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本編
No,103 真唯のお盆休み 其の三 【貴志SIDE】
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「……お寝みなさい、私の真唯。
……眼が覚めたら、事は終わっていますよ……」
愛しい愛しい女性の涙の残る頬に、接吻を1つ落として。
俺は部屋を後にした。
14日。午前9時過ぎ。
もう世間では朝の活動を始めている時間だが、俺の愛しい眠り姫はまだまだ夢の中だ。朝6時過ぎまで苛んだのだ。昼頃にならなければ、起きられないだろう。一応、メモは置いて来た。急な仕事だと嘘を吐いて。純なところのある真唯の事だ、騙されてくれるだろう。
エレベーターを降りて、フロントにキーを預けると「行ってらっしゃいませ。」と最敬礼で見送られる。
玄関にはスバルのインプレッサが待機していた。真唯にバレてしまった今、タクシーなんてまどろっこしい真似はしない。SPたちの車を使わせてもらう(勿論、真唯のガードは待機させている)。
「……例の物は?」
「トランクに積んでございます。後の分は手配済みである事を確認致しました。」
「……よし。」
……昨夜の内に頼んでおいて正解だった。
今朝だったら、完全にアウトだった。
朝方、関東に接近していた台風が、房総半島直撃コースをとったのだ。お陰で道路はところどころが通行止めになり、俺たちはこの田舎に足止めを食らう事となってしまった。
……おまけに…っ!
昨夜の夜の海での出来事を思い出そうとするだけで、背筋が凍る想いがする。
……真唯……君を煩わせる余計なモノは、全部、俺が始末してあげるからね……
インプレッサの中、伊達眼鏡をかけて戦闘態勢に入ると、真唯の実家までの短い道程を俺は眼を閉じて……断罪されるべき両親たちの事を思った。
※ ※ ※
「……なんですって…? 秀美が自殺を図った…っ!?」
「ええ。あの大波が荒れ狂う真っ暗な海の中、どんどんと脇目も振らずに歩いて行って…私が止めなければ、お父上の葬式を出す前に、娘さんのお葬式を出す羽目に陥っていたところです。」
「どうしてですか!? あの子は、貴方との結婚が決まって、今が一番幸せなはず…!!」
「それについては、貴方の横で震えていらっしゃるお母上にお聞きになったらいかがですか?」
俺の問いに、父親…政秀氏は、バッと自分の傍らを振り返ると……妻・幸恵に詰め寄った。
「……まさか、お前…秀美に言ったのかっ!?」
「……ごめんなさいっ!! まさか…まさか、そんなにショックを受けるなんて思わなくて……っ!」
幸恵氏は泣き崩れ、政秀氏はそれ以上責める事も出来なくて、涙を浮かべて拳を震わせている。
……下らない、“家族”と云う名の茶番に、この俺が幕を下ろしてやる―――
「……ああ、くれぐれも誤解のないよう申し上げておきますが、秀美さんは何も、政秀さんの死期が近付いている事にショックを受けたのではなく…ああ、ショックなのはショックなのですが…貴方たちが思っておられるような種類のショックではなく……羨望に近いものでして……自殺しようとしたのも…貴方がたに逆縁の不幸を味わって頂くためです。」
「「……ハ……ッ?」」
……ああ!
……なんたる、間抜け面…っ!!
……この2人の面を、真唯にも拝ませてやりたかった…っ!
「……聞こえませんでしたか…?
……秀美さんは貴方がたを、心の底から憎んでいると申し上げたのですよ!」
「嘘よ、そんな事!!」
「…一条さん、おかしな事を言わんで下さい!」
愚かな夫婦は、叫ぶように否定する。
だが、しかし。
「……これを聞いても…そんな事が言えますか…?」
俺のスマホのボイレコ機能を操作し…昨夜の会話を再生させる。
応接間のテーブルに置かれたソレから流れて来るのは……両親と云う名の加害者へと向けられた、被害者の“怨念”の声だった。
『……「クソの役にも立たない」…それが、父親の口癖で……「あんたなんかウチの子じゃない」…それが、母親の口癖でした……そして、最後に決まって言う台詞が、「早く家から出て行け!」ですよ……? だからお望み通り、東京に出て来てやったんです。』
『「あんたなんか産むんじゃなかった!」って、実の母親に面と向かって言われた時は、さすがに凹みましたけどね……』
『……この世で最低の人間に…生きている価値のない人間のように、ボロクソに言われて育って来ました。
……なんで、ここまで言われなきゃいけないんだろう…? なんのために生まれて来たんだろう?
……真剣に悩んで、何度も泣きました……だから、早く死にたかった……』
『……両親は…あの2人の事は…この世での、今生の“父親役”と“母親役”だと思ってます。
……そうでも思わなければ、生きて行けなかったんです…早く、あの世に還りたかった……』
『……すべては…【劣等感】に集約されるんです。両親は私に【劣等感】を植え付けましたが、彼らもまたその両親から…牧野の祖父母と、母親の実家の両親から【劣等感】を植え付けられて育てられて…その祖父母は、それぞれの両親から……キリがないんですよ。……だから、この負の連鎖を私の代で…終わりにしたいんです。』
……初めて聞くだろう、娘の本音に……両親の表情は、真っ青を通り越して、既に紙色だ。【劣等感】についての考察は見事の一言なのだが、このショックを受けている両親の頭にどれだけ入ってくれる事か……
政秀氏は、膝に握った拳をブルブルと震わせている。
もういい、これ以上聞きたくない!とばかりに、幸恵氏は耳を塞いで首を左右に振っている。
……だが、最後まで聞いてもらおう。
……それが……昨日の晩、俺が味わった苦しみの万分の一でも味わう事が…俺に、ひいては真唯に対する贖罪なのだから。
※ ※ ※
……幸恵氏が言いたい事だけ言って、泣きながら帰った、あの後。
真唯はポツリと呟いて……それは、悲痛な叫びになった。
『……お父さんばっかり、狡い……何でなのよ…アタシが死にたい時には、救いはこなかったのに……何でお父さんには簡単に、救いが来るのよっ!!』
……真唯の気持ちは、痛いほど理解った。
……俺たちにとって、死とは悲しみではない。……生きる事こそが悲哀であり……死とは、安らかな安寧への誘い…“救い”に他ならないのだ。
真唯に掛ける言葉も見つからず……ただ、抱き締めようと手を伸ばしかけて、天啓のようにあるアイディアが浮かんだ。それは考えれば考えるほど、良い考えに思えて……スマホを取り出して、俺は従兄弟の深水京吾に連絡を取った。
……それが、致命的なタイムラグを生み出す事になるとも知らずに…っ!
