連絡をとれば、
『…可哀想に…恋人の留守中に、その恋人の兄君から散々、脅されたらしくてね。会社に迷惑をかけないように、辞表を提出してきたそうだ。引き継ぎも出来ない事を、真面目な彼女は気に病んでいたが、辞表がすんなり受け入れられたところをみると、KY商事にも何らかの圧力を掛けていたのだろう。
…貴志…私は、怒っているのだよ…
…本来なら妹となるべき女性を脅した男にも…彼女を守れなかった恋人にもね…』
冷んやりとした黒笑みが見えるような口調に、ザッと血の気が下がる。震える声で真唯を返して欲しいと懇願すれば、答えはNOだった。
『…貴志…彼女は…真唯ちゃんはね。しばらく、一人になって、ゆっくり考えたいと言うんだ。…お前の下を離れたいと、私に救けを求めてきたんだよ。私は、その信頼に応えなければならない。…真唯ちゃんが欲しかったら、自分の足で探すんだ、貴志…世界中をね。』
呼吸を飲む俺を他所に、通話は切れてしまった。……しばらくは茫然と立ち尽くしてしまった。
……澤木様は、自分の足でとおっしゃった。これはつまり、自分自身の力でと云う意味だ。
……緋龍院の力を使う事は許されない。……いや、緋龍院の力を使っても、【CLUB NPOE】の権力には、敵わない……
……澤木様のお力によって隠されてしまった婚約者を探し当てる事など、この俺に出来るのだろうか……
押し寄せる絶望感に苛まれるままに、兄にあたり散らしてしまったが、後悔など少しも覚えない。本当は、もっと言ってやりたかったのだが、自分の口が止まらなくなりそうでやめておいたのだ。
出張中にたまった仕事を超特急ですべて片付けた俺が、最初に向かったのは奈良だった。奈良は真唯の一番好きな土地だ。土地勘もあるし、何より真唯が退屈しないだろうし、落ち着いて考え事が出来るだろうと思ったのだ。
ホテル、旅館、不動産屋を虱潰しに当たった。勿論、向こうも社会が敏感になっている現代、簡単に個人情報を漏らしはしない。そう云う輩は、緋龍院の名刺で抑え付けた。作り話をでっち上げ(と言っても、俺にとっては百%真実なのだが)、婚約者の行方を捜していると言い、必要とあれば金もバラまいた。
……偽名を使われていたり、【CLUB NPOE】所有の別邸にいたりすれば完全にアウトだが、『自分の足で探せ』と言った以上、そんな卑怯な事は澤木様はなさらないだろうと考えたのだ。
……すべてが、空振りだったが……
※ ※ ※
……もう、深夜だと言われる時間だと云うのに、空腹も感じない。
だがさすがに喉の渇きを覚えるが、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すのさえ億劫で、水道水をコップに満たしゴクゴクと飲み干す。
……途端に浮かぶのは、高級スーパー(真唯基準)で購入してくるミネラルウォーターは愚か、光熱費さえ払ってないからと言って水道水さえ遠慮がちに飲んでいた、愛しい女性の姿だ。
……ああ!
どうしてもっと早く、緋龍院の家の事を打ち明けておかなかったのだろう…!!
後悔してもし切れない…っ!!!
……あの恥ずかしがり屋の彼女が、俺に『愛してる』なんて言葉をねだる時点で、おかしいと気付くべきだった…っ!!
……十年間、我慢出来たのに…あの、甘い肢体を知ってしまった現在では、恋しくて恋しくて……呼吸さえ、止まってしまいそうだ……
―――……真唯…どこにいるんだ、真唯っ! 頼むから出て来てくれ…っ!! ―――
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