俺が深水と話をしている間に、真唯が部屋を飛び出してしまったのだ!
今の真唯は普通の精神状態ではない!
1人にするのはマズイっ!!
直感のように閃いたその感覚に従うように、俺は深水に礼や挨拶もそこそこにスマホを切ると、すぐさま真唯を追った。しかし無情にも、真唯を乗せたエレベーターは俺の眼前で閉まってしまう。その箱が俺の処まで戻って来て、俺を乗せて下へ降りて行くのをイライラと待った。こんな低層階の建物にこれほどイラついたのは初めての経験だが、場合が場合だ、仕方がない。
エントランスフロアーに飛び出しても、真唯の姿が無い。不審がっている俺にフロントマンが『お客様! たった今、お連れのお客様が、海の方へ走って出て行かれました!!』などと、俺の全身の血がザッと下がっていくような事を叫ぶ。
『あ、お客様!? お待ち下さい、お客様!!』
そのフロントマンが俺を呼び止める声が聞こえるが、そんなものに構ってはいられなかった。
【太陽の里】から海が近い事はこの宿の自慢だが、眼前に見えている海は真っ暗で、俺の不安を煽る。既に走り出している俺に並ぶように走っているSPは、最初俺に傘を差し掛けようとしたが……早々に諦めた。自分もずぶ濡れになりながら、俺が最も気になっている事を報告して来る。
『…上井様はご無事です。姿を現さない事が鉄則ではありますが…緊急事態でしたので。…女性職員がお止めしております。』
……何を止めようとしていたのかなんて……聞かなくとも理解る。
真唯の無事を聞いても、俺の足は緩まる事はなく……むしろ加速した。
ほどなく海岸に着くと、『離して! 離してよォーッ!!』真唯の絶叫が聴こえた。
凄い力で暴れている。……確かこの職員は、警視庁で女子柔道のオリンピック候補にも挙がった事があるはずだが……。怪我をして引退したところを引き抜いて来たのだと、自慢気に紹介されたのを覚えているが……真唯はそんな元・女性格闘家に羽交い締めにされながらも、尚も暴れているのだ。
俺はその女性の後ろから、『…離してやってくれ』と声を掛けた。『でも…っ!』承服しかねると云う声に、『…いいから…』と首を左右に振る。渋々と力を緩める彼女に、案の定、真唯は海へ向かって走り出した。
『一条様!』たちまち上がる非難の声に、
『お前たちは手を出すな!!』一喝し、黙らせる。
……そして、真唯が腰のあたりまで海中に浸かった処を見届けると、俺は真唯の決心の固さを思い知り、真唯の後を追った。後ろから固く抱き締める。
『……一条さん…止めないで下さい!』
『……止めたりなんかしませんよ……』
『……?』
『……その代わり…私も連れて行って下さい。』
『……っ!?』
『……この…生きていても辛いばかりの世界に…私を1人ぽっちで置いて逝く気ですか……?
……真唯さん…貴女がいなければ、こんな世界、何の意味もない…私も一緒に連れて行って下さい。』
……沖合からゴウ…ッ!と不気味な音が響いて、波は荒れ狂い足を取られそうになる。……どれぐらい海中にいたのか…何秒にも満たない…永遠にも感じる時間だった。
―――……真唯となら、この海に沈んでも構わない……―――
……本気で、そう思った。
しかし。
『……一条さんはズルイ。』
真唯が俺の腕の中でポツリと呟いた。
『……何がですか……?』
『……アタシにアタシは殺せても…アタシに一条さんは、殺す事は出来ない……』
『……残念です。…ニライカナイへ行きそびれました。』
『……あの、沖縄の蒼い美しい海じゃなければ、ダメだと思いますよ。……第一、自殺者を受け入れてくれるかどうか……』
『……真唯さんとだったら、地獄へ堕ちても構わないんですが……』
『……っ!!』
真唯が感極まったように、俺の腕の中で方向転換すると、俺にギュッとしがみ付いて来た。俺の背中に腕をまわしてくれる真唯に…心底、愛おしさが溢れて来る……
……俺の真唯…俺たちは、死ぬも生きるも常に一緒だ……
全身ずぶ濡れ、しかも海水塗れで、宿には迷惑を掛けてしまった。おまけに、SPたちにもだ。万が一、俺たちがあの海で死んでいれば、確実に引責問題になるし、第一彼らが俺たちを死なせる訳がないのだが……そんな事は、頭の中からすっぽ抜けていた。
それに山中……無理を言ってこの宿の手配をさせたのに此処で死んだら、あんなに俺に尽くしてくれる彼に、生涯消えない傷を負わせてしまうところだった……
……だが、真唯を抱き締めていたあの瞬間…俺は本気で、常世の国を夢見ていた……
真夏とは云え、夜の海に長時間浸かっていたのだ。油断をすれば、夏風邪をひいてしまう。内風呂で2人一緒にゆっくりと温まって。1つのベッドで抱き合おうとしたのだが、なぜか真唯が俺に背を向けた。
『……真唯さん…寂しいんですが……』クレームを言い立てれば、
『……ごめんなさい…アタシ、もう少しで一条さんを殺すとこだった……』
『………………』ふむ、それが原因か。気にする事はないのに……
『……どうしたら、許してもらえますか……?』あまりに真摯な真唯の言葉に、
『……正直に…何もかも包み隠さず教えて下さったら、許してあげますよ。』
『……何でも聞いて下さい。…アタシに、一条さんに隠す事なんか、何にもありません。』
『……貴女がずっと死に憧れていたのは、この前、お伺いしました。
……しかし、なぜ、今夜だったのですか……?
……まさか、お父上の病気にショックを受けた…と云う訳ではないのでしょう?』
長い長い沈黙の果て。
真唯がポツリと呟いた。
『……ずっと昔から…考えていた事があるんです。
……あのクソ親父…アタシが自殺してやったら、どんな顔するだろう…?って。
……人の事、散々バカにして…っ! “逆縁の不幸”って奴をしてやりたかった。』
……完全なあてつけです……
そう囁く真唯に、これはまた長くなる…そうだ! この話を是非とも、あの“両親”と云う名の元に胡坐をかいている、あの2人に聞かせてやりたいと思い立ち……真唯がこちらを向いていないのを良い事に、スマホのボイレコ機能を作動させたのだ。
※ ※ ※
―――それが、現在、2人に聞いてもらっているモノである。
あの真っ暗な荒れ狂う海で、真唯は本気で死ぬ気だったのだ。
その孤独と絶望の万分の一でも、叩きつけてやりたい。
……この2人はおそらく、普通に娘を愛していたのだ。
……ただ少しばかり口が悪くて……少しばかり不器用なだけで……
……そして真唯も、薄々、それに気付いてる。
……理性では、それが理解っている。
だが、感情が、それを納得しないのだ。
真実、彼女を愛しているなら、ここは両親と娘を和解させてやる場面だろう。
……だが俺は、それほどお人好しではない。
……第一、親なら何を言っても許されると思いこんでいる傲慢さが……幼い頃から、“精神的虐待”とも言える仕打ちを真唯にしていた事は、どうしても許せない。
……長い長い告白が終わっても……2人は放心状態で、何をどうしたら良いのか理解らない様子だ。
だから、そんな2人に、自分たちがやるべき事を教えてやる。
「……今の真唯さんの言葉にもあった、『完全自殺マニュアル』と云う本を探して捨てましょう。
……今後、真唯さんに2度とバカな気を起こさせないためにも…真唯さんの部屋はどこですか?」
「……あ…2階です! …ご案内します! …あ、あなた…っ!!」
「……お、おうっ!!」
2人は、俺の言葉に弾かれたように立ち上がると、2階にあると云う真唯の部屋へ向かった。
……そこは、もう何年も主人不在の部屋とは思えないほど、綺麗な処だった。久し振りの娘の帰郷に、張り切って掃除もしたのだろう。東側と南側に窓がある、明るい部屋だ。1人娘として大事に育てて来たのだろう事が理解る部屋だった。
……それほどの思いがありながら、なぜ言葉にして、それを伝えてやらなかったのだ!?
だが、しかし。
そんな暗い感情と同時に、感謝の念も湧き上がる。
……貴方がたが、そのような子育てをして下さったからこそ、今日の真唯がいて…こんな奴と共鳴してくれるのだから……
狭い畳の6畳間だ。大人3人で探せば(増してや、そのうちの2人は必死の形相なのだ)30分もしないうちに、目的の本は見つかった。押入れの天袋の奥にヒッソリと隠されるように、その本はブックカバーを掛けられて埃を被って眠っていた。
「……目次だけでも読んでご覧なさい。……この本が一体どう云う本なのか、良く理解りますから。」
俺の誘導に操られるように、政秀氏は目次を見ると、限界まで眼を見開く。
“自殺”と云う言葉から縁遠い人間にとって、この本はあまりに過激だ。自殺の仕方が具体的に、事細かく記されているのだから。早々と有害図書指定にもなっている。ネットのなかった時代、このような本は画期的で、評価は賛否両論真っ2つに分かれている。
「……秀美が…秀美が、こんな本を…っ!!」
政秀氏の、本を持つ手はブルブル震え、
「……あなた! …こんな本は燃やしてしまいましょうっ!!」
幸恵氏は、半狂乱になっている。
……この表情だ。
俺は心の中で、昏く黒笑う。
……俺は、この2人の、この表情が見たかったのだ。
正直言えば、こんな本は探す間でもない。
真唯をこの家に連れて来なければ良いだけなのだから。
……だが俺はこの2人に、この本の存在を突き付けたかった。
……真唯がどれほど、この2人の心ない言葉の暴力によって苦しめられて来たのか、思い知らせてやりたかったのだ。
「……秀美…秀美に謝りたいっ!!」
「……そうよ、あなた! …今から秀美に……っ」
「お断りするっ!!」
ようやく、『謝罪』と云う行為が思い付いたらしい2人を一喝する。
ビクリと身体を揺らせた2人をジロリと睨む。
「今、【太陽の里】に滞在しているのは、『牧野秀美』などと云う女性ではない!
【上井真唯】と云う女性なのだと云う事を、ご承知いただこう!!」
政秀氏が唇を噛む。その唇が震えているが……自業自得だ。真唯は、この父親から1字をもらった自分の名前を、それはそれは嫌悪しているのだから。
「幸恵さん。」
夫に寄り添う、愚かな妻に呼び掛ける。
怖々と俺を伺うご婦人に、冷たい笑みを向ける。
「貴女は真唯さんが小学生の時に、遠足で行った日光東照宮でお土産に何を買って来たか覚えておられるか?」
「……に、日光ですか…? ……昔の事で…覚えてませんが……」
「覚えておられない!!」
「ヒ…ッ!!」
「加害者は被害者にした事を忘れる、典型的な例だな! 教えて差し上げましょう! その頃、風邪をひいてらした貴女のために、貴女を心配した真唯さんは東照宮の権現様の御守りを買っていらしたんですよ! ですが貴女は、その真唯さんの心のこもったお土産を散々罵倒し、『食べられる物か、もっと気のきいた物を買って来い、この役立たず!』と無情にも言い放ったんですよ!!」
……幼い真唯さんの精神に、それはどんなに残酷に響いた事だろう。
……ここまで言っても、まだポカンとした表情をして、真唯さんの心の痛みに気付けない愚鈍な婦人に鉄槌を下す決意をする。多感な青春時代に、真唯を絶望のどん底に突き落としてくれた奴を、俺が失意のどん底に突き落としてやる。
「……1つ、良い事を教えて差し上げましょう。」
にっこりと微笑みかける。
「無精子症と云う病気をご存じですか? 精液中にまったく精子がいないんです。私は、その無精子症なんですよ。」
さっきとは全く違う理由で、2人は固まってしまった。
白かった顔色が、真っ青になっている。顔色が戻って来た事を喜んでやろう。……盆と云うものを、こんなに盛大にやるのだ。子供、ひいては先祖や子孫と云うものを後生大事に思っているに違いない。俺と結婚すると云う事は、孫の顔など見られないと云う事なのだ。……良い気味だ。
「……秀美は…秀美は、その事を知っているんですか…?」
「……勿論、真唯さんはご存じですよ。」
「……知っていながら…っ」
「そうですよ。…いや、むしろ、知っているからこそ、私に嫁ぐ決意をして下さったんですよ。」
「……そこまで…っ!」
「……さっきの告白は、冗談だとでも思っていたんですか? あんなにハッキリ牧野家の遺伝子を嫌悪し、拒絶しているのに。」
俺と政秀氏の会話に、幸恵氏はワッと泣き出してしまった。
「……しかし、私も鬼ではない。
子孫を残せないお詫びに、未来の父上と母上に“希望”を差し上げましょう。」
俺は今度こそ、心の底から晴れやかに微笑った。
外で待機していたSPに「例の物を中へ。」とスマホで命令して、段ボール箱を積み上げさせる。不審そうな政秀氏に説明する。
「これは【龍神水】と云う名の世間では有名な、奇跡の“御神水”です。
どんな難病にも効くと言わ、」
「……っ! ……断るっ!!」
……想定の範囲内だ。
おそらく、こちらが“地”なのだろう。
頑迷な老人は、『そんな胡散臭い物、信じられるか!』とばかりに、こちらを睨んでいる。……だが、幸恵氏の反応は違う。さっきまで泣いていたのが、一縷の希望を見い出したように、瞳が輝いている。
「……お父上が、胡散臭いと信じられないのも無理はありません。ですがこの水を飲んだ事によって、癌細胞や脳の腫瘍などが消えて、再発の心配をする事もなく、余命を医者に宣告された人間が助かっている事は紛れもない事実なのです。」
「………………………」
「ただある程度、飲み続けて頂かなければ効果の保障は出来ませんが…そんなに信じられなくとも、騙されたと思って試しに飲んでみては頂けませんか?」
「……そうじゃない……」
「……は…?」
「……たった1人の娘にこれほどまでに嫌われて…しかも、やっと結婚が決まったかと思えば……孫の顔も見られないなんて…長生きする甲斐もない。……そうか…これは、俺達に対する君の復讐なんだな…病気を治して、苦しみもがいて生き続けろと云う……」
俺は、片眉をヒョイと上げた。ただの頑固な老人かと思いきや……頭の回転は悪くないようだ。……こんなところは、さすがは真唯さんのお父上と云うべきか……真意を見抜かれた事に多少の驚きを覚える。
「……良くお理解りになりましたね……」
「……あんた…あんたは鬼だ…っ!」
「お誉めのお言葉をありがとうございます。
真唯さんの精神を守る為でしたら、鬼にも修羅にでもなってみせますよ。」
「……っ!!」
己が娘に対して何を言い、どう思われていたのかを思い出したのか、政秀氏はガクリと項垂れる。
だが空気をまったく読まない幸恵氏が、明るい声で乱入して来る。
「それで…それで、一条さん!
このお水は、一体どれくらい飲み続ければ効果が出るんですか!?」
「幸恵、やめろ…っ」
「だって、あなた…っ!」
……場の空気をまったく読まない能天気さは、却って清々しいほどだ。……しかしこの分なら、政秀氏が飲む事を拒絶しても、幸恵氏がこっそり料理などに使ってくれそうだ。
俺は幸恵氏に微笑みかけた。
「個人差がありますが、早い方なら3ヶ月から半年。でも念のために、1年は飲み続けて下さい。
今ここには休日に入ってしまっているため、1ヶ月分しか用意出来ませんでしたが……
政秀さんが完治するまで送らせて頂くよう手配致しましたので。勿論、代金や送料の全額は私が負担致します。」
「……あっ、…ありがとうございます……っ!!」
米つきバッタのように頭を下げる婦人を、一種狂人を見るような眼で見たくなる。……真唯の告白を……俺と自分の夫の会話を聞いていて、なぜ俺に頭など下げられるのか……
政秀氏はもう何も言う気力がないのか、いっぺんに年をとったようだ……
「とにかく。」
2階の真唯さんの部屋から降りて来た俺は、辞去の意を告げる。
玄関で靴を履き、送りに来てくれた幸恵氏に向き直る。廊下の奥には、政秀氏の姿も見える。
「今後真唯さんには、一切関わらないで頂きましょう。」
「……っ、……それは……っ!」
「……ただし。 …あの水を1年間飲み続けて頂けるなら、1年後、お会い出来るように取り計らいましょう。」
「……取り計らうって……」
「……真唯さんの意向なんですよ。…もう2度と、ご両親の顔は見たくないそうですから。」
「……っ!!」
「ですが、あの水を1年間飲み続けて下さったら、私が責任を持ってお引き合わせ致しましょう。」
「本当ですかっ!?」
「わしは飲まんぞっ!!」
「…でも、あなた…っ!」
「飲まんと言ったら、飲まん!!」
「……とりあえずは、手配だけはしてありますので。実際に飲むか飲まないかの選択はご自由に。……それでは、長々と失礼致しました。」
来た時は45度しか折らなかった腰を、深々と折る。……叩きつけてやりたい言葉はまだまだ山とあるのだが…なんにせよ、真唯と云う俺の愛しい女性を産み出してくれたのは、この2人に間違いはないのだから。
豪雨の中、もう二度と潜る事はないだろう牧野家の門を、俺は後にした―――
……眼が覚めたら、事は終わっていますよ……」
愛しい愛しい女性の涙の残る頬に、接吻を1つ落として。
俺は部屋を後にした。
14日。午前9時過ぎ。
もう世間では朝の活動を始めている時間だが、俺の愛しい眠り姫はまだまだ夢の中だ。朝6時過ぎまで苛んだのだ。昼頃にならなければ、起きられないだろう。一応、メモは置いて来た。急な仕事だと嘘を吐いて。純なところのある真唯の事だ、騙されてくれるだろう。
エレベーターを降りて、フロントにキーを預けると「行ってらっしゃいませ。」と最敬礼で見送られる。
玄関にはスバルのインプレッサが待機していた。真唯にバレてしまった今、タクシーなんてまどろっこしい真似はしない。SPたちの車を使わせてもらう(勿論、真唯のガードは待機させている)。
「……例の物は?」
「トランクに積んでございます。後の分は手配済みである事を確認致しました。」
「……よし。」
……昨夜の内に頼んでおいて正解だった。
今朝だったら、完全にアウトだった。
朝方、関東に接近していた台風が、房総半島直撃コースをとったのだ。お陰で道路はところどころが通行止めになり、俺たちはこの田舎に足止めを食らう事となってしまった。
……おまけに…っ!
昨夜の夜の海での出来事を思い出そうとするだけで、背筋が凍る想いがする。
……真唯……君を煩わせる余計なモノは、全部、俺が始末してあげるからね……
インプレッサの中、伊達眼鏡をかけて戦闘態勢に入ると、真唯の実家までの短い道程を俺は眼を閉じて……断罪されるべき両親たちの事を思った。
※ ※ ※
「……なんですって…? 秀美が自殺を図った…っ!?」
「ええ。あの大波が荒れ狂う真っ暗な海の中、どんどんと脇目も振らずに歩いて行って…私が止めなければ、お父上の葬式を出す前に、娘さんのお葬式を出す羽目に陥っていたところです。」
「どうしてですか!? あの子は、貴方との結婚が決まって、今が一番幸せなはず…!!」
「それについては、貴方の横で震えていらっしゃるお母上にお聞きになったらいかがですか?」
俺の問いに、父親…政秀氏は、バッと自分の傍らを振り返ると……妻・幸恵に詰め寄った。
「……まさか、お前…秀美に言ったのかっ!?」
「……ごめんなさいっ!! まさか…まさか、そんなにショックを受けるなんて思わなくて……っ!」
幸恵氏は泣き崩れ、政秀氏はそれ以上責める事も出来なくて、涙を浮かべて拳を震わせている。
……下らない、“家族”と云う名の茶番に、この俺が幕を下ろしてやる―――
「……ああ、くれぐれも誤解のないよう申し上げておきますが、秀美さんは何も、政秀さんの死期が近付いている事にショックを受けたのではなく…ああ、ショックなのはショックなのですが…貴方たちが思っておられるような種類のショックではなく……羨望に近いものでして……自殺しようとしたのも…貴方がたに逆縁の不幸を味わって頂くためです。」
「「……ハ……ッ?」」
……ああ!
……なんたる、間抜け面…っ!!
……この2人の面を、真唯にも拝ませてやりたかった…っ!
「……聞こえませんでしたか…?
……秀美さんは貴方がたを、心の底から憎んでいると申し上げたのですよ!」
「嘘よ、そんな事!!」
「…一条さん、おかしな事を言わんで下さい!」
愚かな夫婦は、叫ぶように否定する。
だが、しかし。
「……これを聞いても…そんな事が言えますか…?」
俺のスマホのボイレコ機能を操作し…昨夜の会話を再生させる。
応接間のテーブルに置かれたソレから流れて来るのは……両親と云う名の加害者へと向けられた、被害者の“怨念”の声だった。
『……「クソの役にも立たない」…それが、父親の口癖で……「あんたなんかウチの子じゃない」…それが、母親の口癖でした……そして、最後に決まって言う台詞が、「早く家から出て行け!」ですよ……? だからお望み通り、東京に出て来てやったんです。』
『「あんたなんか産むんじゃなかった!」って、実の母親に面と向かって言われた時は、さすがに凹みましたけどね……』
『……この世で最低の人間に…生きている価値のない人間のように、ボロクソに言われて育って来ました。
……なんで、ここまで言われなきゃいけないんだろう…? なんのために生まれて来たんだろう?
……真剣に悩んで、何度も泣きました……だから、早く死にたかった……』
『……両親は…あの2人の事は…この世での、今生の“父親役”と“母親役”だと思ってます。
……そうでも思わなければ、生きて行けなかったんです…早く、あの世に還りたかった……』
『……すべては…【劣等感】に集約されるんです。両親は私に【劣等感】を植え付けましたが、彼らもまたその両親から…牧野の祖父母と、母親の実家の両親から【劣等感】を植え付けられて育てられて…その祖父母は、それぞれの両親から……キリがないんですよ。……だから、この負の連鎖を私の代で…終わりにしたいんです。』
……初めて聞くだろう、娘の本音に……両親の表情は、真っ青を通り越して、既に紙色だ。【劣等感】についての考察は見事の一言なのだが、このショックを受けている両親の頭にどれだけ入ってくれる事か……
政秀氏は、膝に握った拳をブルブルと震わせている。
もういい、これ以上聞きたくない!とばかりに、幸恵氏は耳を塞いで首を左右に振っている。
……だが、最後まで聞いてもらおう。
……それが……昨日の晩、俺が味わった苦しみの万分の一でも味わう事が…俺に、ひいては真唯に対する贖罪なのだから。
※ ※ ※
……幸恵氏が言いたい事だけ言って、泣きながら帰った、あの後。
真唯はポツリと呟いて……それは、悲痛な叫びになった。
『……お父さんばっかり、狡い……何でなのよ…アタシが死にたい時には、救いはこなかったのに……何でお父さんには簡単に、救いが来るのよっ!!』
……真唯の気持ちは、痛いほど理解った。
……俺たちにとって、死とは悲しみではない。……生きる事こそが悲哀であり……死とは、安らかな安寧への誘い…“救い”に他ならないのだ。
真唯に掛ける言葉も見つからず……ただ、抱き締めようと手を伸ばしかけて、天啓のようにあるアイディアが浮かんだ。それは考えれば考えるほど、良い考えに思えて……スマホを取り出して、俺は従兄弟の深水京吾に連絡を取った。
……それが、致命的なタイムラグを生み出す事になるとも知らずに…っ!
俺が深水と話をしている間に、真唯が部屋を飛び出してしまったのだ!
今の真唯は普通の精神状態ではない!
1人にするのはマズイっ!!
直感のように閃いたその感覚に従うように、俺は深水に礼や挨拶もそこそこにスマホを切ると、すぐさま真唯を追った。しかし無情にも、真唯を乗せたエレベーターは俺の眼前で閉まってしまう。その箱が俺の処まで戻って来て、俺を乗せて下へ降りて行くのをイライラと待った。こんな低層階の建物にこれほどイラついたのは初めての経験だが、場合が場合だ、仕方がない。
エントランスフロアーに飛び出しても、真唯の姿が無い。不審がっている俺にフロントマンが『お客様! たった今、お連れのお客様が、海の方へ走って出て行かれました!!』などと、俺の全身の血がザッと下がっていくような事を叫ぶ。
『あ、お客様!? お待ち下さい、お客様!!』
そのフロントマンが俺を呼び止める声が聞こえるが、そんなものに構ってはいられなかった。
【太陽の里】から海が近い事はこの宿の自慢だが、眼前に見えている海は真っ暗で、俺の不安を煽る。既に走り出している俺に並ぶように走っているSPは、最初俺に傘を差し掛けようとしたが……早々に諦めた。自分もずぶ濡れになりながら、俺が最も気になっている事を報告して来る。
『…上井様はご無事です。姿を現さない事が鉄則ではありますが…緊急事態でしたので。…女性職員がお止めしております。』
……何を止めようとしていたのかなんて……聞かなくとも理解る。
真唯の無事を聞いても、俺の足は緩まる事はなく……むしろ加速した。
ほどなく海岸に着くと、『離して! 離してよォーッ!!』真唯の絶叫が聴こえた。
凄い力で暴れている。……確かこの職員は、警視庁で女子柔道のオリンピック候補にも挙がった事があるはずだが……。怪我をして引退したところを引き抜いて来たのだと、自慢気に紹介されたのを覚えているが……真唯はそんな元・女性格闘家に羽交い締めにされながらも、尚も暴れているのだ。
俺はその女性の後ろから、『…離してやってくれ』と声を掛けた。『でも…っ!』承服しかねると云う声に、『…いいから…』と首を左右に振る。渋々と力を緩める彼女に、案の定、真唯は海へ向かって走り出した。
『一条様!』たちまち上がる非難の声に、
『お前たちは手を出すな!!』一喝し、黙らせる。
……そして、真唯が腰のあたりまで海中に浸かった処を見届けると、俺は真唯の決心の固さを思い知り、真唯の後を追った。後ろから固く抱き締める。
『……一条さん…止めないで下さい!』
『……止めたりなんかしませんよ……』
『……?』
『……その代わり…私も連れて行って下さい。』
『……っ!?』
『……この…生きていても辛いばかりの世界に…私を1人ぽっちで置いて逝く気ですか……?
……真唯さん…貴女がいなければ、こんな世界、何の意味もない…私も一緒に連れて行って下さい。』
……沖合からゴウ…ッ!と不気味な音が響いて、波は荒れ狂い足を取られそうになる。……どれぐらい海中にいたのか…何秒にも満たない…永遠にも感じる時間だった。
―――……真唯となら、この海に沈んでも構わない……―――
……本気で、そう思った。
しかし。
『……一条さんはズルイ。』
真唯が俺の腕の中でポツリと呟いた。
『……何がですか……?』
『……アタシにアタシは殺せても…アタシに一条さんは、殺す事は出来ない……』
『……残念です。…ニライカナイへ行きそびれました。』
『……あの、沖縄の蒼い美しい海じゃなければ、ダメだと思いますよ。……第一、自殺者を受け入れてくれるかどうか……』
『……真唯さんとだったら、地獄へ堕ちても構わないんですが……』
『……っ!!』
真唯が感極まったように、俺の腕の中で方向転換すると、俺にギュッとしがみ付いて来た。俺の背中に腕をまわしてくれる真唯に…心底、愛おしさが溢れて来る……
……俺の真唯…俺たちは、死ぬも生きるも常に一緒だ……
全身ずぶ濡れ、しかも海水塗れで、宿には迷惑を掛けてしまった。おまけに、SPたちにもだ。万が一、俺たちがあの海で死んでいれば、確実に引責問題になるし、第一彼らが俺たちを死なせる訳がないのだが……そんな事は、頭の中からすっぽ抜けていた。
それに山中……無理を言ってこの宿の手配をさせたのに此処で死んだら、あんなに俺に尽くしてくれる彼に、生涯消えない傷を負わせてしまうところだった……
……だが、真唯を抱き締めていたあの瞬間…俺は本気で、常世の国を夢見ていた……
真夏とは云え、夜の海に長時間浸かっていたのだ。油断をすれば、夏風邪をひいてしまう。内風呂で2人一緒にゆっくりと温まって。1つのベッドで抱き合おうとしたのだが、なぜか真唯が俺に背を向けた。
『……真唯さん…寂しいんですが……』クレームを言い立てれば、
『……ごめんなさい…アタシ、もう少しで一条さんを殺すとこだった……』
『………………』ふむ、それが原因か。気にする事はないのに……
『……どうしたら、許してもらえますか……?』あまりに真摯な真唯の言葉に、
『……正直に…何もかも包み隠さず教えて下さったら、許してあげますよ。』
『……何でも聞いて下さい。…アタシに、一条さんに隠す事なんか、何にもありません。』
『……貴女がずっと死に憧れていたのは、この前、お伺いしました。
……しかし、なぜ、今夜だったのですか……?
……まさか、お父上の病気にショックを受けた…と云う訳ではないのでしょう?』
長い長い沈黙の果て。
真唯がポツリと呟いた。
『……ずっと昔から…考えていた事があるんです。
……あのクソ親父…アタシが自殺してやったら、どんな顔するだろう…?って。
……人の事、散々バカにして…っ! “逆縁の不幸”って奴をしてやりたかった。』
……完全なあてつけです……
そう囁く真唯に、これはまた長くなる…そうだ! この話を是非とも、あの“両親”と云う名の元に胡坐をかいている、あの2人に聞かせてやりたいと思い立ち……真唯がこちらを向いていないのを良い事に、スマホのボイレコ機能を作動させたのだ。
※ ※ ※
―――それが、現在、2人に聞いてもらっているモノである。
あの真っ暗な荒れ狂う海で、真唯は本気で死ぬ気だったのだ。
その孤独と絶望の万分の一でも、叩きつけてやりたい。
……この2人はおそらく、普通に娘を愛していたのだ。
……ただ少しばかり口が悪くて……少しばかり不器用なだけで……
……そして真唯も、薄々、それに気付いてる。
……理性では、それが理解っている。
だが、感情が、それを納得しないのだ。
真実、彼女を愛しているなら、ここは両親と娘を和解させてやる場面だろう。
……だが俺は、それほどお人好しではない。
……第一、親なら何を言っても許されると思いこんでいる傲慢さが……幼い頃から、“精神的虐待”とも言える仕打ちを真唯にしていた事は、どうしても許せない。
……長い長い告白が終わっても……2人は放心状態で、何をどうしたら良いのか理解らない様子だ。
だから、そんな2人に、自分たちがやるべき事を教えてやる。
「……今の真唯さんの言葉にもあった、『完全自殺マニュアル』と云う本を探して捨てましょう。
……今後、真唯さんに2度とバカな気を起こさせないためにも…真唯さんの部屋はどこですか?」
「……あ…2階です! …ご案内します! …あ、あなた…っ!!」
「……お、おうっ!!」
2人は、俺の言葉に弾かれたように立ち上がると、2階にあると云う真唯の部屋へ向かった。
……そこは、もう何年も主人不在の部屋とは思えないほど、綺麗な処だった。久し振りの娘の帰郷に、張り切って掃除もしたのだろう。東側と南側に窓がある、明るい部屋だ。1人娘として大事に育てて来たのだろう事が理解る部屋だった。
……それほどの思いがありながら、なぜ言葉にして、それを伝えてやらなかったのだ!?
だが、しかし。
そんな暗い感情と同時に、感謝の念も湧き上がる。
……貴方がたが、そのような子育てをして下さったからこそ、今日の真唯がいて…こんな奴と共鳴してくれるのだから……
狭い畳の6畳間だ。大人3人で探せば(増してや、そのうちの2人は必死の形相なのだ)30分もしないうちに、目的の本は見つかった。押入れの天袋の奥にヒッソリと隠されるように、その本はブックカバーを掛けられて埃を被って眠っていた。
「……目次だけでも読んでご覧なさい。……この本が一体どう云う本なのか、良く理解りますから。」
俺の誘導に操られるように、政秀氏は目次を見ると、限界まで眼を見開く。
“自殺”と云う言葉から縁遠い人間にとって、この本はあまりに過激だ。自殺の仕方が具体的に、事細かく記されているのだから。早々と有害図書指定にもなっている。ネットのなかった時代、このような本は画期的で、評価は賛否両論真っ2つに分かれている。
「……秀美が…秀美が、こんな本を…っ!!」
政秀氏の、本を持つ手はブルブル震え、
「……あなた! …こんな本は燃やしてしまいましょうっ!!」
幸恵氏は、半狂乱になっている。
……この表情だ。
俺は心の中で、昏く黒笑う。
……俺は、この2人の、この表情が見たかったのだ。
正直言えば、こんな本は探す間でもない。
真唯をこの家に連れて来なければ良いだけなのだから。
……だが俺はこの2人に、この本の存在を突き付けたかった。
……真唯がどれほど、この2人の心ない言葉の暴力によって苦しめられて来たのか、思い知らせてやりたかったのだ。
「……秀美…秀美に謝りたいっ!!」
「……そうよ、あなた! …今から秀美に……っ」
「お断りするっ!!」
ようやく、『謝罪』と云う行為が思い付いたらしい2人を一喝する。
ビクリと身体を揺らせた2人をジロリと睨む。
「今、【太陽の里】に滞在しているのは、『牧野秀美』などと云う女性ではない!
【上井真唯】と云う女性なのだと云う事を、ご承知いただこう!!」
政秀氏が唇を噛む。その唇が震えているが……自業自得だ。真唯は、この父親から1字をもらった自分の名前を、それはそれは嫌悪しているのだから。
「幸恵さん。」
夫に寄り添う、愚かな妻に呼び掛ける。
怖々と俺を伺うご婦人に、冷たい笑みを向ける。
「貴女は真唯さんが小学生の時に、遠足で行った日光東照宮でお土産に何を買って来たか覚えておられるか?」
「……に、日光ですか…? ……昔の事で…覚えてませんが……」
「覚えておられない!!」
「ヒ…ッ!!」
「加害者は被害者にした事を忘れる、典型的な例だな! 教えて差し上げましょう! その頃、風邪をひいてらした貴女のために、貴女を心配した真唯さんは東照宮の権現様の御守りを買っていらしたんですよ! ですが貴女は、その真唯さんの心のこもったお土産を散々罵倒し、『食べられる物か、もっと気のきいた物を買って来い、この役立たず!』と無情にも言い放ったんですよ!!」
……幼い真唯さんの精神に、それはどんなに残酷に響いた事だろう。
……ここまで言っても、まだポカンとした表情をして、真唯さんの心の痛みに気付けない愚鈍な婦人に鉄槌を下す決意をする。多感な青春時代に、真唯を絶望のどん底に突き落としてくれた奴を、俺が失意のどん底に突き落としてやる。
「……1つ、良い事を教えて差し上げましょう。」
にっこりと微笑みかける。
「無精子症と云う病気をご存じですか? 精液中にまったく精子がいないんです。私は、その無精子症なんですよ。」
さっきとは全く違う理由で、2人は固まってしまった。
白かった顔色が、真っ青になっている。顔色が戻って来た事を喜んでやろう。……盆と云うものを、こんなに盛大にやるのだ。子供、ひいては先祖や子孫と云うものを後生大事に思っているに違いない。俺と結婚すると云う事は、孫の顔など見られないと云う事なのだ。……良い気味だ。
「……秀美は…秀美は、その事を知っているんですか…?」
「……勿論、真唯さんはご存じですよ。」
「……知っていながら…っ」
「そうですよ。…いや、むしろ、知っているからこそ、私に嫁ぐ決意をして下さったんですよ。」
「……そこまで…っ!」
「……さっきの告白は、冗談だとでも思っていたんですか? あんなにハッキリ牧野家の遺伝子を嫌悪し、拒絶しているのに。」
俺と政秀氏の会話に、幸恵氏はワッと泣き出してしまった。
「……しかし、私も鬼ではない。
子孫を残せないお詫びに、未来の父上と母上に“希望”を差し上げましょう。」
俺は今度こそ、心の底から晴れやかに微笑った。
外で待機していたSPに「例の物を中へ。」とスマホで命令して、段ボール箱を積み上げさせる。不審そうな政秀氏に説明する。
「これは【龍神水】と云う名の世間では有名な、奇跡の“御神水”です。
どんな難病にも効くと言わ、」
「……っ! ……断るっ!!」
……想定の範囲内だ。
おそらく、こちらが“地”なのだろう。
頑迷な老人は、『そんな胡散臭い物、信じられるか!』とばかりに、こちらを睨んでいる。……だが、幸恵氏の反応は違う。さっきまで泣いていたのが、一縷の希望を見い出したように、瞳が輝いている。
「……お父上が、胡散臭いと信じられないのも無理はありません。ですがこの水を飲んだ事によって、癌細胞や脳の腫瘍などが消えて、再発の心配をする事もなく、余命を医者に宣告された人間が助かっている事は紛れもない事実なのです。」
「………………………」
「ただある程度、飲み続けて頂かなければ効果の保障は出来ませんが…そんなに信じられなくとも、騙されたと思って試しに飲んでみては頂けませんか?」
「……そうじゃない……」
「……は…?」
「……たった1人の娘にこれほどまでに嫌われて…しかも、やっと結婚が決まったかと思えば……孫の顔も見られないなんて…長生きする甲斐もない。……そうか…これは、俺達に対する君の復讐なんだな…病気を治して、苦しみもがいて生き続けろと云う……」
俺は、片眉をヒョイと上げた。ただの頑固な老人かと思いきや……頭の回転は悪くないようだ。……こんなところは、さすがは真唯さんのお父上と云うべきか……真意を見抜かれた事に多少の驚きを覚える。
「……良くお理解りになりましたね……」
「……あんた…あんたは鬼だ…っ!」
「お誉めのお言葉をありがとうございます。
真唯さんの精神を守る為でしたら、鬼にも修羅にでもなってみせますよ。」
「……っ!!」
己が娘に対して何を言い、どう思われていたのかを思い出したのか、政秀氏はガクリと項垂れる。
だが空気をまったく読まない幸恵氏が、明るい声で乱入して来る。
「それで…それで、一条さん!
このお水は、一体どれくらい飲み続ければ効果が出るんですか!?」
「幸恵、やめろ…っ」
「だって、あなた…っ!」
……場の空気をまったく読まない能天気さは、却って清々しいほどだ。……しかしこの分なら、政秀氏が飲む事を拒絶しても、幸恵氏がこっそり料理などに使ってくれそうだ。
俺は幸恵氏に微笑みかけた。
「個人差がありますが、早い方なら3ヶ月から半年。でも念のために、1年は飲み続けて下さい。
今ここには休日に入ってしまっているため、1ヶ月分しか用意出来ませんでしたが……
政秀さんが完治するまで送らせて頂くよう手配致しましたので。勿論、代金や送料の全額は私が負担致します。」
「……あっ、…ありがとうございます……っ!!」
米つきバッタのように頭を下げる婦人を、一種狂人を見るような眼で見たくなる。……真唯の告白を……俺と自分の夫の会話を聞いていて、なぜ俺に頭など下げられるのか……
政秀氏はもう何も言う気力がないのか、いっぺんに年をとったようだ……
「とにかく。」
2階の真唯さんの部屋から降りて来た俺は、辞去の意を告げる。
玄関で靴を履き、送りに来てくれた幸恵氏に向き直る。廊下の奥には、政秀氏の姿も見える。
「今後真唯さんには、一切関わらないで頂きましょう。」
「……っ、……それは……っ!」
「……ただし。 …あの水を1年間飲み続けて頂けるなら、1年後、お会い出来るように取り計らいましょう。」
「……取り計らうって……」
「……真唯さんの意向なんですよ。…もう2度と、ご両親の顔は見たくないそうですから。」
「……っ!!」
「ですが、あの水を1年間飲み続けて下さったら、私が責任を持ってお引き合わせ致しましょう。」
「本当ですかっ!?」
「わしは飲まんぞっ!!」
「…でも、あなた…っ!」
「飲まんと言ったら、飲まん!!」
「……とりあえずは、手配だけはしてありますので。実際に飲むか飲まないかの選択はご自由に。……それでは、長々と失礼致しました。」
来た時は45度しか折らなかった腰を、深々と折る。……叩きつけてやりたい言葉はまだまだ山とあるのだが…なんにせよ、真唯と云う俺の愛しい女性を産み出してくれたのは、この2人に間違いはないのだから。
豪雨の中、もう二度と潜る事はないだろう牧野家の門を、俺は後にした―――
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